断章
36.ヌグ?
ハル子さんが割烹旅館・
「――……。」
それまで沈黙を持って従順を
これで終りにする気など彼には毛頭ない。青光りする黒髪を掻き回し、じっと考え込む。
あのお見合いシステム下にいる間は、彼に自由などありえなかった。だから、候補者達の視線を逸らすため(としか思えない)本物の姫の種明かしを待っていた。一週間で決定するのだとは
うつぼ君は額をつかんだ指の隙間から、じっと壁を睨みつける。
うつぼ君はひとつ、ハル子さんに嘘をついていた。ここに彼の家族が迎えにくることなどない。方向音痴だろうと何だろうと、あの姉達がここにくることなどないのだ。憎しみで
目蓋をきつく伏せ、苦い溜息を吐く。いやがらせの代わりに粘着質な執着を向けてくれ三女。彼女には特に知らせられない。あの、ねっとりとした女の視線、仕草、身体、何もかもから逃げたくて逃げられない日常。そこからやっとの思いで逃げ出した、この束の間の休息の
(迎えになど、こさせて
踏ん切りを決めて立ち上がる。他の皆はもう
部屋を出て右手に進み、玄関ホールに出た。薄ッぺらな赤い不織布の上を進むと、なぜか何とも云えぬ胸の痛みが襲った。一人占めするには、ここは空間が広すぎるのかも知れない。感傷をふり払うため、そのまま中庭に出る
ちょろちょろと池で水が鳴る。ゆったりと泳ぐ鯉。かっこん――と、のどかな響きを残す
右翼と左翼の間に、もう一つ建物が立っている。
壱棟・弐棟・参棟にそって段々に折れ曲がる形の左翼と右翼の、参棟最奥同士に接している場所だ。建物は有りふれた木造建築で、ちょっと見、田舎の学校の校舎にも見えないことはない。
(これは……)
うつぼ君は眉間に皺した。左翼側はどうだか知らないが、右翼側は壱棟・弐棟・参棟全てが三つの間で構成されている。つまり、段々型で後ろに下がっている分、弐棟・参棟の下部には空間があると云うことになる。しかしそんな様子は見受けられなかった。つまり、今うつぼ君の眼の前で視界を横一杯にさえぎっている建物は、そのあき空間部分に当ると云うことか。
花崗岩の上を進み、正面まで出てうつぼ君は腕組み「ううん」と
入口らしきものがどこにも見当たらない。
果たしてどうやってあの中に入るのだろう。いや、それ以前にあれは一体何のための建物なのか?
近付くと、やはり建物は右翼と左翼にぴったりくっついた形で建っていた。端から端までを詳細に確認しつつ見回したが、やはり入口らしきものは見当たらない。
眉間に
ふと、うつぼ君の表情が色を変える。何か軋む音がしたのだ。左手側からか、音の感触を頼りに生垣の後ろ側へ身体を滑り込ませる。
「なんだ、これ……」
左翼側の壁には一部分、色の違いが明白な部分があった。それがどう考えても、きぃきぃと風に吹かれては
それは、子供しか通れないような、小さな
迷っている暇はない。このくらいならばうつぼ君にも通り抜けられるはずだ。そう判断をつけるや否や、腰を
モルタルの壁。歳月を経た結果としての、うぐいす張りの床。それは確かに不思議の世界への入口に見えた。進むことに、一片の迷いもなかった。
そして十分後、予想通りというか案の定というか自明の理というか――うつぼ君は建物の中で迷子になっていた。階段をいくつも下っているうちに、いつの間にやら地下深くまでもぐりこんでいたのである。
板張りだった階段の床は、いつしかモルタル製の
壁に手をあて、這うように下へ下へと下るうち、ふと空気の匂いがかわった。頬を冷たい風がなでる。下方を見ると、階段は中途で四角い穴の中へ落ち込んでゆくようになっていた。つまり天井と両壁の三方がなくなっているのである。段だけが規則正しく床へと続く。そこに広い空間があるのだ。降り立つと、案の定そこはとてつもなく広い空間になっていた。中世ヨーロッパの城もかくやと云う広さだ。
「へええ……物好きな」
辺りはやはり暗かったが、闇に幾分眼が慣れてきていた。ぼんやりと輪郭はつかめる状態である。何気なくふり返ると、そこには一際深い闇が待ち受けていた。
恐怖より、興味が先に立った。
足音を忍ばせて闇に一歩一歩近付く。やがて完全に眼が闇に慣れ、その奥にあるものの正体がはっきりとした。
古惚けた牢だ。鉄格子が床と天井に噛まれて入っている。
ごくり、と息を呑む。
――男が一人、牢の中に横たわっていた。
背中をこちらに向け、石畳の上に敷いた綿布の上、片腕を枕代わりにごろりと横になっている。
「あの、すいません」
返答はなかった。
「あの。――あの」
とたん、がばりと男の身体が上がり、ぐるり、とふり返った。さしものうつぼ君も「ひっ」と息を呑んで後じさる。男の眼光は乾いている上、ぎらぎらと鋭かった。がしかし、男は己がそんな
「
「あ、は?」
「
と、男ははたと眼を開けた。よくよく見れば、鋭い眼光はただ剣呑なだけではないのだと気付く。眼はすっきりとした二重目蓋。その奥にひそむ
「ああ、
「は?」
「お前、誰だ?」
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