37.この邦は、桜を最も美しく咲かす



「うつぼ、ですけど」


 男は怪訝そうに顔を歪め「お前どうやってここにきた」と問うた。うつぼ君が正直に「割烹旅館の土管どかん屋さんからですが」と答えると、男は「そんなこと聞いてるんじゃない」と眉間に皺を寄せた。


「ここはヨルセがなければ入られない地下空間だぞ。そこになんで入ってくることができた」


 なぜといわれても、気付いたらここにいたのである。

 困惑しているうつぼ君に気付いたのか、男は、にやり、と笑った。


「まあいい。オレはソホだ。ム・ソホ」

「ソホ?」


 耳慣れない発音である。うつぼ君が困惑していることを理解しているらしい、男は呵呵大笑した。


「ここの人間からは、キリサイコと呼ばれたりするが。霧西湖は、韓國語ハングンマル読みでム・ソホとなる。ム・西湖ソホ


 うつぼ君は眼を丸くした。


「貴方が「存在してはならぬ者」ですか」

「あはははは。そうそう、それだそれ。「存在してはならぬ者」だ」


 ソホは、からりとした笑いごえを響かせながら、だらりと垂れた前髪を掻き揚げた。その唇は肉感的で瑞々しい。

 ソホは筋肉質な美男だった。ただ何年ここにいるのかは知らないが、膚肌は抜けるように白かった。操る言葉には、やはり癖がある。



「あの糞女がオレにつけた二ツ名だ。的外れな侮辱もいいとこだと最初は腹を立てたが、今は気に入っている」

「糞女……?」

「この、まにまに王國の女王だよ」

「女王――となると、錵鏡にえかがみ女王のことですか?」

「違う」


 ソホはそれ以上答えようとしなかった。うつぼ君は仕方なく話題を返ることにする。


「失礼ですが、韓半島のご出身ですか」

「ああ」

「その、「存在してはならぬ者」と云うのは、一体どういう由来で名付けられたのでしょう?」


 ソホは問いには答えなかった。変わりに、うつぼ君に問い返してきた。


「オレがどうしてこんなところにいると思う?」


 知るはずがない。


「わかりません」

「このオレが『何も生み出さぬ者』だからだ」


 一人勝手に進められる会話。しかもそれが果たして真実の答えなのかそれとも戯言なのかも不明だ。そんな思いが顔に現れていたらしい、ソホは「信じていないな」と眉を大袈裟に顰めた。


「よし。じゃあとっておきの話をしてやろう。お前、みかん島の湖のことは知っているか?」

「ああ、はい。霧西湖ですね?」

「あれは三代前のまにまに女王によって名付けられた。由来は無論オレの名前だ。なぜだと思う」


 何故三代も前の女王にこの男の名前を由来とする名前を付けられるのだと怪訝に思いながら、取り合えずうつぼ君は「さぁ」と答える。わからないものは、わからない。

「あの湖は真水だが、何も生み出さない。あの水の中では何も育まれない。。――だからだ」


 ソホは何やら深刻な顔で石の壁をじっと見つめている。


「今年は何年だ」

「え?」

「今年だよ。S歴何年だ」

「62年ですが」

「と云うことは、今年皇太子の見合いがあったな」


 ソホは考え込むように顎に手をやり、数瞬後、すっと視線を向けた。


「ああそうか、それで……。成る程な。お前、今回の見合いの婿候補だった男だな?」

「はあ。でも結局皇太子は僕の半身ではありませんでしたが」


 答えた途端、ソホは「ふ」と口許だけで笑った。


「それはよかった。もしお前が皇太子の半身だったら、オレはのあまりお前を殺したかも知れない」

「――……。」


 ソホはぎらりと光るひとみでうつぼ君の顔を睨んだ。


「冗談じゃない。本当だ。だからかった。お前も善かったな?」

「――あなたは、この國の見合いの実状を御存知ではないですか?」


 ソホは、欠伸を噛み殺して再びごろりと横になった。


「何故そんなことを聞く?」

「なんとなく、貴方が知っていそうな気がした」

「知っていたとして、なぜ知りたい?」

「今のままでは収まりが着かないのです」


 ソホは大して興味もない顔でにやにや笑いながら「どう云うことだ?」と問うてきた。


「見合いは終わりました。公主が誰であったかの謎は解けた。しかし僕に投げかけられた謎は置き去りになっている。最終の結論だけが与えられ、その中間に位置していた、は何の解決もしていない。それが我慢ならない」

「その、謎って云うのはなんだ?」

「僕のところに、見合いを知らせる封書を送りつけたのは一体誰なのか。この見合いに婿候補者として呼ばれる者は、一体どうやって選び出されているのか――それが判然としなければ承服しかねる」


 真剣な顔で云ったうつぼ君に、ソホは――ひどく酷薄こくはくな笑みを浮かべて見せた。


「さすが、朝飯をショスタコヴィチの第五で喰える連中なだけある。古里フルサトが爆笑してたぜ。話を聞いた時は耳を疑ったけどな。よくもまあ、あんな辛ッ気臭い旋律耳に入れながら飯喰えるな」

「古里さんが……?」


 ソホは何の感慨もない表情で耳をほじり、大欠伸と同時に伸ばした腕をごきり、と鳴らした。


「あの……」

「なぁ、お前」


 うつぼ君がこえをかけると同時に、腕を伸ばしたままの状態でソホの視線がぎらりと密度を増した。


「は、はい」

「オレの話が聞きたいか? それがどんな結果を出しても、お前は黙って飲み込めるか?」

「え」

「できるなら、真実の断片を聞かせてやろう。受け入れればお前は、お前の謎だけではなく、六十年来隠され続けてきたこの國の秘密をも手に入れることができる。――どうだ?」

「――……。」


 うつぼ君が、その提案を捨てるはずもなかった。与えられる謎とその解答。それを鼻先にちらつかされて、彼は無関心のまま捨て置けるタイプの人間ではない。

 うつぼ君は、深く頭を下げた。


「――頼みます」


 ソホは前髪を掻き揚げ、目蓋を伏せたまま語り出した。


「過去とは、全てフィクションだ。語られる時点で、すでに語り手の主観が入り混じるからだ。事実とは、一瞬一瞬に通り過ぎては消失する、実にあやふやなものでしかない。ただ、事実を元に幾億・幾兆とも知れない真実が誕生する。人間とは、その真実とやらを後生大事に引きずってゆく、憐れな生き物だ」


「――それは、憐れなことなのでしょうか」


「憐れだよ。社会が安定すれば人間の脳味噌と本能はふやける。すると魂もだらける。魂がだらけるから、そんなつまらないものに惑わされる」


「でも、積み重ねられた歴史を自覚することにより、人間は時代を超越するのでしょう? そうじゃないですか?」


「動物はな、しょせん生きることしかできないんだよ。手段を選ばず生きる。ともかく生きる。。――それを理解できる人間とできない人間の云う「生」とは、恐らく全く違うんだろう。歴史ヨクサ過去クワァゴなんて、現状に理由を付加するためだけに存在するような、単なる詭弁きべんの一種だ。――お前、この世で生と死の狭間を最も端緒に表す樹木が何か知っているか?」


 ソホの掌がうつぼ君の頬に伸ばされる。触れる指先はひやりと冷たい。


「桜花だよ」

「桜花」


 鸚鵡おうむ返しに呟くうつぼ君は、彼の頬に触れていたソホの手が、何時の間にやら首に下りていることに気付いては、いた。その指が、くびりたさげに震えることにも。



「――このくには、桜を最も美しく咲かす」



 するりと指が首から離れ、ソホはにやりと笑んだ。




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