六.五日目(四月六日(木))
35.「僕の名前だって、漢字で書けるんだからな」
荷を手にしたハル子さんがすらり、と
うつぼ君である。
二人は、どちらからともなく苦いような笑い顔になった。
「今から帰りだって?」
「うん」
うなずいて見せたハル子さんは、荷の柄を握り直した。心なしか、きた時よりも中身が重くなっている気がする。それはこの短い期間の間に育まれた思い出のようなものだろうか。それとも、ハル子さんの内に芽生えた、何かの心だろうか。
「うつぼ君は、いつごろ京都に帰るの?」
「僕一人だと迷子になってしまうからな。迎えがくることになっている」
「ああ、成る程」
二人はそこで黙り込み、やがてどちらからともなく横に並び、どちらからともなく玄関に向けて歩き出した。
そう云えば、初めて逢った時も、こんなふうに二人でこの廊下を歩いたのだったなぁと、ぼんやり思い出した。
二人は階段にさしかかった。
「あのな、ハル子」
とんとんと段を下りながら、うつぼ君が
「うん?」
「僕の名前だって、漢字で書けるんだからな」
「うん」
ハル子さんが一階に到着した途端、背後からうつぼ君の
「教えるから、ハル子のも教えてよ」
「え」
ハル子さんが少し驚いて顔を上げ、そしてふり返ると、うつぼ君は階段の半ばでバツが悪そうに下を向いていた。そしてポケットからあの「和紙手帳」と
うつぼ君は、どこか怒った風に肩を怒らせて、一生懸命字を書いた。一度「あっ」と
うつぼ君は、つかつかと残りの階段を降りてきて、ぬっ、と手を出した。ハル子さんはそれを受け取り、書かれた字を見た。
じっと見ていると、文字の隙間から、あたたかでくすぐったい
長くハル子さんが黙り過ぎていたせいか。うつぼ君は小さく溜息を吐いた。
「じゃあ」
云われて、はっとしたハル子さんは、背中を向けて階段を上りかけたうつぼ君の腕をつかんで「まって!」と引き止めてしまった。引き止めたハル子さん自身も驚いたけれど、うつぼ君はもっと驚いたろう。
「私にも「和紙手帳」と、矢立ての筆、かして」
「……う、うん」
うつぼ君は頬を少しだけ赤くして、筆をかしてくれた。
ハル子さんは、字を書くためうつむけている自身の後頭部に、うつぼ君の視線がつき刺さるのを感じながら、できるだけ冷静に、丁寧に書こうと努力して書いた。
書いている最中から、うつぼ君がハル子さんの手元を覗き込んでいることには気付いていた。だから、書き終わるや否や声を掛けてきたことにも、そう驚きはしなかった。
「――じゃあ。ハル子の『子』は、本当は『湖』なんだ」
「そう」
ハル子さんは、そこでやっと顔を上げた。うつぼ君と視線がぶつかる。間近で見たうつぼ君は、存外
「そうかあ……」
二人はしばらくの間
「僕も、いつか、みかん島に遊びに行っていいかな」
「じゃあ、うつぼ君が海底で迷子にならないように、海底マップをつくらなくちゃ」
ハル子さんが大真面目な顔で云うと、うつぼ君は一瞬眼を丸くし、ついで「あはははは」と軽快に
「確かに、違いない」
「うちに着いたら、急いで地図を描くね」
「ああ、じゃあさっき名前を書いた和紙に、住所も書き足しておかなければ」
「え」
「だってハル子はチャットもメールもできないんだからさ」
うつぼ君は、そう云って、何か
――ハル子さんは、そっとうつぼ君の微笑を見つめる。
松ぼっくりちゃんによる告白の後、ハル子さんの胸には云いようのない違和感が残っていた。それが一体何に
あれほど推理を巡らせていた彼が終結の場面に何も口にしなかった。そのことが彼女の中で
考え過ぎなのだ。
眼の前で朗らかに微笑むうつぼ君を見つめながら、ハル子さんは無理矢理頭を切りかえる。見合いは終わった。自分は今から、家に帰るのだから……。
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