断章

36.ヌグ?



 ハル子さんが割烹旅館・土管どかん屋を後にした。


「――……。」


 それまで沈黙を持って従順をしめしていたうつぼ君は、彼に与えられていた右翼壱棟最前に位置する『海鼠なまこの間』の中で一人、鋭い眼差しを壁に向けていた。


 これで終りにする気など彼には毛頭ない。青光りする黒髪を掻き回し、じっと考え込む。


 あのお見合いシステム下にいる間は、彼に自由などありえなかった。だから、候補者達の視線を逸らすため(としか思えない)本物の姫の種明かしを待っていた。一週間で決定するのだとは前以まえもって知っていたから一週間は待つつもりだったが、予想外のスピードで(しかも)珸瑶瑁ごようまい先生が婿に決まった(つまり彼が松ぼっくりちゃんの半身だったと知れたわけだ)。


 うつぼ君は額をつかんだ指の隙間から、じっと壁を睨みつける。


 うつぼ君はひとつ、ハル子さんに嘘をついていた。ここに彼の家族が迎えにくることなどない。方向音痴だろうと何だろうと、あの姉達がここにくることなどないのだ。憎しみで甚振いたぶってくれた長姉と四女、無関心を決め込んだ眼鏡の次女、そして――、

 目蓋をきつく伏せ、苦い溜息を吐く。いやがらせの代わりに粘着質な執着を向けてくれ三女。彼女には特に知らせられない。あの、ねっとりとした女の視線、仕草、身体、何もかもから逃げたくて逃げられない日常。そこからやっとの思いで逃げ出した、この束の間の休息の終焉しゅうえんを、彼女等の手でぶち壊しにさせてやるわけがない。


(迎えになど、こさせてたまるか――)


 踏ん切りを決めて立ち上がる。他の皆はもう帰路きろについたはずだ。一週間の予定であったため、八日まではここに滞在してよいと古里ふるさとさんからは云われているが、珸瑶瑁ごようまい先生は〈婚姻こんいん誓約せいやく〉を行うため、松ぼっくりちゃんと共にみかん島へ向かい、ハル子さんはその手伝いのため、やはり共に島へ戻らねばならなかった。いと蜻蜒とんぼさまは学会があり、鬼打木おにうちぎさんは自分の街へ帰った。金壷かなつぼさんは元々この土管屋でまかないの仕事をしていたらしく、今は通常業務に戻っている。立破りっぱさんはまだここにとどまっているが、彼もじきに帰るだろう。大学三回生だと云っていたから、そろそろ四回生の春学期開始に合わせて戻るはずだ。


 部屋を出て右手に進み、玄関ホールに出た。薄ッぺらな赤い不織布の上を進むと、なぜか何とも云えぬ胸の痛みが襲った。一人占めするには、ここは空間が広すぎるのかも知れない。感傷をふり払うため、そのまま中庭に出る硝子ガラスを引いた。


 ちょろちょろと池で水が鳴る。ゆったりと泳ぐ鯉。かっこん――と、のどかな響きを残す鹿威ししおどし。まだ花をつけない杜鵑花さつき躑躅つつじ。がたがたとした感触を伝える花崗岩グラニットの石畳が、中庭中央を縦に貫いていた。それにそって視線を動かし、そして今になって初めて気付いた。



 右翼と左翼の間に、もう一つ建物が立っている。



 壱棟・弐棟・参棟にそって段々に折れ曲がる形の左翼と右翼の、参棟最奥同士に接している場所だ。建物は有りふれた木造建築で、ちょっと見、田舎の学校の校舎にも見えないことはない。


(これは……)


うつぼ君は眉間に皺した。左翼側はどうだか知らないが、右翼側は壱棟・弐棟・参棟全てが三つの間で構成されている。つまり、段々型で後ろに下がっている分、弐棟・参棟の下部には空間があると云うことになる。しかしそんな様子は見受けられなかった。つまり、今うつぼ君の眼の前で視界を横一杯にさえぎっている建物は、そのあき空間部分に当ると云うことか。

 花崗岩の上を進み、正面まで出てうつぼ君は腕組み「ううん」とうなった。



 入口らしきものがどこにも見当たらない。



 果たしてどうやってあの中に入るのだろう。いや、それ以前にあれは一体何のための建物なのか? 

 近付くと、やはり建物は右翼と左翼にぴったりくっついた形で建っていた。端から端までを詳細に確認しつつ見回したが、やはり入口らしきものは見当たらない。

 眉間にしわを寄せたうつぼ君は、一旦玄関の内に戻り大宴会場の中を抜けて外庭に出てみたが、どうも裏手に回ることは不可能だ。再び内庭に戻り建物を見上げる。建物は、一層異様な風格を携えてうつぼ君を見下ろすのだった。


 ふと、うつぼ君の表情が色を変える。何か軋む音がしたのだ。左手側からか、音の感触を頼りに生垣の後ろ側へ身体を滑り込ませる。


「なんだ、これ……」


 左翼側の壁には一部分、色の違いが明白な部分があった。それがどう考えても、きぃきぃと風に吹かれてはきしんでいる。


 それは、子供しか通れないような、小さなくぐり戸だった。


 迷っている暇はない。このくらいならばうつぼ君にも通り抜けられるはずだ。そう判断をつけるや否や、腰をかがめて、その奥へと続く闇に脚を一歩踏み入れた。


 モルタルの壁。歳月を経た結果としての、うぐいす張りの床。それは確かに不思議の世界への入口に見えた。進むことに、一片の迷いもなかった。


 そして十分後、予想通りというか案の定というか自明の理というか――うつぼ君は建物の中で迷子になっていた。階段をいくつも下っているうちに、いつの間にやら地下深くまでもぐりこんでいたのである。


 板張りだった階段の床は、いつしかモルタル製の水捌みずはけが善いようにされているものへ変わり、壁もまた、黴臭かびくさい匂いの染み付いた煉瓦レンガを積み上げたものになっている。難渋したのは、全体の造りが小さいということだった。幅はひどく狭く、ステップ自体の奥行きも短い。天井も低い。うつぼ君でもそう感じるのだから、成人の体格では移動できないだろう。


 壁に手をあて、這うように下へ下へと下るうち、ふと空気の匂いがかわった。頬を冷たい風がなでる。下方を見ると、階段は中途で四角い穴の中へ落ち込んでゆくようになっていた。つまり天井と両壁の三方がなくなっているのである。段だけが規則正しく床へと続く。そこに広い空間があるのだ。降り立つと、案の定そこはとてつもなく広い空間になっていた。中世ヨーロッパの城もかくやと云う広さだ。


「へええ……物好きな」


 辺りはやはり暗かったが、闇に幾分眼が慣れてきていた。ぼんやりと輪郭はつかめる状態である。何気なくふり返ると、そこには一際深い闇が待ち受けていた。


 恐怖より、興味が先に立った。


 足音を忍ばせて闇に一歩一歩近付く。やがて完全に眼が闇に慣れ、その奥にあるものの正体がはっきりとした。


 古惚けた牢だ。鉄格子が床と天井に噛まれて入っている。びた鉄とかびの匂い。ぴちょん……と反響した音。見ると、牢獄の奥には簡易の洗面台と思しきものがあり、その蛇口から雫が垂れているのだった。

 ごくり、と息を呑む。


 ――男が一人、牢の中に横たわっていた。 


 背中をこちらに向け、石畳の上に敷いた綿布の上、片腕を枕代わりにごろりと横になっている。


「あの、すいません」


 返答はなかった。


「あの。――あの」


 とたん、がばりと男の身体が上がり、ぐるり、とふり返った。さしものうつぼ君も「ひっ」と息を呑んで後じさる。男の眼光は乾いている上、ぎらぎらと鋭かった。がしかし、男は己がそんな剣呑けんのんな眼差しをしていることに気付いていないのか、はたまた無頓着なのか、大欠伸おおあくびをした揚句「うあああっ」と腕を伸ばして見せた。眼を糸よりも細め、バリバリと髪を引っ掻く。生来のものなのか、それともパーマをあてたのか、ウェーブが掛かった黒髪は少し長い。鼻から荒い息を出し、寝床の上でどっかりと胡座あぐらを掻いた。


ヌグ?」

「あ、は?」

だからクニカ誰かヌグラ――」


 と、男ははたと眼を開けた。よくよく見れば、鋭い眼光はただ剣呑なだけではないのだと気付く。眼はすっきりとした二重目蓋。その奥にひそむひとみは底なしに黒く、そして大きく、美しかった。


「ああ、ごめんミアネ。間違えた。韓國じゃなかった。寝惚けていたな」

「は?」

「お前、誰だ?」





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