拾参.因果

65.今聞いて、今忘れて下さい



 詔勅みことのりが実家に帰ると蜻蜒せいていに告げたのは、それから半月後のことだった。


「それで……いいのか?」

「いいも悪いも。実家の跡取りは、もう僕しか残っていませんから」


 詔勅みことのりひとみは、静かでいて、何処どこか、すでに死んでいた。



「僕は、先生のことゆるせません」



 それが、詔勅の最後の言葉だった。

 それから、更に半月後。


「お前も――出て行くのか」


 海雲もずくは首を縦にふった。 


 教師と弟子の間に沈黙が落ちる。やがて、海雲のほうが低い溜息をもらした。


「先生は、絶対に錵鏡にえかがみちゃんを受け入れるべきやあらへんかったんです」


 蜻蜒は黙したまま、床を睨む海雲の目許を見つめた。


「年齢差は構いません。そんなもんで責める気はないです。せやけど、先生は『先生』なんですよ? 『先生』が教え子の心を受け入れることは、ルール違反なんです」

「しかし私は――」

「受け入れてない――そう云いはりたいんですか? それは違います。それをわかってはらへんから、僕は先生が赦せへんのです」


 海雲の眉間は苦々しく歪み、蜻蜒は自分達の間が修正不可能な軋みを生んで乖離してゆくことを感じた。それは、恐らく事実なのだろう。 


「切らなあかんのです。絶対に可能性はないんやと、彼女にその場で思わせなあかんかったんです。明確な解答をあげへんかった――それだけであなたは教師失格です。僕は教職者を志す者として、あなたをもう受け入れることができない」


 潔癖だった。


 海雲もずくとは、柔和で真摯な精神を持つと同時に、自らへと課す厳しい律を他者にも当てめ、乱れを容認せぬ少年なのだ。そう。これは彼の離反でなく、長きに渡って自分達が護ってきた戒律に対する蜻蜒せいてい側からの離反なのだ。裏切ったのは、むしろ蜻蜒のほう。安定を失ったのは蜻蜒でなく海雲なのだ。これからの未来を考えるにおいて最も重要に時期に、彼はそれまで心の拠り所としていたいしずえに瓦解されてしまったも同然なのである。

 揺るぎない拒絶を背中に湛えた海雲は、扉を閉める直前、ぽつりと一言零してその姿を蜻蜒の前から消した。


「――詔勅みことのりの心を、貴方は一生理解しはらへんでしょう」




  

蜻蜒せいてい先生。お話があります」


 錵鏡にえかがみこえがした。それはわかっている。しかし、疲れ果てていた蜻蜒は、額に手をおいたまま顔を上げなかった。


「後にしてくれないか。疲れているんだ」

「時間がないのです。今でなくてはならないのです」


 それでも黙ってうつむいていた。顔を上げたくなかったが、錵鏡の気配は何時までも入口付近に留まっている。それがさざなみのようで、重い。

 諦めた蜻蜒は、ゆっくりと顔をもたげた。指先を腹の前で組み合わせた錵鏡が、静かな眼でこちらを見つめている。


「――なんだ」

「國に、戻らなくてはなりません」


 すうと吸い込んだきり、蜻蜒せいていの呼吸音が止んだ。

 云われて、やっと気付いた。ななめに傾いだままだった首がしゃんと上向く。そうだ。錵鏡は来年十二歳になる。それはつまり彼女が〈お見合い〉を行なえる年がくると云うことだ。


「そうか」


 まるで莫迦ばかのようにそうつぶやき、意味のない空白を挟んで再び「そうか」と呟いた。


 結局誰もいなくなってしまった。全て時間の問題に過ぎなかったらしい。その責任はこの手にある。誰のせいでもない。いや、初めから全て自分のせいだったのだ。そもそも自分などに『先生』資格は重過ぎる。シネラマ=シネラリアを笑う権利などない。

 あの日、彼を殴り飛ばした自分の姿を思い、心の内で嘲笑わらった。無様だ。途方もなく無様だった。


「いつ……戻るのだ」

「今週の内に荷物をまとめます」

「そうか」


 最早、引き止める気力もなかった。


 そもそも、自分は錵鏡に特別な感情を抱いていたと云えたろうか? 全て詔勅や海雲の一人合点ではなかったか? 今更ながら、そんな云い訳めいた思いが脳裏を過ぎる。そうして己への呆れと嘲りは層を重ねていった。問題はそんなところにあるのではないのだと、海雲が云っていたではないか。


「蜻蜒先生」

「――……。」

「先生」

「なんだ」


 蜻蜒が顔を上げると、錵鏡は真ッ直ぐに蜻蜒の顔を見すえていた。真剣な色が眼差しに浮かんでいる。自然蜻蜒の背筋も伸びた。


「蜻蜒先生にお願いがあります」

「なんだ」



「――〈お見合い〉に、いらして下さいませんか」



 蜻蜒は思わず腰を浮かしかけた。


「錵鏡――しかし、それは」


 錵鏡は目蓋を伏せ、静かにレエスの裾をつかんだ。


「先生」

「――……。」


 じっとりと、空気が重く垂れ込める。


「蜻蜒先生」

「ああ」

「これから私が申し上げますことは、先生、今聞いて、今忘れて下さい」

「錵鏡?」

「よろしいですね、先生」


 錵鏡は苦しげに下唇を噛み、溜息をつくように話し始めた。







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