愛を知るまでは 9

 瀬那がカッターナイフを掲げたことで教室中から悲鳴が上がり、クラスメイトたちが椅子や机をなぎ倒して教室の隅へと逃げていく。美羽音も逃げ遅れた生徒をかばうように後ずさった。

「手に持っているものをゆっくり足下に置きなさい!」

「アイカ!」

 先生や美羽音たちに何を言われても、瀬那は動じずに立っていた。

 逃げ遅れた私は、瀬那を呆然と見つめる。そこにいたのは、私が全く知らない姿だった。

「それ、どうしたの」

 自分でも震える声を止めることができない。

「瀬那?」

 呼びかけても返事もしてくれない。

「瀬那!

 何でもいいから答えてよ!」

「……ずるいよ」

 あまりに弱々しい、瀬那の声が聞こえた。

「ずるいよ、星野さん。自分は安全なところから一方的に話すことが許されて、アイカにも、まさか美羽音にもかばってもらえて、みんなに心配されて。

 認めてほしかったら出てこいよ!」

「言われなくてもここにいます」

 スピーカー越しではない声が聞こえてきて、思わず立ち上がる。教室の出入り口には千弦本人がいて、いつの間にか通話は切れていた。

「どうして!」

「身を隠す必要がなくなったからです」

 それでも今の千弦が教室に戻ってくるのは危険すぎる。案の定、廊下に避難したらしい先生やクラスメイトたちが、こっちに来い! と叫んでいた。

「一応、私は被害者です」

「うるさい!」

 瀬那が千弦にカッターナイフの刃を向けた。廊下で悲鳴が上がる中、千弦は何も思っていないように、「今のあなたを守ってくれるのは基本的人権だけだと思いますが」と余計なことを言う。

「それとも、そこにいる川島愛佳さんが守ってくれますかね」

 千弦は私をチラリと見た。瀬那も、捨てられてずぶ濡れになった犬のような目を向けて、すぐに足下を見た。

「ううん、多分あなたを守ると思う。

 アイカはあなたのことが大事だから」

 カッターナイフを握る両手が震えている。「そうですか」とだけ千弦は答えた。

「あんた、それがどれだけ特別なことかわかる?」

 怒りをむき出しにした目で、瀬那は千弦を見た。

「自分から話しかけたりしたことないのに向こうからやってきて、あれこれ世話焼いてくれて、甘えっぱなしでも嫌な顔1つせず一緒にいてくれて、ピンチの時には全力で守ってくれるなんて、そんな友達そうそういないよ。あんたみたいにつっけんどんにしても離れていかないのは、アイカが相当なお人好しだからだよ。

 なのに、あんたはお礼を言ったり、アイカのために何かしようとしたり少しでも思ったことある?」

 瀬那の目から、ボタボタと涙が流れていく。

「違うよ、瀬那」

 瀬那は、はっと息をのんでやっとこちらを見てくれた。

 いろんなことを教えてくれたり、守ってくれたりしたのは、千弦の方だ。私は千弦の元に行くだけで、何にもしていない。

 ただ、瀬那の目には、見えていなかっただけ。でも、たった1回だけ、千弦に助けてもらったことは、瀬那も知っているはずだった。

「古文のノートを職員室に取りに行かなきゃいけなかった時さ、千弦が代わりに取りに行ってくれたの、覚えてる?

 あのとき、千弦に取りに行ってくれて、ほんとに助かったんだけど、肩の荷が下りたというか、ほっとしたんだよね。なんか、全部自分でやらなくてよかったんだ、とか、もっと他の人を頼ってもよかったんだって。

 あ、もちろんやるべき仕事はきちっと――」

「忘れないよ」

 ぼそりと、瀬那がつぶやいた。

「あのとき私、力になれないどころかお荷物だったもんね」

「瀬那を責めてるわけじゃ、あ、他の人も……」

「結局アイカはいい子ちゃんだから、誰にだって優しいんだよ。例外なく私にだって」

 やさぐれきった瀬那を目の当たりにして、真正面を向いた。他人の視線が痛いとか関係ない。ちゃんと瀬那に向き合わなきゃいけないんだ。

「私、優しい?」

「さっきみたいに人の目を気にするところもあるんだろうけれど、それ抜きにしても」

「本当に誰にだって?」

「困っている人がいたら、放っておかないでしょ」

 うーん、実感が湧かないんだけれど。たぶん、瀬那が思っているほど、私は聖人君子じゃないと思う。

「たぶん私は、アイカの優しさを勘違いしてたんだろうね。アイカなら友達だから頼める。アイカなら友達だから助けてくれる。

 だったら、私が何をしても、アイカが守ってくれるって。

 そんなの、私の甘えとかエゴだった」

 力なく瀬那は笑う。乾いた笑いが、耳をつんざく。

「当たり前だよね。擁護できないレベルのことをしたんだから」

 瀬那はカッターナイフをゆっくりとあげた。

「友達だと思ってたけど、本当はそうじゃなかったのかもしれない」

 カッターナイフの刃が、瀬那の首筋に向けられる。

「ダメ!」

 無我夢中でかけだして、カッターナイフに手を伸ばした。

 千弦の消しゴムに刃を突き刺した犯人は、裏で千弦をあざ嗤っていると決めつけていた。でも違った。苦しんで悩んでどうしようもなくて、悪いことだとわかっててもやってしまって、きっと怖くて後悔しておびえてずっと助けを求めていたんだ。

 私はそんないい子じゃない。こんな悲劇を止められなかったんだから。

 はあっ! とありったけの声で叫んで、正拳突きをお見舞いした。当然、目と鼻の先で寸止めする。固まった瀬那の後ろから手が伸びて、すかさずカッターナイフが取り上げられる。そのまま制服のブレザーの襟をつかんで席の間になぎ倒した。

「私はね! 千弦と話したいから、千弦のことが好きだから、毎日千弦の席に行ってた。友達がいないとかかわいそうとかじゃなく、ただただ千弦と一緒にいたかっただけなの!」

 顔を背け出す瀬那に、襟をつかんだまま頭突きする勢いで顔を寄せる。「でもね、こっちだって瀬那と友達だと思ってた。いつまでも仲良くしたいと思ってた。瀬那のことだって好きだったよ!

 でもそんな風に自分を卑下する瀬那のこと大嫌い。誰かを傷つけたり悲しませたりして私との友情を確かめる瀬那のことはもっと嫌い!

 もっと言うと、そんなことでそのまま死んじゃえばいいと思っているような瀬那なんか大っ嫌いだー!」

 力いっぱい言い切って目を開けると、ごめんね、と瀬那の唇が動いた気がした。

 息が続くまで叫んだせいで、最後の方は息切れを起こして這いつくばった姿勢を維持するにも疲れ切ってしまった。瀬那と机の間の狭いスペースに体を転がして息を整える。だれかがやってきて、机や椅子を引いてスペースを広げてくれた。

 ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべて私を見下ろす美羽音に、あ、ごめん、と口を動かした。もちろん、美羽音のことも好きだ。友達として。

 なんか告白みたいになってしまって、急に顔がほてりだした。穴があったら入りたい。

 美羽音は、顔を隠した私を起こすと、冷たい目で瀬那を見下ろしていた。

 起きて起きて、と織田先生が私たちを起こしに来る。2人とも立ち上がったのを見て、織田先生は千弦を呼びつけた。千弦からカッターナイフを回収すると、瀬那を前に立たせる。

「申し訳ありませんでした」

 頭を下げる瀬那に「謝るだけで許されるわけではありません」と千弦は言い放った。

「弁償する」

「安い賠償ですね」

 さすがに言い過ぎ、と織田先生が千弦をたしなめる。

「ありがとう、千弦」

 千弦は首をかしげた。

「カッターナイフ抜いてくれて」

「さすがにあの状況で指を咥えて見ていられません」

「普通の人は逃げるって」

 あなたもやりすぎ、と織田先生から注意を受けた。でも、織田先生の顔は、少しほころんでいた。

 千弦が、私にぺこりと頭を下げた。

「私も、申し訳なかったと思います。あなたを踏み台にして真相を暴こうなんて」

「いいんだよ。友達なんだから」

 こう言った私は、次に瀬那に向き合った。

「ちゃんと反省して」

 こくりとうなずく。

「二度とこんなことしないと誓って。千弦も、この教室で安心して過ごせるように」

 瀬那は、深々と頭を下げた。「本当に申し訳ありませんでした」と言って、姿勢を起こす。不安そうにおびえた顔をする瀬那に、肩をたたいた。

「戻ってきてね」

 小さくうなずいた瀬那が、先生たちに連れられていく後ろ姿をいつまでも見守っていた。


 佳い愛とはなんだろう。

 人に優しくとか許すとか、いろいろあるのだと思う。

 でも、ピアノは鍵盤楽器にしか見えないのに、ピアノは弦楽器とか打楽器とか言われるように、一面的なものではないのだろう。

 後で千弦と一緒に見せてもらったピアノの内側は、金色に輝いていた。

 人の心は、ピアノの中身みたいに開けてみられるわけじゃない。思った通りの音色を奏でるとも限らない。

 でも、ピアノの音色をみんなで楽しむことができるように、言葉をくみ取って共感することはできるだろう。大丈夫、私たちには、ピアノの弦の本数以上に、愛を伝える方法があるのだから。

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ピアノは弦楽器 平野真咲 @HiranoShinnsaku

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