忘れられた初恋は偽りの婚約の上に咲く

清見ヶ原遊市

初恋は偽りの婚姻の上に咲く

「逃げるんだ、早く!」


 次の瞬間、どん、と強く突き飛ばされる。

 そして、真っ白な光に全て塗り潰された。

 覚えているのは流れるように揺れた黒い髪と赤い瞳。そして、一瞬だけ見えた、口元の笑み。

 他のことは、光と共に忘れてしまった。



   一


 その日は、雨宮安奈にとって、何の変哲もない日になるはずだった。

 いつもと同じように女学校に行き、退屈な授業と苦手な裁縫に勤しみ、仲の良い級友達と放課後にお喋りをして、本屋に寄り道して発売されたばかりの『少女新報』を買った。

 雑誌は通学鞄に入れて隠し、門限に余裕を持って帰宅する。

 そして、母に帰宅の挨拶をする。

 この挨拶を欠かすと、両親が自分のことを半狂乱になって探し始めるので、決して忘れないようにしている。

 夜になれば父が帰ってきて、入れ替わりに女中が帰り、母の作ってくれた食事を食べて。

 そのはずだったのに。


「……ごめんなさい、お父さん、もう一度言って?」


 テーブルクロスの上にソースのしみをつけながら鶏肉が転がっていったのにも気付かず、安奈はじっと父の顔を見る。


「だから、お前の結婚相手が決まったと言っているだろう」


 どうやら聞き間違いではなかったらしい、と安奈の顔がみるみるうちに蒼褪めていく。


「そんなの聞いてないっ!」

「当たり前だ、今初めて言ったのだからな」

「お、お母さんも、知って……」

「ええ、知ってるわよ」

「どうして私にだけ教えてくれなかったの!」

「言ったらお前、嫌がったに決まっているだろう」

「だって、私はまだ十四歳になったばっかりで……!」

「『もう』、十四歳だ。お母さんが十四歳のときは、しっかり花嫁修業をしていたぞ」

「あら、懐かしい話ね」

「お前にもお母さんのような淑女になってほしくて女学校に通わせているというのに、お前ときたら少女小説だの……」


 結婚の話が関係のない小言に逸れていきそうになり、安奈は慌てる。


「それは今はいいでしょ! そんなことよりっ、私は結婚なんかしないからね! 私には好きな人が……」

「黒い髪に赤い目の男、だろう。そんな異人みたいな者にお前をやるわけにはいかん。それに、その男がどこの誰か、お前は知らないのだろう?」

「う……」

「いつまでもそんな夢みたいな話をして、婚期を逃したらどうする」

「だ、だって……」

「だっても何もない」


 苛立った父と向き合い続けられず、安奈は俯く。

 確かに、安奈の好きな人は、初恋の相手は、黒い髪と赤い目ということしか分からない。

 どんな顔をしていたのか、どんな声だったか、いつ出会ったのか、何も思い出せない。

 それでもずっとその人を想ってきた。

 その人の髪の色と瞳の色を思い出すだけで心が熱くなるのだ。

 好きな色は黒と赤で、どんな持ち物にも黒と赤が入るようにしているのもそのためで。

 それほど好きなのに、夢みたいな話と言われると胸が苦しくなる。


「安奈、貴方の気持ちは分かるわ。お母さんも、お父さんと結婚すると聞かされたときには別の男の子に片思いしていたの。でも、私のお父さん……お前のお祖父ちゃん達と一緒に初めてお父さんとお会いして、何て素敵な方かしら、こんな方と結婚できるなんて素敵、と思ったのよ。貴方もきっとそうなるわ」

「ならないかもしれないじゃない……」


 自分の両親が、更に親同士が決めたとは言え、とても仲がいいことは知っている。

 だが、自分もそうなる、なんて簡単に言ってほしくない。


「お相手は黒髪の美男子だ、お前も気に入るだろう」

「黒髪だけじゃなくて……っ」

「お前が何と言おうと、これはもう決まったことだ。何せ、真野上子爵からのお申し入れだからな」

「し、子爵……? 華族様が、どうしてうちみたいな平民の家に結婚を申し込むの? そりゃ、私を女学校に行かせてくれるくらいだし、裕福な方だとは思うけど……」

「それはお父さんにも分からん。訊いてみたが、是非、と言われただけでな。だが、真野上子爵は、子爵とは言え皇族の方とまでお付き合いのあるお家柄だ。そことご縁ができれば、うちの商会にとってもありがたい話、ということになる」

「お父さんは、商会のために娘を結婚させるの!?」

「まさか。一番は、お前を是非に、と言われたからに決まっているだろう。いつまでも幻の初恋なぞ追いかけているお前の意思に任せていたら、永久にまとまらん」


 どうあがいても、父を翻意させることはできそうにない。

 安奈は唇を噛み締めた。


「そう思いつめた顔をするな。何も、今日明日に結婚するというわけではない。これから何年かは婚約者ということになる」

「あ……そ、そう、だよね、私、まだ結婚できる年じゃないし……」


 この時代、男性は十七歳、女性は十五歳にならないと結婚できない。

 そう考えれば、一年先送りにできる。

 その間に先方から断るように何とか考えるのだ。

 婚約者なら一旦は受けることを決意しかけた安奈だったが、


「ああ、先方もな。今年、十歳になられるから、あと七年は先だ」


と言われて眩暈がする。

 そして、


「絶対に! 結婚しないから!」


と叫ぶように宣言したのだった。



   二


 結婚しない、と宣言したにも関わらず。

 次の日曜日、安奈は父と共に真野上家のお屋敷を訪れていた。

 小石川にある真野上家の邸宅は、例えば前田侯爵邸だの細川侯爵邸のように圧倒されるというほどの大きさではないが、それでも風格を感じさせる洋館で、門の前から眺めるだけで緊張を覚えてしまう。

 自分の持っている中で一番高級な振袖を着せられてきたが、それでも見劣りしてしまいそうで。

 結婚しない、と言いながらも、年頃の娘としてそういう見栄えは気になって、襟をそっと整える。

 そのまま門の外で待っていると、洋館の中から執事と思われる、きちんとした身形の若い男性が現れ、門を開けた。


「ようこそいらっしゃいました。雨宮昌太郎様に、安奈お嬢様でございますね? 旦那様と桜真様がお待ちです。どうぞこちらへ」


 結婚相手のことなんて聞きたくない、と逃げ回っていた安奈は、初めて相手の名前が桜真だということを知る。

 安奈にとっては、どんな名前であろうと関係ないのだが。

 そう思っているのが顔に出ていたのか、父の手が男性に見えないように安奈の背を叩く。

 それでも笑うことすらできないまま、安奈は邸宅の中に入っていった。

 案内されたのは一階の客間で、


「お二人はこちらでお待ちです」


と言いながら使用人は扉を開ける。

 すると、中にいた二人の人物がすっと立ち上がった。


「おお、雨宮さん! お待ちしておりましたぞ!」

「真野上子爵、本日はお招きいただき、ありがとうございます」

「いやいや、本来なら結婚を申し込んだこちらがお伺いしなくてはいけないのですが、息子は少し、身体が弱いものですからな……」


 恰幅の良い男性が、父と握手をするのを安奈はぼんやりと眺めている。

 すると、父に向いていた視線が自分に移り、安奈の背筋が伸びた。


「初めまして、安奈さん。私が当主の真野上義人です」

「は、初めまして。雨宮安奈です」


 安奈がお辞儀をすると、真野上子爵は優し気な表情でうんうんと頷く。

 そして、隣りに大人しく立っている、明らかに幼い、尋常小学校の中学年くらいにしか見えない少年の背を軽く押すと


「こちらが息子の真野上桜真です」


と紹介した。


「初めまして。よろしくお願いします、安奈お姉さん」

「よ、よろしくお願いします……」


 にっこりと笑う顔は、とても利発そうで、十歳にしては落ち着きがある。

 光を吸い込むような黒髪は桜真が頭を下げるとさらりと流れて、確かに美男子、いや、美少年だった。

 紹介が終わると、四人はチェアに腰を下ろす。

 すると、


「失礼いたします」


と声がして、先ほど案内してくれた執事がそれを見計らっていたかのように入ってきた。

 彼は四人の前に、紅茶と茶菓子を供していく。

 茶菓子はショートケーキで、滅多に食べられない洋菓子に、安奈の視線がちらちらとそちらを向いてしまう。


「どうぞ、お召し上がりください」

「いただきます。ほら、安奈も」

「いただきます……!」


 ケーキを食べていると、真野上子爵は安奈に様々なことを問いかけてくる。

 女学校での生活や、得意科目。家では何をしているのかなど、安奈が答えやすいような内容を選んで質問してくれるおかげで、結婚を破談にしたくなるような態度を取らなくてはならないと思いながらもぺらぺらと口が止まらない。


「ほう、少女小説を。近頃流行っているようですねえ」

「浮ついてばかりで、お恥ずかしい。裁縫の腕はちっとも上がらないもので、何のために女学校にやったのやら……」

「いやいや、この年頃だからこそ楽しめることを大事にするのも、立派な勉強ですよ。そうだ、安奈さん。我が家の図書室にも、文学の本があるのですが、見ていきませんか」


 文学、と聞いて、安奈の目が輝く。

 少女小説でも良い顔をしない父の手前、もっと本が欲しいとは言えなかったのだ。


「真野上子爵、娘をそんなに甘やかしては……」

「いいではありませんか。我が家に嫁入りしたら知ることになるのですから、今からでも同じですよ」


 真野上子爵の言葉に、ここで図書室を見てしまうのは、また結婚に一歩進むことになるような気がして、安奈は迷う。

 だが、文学書を見たい、最近流行の作家のものがあったら嬉しい、という気持ちが抑えきれず、


「あの、図書室、見てみたいです……」


と頼むことを選んだ。


「ええ、どうぞ。桜真、案内してあげなさい」

「はい」


 静かに紅茶を飲んでいた桜真は、頷いてソーサーにカップを置く。

 そして先に立ち上がり、安奈の横に回り込むと、すっと手を差し出した。


「行きましょう、安奈お姉さん」


 小さくても紳士然とした振る舞いに、安奈は驚く。

 だが、ためらいながらも桜真の手を取って立ち上がると、彼はにっこりと笑った。

 そのまま二人で客間を出て、桜真の案内で図書室に向かう。

 邸宅の奥の扉の前で桜真は立ち止まると、


「ここが図書室ですよ」


と言って扉を押し開けた。

 一歩中に入れば、学校の図書室と変わらないほどの広さと本棚の数に、安奈は息を呑む。

 本の種類は様々で、歴史書もあれば辞典もあり、科学書、植物図鑑など最近出てきた学問の本もある。そして、文学書も、幾つもの本棚に並べられていた。


「すごい……」

「好きな作家の本は、ありますか?」

「ええ、この人と、この人……私、大好きなんです」

「そうなんですね。せっかくだから、読んでいってください」


 桜真は、安奈が好きだと言った作家の本を抜き取り、安奈に渡す。

 咄嗟に受け取ってしまったが、安奈を見上げて笑っている桜真と目を合わせると、悪いことをしている気持ちになって、安奈は本を桜真に返した。


「……読まないんですか?」

「だって、私、君とは結婚できませんから……。君はいいんですか? まだ十歳で、私と結婚する、って決められて……」

「僕は平気ですけど、安奈お姉さんは嫌なんですか?」

「嫌ですよ! ……あっ、あの、ごめんね、君が嫌、っていうことじゃなくて。私、他に好きな人がいて……だから、君から、断ってくれませんか?」


 安奈がそう言うと、桜真は少し俯く。

 何故か、その表情が見えない。

 桜真が黙っているのに、話し掛けてはいけないような気がして、安奈も黙る。

 そのまま、数秒か、数十秒が過ぎたのか。

 やがて唐突に桜真は顔を上げると、


「それはできねえな」


と言って安奈の肩を掴み、ぐっと引き寄せた。


「えっ……」


 ぐらりと身体が傾いた勢いで、桜真の顔が近づいてくる。

 そして、気が付けば、唇が触れ合っていた。

 

「……いやっ!」


 我に返って、安奈は桜真を突き飛ばす。

 桜真は一瞬よろけるが、すぐに体勢を立て直した。


「痴漢! 破廉恥! さいってい!」

「ああ、悪い悪い。でも、必要なことなんだよ」

「必要!? こ、こんなことして、もっとまともな言い訳……!」


 掴みかからんばかりの勢いで怒っていた安奈だったが、桜真の手の平が口元に伸びてきて言葉が途切れる。


「ちょっと待て。そろそろ始まるから」


 桜真は安奈の横を通り過ぎると、カーテンを引きちぎり、自分の身体に巻いた。


「君、何を……」

「いいから、見てろって」


 次の瞬間、カーテンの中の膨らみが、大きくなっていく。中性的なかわいらしさのあった桜真の顔も、徐々に怜悧な美しさのある、まさに美男子に相応しいものに変化して。

 どんどん桜真の目線が高くなり、身体に巻いたカーテンは床に広がらなくなる。

 急激に成長している、と気付き、安奈はその異常な光景に叫び声を上げそうになった。

 だが、それよりも早くカーテンの中から伸びてきた手が、安奈の口を塞ぐ。

 やがて、桜真の成長は、成人しているかしていないかという頃合いの青年の姿になったところで止まった。


「な、何なんですか、君……」


 安奈は、腰を抜かしてへたりこみながらも、桜真に尋ねる。


「十歳の真野上桜真は、仮の姿だ。俺の本当の名前は、真野上透真。今年、十九歳になる」

「真野上透真……って、あれ……?」

「お、知ってたか。まあ、新聞にも載ったしな。そう、四年前に死んだ真野上透真だよ」

「ゆ……幽霊?」

「いや、正真正銘生きてるぜ? とりあえず座るか、そんなとこじゃ、せっかくの振袖が皺だらけになるぞ」


 桜真、いや、透真は、安奈に手を差し伸べる。

 さっき差し出された子供の手とは全く違う、男の手に、安奈はどぎまぎしながらも手を重ねた。

 そして、本を見るために置かれていた席に、それぞれ座る。


「さて、どこから話すか……」

「さっきの、桜真君の姿は……何だったんですか。どうしてあんな姿で、私達を騙したんですか」

「騙したんじゃねえよ。分かった。どうして俺が桜真って名乗ってるか、そこから話そう。まず知ってほしいのは、真野上家ってのは東京を守護する家の一つだってことだ」

「守護……軍人さん、とかですか?」

「いや、霊的な話。祟りとか、呪いとか、そういうのから」


 はあ、と安奈は首を傾げる。

 いくら少女小説が好きと言っても、御伽噺と現実の区別くらいついている。

 祟りだの呪いだの、そんなものはあるはずがない。

 だが、安奈が首を傾げているのを気にも留めず、透真は話を続けていった。


「俺は真野上家の跡取りとして、十歳の頃から現場に出てた。自分で言うのも何だけど、そこそこ腕のいい術者だったと思うぜ。でも、それを面白く思わない奴がいたんだろうな。同業の家は幾つかあるし、同業じゃなくても、大人に混じって政府機関に出入りしてたせいで、気味悪く思われてたし。それで、十五歳のときに、呪いをかけられてな」

「それが、小さくなる呪いですか?」

「いや、本当は魂魄が砕けて死ぬ呪いだった。咄嗟に防御の術を使ったんだけど防ぎきれなくてさ、命を司る『魂』は守れたんだが、身体を司る『魄』にでかい傷を作っちまって、本来の年齢通りに身体を保てなくなった。……ついてきてるか?」

「えっと……難しい、です」

「つまりな、俺達の心と体は、『魂』と『魄』がそろっているから正しく成長し、正しく老いるんだ。今の俺は、その釣り合いが取れてねえ。『魂』は年齢通りだが、『魄』が壊れかけて……あー、鍋に水を注いでるのに、鍋に穴が空いて漏れてるみたいなもん、って言えば通じるか?」

「あ、はい、何となく……」

「それで、壊れかけた『魄』でも保てる姿を取ったら、十歳くらいの姿になったってことだ。まあ、俺を殺したいほど憎んでる奴が誰なのか分かんねえし、俺も『魂魄』……身体と心の釣り合いが合ってないせいかすぐに体調崩しちまうから、犯人捜しもなかなか進まない。だから、真野上透真は死んだってことにして、身体が弱くて静養地で育った第二子がいるって発表したんだ」


 信じられない。祟りも呪いも、あるはずがない。

 だが、現実に、桜真は透真として、安奈の目の前で成長した。

 だから透真の言うことが真実、なんて認めたくないのに、どんなからくりなのか、安奈には見破れない。

 安奈が言えたのは、


「それが、どうして……私と結婚、とか、そんな話になったんですか……」


ということだけだった。


「元々、あんたと俺の魂魄の相性がいいことは分かってた」

「えっ、どうして?」


 安奈が驚くと、今度は透真が首を傾げた。


「あんた、覚えてないのか? 俺とあんたは会ったことあるんだぜ? 真野上透真として、な」

「いつですか……?」


 記憶にない、と安奈が呟くと、透真は眉間に皺を寄せる。

 そして、


「内緒」


と言った。


「で、そのときに、相性がいいな、あんたの近くは居心地がいいな、って思ってた。で、その後に呪いを受けて今の姿になってさ。『魄』を補ってくれる人がいれば、一時的にでも元の姿に戻れる、そうしたら犯人探しができるって考えたときに思いついたのがあんただった。でも、あんたはそのとき、十歳だろ。子供にそんなことさせたら身体に悪影響がある。だから、昔の裳着……女の成人な、それを過ぎるのを待ってた」

「それで、結婚の申し込みをしたんですか……?」

「いや、それだけが理由じゃねえけどさ」


 透真は安奈の手を握り、にっと笑う。


「やっと、やっと動けるんだ。頼む、安奈。俺と結婚してくれ」

「そんな不純な理由、余計に嫌です……!」

「んー、断ってもいいけど、あんたは俺の、真野上家の秘密を知っちまったからな。これから普通に女学校に通えると思わない方がいいぜ」

「え、脅して……!?」

「悪いようにはしない。大事にするよ。な?」


 透真は安奈から目を逸らさない。

 自分の目的のために、愛情もないのに、安奈と結婚しようとしている。

 ひどい、と思うのに、何故かその目は優しく見えてしまった。


「……こ、婚約、です」

「ん?」

「婚約なら、します」

「ああ、そうだな。お互いにまだ結婚できないもんな。俺は桜真だし」

「で、でもっ、貴方の目的が果たされたら! そのときは、そちらが悪かったってことにして破談にしてもらいますからね!」

「はははっ、そんなに俺と結婚するのが嫌か」

「さっきも言いましたけど、私は好きな人がいますから!」

「それなら……俺もがんばらないとな」


 透真は握っていた安奈の手の甲に唇を落とす。


「ひゃ……っ!」

「よろしく、許嫁様」

「あ、よ、よろしくお願いします……」


 と、透真の手が、少しずつ小さくなっていく。腕も縮み、安奈に向かって伸ばしても届かなくなった。

 座高も低くなって、安奈の目の前で透真は最初に会った、桜真の姿に戻っていた。


「……あー、接吻一回だと、こんなもんか」

「も、もうしませんよ!」


 安奈が後ろに仰け反ると、桜真はくっと笑う。


「そんなこと言わないで、仲良くしましょうね、安奈お姉ちゃん」


 透真としての砕けた口調を隠して、いかにも躾けられたご令息という言い回しと笑顔を見せられ、安奈は頭が痛くなる。

 一瞬、桜真の目が赤くなったように見えたが、それは色々ありすぎて頭が混乱しているせいで見間違えたのだろう。

 もしくは、初恋の相手に縋りたい気持ちが見せた幻か。

 安奈は、ただ溜め息を吐くしかできなかった。

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