4.『火鼠の間』と少年



 ハル子さんが玄関口で立ち止まっていた間に、古里さんは一生懸命背伸びして、もとは菓子が入っていたに違いないブリキ缶の中から一枚の半ぺら紙を取り出した。「ハル子様、こちらを」と手渡されるままに受け取る。それは館内マップだった。


 玄関をあがる。案内されるままとことこ歩き、やがて到着した部屋の前で古里ふるさとさんが「こちらでございます」と頭をぺこり下げた。ひょいと柱に掛けてある板を見る。スケールは蒲鉾かまぼこの裏板ぐらいだろうか。『火鼠ひねずみの間』、と記してあった。


 ハル子さんの眉間にわずかながら皺がいった。『火鼠の間』が駄目だったのではない。部屋のふすまに張られた和紙には、ハル子さんの名前が墨で大書きされていたのである。


「ちょっと、お旦那さん」

「はい?」


 「これ」、と名前を記した和紙を指差す。


「いくら私の名前を知っているからと云って、姓を書くなんて」


 あっ、と古里さんの口が強張る。


「もっ、申し訳ございませんでした」


 ハル子さんは和紙をつかみとり、びりりと縦に裂いた。くしゃくしゃまとめ、廊下の隅に置いてあったブリキのゴミ箱に、バスケットのワンハンドシュートの要領で投げ入れる。投げられたそれは見事な放物線を描き、最後にぱすん、と音立ててゴミ箱の底に着地した。


 ぱんぱんと掌をはらい、古里さんへ目線をやる。


「それで、私の前にここへ到着している人は、いるのかしら」

「は」

「たった今私が捨てたものを、見た人がいる可能性を聞いているの。姓を見られていたのじゃ、話にならない」

「いえ。確かに二名の候補者様がすでにお見えでいらっしゃいますが、こちらのお部屋は最奥にございますので、大丈夫だと、あの、はい」

「そう」


 ハル子さんは、仕方なく溜息をついた。溜息のような辛気臭いものなど実にハル子さんらしからぬが、それこそ仕方なかろう。


「気をつけてちょうだい」

「はい」


 へこへこ頭を下げ続ける古里さんを廊下に残し、勝手知ったる何とやら、ハル子さんは襖をさっ、と引き、内側に華奢な身軆からだを入れて、背中を向けたまま、すぱん、と閉ざした。




 『火鼠の間』に到着したハル子さんが第一にしたことは着替えであった。鞄の底から「えいや」と抜きとり、ばさり、と取り出された優しい色彩が、長旅の圧縮を追いやるが如く空気を孕む。空色の布地の上に、コバルトグリーンのシースルー素材を重ねたフレアー・スカートのワンピース――と云うのが、ハル子さん持参の一張羅であった。


 ハル子さんの毛髪は、量こそ少ないが毛先はなだらかに反り上がっている。ので、その形態の衣装は、彼女によく映えた。畳の上に立つハル子さんの両脚はすらりと長い。昨年までスカート裾はハル子さんの膝下に位置していたのだが、いまや膝上でふわりと空気を孕む。上手いこと縦に伸びてくれた。姿身の前で前後の状態を確認し、ハル子さんはひとり首を縦にふった。


「むん」


 これで準備は完了だった。ハル子さんには今夜中に済ませておくべきことが、ある。そのために、この衣装を持参したのだった。一応の満足をし、を確認するため外に出ることとする。


 ハル子さんがすらりと襖を開けて廊下に出たとたん、きしり、と音がした。己が軋ませた音ではない。何ごとかと見やると、廊下の階段側から何かの紙に顔を擦りつけるようにして歩いてくる少年がいる。青味がかった黒髪が、さらりとしなやかだ。相手方はこちらに露ほども気付いておらぬ様子。じっと見ていると、少年は何やらぶつぶつと呟きながら首を傾げ傾げしている。――かと思っているうちに、彼は壁に向かってその一歩を踏み出していた。


「あ」

「ぐわっ!」


 ハル子さんが制止する間もなく、ごつんと随分小気味よい音がした。彼はちょうど良い位置にあった柱に激突したのである。頭を抱えてうずくまっているところを見るに、どうやら額をしたたかに打ったらしい。


「――だいじょうぶ?」


 尋ねてみると、彼はまなじりに涙を溜めつつ顔を上げた。目許の涼やかな少年である。りんとしたものを持ってはいるが、どうも安定感に欠けるきらいが、あった。


「あの」


 発せられた声にハル子さんは少々驚いた。少年は実に美しいこえをしていたのである。


「はい?」

「今、僕はあんたにぶつかったのではないよな」

「ああ、ええ」


 本当に何も見えていなかったらしい。


「そうか、それならば、善かった」


 云いながら、少年は額をさすっていた手を下ろした。やはり整ったかんばせの持ち主である。一重目蓋であったが、眼自体が大きいので貧弱な顔には見えない。額が赤くなっているのが玉にきずと云えようか。


 と、少年の表情がはた、と制止した。


「あんた、まさか、まにまにの姫さんか」


 唐突な問いだな、と思いつつ、ハル子さんは丁寧に返答した。


「違いますけども」

「じゃあ、旅館の人とか」

「それも違うようですが」

「じゃあ、何者なんだよ」


 何ともつっけんどんな少年の云いように、ハル子さんは閉口しきった揚句、びしりと少年の鼻先に指を突きつけた。


「うととっ……」


 突然のハル子さんの行為に、少年は身軆のバランスを崩した。ちょいちょいと爪先で拍子をとって後ずさってから、「何すんだよ!」と美しい聲を荒げる。


「あなた。あなたこそ、誰」

「誰って――今この時期に、わざわざこんなところへ観光にくる客なんか、いるわけないだろう」

「は」


 そこでようよう、この少年が何を云っているのか理解した。


「あなた、お見合いにきたのね。お婿さん候補なのね?」

「それ以外に何がある?」


 ハル子さんは、ハル子さんらしい茫洋とした顔のまま、「それもそうね」とうなずいて見せた。


「私も、お婿さん候補として、ここにきたの」

「は?」


 今度は少年の顔がおかしくなった。


「ちょっ、募集したのは婿なんだぞ?」

「別に構わないんじゃないの? お婿さん募集に女の子がきたって」

「――……。」


 少年は絶句し、しばし凍りついていたが、やがて「まあ、それはそれでいいか」と気を取り直した。少年、中々立ち直りが早い。ハル子さんは感心した。善い少年である。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る