壱.前日(四月一日(土))
2.『駅名知らせの車掌お化け』と『有栖川どんたく』
ごとごと揺れる
眉間に皺などなかったが、それでも彼女の難渋しているのは見て取れる。揺れがいやなら肘をはずしてしまえばよさそうなものの、それをあえて継続させるのが、ハル子さんのハル子さんたる
見やる車窓の外は、まだまだ気温が低い。ハル子さんは懐に忍ばせている
投げつけた
『ツギハー、アリスガワドンタクー。アリスガワドンタクー』
色気も
縦に長いこと電柱の如し、ひとりの車掌が近付いてきた。車掌は真面目腐った顔をし、首から小型テープ・レコーダーを吊り下げている。音はそこから聞こえているのだった。車掌は切符切りをカチカチ鳴らしながら歩いてくる。はっきり云って、珍妙珍奇であることこの上ない。
車掌が通り過ぎるのを、ハル子さんは
彼をやり過した後、ハル子さんは窓をがたりと下ろし、外に顔を出した。目指す駅の輪郭が、はっきりし始めている。風に
先ず、駅の天井は
屋根の上から構内に視線を戻す。すると、駅の中頃に二人の博士が仲良く並んで立っていた。太ったのと、やせて長いのとの二人組みだ。
あらかじめ彼等二人が迎えに訪れると聞いていた。ホームには、他に人影も見当たらない。彼等もまたこちらを見つけていたらしく、眼が合った。見ているうちに、ハル子さんが座する座席は彼等の横を通り過ぎてしまった。通り過ぎざま、彼等はハル子さんと眼を合わせたまま、顔だけをくるぅりと回した。それが滑稽と云えば滑稽。首から下は、ホームに固定されたが如く動かなかったからである。彼等からゆうに十mは離れた地点で、汽車はようやく停車した。
『アリスガワドンタクー。アリスガワドンタクー』
今度こそ、車内スピーカーから駅名を告げる聲が流れた。
ハル子さんはようよう荷を取り立ち上がった。軽いものである。下着の替えが二セットと、とっておきの衣装が一着入っているぎりであった。ハル子さんは、まだまだ化粧を必要とする歳でない。元来化粧をせずとも素ッから色が白く、唇も幾重か桜の花弁を重ねたような色をしている。長じても化粧が必要になるとは感じられなかった。
乗降車口は汽車の連結部分にある。ハル子さんがタラップに脚を入れると、前の車両に座していた一人の乗客の横へ、先程の車掌が腰を下ろしていた。何やらとうとうと語っている。中年の坂を幾ばくか越えたような乗客は、すでに困惑の域を越えて泣きそうになっていた。やはり先程のアレは『車掌お化け』であったらしい。ならば彼は不用意に
(――御愁傷様)
内心
ハル子さんが履いている編み上げブーツは皮製で、ほとんど膨らみもない彼女の
先程の博士二人は、すでに乗降車口の前に並んで立っていた。
太っているほうは中々硬い顔をしている。眉間には深い皺。二重顎を幾らか持ち上げた形で、彼の顔面筋肉は固まっているようだ。
対する細長いほうは、にこにこ顔が張りついたようになっている。決して不自然ではないものの、何やら腹の底が知れぬ顔では、あった。
にこにこ顔の細長博士は、そのにこにこ顔でハル子さんに挨拶をした。
「お久しぶりでございますな。ハル子さん」
「ええ、まあ」
覇気どころか気もない答えかたをしたハル子さんだったが、先方にそれを咎め立てする気はないようである。一切を承知しているのはハル子さん側も博士達側も同様であったので、三人は並んで歩を進めだした。
その直後、背後から「ぴぃぃ」と甲高い音。三人そろってほんの少しだけふり返る。特にハル子さんは心の中で、再び小さく(御愁傷様)と呟いた。『車掌お化け』と、彼に捕まった憐れな乗客を乗せたまま、汽車は次の駅へと向けて出発したのである。
ハル子さんは、ふり返ったついでに駅の天井から垂れ下がっている板を見た。『有栖川どんたく』と記銘されている。それが駅名であった。そしてそれは、そのままこの周辺の地名でもある。
汽車の姿が線路の彼方に消え、彼等三人は再び歩を踏みだした。
「こちらは、まだまだ寒いでしょう、ハル子さん」
「ええ」
たった二段しかない階段を降りながらの、細長い博士による問いであった。『有栖川どんたく』駅のプラット・ホーム丈は、凡(およ)そ二十㎝程度しかない。
「あちらは、冬でもあたたかいのでしょう」
「ええ」
とすり、と音。ハル子さんが二段しかない階段の最後の一段を、両足そろえて飛び降りた音である。
地に脚をつけたハル子さんは、茫洋としたものではあったが、ようやく笑みらしきものを浮かべた。
「久しぶりに、こんな
「ほう」
「むこうで編み上げブーツなんて言語道断よ。蒸れちゃうもの」
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