終 ほどける
6 - 1 絹
早朝の無藤家は静まり返っていた。誰もいないのだろうか。
「5時だぞ」
稟市がうんざりと呟き、
「農作業に出る──っていう建前があればこの家にいないでいることもできる」
と響野が応じる。ヒサシは沈黙している。
ドアの鍵は開いている。田舎だからだ。稟市を先頭に、遠慮なく部屋の中に上がり込む。
人の気配がない。七花が言っていた『じいじの部屋』は、
「一階のいちばん奥。庭に直結」
ヒサシが短く言う。土足のままの稟市は、足音を消そうともせずに長い廊下を真っ直ぐに進む。響野とヒサシも彼の後を追う。
『じいじの部屋』に辿り着く。
歌が聞こえてくる。
「きぬよちゃんはおうたがじょうず──」
ヒサシがどこかぼんやりと呟いた。
瞬間、歌が、止んだ。
稟市が手を伸ばし、引き戸をゆっくりと開いた。
広い畳敷の部屋に、子どもが横たわっていた。
七花だ。
「はなちゃん」
「あれ……おにいさん……?」
今まで眠っていたらしい。母親と叔母に叱責されるから、この部屋では眠らないと言っていたはずなのに。寝ぼけ眼をシパシパと瞬く七花を、駆け寄った稟市がさっと抱き上げた。
「絹代さん」
稟市が、低く呼んだ。
「いるんでしょう。無藤絹代さん」
「きぬよちゃんは」
稟市の腕の中で七花が呟いた。
「もうかえっちゃった」
「はなちゃん」
手を伸ばして少女の髪をくしゃりと撫でながら、ヒサシが言った。
「もうわかってるから、大丈夫だから」
「え……?」
「誰もはなちゃんのこと、怒らないから」
「……」
瞬間、小さな娘の顔が奇妙に大人びて引き攣った。だが。
「ほんとに?」
「ほんとに」
「もう怒られない? ぶたれない?」
「ぶたれない。俺がさせない」
「おにいさん──」
七花の大きな瞳から、涙の粒が美しく溢れた。
「はな、こわかったよぉ」
七花のくちびるの端から長い黒髪が垂れ下がっていることに、この部屋にいる誰もが気付いている。
「渋谷のビル、全部壊れましたよ。赤ん坊も見付かりました」
七花の小さな体をヒサシに渡しながら、稟市が声を張り上げた。
「お
名前を呼ばれるのを待ちかねていた様子で、初子は姿を現した。踊るような足取り。裸足。白い肌。黒い髪。片手に小さなタッセルを揺らしている。
「私の赤ちゃんは、綺麗だったでしょう?」
両目を細めて笑う女の口の中は奇妙に赤い。
無藤絹代という女は概念だ。稟市が初めに言った通りだった。
無藤絹代という女は、存在しない。無藤家に代々語り継がれる、弟を犯し、子を殺し、歌をうたい、口から糸を吐く、そういう怪異の名前が、絹代だ。
東京組の動きは早かった。逢坂一威が発破をかけたというのも大きな理由だった。彼はヤクザを使って井戸の上に作られたビルを破壊し、警察を動かして井戸の中から出てきた赤ん坊の遺体の検死をさせた。赤ん坊の遺体は今から10年以上前に遺棄されたもので、にも関わらずとても美しかった。屍蝋──蝋のように変化した死体だと、早朝から仕事を申し付けられた警視庁所属の鑑識官は述べた。閉ざされた、遺棄された井戸は、打ち捨てられた赤ん坊の体を完全に屍蝋化できる奇跡のような空間だった。
逢坂一威が「繭」と称したモノの正体も、鑑識の調べによってすぐに分かった。髪の毛だ。黒く長い髪の毛が赤ん坊の遺体を繭のように包み込んでいた。
「儀式ですか?」
と早朝の仕事を終えた鑑識のトップは嘔吐することも怯えることもなく呟いた。
「猟奇殺人というには手が込みすぎています。誰が、どういう理由で、こんなことを?」
「そっちは今、俺の孫が調べてる」
応じた逢坂に視線を向けた鑑識──
「申し訳ないが、俺が出張った以上この件は事件になります。あんたたちアンダーグラウンドの人間たちだけで揉み消すのはもう、不可能ですよ」
「望むところだよ犬飼」
警視庁の解剖室に特例として足を踏み入れた元殺し屋は、唸るように言った。
「本当は、もっと早く明らかにされるべき事件だった」
「渋谷の赤ん坊の遺体は、あなたが産んだ子どもですね」
「ええそう」
灰沖初子は華やかに笑った。
「明星さんとそういう約束をしたの。無藤家に入るためには、子どもをひとり、繭で包まなければいけないから」
「髪の毛、ですね」
稟市の射竦めるような視線にも、初子は笑みを絶やさない。
「無藤家の神様なんですって。絹代さん。弟と交わって子を産んで、その子の髪で繭を作った神様。ご覧になる? このおうちの庭にも井戸があるんです。そこにもたくさんの赤ちゃんが……」
「ご説明いただかなくても結構。愚弟が既に確認済みです」
「あら」
タッセルを指先でくるくると回しながら、初子が小首を傾げる。
「私に洗濯物を取り込んできたらなんて言いながら、井戸を確認していたんですか? 悪い弟」
女の視線を受けたヒサシが、七花を腕に抱いたまま気圧されたように後退りをする。弟。
弟と姉の物語。
「失礼。愚弟は俺の弟であって、あなたの弟ではない」
「あら、すべての弟は絹代の弟なんですよ。知らないの?」
くるりくるり。初子の指先でタッセルが回る。
いや。あれは。
タッセルではない。さらに言えば、絹糸で作られたものでもない。
髪の毛だ。髪の毛で編んだ房飾りだ。
「明星さんと一度別れて、国広とのあいだに赤ちゃんを作ったんです。その赤ちゃんを井戸に捧げて、わたしは」
と、初子が赤い舌をスッと伸ばす。
髪の毛だ。濡れた髪の毛が渦を巻いている。
「絹を生むようになりました」
「化け物かよ」
「ひどいことおっしゃるのね。無藤家は、この絹で栄えたんです。本来ならば絹子さんと明星さんのあいだに赤ちゃんを作るべきだったのに、絹子さんが逃げたから──わたしが──」
「ヒサシ、はなちゃん連れて逃げろ!」
稟市が声を張り上げる。七花を抱いたヒサシが、引き戸を蹴破るようにして廊下に飛び出した。
「響野くんも! 早く行け!」
「稟市さんは……」
「俺はここで、化け物退治だ!」
ヒサシの痩せた背中を追いかけて廊下に飛び出した響野の目の前には、髪の毛の海が広がっていた。見渡す限りの黒い髪の毛。少し離れた場所で、ヒサシが七花を抱き上げたままで髪に足を取られて動けなくなっている。
「響野くん! はなちゃんを!」
「ヒサシはどうすんだよ!」
「俺は……俺は、あそこに、おねえちゃんが見えるから……!!」
どうにか上半身だけを振り向けて響野に七花を手渡すヒサシの瞳の中に、確かにその女性はいた。見覚えのない女性だった。背が高く、青みがかった黒い髪、鼻筋の通った端正な顔立ちは、市岡家の血筋といえばたしかにその通りだろう。
この女性が、ヒサシの姉なのか。大人になれずに死んだ、つるぎおねえちゃんなのか。
響野の腕の中で七花は大声で泣きじゃくっている。その口の端から次から次に黒髪が滴り落ちる。
これは呪いだ。
弟と交わった姉が産んだ子どもの髪で繭を作った神様。
そんな神様がいて堪るか。
「ヒサシも来い!」
七花を左手で抱き締め、右手でヒサシの手首を掴む。髪の毛の海はどんどん広がってくる。このままでは本当に身動きが取れなくなってしまう。
「でも、つるぎ……」
「あれはおねえちゃんじゃない! 本当のおねえちゃんが、弟を苦しめるはずないだろ!」
自分よりもよほど長身のヒサシの体を必死で引き寄せながら響野は叫んだ。
「つるぎおねえちゃんのことが好きなら、見間違えるな!」
ヒサシが鋭く息を呑むのが分かる。足元の髪の毛が少しだけ緩む。その隙を逃さず、響野は無藤家の玄関に向かってひた走った。稟市の真似をして土足のままで部屋に上がって良かったと思った。
外に出る。朝日が眼球に突き刺さる。
左腕の中で七花が泣いている。右手の先にはヒサシがいて、地面に座り込んだままポタポタと涙を溢していた。
「七花!」
声がする。絹子だ。
「おかあさん!」
「七花! 七花! どうして……!」
憔悴しきった様子の絹子を見詰める響野の背後で、何かが爆発するような音がした。
振り返ると、『じいじの部屋』がある辺りから火の手が上がっているのが分かった。
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