拾弐.彼岸花

63.これは私の弟子だ!



(どうして――こんなことに)


 錵鏡にえかがみは胸の奥に生まれた鉛を持て余し、とぼとぼと道を歩いた。生まれた鉛は酷く重く、たとい溜息をついたところで晴れそうもなかった。


 冬の真昼は白く、そして静かだ。


 遠い空まで灰色の雲に覆われ、いつかは地上を圧迫するのではないか。そんな思いにとらわれた錵鏡にえかがみは、この鉛を持て余した。これではいけない。


 錵鏡は中途で脚を止め、ふわり目蓋を閉じた。


 胸の中に何かがある。黒い表皮に包まれた、一個の物体。それは、赤い宝石をいっぱいに湛えた、一個の柘榴ざくろだった。錵鏡の胸の奥には柘榴がある。深くて重い色彩は、ある意味で純潔だ。この重りの正体は柘榴。純潔な柘榴。


 ――と、背後に暖かな気配が生じる。


 そう。そこには暖かな青年の気配があるのだ。どんな眼をしているのか。どんな髪形をしているのか。そしてどんな背格好をしているのか。それは曖昧で不明瞭だ。だけれど、彼が微笑んでいることだけは、わかる。自分と同じ、蘇芳すおう色の髪とひとみを持っていた人だったことは知っていた。皮肉な笑い方をした人だったことも。だけれど、今、この瞬間に現れる彼の微笑みは、いつも慈悲深くて暖かなのだ。


 錵鏡にえかがみの背後に立った男の手が、薄ぼんやりとした闇の底から、すうっと伸びる。男のたなごころ錵鏡にえかがみの背中にもぐり込み、やがて彼女の胸の中央にある柘榴にとどく。男の掌は、つかんだ柘榴を、まるで宝物のようにすくい上げ、錵鏡の背後で――ゆっくりとんだ。


 柘榴が一口かじられるごとに、錵鏡の胸の鉛はすうっと解けてゆく。また一口。二の腕が温かくなった。次の一口。自然におとがいが上を向いた。大抵、柘榴は三口ほどで姿を失ってしまう。


 ――大丈夫。


 己で己に云い聞かせる。柘榴はもう彼に全部食べてもらった。


 ――大丈夫だよ。


 緩やかで、ぼやぼやとふやけたこえが、恐らくは己の内側から響く。体温だけを残し、彼の面影はするすると消え失せて行った。


(そう、もう大丈夫……)


 気付けば、胸の重りは消え失せている。こうやって、いつも彼は錵鏡にえかがみの心を救ってくれるのだ。錵鏡は心の底でそっと頷き、閉ざしていた目蓋を開いた。眼前には、すでに実りを刈り終えた田園が広がっている。途端、首筋に冷気が蘇えった。背筋を這い上がる寒さに、思わず肩をすくめて身軆からだを抱く。身軆よりも、心が寒かった。自分は、たった一人なのだと痛感する。


 と、かさりと下草を踏む音がした。


「おやおや。一体どうしたんだい?」

「えっ」


 背後から底抜けに明るいこえがした。唐突なそれに驚き、ふり向く。


 そこにいたのは、茶金の髪をさらりと流し、どこかきょとんとした風情で立ちすくむ、この冬空には不似合いなさわやかさをかもす青年だった。錵鏡にえかがみが半端な猫背で自身の腕を抱き、何やら縮まった猫のようにしていたからか。彼は、アパタイト及びキシリトールを片時も手放したことがないような純白の犬歯をきらりと光らせ、「ははははは」と笑った。


「どうしたんだい? ん? どこの子かな?」

「私は――蜻蜒せいてい薬学博士の……」

「あーあ」


 男は、ぽんと手を打ち、更に犬歯をきらきらっ、と輝かせた。何故この薄曇うすぐもりの冬の日に、この歯はこうまで輝けるのか。錵鏡にえかがみにいわせれば、逆に気持悪い。


「君が彼のところの唯一の女性門下生なんだね。うん。噂は聞いているよ。まにまにのお姫さまなんだってねぇ。僕はねぇ、シネラマ=シネラリアと云うんだよ。彼の……ああ、君のお師匠様の同業者さ」


 シネラリアは尋ねもしないのに名乗り、しかもどんどん近付いてくる。錵鏡の首筋に走ったのは明確なる怖気おぞけだった。


「こんなところにいては風邪を引くよ。お師匠様は癇癪かんしゃくでも起こしたのかい? きっとそうなんだろうねぇ、彼、気、短そうだものねぇ。ああねぇ、僕のところにこないかい? おいでよ。暖かくしてあるよ。さあ」


 手がこちらに伸びる。ぞわりと走った怖気。つかまれたのは手首だった。有無をいわせぬ力がある。これは怖気どころで済む話ではない。呼び覚まされるのは本能的な警戒心だ。  


「いやっ……!」


 シネラマ=シネラリアは邪気のない微笑みを浮かべるばかりだ。それにこんなにも恐怖を感じるのは何故か。決まっている。こう云った男は、女の子が何を嫌がるか絶対に理解しないからだ。


「どうしたんだい? 何も取って喰おうと云うのではないのだよ?」

「離してくださッ……!」


 腕をつかんだ手を振り払おうと、錵鏡にえかがみが身を縮めた次の瞬間、「シネラマ=シネラリア!」と叫ぶこえが鼓膜を振るわせた。


「このっ、大莫迦者おおばかものがッ!」


 がつん! と厳しい音。はっとして顔を上げるのと、手首を戒めていた手が離れるのとが、ほぼ同時だった。地面に尻を着けたシネラマ=シネラリアが眼に入ったのと、蜻蜒せいていの腕が自分の肩をがっしりと抱え込んでいるのに気付いたのとも、ほぼ同時だった。汗の匂いと、熱い体温。今まで蜻蜒が走り回っていたのだと即座に知れる。胸がぎゅうと痛み、涙がこぼれそうになった。


 きょとんとした顔で見上げるシネラマ=シネラリアに、蜻蜒は怒気も激しく一喝した。



「いいか! これは私の弟子だ! 容易たやすく触れないでもらおう!」



 蜻蜒せいてい錵鏡にえかがみてのひらをつかみ、シネラマ=シネラリアにくるりと背を向けた。


 急ぎ足で蜻蜒は畦道あぜみちをゆく。手を引かれて歩く錵鏡は、今度こそ本当に泣きそうになった。哀しいからではない。心踊るほど嬉しいというのでもない。ただ、シネラマ=シネラリアと同じように強い力でつかまれていると云うのに、蜻蜒の掌からは、何に向けているのかもわからないほど入り混じって不明瞭な怒りの中に、錵鏡を探している間に積もらせた心配と見つけた安堵とが垣間見られたのだ。


 冬の夕曇ゆうぐもりは、今、果てしなく暖かかった。




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