3.割烹旅館・土管屋



 太って硬い顔をした博士が運転する車の、助手席側後部座席に座り、ハル子さんは再び車窓に左肘をついていた。助手席には細くて長くてにこにこ顔の博士が座している。


 有栖川どんたく駅を出発してから、すでに小一時間ほどが経過していた。がたがたとひっきりなしに揺れているのは、ここが舗装されたアスファルト道でない証。それでも安定した走行に入るといって差し支えないだろう。太って硬い顔をした博士は、存外運転に関し丁重なタチであるらしい。


「そう云えば、ハル子さん」


 名を呼ばれて、頬から手を外し、バック・ミラーに映るにこにこ顔へひとみをやった。


「はい」

「忘れておりましたが、今日ハル子さんがお出でになると、娘に云っておりませなんだ」

「あら」


 ハル子さんは眼を丸くして、頬に華奢な掌をよせた。


「ですがまあ、構わんでしょうな」

「ちょっと待って下さいな。それは、今回の〈お見合い〉に私がくると云うことも、彼女、知らないと云うことですか?」

「はい」


 はいではあるまい――と突っ込みたくなったが、ハル子さんは諦めて車窓の外を見やった。


 遠くに流れる桜並木は見事だ。緑の山野を背景に、桜は白く霞がかって浮かぶ。ここ二・三日、寒の戻りのせいで肌寒いが、つい数日前までそこそこ暖かい日が続いていたため、すでに開花しているのだ。今年は例年に比べて寒気が足らず、花をつけなかった椿が多いと聞き及んでいた。ただでさえ花の少ない季節に最も楽しみな花が咲かなかったのである。ようよう冬を越え咲きほころんだ桜は、また格別だったことだろう。


 ふと見やると、道路端でポン菓子売りが、おたなを開いていた。手押し車に紅色の風車をぶっさした婆が、菓子売りの親父から巨大な袋詰めを買っているところ。白く米をはぜさせたポン菓子に、ミルクをかけて朝食にいただけばさぞ美味かろう――とぼんやり考えていたら、いつまのにか、よだれが垂れていた。


(いかんいかん)


 細くて長い博士が「ハル子さん。明日の朝食メニューには、ポン菓子のミルクかけもありますよ」と突然云った。手の甲でぬぐうところを見られたか。


「見えてきましたよ、ハル子さん」

「は」


 左前方を指され、その方を見やる。


 そこには、明治初期に流行した和洋折衷様式の建物が鎮座ましましていた。屋根は日本独特の瓦屋根。玄関にはコリント式と思しき白柱がのっそり立っている。木々に隠れて見えにくいのだが、どうやらかなり大きな建物らしい。


 ぼんやり見ているうちに建物はどんどん近付いてくる。そして急に左ハンドルを切られた。


「うあ」


 思わず声を上げる。急ハンドル過ぎて後部座席に引っくり返ってしまったのだ。


「到着いたしましたよ、ハル子さん」

「――……。」


 口中でむにむに云いながら、ハル子さんは起き上がった。そして、しばし沈黙する。ウィンドウ越しに見る建物は、少し掠れて見えた。


 ハル子さんが荷を手に取り、ようよう車から降り立つと、細長い博士は手動でウィンドウを下ろし、にこにこと手を振った。


「では、ワタシも後々参りますので」


 車はあっさりとUターンして走り去った。何とも後腐りないものである。ハル子さんも気を取り直し、ひとつ大きく息を吸った。


 改めて建物を見回す。すると、玄関からぱたぱた慌しく表に飛び出してきた影があった。こぢんまりとした人となり。規格外に小柄な身軆は、紺色の法被を身につけていた。


(――コロボックル族か)


 勝手にそう見当をつけ、ハル子さんは駆けよる影を待った。


 ハル子さんの見当に誤りはなかったらしい。人の背丈はハル子さんの腰辺りまでしかなかった。ぱっちりと白目勝ちで大きな眼と、白いチョビ髭が笑いを誘う。


「ようまあお出で下さいました。ハル子様でございますね」


 彼は、ぜはぜはやりながら確認を入れる。

(……苦しそう)と云うのが、第一に抱いた感想だった。


「ええ、まあ」


 ハル子さんが肯定して見せると、彼は「ははあ」と安堵の笑みを浮かべた。


「それはそれは、全くよ御座いました。ワタシ、当旅館の主人で古里フルサトと申します。どうぞ今後とも御贔屓ごひいきに」

「ええ、はい」

「お荷物お預かりいたします」

「ああ、結構よ。大したものなど入っていないから」

「……そうでございますか?」


 なんとなく残念そうに古里お旦那さんは首を下げたが、本当にろくに重くないので、ハル子さんは先導だけを頼み、館内へと踏み込んだ。入り際、一寸ちょっとだけ立ち止まり、玄関脇に掛かっていた木製の看板を見た。



 ――割烹旅館・土管どかん屋。

 と、ある。どうやらそれが、ここの屋号であるらしい。




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