8.香水壜


          *


 ――外庭でそんな遣り取りが交された数刻前のこと。


 きしり、きしり、と廊下が軋む。


 右翼一棟最奥に位置する『雲丹うにの間』の前で、人影は歩みを止めた。すぅと引かれる襖。中にはまた一枚襖があり、音も立てずに引く。部屋の中央には蒲団が一組敷かれていた。


(よく眠っている――)


 蒲団の中、深い眠りの底にいる人の寝顔を見つめ、人影はひとみを細めた。

 この者がどう云う動きをするかによって、今回の〈お見合い〉は大きく変動するかも知れない。のアクシデントは、思い直せば己にとっては逆に好都合だった。


 枕許に、ことりと音を立てて小さな香水壜を置く。青い小壜のふたは真鍮製で、奇怪な細工がそうと知られぬ程度にほどこされていた。その脇にかさりと滑らせたのは、一枚のメモ。この香水壜の使い方を記したメモだ。たもとにそっと手を伸ばす。そこには、この香水壜と同じ物が忍ばせてあった。いまがた枕許においたのは、己の香水壜の複製品である。


 襖を開けて外に出た人影は、どきりと立ち止まった。そこに別な影を見つけたからだ。黒く小柄な人影は、普段見せない鋭い眼差しを投げかけてくる。しかし、驚くには及ばなかった。己でこの者に香水壜の複製を頼んだのだ。己の行動を読まれているだろうことは、必至。また、思考も。


「――よろしいのですか?」

「――……。」


 問いかけに無言で佇むと、眼差しは一層鋭くなった。


「本当に、よろしいのですか」

「ええ」


 厳しい眼光は、そこで諦めと共に伏せられ、「ふぅ」と溜息が零れた。そして『雲丹の間』の奥に視線を向ける。


「この者はなのでしょう? あなたは、そのことをわかっていらっしゃる。なのに何故――」

「そうであっても、最早引き返せはしないのです」

「本当に、よろしいのですか」



 再度同じ言葉を繰り返す黒い影に、こくりと頭をふって見せた。





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