終章 紺屋の白袴

その後、千代は何もなく家に帰った。その後も普通に仕事をしていた夫の世話をして、いつも通り翌日の朝になったのであったが、いつも通り夫は、普通に仕事を始めたので、千代はまあ、これでいつも通り一日が始まってくれるのではないかと思った。いつもと変わらない朝。何もパットすることのない千代の毎日だけど、それでもその毎日が送れることに感謝しなければならないと、千代は思った。

それと同時に、千代のスマートフォンがなった。誰からだろうと思ったが、見たことのない番号である。見たことの無い番号には出ないようにしているのであるが、千代はなぜか電話に出てしまった。

「はい、もしもし、三浦でございますが?」

「三浦さんですか?三浦千代さん?」

なんだか曇ったような男性の声だった。

「あの、お宅様はどちらでしょうか?」

千代がすぐそう言うと、

「はい。野田愛永の兄の野田雅史と申します。」

「はあ、野田愛永さんにはお兄さんがいたんですか。」

千代は、思わず、そう言ってしまった。愛永さんは千代に自分が兄弟が居るなんて一言も話したことはなかった。まさかお兄さんが居るとは思わなかった。

「ええ。そういう事になっています。」

と、男性は言った。

「そうですか。それで、愛永さんのお兄さんが、私になんの用があって、お電話してきたのでしょうか?」

千代はそういう言い方に驚いて、そう言ってしまったのであるが、

「はい。実は愛永が、今日の未明に自殺で亡くなりました。遺書はありませんでしたが、警察は自殺と断定しました。愛永は、睡眠薬を大量に飲んで死んだんです。私達は、愛永を家族葬で送ろうかと思っていますが、一緒にお琴教室に通っていた方には知らせておいたほうがいいのではないかと思いましてね。」

愛永さんのお兄さんがそういった。

「それでは、愛永さんはなくなったというのですか?」

千代は大いに驚いてスマートフォンを落としそうになった。

「ええ。そういうことです。葬儀はこちらでやりますが、」

お兄さんはそう事務的に言った。

「ちょ、ちょっと待ってください。本当にそうなのでしょうか。だって昨日まで私は、愛永さんと一緒にいました、それなのに、自殺したんですか。そんな事、ありえることなんでしょうか。本当に、愛永さんは、死んでしまったんですか。もうこの世にはいないということですか。ちょっとまってください!」

千代は急いでというより戸惑いながらそういったのであるが、

「そう言われても本当にそうですので、こちらも言いようがないのですが、とにかく遺書も何も残していなかったので、愛永がどうして自殺したのか、こちらもわからないんですよ。全く、こちらも、困るんですよね。ああして、勝手に逝かれちゃ。我々家族には、いい迷惑ですよ。きっとあなたには綺麗事言って、私はもう終わりたいとか、そういう事を言ったと思いますが、本当は、愛永には生きていてもらいたかったな。」

と、愛永さんのお兄さんはそういう事を言った。

「それでは、愛永さんは、うつ病とか、そういうものにかかっていたんでしょうか?」

千代はそう聞いてしまう。

「愛永は、高校時代担任教師からえらくバカにされたことがありました。進学校だったのに、進学する意志を示さなかったから、というのが本人が話していた原因ですが、それから一度も働いたことがなくて、勝手に居心地が悪いと言って、昨年に家を出ていきました。家の近くのアパートに住んでいましたが、家賃などはこちらが負担しなければならなかったり、お医者さんの命令で、月に一度は僕や他の家族が、様子を見に行かなければならなくて。そんな事をしいられていたのですから、愛永もこっちの負担を考えてもらいたかったのに、全くこうなるわけですから。まあ、それでも良かったかもしれませんね。これでやっと気が楽になったのかも。そう思うしか無いですね。」

千代はこれを聞いて愛永さんがもう少しお兄さんの気持ちに気がついてくれれば、自殺なんてしなかったのではないかと思った。そういう家族が繋がっていることにもう少し、愛永さんが気がついてくれていれば。でも、大体の人はその事に気が付かないのである。

「まあとりあえず、愛永のことは報告だけしておきます。愛永に付き合ってくれてありがとうございました。」

「ちょっとまってください!」

電話を切ろうとした愛永さんのお兄さんに、千代は言った。

「私、信じられません。愛永さんが本当に自殺したなんて、そんな事。あの、今から、そちらに伺ってもよろしいでしょうか。葬儀場とか、教えてくれませんでしょうか?」

千代がそう言うと、愛永さんのお兄さんは、

「金華堂会館です。」

とだけ言った。

「わかりました。じゃあ、そういうことなら、私、すぐに向かいます。愛永さんにあわせてください!お願いします!」

千代は、愛永さんのお兄さんが何を言ったのか聞かないで、急いでスマートフォンの電話アプリを閉じた。そして、急いで黒い礼服を身に着けて、金華堂会館に向かって、車を飛ばしていった。

金華堂会館は、千代の家から数分のところにあった。千代は、急いで会館に飛び込んだが、香典も何も持って来なかったのに気がついた。というか、そういう事は関係なく、千代は愛永さんが本当に自殺したのか確かめたかった。かかりの人に、野田愛永さんの葬儀場は何処かと聞くと、近くにある小さな部屋に通された。最近は家族葬が多いから、こういう小さな部屋で間に合わせてしまうのだろうと思われたが、部屋のすみには愛永さんがにこやかに微笑む顔が掲載されていて、その下に白木でできたおかんがあった。千代は、愛永さんの顔を見ることはできなかった。それと同時に、一組の男女が、千代のもとにやってきた。多分愛永さんのお兄さんだろう。

「あの、愛永さんのお兄さんでしょうか?」

千代が聞くと、

「はい。もうまもなく僧侶様が来てくれるそうですが、なんでも電車が人身事故で遅れてしまっているようで。もう少し待ってくれと連絡がありました。」

と、愛永さんのお兄さんが言った。お兄さんもその奥さんも、愛永さんが死んでしまって悲しいというか、そういう態度は全く感じられなかった。

「そうですか、本葬儀が始まる前に、お線香でもあげさせてもらえないでしょうか?」

と、千代がそう言うと、愛永さんのお兄さんは、そうですねといった。多分、参列者など誰も来ないと思っていたのだろう。そんな顔だった。それと同時に、

「ああ、ここだここだ。金華堂っていうから無宗教で葬儀するのかと思ったけど、そうではないのかもね。」

「ええ、日本人は葬儀の時しか宗教感を持たないといいますが、もう少し、そういう事を考えてくれるといいですね。」

と言いながら、車椅子の男性と、外国人らしい男性が入ってきた。

「ああ、すみません。お香典はいらないと言っていましたが、それでも彼が、お線香でもあげさせてもらえないかというものですから、来てしまいました。増田呉服店の店主の増田カールと申します。こちらは、」

と、外国人の男性が言うと、

「カールさんの親友で愛永さんの親友の影山杉三です。よろしくお願いします。」

と、車椅子の男性が言った。

「本来は、磯野水穂さんも一緒に来たいと言っていましたが、彼の容態が芳しくないので見送りました。こちらは水穂さんが、ご家族にわたしてほしいそうです。または、お棺に入れてくださっても結構だと。」

カールさんは、そう言って、愛永さんのお兄さんに、花束を渡した。

「磯野水穂?それは誰ですか?」

愛永さんのお兄さんはびっくりした顔で言った。

「ええ、愛永さんが生前、世話をしていた方です。彼が、愛永さんの葬儀にぜひ出席したいと言っていましたが、今朝ちょっと体調が良くなかったので、代わりに花を持って言ったんです。愛永さんにおさめて頂きたいと。」

「愛永は、その人にどんなことをしていたんですか?」

お兄さんの奥さんがそういう事を言うと、

「ええ。彼に、ピアノレッスンを受けていました。一生懸命やっていたと思います。それを楽しみにやってきてくれていました。」

とカールさんは言った。

「そ、それで愛永は、レッスンをちゃんと受けていたんでしょうか。まさか迷惑をかけて居るのではないですか?」

愛永さんのお兄さんがそう言うと、

「いえ、迷惑をかけてはいませんでした。とても一生懸命やってくれていたよ。それは、そこにいる三浦千代さんも証人になってくれるんじゃないか。愛永さん、一生懸命やっててくれたよな。ちゃんと主張をしなければだめだぞ。でないと、愛永さんは迷惑をかけただけの存在になってしまうからね。」

と、杉ちゃんが言った。

「もうまもなく、別の証人もやってきますよ。なんだか東海道線が止まって居るようで、駅はてんてこ舞いになっていると今朝ニュースでやっていました。全く、近ごろのJRは、不祥事が多くて困りますな。」

と、カールさんが言うと、

「すみません遅くなりました。なんでも渋滞に引っかかってしまいましてね。最近は休日でなくても車の渋滞が、所々で起きていて困りますな。」

そう言いながら現れたのは、黒の紋付き羽織袴姿をしたおじいさんだった。千代は思わず、

「堀場さんではないですか!」

と言ってしまう。

「堀場?あの、石版印刷で有名な堀場さんですか?」

愛永さんのお兄さんが言うと、

「はい。その堀場です。いやあ、愛永さんがお亡くなりになったと聞いて、びっくりしました。残念ですね。若い人がなくなるというのは。本当に、彼女は昔ながらの、真面目な女性で、もう一度彼女にお会いしたかったですよ。こう言うと、語弊があるようですが、彼女の為なら、もっと博信堂の楽譜を刷りたかったですよ。」

と、堀場さんは言った。

「まあ、そんな高名な職人の方が、愛永とつながりがあったんですか、、、。」

お兄さんの奥さんが驚いた顔でいった。それと同時に、また小さな部屋のドアが開いた。そして紫の色無地の着物に、黒の名古屋帯を締めて、黒の帯揚げと帯締めをつけた、下村苑子さんがやってきた。

「苑子先生!」

千代が思わずそう言うと、

「この度は、本当にご愁傷様です。本当に何もできませんが、お収めください。」

と、苑子さんがそう言って、愛永さんのお兄さんに、不祝儀袋を渡した。

「家族葬なのでお香典はいらないと聞きましたが、それでは私の気持ちが収まりません。いらないのはわかりますけど、どうか受け取ってください。香典返しはいりません。」

と苑子さんは言った。

「そんな事言われても、本当に愛永はあなたのところに通っていたのですか?」

愛永さんのお兄さんは、驚いた顔でそうきくと、

「はい。私が、正当な山田流の楽譜である博信堂の楽譜を持ってきてくれと言ったら、愛永さんは、堀場さんに頼み込んで、印刷をさせてくれと言ったそうなんです。これまで私は、山田流というのは、少数流派で、今まで私のお教室には皆、宮城とか、澤井などと勘違いして入ってくるちゃらんぽらんな部員しか来ませんでした。だから私は、そういう若い人たちに、わざと苦労をさせるようにしています。ですが、愛永さんは違っていました。」

と、苑子さんはにこやかに笑った。こんな事を思っていたのかと千代は、苑子さんの気持ちを初めてしった。

「それで、私のところに来てくれたんですな。とてもいい感じのお嬢さんでした。なんだか昔いた、お嬢さんのような感じでした。今どきのお嬢さんは、あんな真面目な態度を取る人はいません。私はそれがとても印象に残りました。いやあ、いい子でした。もう一度彼女に会いたいです。」

堀場さんは年寄りらしく、いくつしむような目をして言った。

「そうだったんですか。愛永は、そんな事をしていたんですか。私が知っている愛永は、なんと言ったらいいか、なんだか反抗的で身勝手で、私が声をかけても、お兄さんを取ったとか、そういう事しか言わないという印象がありました。そんな子が、いい子だったと言えるでしょうか?本当に、堀場さんの言う通りだったんでしょうか?」

と、お兄さんの奥さんは、疑い深い目でそう言っている。

「いやいや、本当にいい子でしたよ。そんな反抗的で身勝手とかそんな事を連想させるような子ではありません。それは私が保証します。」

堀場さんがそう言うと、

「遅くなってしまってすみません。電車が止まっていて、遅くなりました。やっと運転再開して、こちらに来ることができました。ありがとうございます。」

と、若い男性の声がした。千代が入り口の方を見ると、また車椅子の男性が現れた。それに続いて、黒の紋付きに、黒の名古屋帯をつけた、岩原喜和子さんが現れる。

「まあ父が持たせてくれた喪服を早速使うことになるのは嫌だと思いましたけど、愛永さんをしっかり送ってあげたくて、着用しました。お坊様も、もうすぐ、見えるそうですよ。あと、30分くらいかな。」

千代は本当にびっくりした。

「それでは、これで全員揃ったことになるな。あとは、お坊さんが来てくれるのを待つだけだね。」

と、杉ちゃんに言われて、喜和子さんと苑子さんが、手早く参列者用の椅子を出した。

「ああ、ちなみに、参列者の追加料金は、払っておきますから気にしないでくださいね。」

喜和子さんに言われて愛永さんのお兄さん夫妻は、驚きを隠せないような顔をしていた。

「こんなに人を集められるくらいだから、本当は自殺しなくても良かったんじゃないですかね。愛永さん、悩んでいることを誰かに相談するとか、そういう事はしなかったんでしょうか。僕らが結婚するときは、あんなに世話を焼いてくれたのに、自分のことでは何もむとんちゃくだったんでしょうか?」

と、藤井正さんがそういい出した。

「そうですなあ。日本人は、口に出して他人に悩みを打ち明けるのが苦手な民族だっていいますからねえ。それに愛永さんは、その傾向が強い人だったと僕も思いますよ。だから、無理だったのかな?」

カールさんもそういった。

「本当は、自殺なんかするより、生きていてほしかったな。ほら、そうすれば堀場さんだって仕事が続くかもしれないし、苑子さんも、彼女にお琴を教えてあげられる仕事ができたと思うぞ。」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、

「そうね。とっても、悲しいわね。」

苑子さんが、がっかりした様子で言った。

「人の世話ばかりして、自分のことは後回し。紺屋の白袴か。まあ、彼女らしいわ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「ちょっと待ってください。愛永は確かに他人に対して優しい子ではあると思いましたが、わたしたちにはどんなに迷惑をかけてきたでしょうか。大暴れして、家具を壊したり、怪我をするまで頭を殴ったり。リストカットに、ガラスをわって大怪我したり。それらも他人の前ではすべて帳消しということになるのでしょうか?」

と、愛永さんのお兄さんが言った。そういうことがあったのなら、愛永さんは確かに精神が不安定だったのだろう。それは確かだ。だけど、そういう言い方はしてほしくないと千代は思った。そう言ってしまうと、愛永さんの成し遂げてきた偉業が全てなくなってしまうということになってしまう。それは、愛永さんが可哀想だった。

「いえ、そういうことも確かにあったかもしれませんが、愛永さんはとても素敵な、優しい方だったと思います。あたしは、彼女と一緒にお琴教室をやってきて、後悔したことは一度もありません。きっと、ご家族だから、愛永さんの事を客観的に見きれなかったんでしょう。それだけのことですよ。あたしも、そういう失敗は、よくやらかします。だから、残された人は、二度と同じことが怒らなくちゃならないように努力しなければいけないんです。」

千代は思わずそう言ってしまった。そんな言葉が自分の口から出てしまうなんて思ってもいなかったが、言うつもりはなくても人間は言ってしまうことがある。

「なるほどね。死んだ人々は帰ってこない以上、生き残った人々は何が分かればいいってのはこのことだ。」

と、杉ちゃんに言われて、千代は、改めて愛永さんの存在が大きくなっていたんだなということを知った。それと同時に、部屋のドアがまた開いて、

「遅くなって申し訳ありません。ただいまご住職が到着いたしました。本当に遅くなって申し訳ないということでした。」

と、係員が立派な袈裟を着た、お坊さんを三人連れてきた。

「あれ、お坊様はお一人だったはず、」

愛永さんのお兄さんの奥さんが言うと、

「ええ。私がお願いして、三人できてもらいました。愛永さんをちゃんとした形で送ってあげたかったから、そうしたんです。費用は私と、正で払いますから、気にしないでいいですよ。」

と、喜和子さんが言った。それから、お坊様がお経をあげてくれて、愛永さんの葬儀が開始されたのだった。みんな真剣な顔をしてお経を聞いている。千代はそんな愛永さんの遺影を眺めて、本当に彼女にはもう少しこの世にいてもらうという選択肢はなかったのかと思った。それを考えると思わず涙が出た。もちろん、そんな事したって愛永さんはもう帰ってこないけれど、それでもそう思ってしまうのだった。千代は、思わずお坊様のお経なんて聞くのも忘れて、幼児のように泣きじゃくってしまった。そんな彼女を、周りの人達は、誰も責めることはしなかった。お坊様たちは、お経を読むのを続けてくれていた。苑子さんが、泣いている千代に、そっとハンカチを貸してくれたが、千代はそれを受け取ることも忘れていた。なぜか涙が止まらなかった。理由なんてわからないけど涙が止まらなかった。

そのまま愛永さんの葬儀は予定通り行われた。もう梅雨も開けて夏が近づいてきている。何故か今日は本当に暑かった。まるで、愛永さんの熱意が気温になったのではないかと千代は思った。葬儀会館の外を、風がサーッと吹いて、ちょっと入り口のドアを揺らして、遠ざかっていった。

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ならず者 増田朋美 @masubuchi4996

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