壱.前日(四月一日(土))

2.『駅名知らせの車掌お化け』と『有栖川どんたく』



 ごとごと揺れる身軆からだに難儀しながらも、ハル子さんは車窓の桟に左肘をかけ、頬杖をつき続けていた。

 眉間に皺などなかったが、それでも彼女の難渋しているのは見て取れる。揺れがいやなら肘をはずしてしまえばよさそうなものの、それをあえて継続させるのが、ハル子さんのハル子さんたる所以ゆえんなのであった。


 見やる車窓の外は、まだまだ気温が低い。ハル子さんは懐に忍ばせている懐炉かいろをこっそりとつかんだ。ほっこり暖かい。密かながらに「ほう」と息を吐き、もう一度視線を外にやる。

 投げつけたどろ饅頭まんじゅうに木が生えたような山々が、只管ひたすらだらだら続いていた。合間合間に点々と民家が存在している。



『ツギハー、アリスガワドンタクー。アリスガワドンタクー』



 色気も糸瓜へちまもへったくれもない車内アナウンスが耳に入った。愛想のないこえだと思いつつ聞いていると、何やら聲は後方から近付いてきているような、段々に大きくなってきているような塩梅あんばい。怪訝に思い、通路側へ首を突き出す。


 縦に長いこと電柱の如し、ひとりの車掌が近付いてきた。車掌は真面目腐った顔をし、首から小型テープ・レコーダーを吊り下げている。音はそこから聞こえているのだった。車掌は切符切りをカチカチ鳴らしながら歩いてくる。はっきり云って、珍妙珍奇であることこの上ない。


 車掌が通り過ぎるのを、ハル子さんは目蓋まぶたをぱちぱちさせながらやり過した。随分昔に母から聞いた『駅名知らせの車掌お化け』の話を思い出したからである。『車掌お化け』に聲をかけてはならない。誤って聲をかけたらイッカンノ終リ。彼は聲をかけた者の座席にずいずいと腰を押し込み、とうとうと身の上ばなしをはじめるのだそうな。実に厄介な化物である。通り過ぎる刹那、ふわりとアマンドのかおりがハル子さんの鼻腔をくすぐった。


 彼をやり過した後、ハル子さんは窓をがたりと下ろし、外に顔を出した。目指す駅の輪郭が、はっきりし始めている。風にあおられ髪がはためいた。頬に一条がからむ。秒刻みで、眼に捕らえられる駅の外観的特徴は、いや増して行く。


 先ず、駅の天井は亜鉛トタン板のように波々とうねった鉄製だ。赤くペンキで塗装され、駅の頭に乗っかっている。どうやって昇ったのだろう? その上に乗って遊んでいる子供が一、二、三人。いや四人はいるか。忍者ごっこでもしているのだろうか? ふわりふわりと、さも身軽そうに飛びまわっている。彼等が空飛ぶマントに模しているのは、恐らく母親のタンスから失敬してきたシルクのスカーフに違いない。一人なんぞは頭にネクタイを鉢巻よろしく巻いていた。まるで年末のサラリーマンだ。


 屋根の上から構内に視線を戻す。すると、駅の中頃に二人の博士が仲良く並んで立っていた。太ったのと、やせて長いのとの二人組みだ。

 あらかじめ彼等二人が迎えに訪れると聞いていた。ホームには、他に人影も見当たらない。彼等もまたこちらを見つけていたらしく、眼が合った。見ているうちに、ハル子さんが座する座席は彼等の横を通り過ぎてしまった。通り過ぎざま、彼等はハル子さんと眼を合わせたまま、顔だけをくるぅりと回した。それが滑稽と云えば滑稽。首から下は、ホームに固定されたが如く動かなかったからである。彼等からゆうに十mは離れた地点で、汽車はようやく停車した。



『アリスガワドンタクー。アリスガワドンタクー』



 今度こそ、車内スピーカーから駅名を告げる聲が流れた。

 ハル子さんはようよう荷を取り立ち上がった。軽いものである。下着の替えが二セットと、の衣装が一着入っているぎりであった。ハル子さんは、まだまだ化粧を必要とする歳でない。元来化粧をせずとも素ッから色が白く、唇も幾重か桜の花弁を重ねたような色をしている。長じても化粧が必要になるとは感じられなかった。


 乗降車口は汽車の連結部分にある。ハル子さんがタラップに脚を入れると、前の車両に座していた一人の乗客の横へ、先程の車掌が腰を下ろしていた。何やらとうとうと語っている。中年の坂を幾ばくか越えたような乗客は、すでに困惑の域を越えて泣きそうになっていた。やはり先程のアレは『車掌お化け』であったらしい。ならば彼は不用意にこえをかけてしまったのだろう。


(――御愁傷様)


 内心つぶやきながら、ハル子さんは片手で彼を拝み、車中を後にした。

 ハル子さんが履いている編み上げブーツは皮製で、ほとんど膨らみもない彼女の脹脛ふくらはぎを全面覆い尽くしている。それで板張りの階段をこつこつ叩きながら、ついにハル子さんは表に出た。初春の風が冷たくうなじをなめていった。



 先程の博士二人は、すでに乗降車口の前に並んで立っていた。



 太っているほうは中々硬い顔をしている。眉間には深い皺。二重顎を幾らか持ち上げた形で、彼の顔面筋肉は固まっているようだ。

 対する細長いほうは、にこにこ顔が張りついたようになっている。決して不自然ではないものの、何やら腹の底が知れぬ顔では、あった。 

 にこにこ顔の細長博士は、そのにこにこ顔でハル子さんに挨拶をした。


「お久しぶりでございますな。ハル子さん」

「ええ、まあ」


 覇気どころか気もない答えかたをしたハル子さんだったが、先方にそれを咎め立てする気はないようである。一切を承知しているのはハル子さん側も博士達側も同様であったので、三人は並んで歩を進めだした。

 その直後、背後から「ぴぃぃ」と甲高い音。三人そろってほんの少しだけふり返る。特にハル子さんは心の中で、再び小さく(御愁傷様)と呟いた。『車掌お化け』と、彼に捕まった憐れな乗客を乗せたまま、汽車は次の駅へと向けて出発したのである。



 ハル子さんは、ふり返ったついでに駅の天井から垂れ下がっている板を見た。『有栖川どんたく』と記銘されている。それが駅名であった。そしてそれは、そのままこの周辺の地名でもある。


 汽車の姿が線路の彼方に消え、彼等三人は再び歩を踏みだした。


「こちらは、まだまだ寒いでしょう、ハル子さん」

「ええ」


 たった二段しかない階段を降りながらの、細長い博士による問いであった。『有栖川どんたく』駅のプラット・ホーム丈は、凡(およ)そ二十㎝程度しかない。蜻蜒州せいていしゅう秋津島あきつしまが日本と称されるようになって二千と一寸ちょっとが過ぎていたが、このくににおいては、けだし珍しい丈である。


「あちらは、冬でもあたたかいのでしょう」

「ええ」


 とすり、と音。ハル子さんが二段しかない階段の最後の一段を、両足そろえて飛び降りた音である。

 地に脚をつけたハル子さんは、茫洋としたものではあったが、ようやく笑みらしきものを浮かべた。


「久しぶりに、こんなモノ履いたわ」

「ほう」

「むこうで編み上げブーツなんて言語道断よ。蒸れちゃうもの」



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