7.つくばい


          *


 上弦の月が浮いている。


 大宴会場の掃き出し窓は開け放たれていた。そこから赤い天鵞絨ベルベットのカーテンがひらひら表にひるがえる。薄闇にまどう布の光沢はひたすら妖しい。そのかたわらに散る桜の葩弁かべんもまた、大いに妖しいのだった。


 そして更にその傍ら。そこには青いワンピースをまとったまま膝を折り、つくばいに掌を浸すハル子さんの姿があった。


 よくよく見ると、石をいて造作されたそのつくばいは、なぜか二重構造になっている。鉢の中に、もう一回り小振りの鉢があり、更にその中心からこんこんと水が湧き上がっているのだった。


 ハル子さんは二重構造の内側に手を浸している。そして、やおらそれを両掌にすくい上げ、口に含んだ。真水である。次いで二重構造の『外水そとみず』もすくい、口にした。とたん、ハル子さんの眉間に皺がよる。



「――そんな御顔をなさるなんて、よほど塩気が足りませんか?」



 背後から投げられたこえは唐突で、ハル子さんは眉間に皺したまま立ち上がった。


「だめね。全然足りない」


 ハル子さんはワンピースの胸元に縫いとめられていた青いビーズをひとつ引き千切った。それをぽちゃり、と二重構造の外側の中へ落とす。


「これで、だいじょうぶ」


 青いビーズはずぶずぶと泡沫ほうまつを上げながら沈み、ついには溶けてしまった。このビーズは、故郷で特別に創られた海塩の結晶である。これでなくては、このつくばいの『外水』に用いることができぬのだ。


 『内水うちみず』中央から湧き出でる真水は、自然『外水』の塩分を薄めてしまう。それを防ぐため、つくばいには定期的にこのビーズを投入してやらねばならない。今回の状態は、かなり限界に近かった。


「わざわざそのお洋服からお取りになることもございませんでしたでしょうに……まさか香水壜をお忘れになりましたの?」

「そんなわけないでしょう。あちらの中身を減らしたくないだけ。玉造たまつくり達が造ってくれる、大事なビーズなのだから」


 ハル子さんは、つとふり返る。その先には、桜のもと、美しくたたずむ和装女性の姿があった。


「こんな時間に、貴女はいったい何をしているの」


 呆れたようにハル子さんが問うと、女性は「ふふふ」と華やかに微笑む。


「ハル子さまへ御挨拶に」


 対するハル子さんの微笑みは相も変わらず茫洋。


莫迦ばかなことをするものではないわ」

「莫迦なことですか?」

「決まっているじゃない」


 ハル子さんは指先に残ったビーズの粉を、ちらりとめ取った。赤い舌が天鵞絨ベルベットに負けぬほど、赤く妖しく映る。


「〈お見合い〉が終わるまで、今後一切、こんなように私に話しかけてこないようにね。貴女、〈お見合い〉に出るのでしょう?」

「ええ」


 女性は、さも平然と微笑む。しかし、そのひとみの底には、りん、としたものが漂っていた。


「ならば、なおさら話しかけないで。私と貴女は知らぬ者同士なのだから」

「ハル子さまは厳格でいらっしゃる」


 ハル子さんは、ほんの少しだけその睛をすがめた。


「今回の〈お見合い〉をつゝがなく成功させたいのは、貴女も同じでしょう?」

「それは当然でございます」


 女性の表情も、りん、と締まる。


「ならば、これ以上の油断は禁物よ。候補者達にどんな些細なことで悟られるかわからないのだから」

「――わかりました」


 女性は丁重に頭を下げた。ハル子さんは再び茫洋とした表情へ戻り、そして上弦の月を見上げる。太陽によって、半分に割られた哀れな月だ。


「――残り半割りは、一体どこに隠れているのかしらね」

「ハル子さま?」


 我知らずの呟きであったので、ハル子さんは静かにかぶりをふる。



「全力で尽くしましょう。我等が王國と王族のために」



 つくばいの内で、ぴちりと泡沫は弾けた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る