64.意味などないのだろう。すでに



「人間が生命を繋いでゆく理由は、どこにあると思う?」


 しばらく歩いて後、ぼつりと蜻蜒せいていがそう呟いた。

 咄嗟には答えが出ず、黙っていた錵鏡に、蜻蜒はほんのわずか微笑んで見せた。


錵鏡にえかがみ。お前も私も、同じく『魂音族こんいんぞく』だ」

「はい」

「もし人間が絶滅してしまえば、我々はどうなる?」

「――転生する肉体を失う」


 蜻蜒せいていうなずいてみせる。


「そうだ。人間をしいしてはならない――この単純な法が存在する根拠は、そのためだ。男女が出逢い、子を成し、生まれた生命をいつくしまねばならない。それは、人類が次に生まれる先を守り、保証するための行為だ。佛教では六道りくどう輪廻りんねを説く。そこにはもちろん人界にんかいも含まれている。だのに、佛教は女人を禁じた。男女の交わりを禁じたのだ。そこに大いなる矛盾がある」

「矛盾……ですか」

「人間世界という転生先が消失したからといって、それ即ち、全人が天人になれると云う話ではあるまい? 修行が不十分であった魂が、再び修行をするために人間世界に転生するというならば、人間世界それ即ち修行の場。切欠であり、機会チャンスだ。だのに、男女で生命連鎖させることを禁じてしまえば、修行の満たない魂は、一体どこに行けば善いと云うのだ?」


 問いかけの形であったが、どうやらそうでもなかったらしいと錵鏡にえかがみは気付いた。

 蜻蜒せいていは「時代が変われば、当時求められた新しい価値観も世情に合わなくなる。ただそれだけのことなのだろう」と一人で答えを出し、「ほぅ」と溜息をついた。そして「つまらないことを云ったな」という一言で結んだ。


蜻蜒せいてい先生。では、釈尊しゃくそん様は、本当の意味で一切衆生いっさいしゅじょうをお救いになる意図をお持ちではなかったのでしょうか?」

「そんなことはないだろうが、私にはよくわからんよ。宗教の専門家ではないからな。しかし、佛教ぶっきょう基督キリスト教も、およそ世界宗教と呼ばれるものは地方に伝播して、原型とはかけ離れたものにまで肥大すると相場が決まっている。実際、釈迦がどのような意図で当時の人間を導いたかなぞ、現代人には知りようがない。時代毎に必要とされる理論は変わる。かたの教えが、現代の我々の理論に合わない部分を持っている。それだけの話だ」

「それでは、それでは蜻蜒せいてい先生は、私達『魂音族こんいんぞく』が存在する意味を――半身と結ばれる以外に道はないと云う宿命を――一体どのようにお考えなのです?」


 蜻蜒せいてい彼岸花ひがんばなを一輪、手慰てなぐさみにんだ。


「意味などないのだろう。すでに」






 帰宅した蜻蜒に、顔色を変えた海雲もずくが駆け寄ってきた。その顔色はひどく青褪あおざめている。


蜻蜒せいてい先生、大変なことに――」

「どうした」


 突然、居間のほうから「がちゃん!」とティーカップの割れる音がした。その音を聞いた途端、蜻蜒の背筋に嫌なものが走る。


「海雲」

「――今、たった今、ニュースで海難事故のニュース速報が入ったんです。太平洋沖で、大型旅客船が墜落してきた飛行機と激突したっていう……」


 蜻蜒の首筋が、ぞくりと総毛だった。


「ちょっと待て海雲、それはまさか――」


 居間のほうから、引きった少年の悲鳴が上がる。


詔勅みことのり――」


 蜻蜒せいていは、右手を額にやった。伸びかけた髪をぐしゃりとつかむ。かたわらにいた錵鏡にえかがみも異変を感じ、息を呑んで蜻蜒の左腕をつかんだ。



 蜻蜒の呼吸は、少しずつ乱れ、少しずつ切れ切れになる。



 一昨日、亜米利加アメリカへ商談をつけに行くのだと云っていた。船に乗って行くのだと。今日の今頃には、太平洋沖で沈む夕陽を見送りながら催されるパーティーに参加するのだと――云っていたのだ。


 切れ長の二重目蓋と、その奥に隠れている鋭い色をしたひとみが、眼の前で過ぎる。大腿を赤い血液で濡らしていた姿も、憎しみを込めてにらみつける幼い少年のころの表情も、弟に対して抱いていた複雑な心境を吐露とろした背中も、何もかもが匂うように生々しかった。


 小さく冷たい掌が、ぎゅっと蜻蜒せいていてのひらを握りしめる。見下ろすと、錵鏡の不安げなひとみが蜻蜒を見上げていた。小さなその掌を握り返す。夕陽は更に沈み、東向きの玄関は、底のない薄闇にふうわりと侵食される。薄闇は直接膚肌はだまとわりつき、耳の奥で騒ぐ血潮が生と死の実感を惑わせる。


 しぼり出すように、蜻蜒せいてい海雲もずくへ問うた。


「沈んだのは――人馬笛じんばぶえの乗っていた、船か」


 海雲は黙ってうつむき、俯けた顔は更に薄闇の中へ紛れ、紛れた表情からは、ばたばたと涙が生まれて落ちた。


「乗客の生存確率は……船、飛行機、双方共にゼロだと云うことです……ッ」

「そう……か」


 蜻蜒の耳に泣き叫ぶ詔勅の声がこだまする。痛い痛いその叫びは、恐らく喪失によって引き起こされた悲嘆でなく、それ以前の、もっと原始的な衝撃だろう。蜻蜒は目蓋を伏せ、静かで長い吐息をもらした。


 いやに――いやに早く死ぬ人間が、己の周りに多くはあるまいか? それも、いつも唐突に死ぬ。はなむけの時もそうだった。己の知らぬところで病は進行し、その状態を知った数日後に彼は逝った。今回など、寝耳に水もいいところだ。出立前に電話をくれたのだ。今頃は、上等なスーツを着込んでパーティーに参加しているはずだった。そうだと思っていたから、彼の渡航に何の感慨も抱かなかった。


 それが、この薄闇のように世界の進む方向を歪めて見せる。視野に収めていたはずの未来は、一瞬で変容を遂げてしまった。己が見ていた未来は、全くの幻想に過ぎなかったのか?

 蜻蜒は、皮膚感覚の狂った状態のまま、もう一度だけ呟いた。



「そうか……」




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