第2話

産まれてきた娘はあまりにも色が白く目がくりっとして可愛く足も長く利発そうだった。こう聞くととんでもない親バカのように聞こえるだろうが、全くその通りである。可愛くて可愛くて毎秒愛おしく、ずっとカメラを回して存在ごと記憶しておきたいほどに可愛かった。あまりの色の白さに『彼女は月光を思わせるから』という理由で私は「るな」と名付けた。その瞬間から私は元の名を捨て「るなちゃんのママ」となったのである。後に私を追い詰めるこの感覚が、その時の私にはただただ幸福だった。


医師が甚だ非常識といった感じでパンフレットを差し出す。「ヒトメタニューモウイルス」と大きく書いてあるそれを見て、なんだかアイドルのうちわに使うみたいなポップなフォントだなぁなどとぼんやり考えていた。黄色い歓声を上げるかわいい女の子たちが「ヒトメタニューモ」ってうちわを掲げたらこの先生、めっちゃ怒りそうやな。


「あのねぇお母さん、物を知らんにしても程がある。あんたがやってるのはテロみたいなもんです。あのね、この時期は流行ってるの毎年。こういうのが!こんな小さい子感染させて保育園までやって。もう若くないねんから頭使って考えて貰わんと。」と医者は捲し立てた。

あまりの勢いにハァとしか答えられなかった。建物出たら調剤薬局があるからねと言われたのをおもいだしてそこに向かう。人の良さそうなおじさんから「おっぱいで育ててるの?ウンいいね、おっぱいが1番だからねママの」と言われたのが若干キモかった。でも優しくしてくれたのはタイミング的にありがたかった。

貰った薬を抱えて帰路についた。帰りにスーパーマツモトで牛乳を買ったけど袋をもらうのも忘れて、調剤薬局の袋に一緒くたに入れてギチギチに帰った。


マンションのエレベーターが点検中だったことを忘れていた。たった3階上がるだけなのに悲鳴を上がる膝小僧がパキパキと悲鳴をあげる。整形外科に毎日ぐらい通ってるお隣の板垣さんが「膝がえらいねん、歳取るってほんま難儀やで」と言いながら膝をさする様子が思い浮かぶ。あかんあれ、他人事やないんかも知れへん。

牛乳をおっことしそうになりながらなんとか鍵をあける。ガチャガチャ、バタン。抱っこ紐の中でぐっすり眠っていた娘がドアの閉まる音で目覚めてグズる。最近マンマンマンと喃語でなにか訴えてくることが増えた。きっと彼女なりに何か伝えてくれているんだけど、私にはわかってあげられずいつも歯痒かった。今日もなにかわからず「どうしよう、ごめん ごめんね、眠かったね」と言って急いで抱っこ紐を外した。

外したと同時に抱えていた牛乳がごちゃんと音を立てて落ちた。

娘はグズリから号泣のフェーズへ移行、牛乳はひしゃげたところから私の足を経由してじわじわと玄関に白い地図を描いている。あっ、どうしよう靴下まで染みた。そうかこの靴つま先開いてるデザインやっけ。娘は反りかえって泣いている。ごめんね。どうしよう。置くに置けないし、上がるに上がれない。あっあかん。外にも漏れたりしてないかな。恥ずかしいな。てか下に水漏れしてへんかな。あかん反らんといて腱鞘炎痛い。どうしよう、どうしよう あかん涙出てきた。

私は声を上げて泣いた。

こんな時になぜか板垣さんが「はよ2人目産んでしまいや。」とお節介で言ってきたの思い出した。こんな状況でなんで余計辛くなる事思い出すんやろ、人間って不思議。白い地図にぷかぷか浮かんだ『ヒトメタニューモ』の浮かれたフォントが追い打ちをかけた。


娘を保育園に入れるか悩んで「どうしようかな」と夫に相談した時、同じくらい泣いた。「入れたかったら入れたら?」という返事からは『僕は当事者じゃない』という意思が明確に感じられてすごく寂しく悔しかったからだ。

悩んで悩んで決めるまで私はいっぱい泣いた。保育園に入ってやっと少し流す涙が減ると思ったのに。職場にもお医者さんにも保育園にも区役所にも娘にもいっぱい頭を下げて、なんでこんな謝ってばかりいるんだろう。もう謝るのいやだよぅ と大きい声を上げた。お隣さんおらんかったらいいなぁ ついでに下の人も。

いつのまにか娘は泣き止んでスヤスヤ眠っていた。私は靴下ごと靴を脱いで玄関マットに上陸することに成功した。牛乳は幸い半分も漏れてなかった。お薬は厚手の処方箋と書かれた紙の袋が守ってくれていて無事だった。私の涙だけが止めどなく流れていた。

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しか小児科医院 @midd1e221b

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