第八章 できないこと
その日、愛永さんと千代は、自信を持ってお琴教室に行った。先日刷ってもらった博信堂の楽譜を持って。苑子さんは、その楽譜を持っていったのを、当然のような顔をして受け止めた。
「どうですか?苑子さん石版印刷は、パソコンなんかでする印刷より、ずっときれいにできるでしょ?」
愛永さんは得意げだった。
「そうね。これではね。」
苑子さんは、大きなため息をついた。
「それでも、堀場さんが、引き受けてくれたとは、すごいことだわ。」
ということは、堀場さんのことを苑子さんは知っていたのだろうか?
「知っていたんですか?苑子先生、堀場さんのこと。」
愛永さんがそうきくと、
「ええ。以前、楽譜の印刷をお願いしたことがあって。あのときは、堀場さんも、職人気質で、すぐに納得してはくれませんでした。だから、今になって、堀場さんが、印刷を了解したって聞いたのでびっくりしましたわ。」
苑子さんはそう答えた。
「そうなのね。きっと、一般的な印刷の仕事を全部パソコンに取られてしまったから、それでやってくれたんだと思うわ。日本の伝統はみんなそうよね。何処か西洋的なものを取り入れないと、伝統の仕事はやっていけないわ。だから、それを拒否して生きるなんて、そういう事はよほど偉い人でない限り、できないわよね。」
愛永さんはそう得意げに言った。
「だから、あたしたちにみたいに正式な仕事を頼めば、喜んでやってくれるのよ。皆そうじゃないの、着物にしろ、琴にしろ、楽譜の販売にしても、印刷にしても。」
「そうなのね。私達がしていることは、たしかに古いことかもしれないけど、それでも正当な伝統を保持していくためには大切なことなのよ。それは、楽譜を印刷させるだけではないわ。演奏も、着物もなんでもね。無理やり西洋化させるのでは、伝統がなくなってしまうでしょ。それは私、どうしてもやりたくないのよ。」
苑子さんは、やっと自分が持っている本音の部分を話してくれた。千代は、そんな事を苑子さんが考えていたということを、初めて知った。千代には、伝統を守るとかそういう事にかこつけてわがままを言っている音楽家としか見れなかったのであるが、本当は苑子さんはそうでなかったのかもしれない。
「それでは、他の楽譜も、刷ってもらうことにしましょうか。そうやって、堀場さんを説得できちゃうんだから、今の若い人は、話をするのが上手なんですね。それは、私も知りませんでした。改めて、感動したわ。ありがとう。」
苑子さんはそういうこといったのだった。千代は一瞬ぽかんとしてしまう。
「ありがとうって、あたしはただ、伝統がなくならないようにいろんなところへ行っているだけですよ。それに、伝統がなくなってしまうのは、あたしたちも、寂しいですし。それに伝統がただの安っぽいものに変わってしまっては、私も嫌ですわ。だから、そうならないように、あたしも活動していきたいと思っているんです。どうか、苑子さんの仲間にしてください。」
愛永さんは、にこやかに言った。苑子さんは、硬かった表情を和らげて、
「そうね。あなた達が、生半可な気持ちでお琴を習いたくないっていうこともわかったわ。私、正直に言ったら、あなた達のことを疑っていたの。ピアノなんかやっているから、それにかこつけて、この教室を潰そうとでもしているのではないかって。偶に居るのよ、そういう洋楽上がりで、邦楽を潰そうとしている作曲家とか、演奏家。」
と言ってくれたのであった。千代も愛永さんもやっと苑子さんの門下として認められたんだという気持ちになった。
「はい、次にコピーしてほしい楽譜が出たら、何でも言ってくれって、堀場さんが言っていました。だから、それをお渡しいただければ、あたしたちじゃんじゃん注文しますから。嬉しいですね。人の出会いって。」
愛永さんはそういう事を言うのだった。千代は、本当にそれでいいのかと疑問が残ったが、愛永さんは一生懸命それをやろうとしているのだった。だから、愛永さんの事を応援してやりたいと思うのだった。
「じゃあ、お稽古始めましょう。末の契、まずは歌無しで、手を動かしてもらうことから始めて。」
「はい。」
苑子さんに言われて二人はお琴の前に座った。そして苑子さんに言われた通りに演奏を始めた。博信堂の楽譜が手に入ってくれたお陰で、苑子さんは終始穏やかだった。今までのようにきつい表情を見せたこともない。何だ、意外に単純な人なんだと思われるが、伝統を守るということは、そういう単純なことが、できないことから怒りが生じるのかもしれなかった。
末の契をを何回か繰り返して練習し、お稽古時間である一時間はすぐに過ぎてしまった。
「はい、本日のお稽古はここまで。じゃあ次回は歌を付けて、末の契をやりましょうね。できれば、分かる範囲でいいですから、予習をしてきてください。」
苑子さんに言われて、千代も愛永さんも、ありがとうと頭を下げた。
「じゃあ、次回もよろしくね。」
と苑子さんの顔は穏やかだった。
「今日は、ピアノのお稽古にも行くの?」
苑子さんに言われて、愛永さんも千代もびっくりしてしまった。
「はい。これからそこへよっていくつもりです。」
愛永さんが答えると、
「そうなの。頑張ってね。」
苑子さんはにこやかに笑っていった。千代も愛永さんも、力が抜けたような感じになって、お琴教室をあとにした。
愛永さんに、今日はよっていく?と言われて千代はええ、よってきますと言った。本来は出かける気持ちはなかったのであるが、何故か行こうという気持ちにさせられてしまった。二人は、富士駅でバスを降りて、富士山エコトピア行のバスに乗り換えて、製鉄所に向かった。
その、製鉄所では。
水穂さんが、またえらく咳き込んでいて、杉ちゃんに背中を叩いてもらったりしていたところだった。咳き込むとその拍子に内容物も出るのであった。それは朱肉のように真っ赤であり、臭い魚のような生臭い感じがした。そんな水穂さんを世話してあげられるのは、もしかして杉ちゃんだけなのかもしれなかった。杉ちゃんが馬鹿な真似はよせとか、そういう事を言いながら、水穂さんの背中を叩いたり、薬を飲ませてやったりしているが、何十人もの家政婦が、水穂さんに音を上げてやめてしまっているということもまた事実だった。
「もう、季節が変わるとか、そうなるといつもこれなんだよな。なんでこんな大掛かりな発作が起こるか知ってるか?僕、知ってるんだぜ。ご飯を食べないからでしょ。今日何を食べたか言ってみようか。たくあん一切れと、お茶を飲んだだけだろ。そうじゃなくて、ちゃんと朝昼晩と三食食べていれば、こんなことにはならん。」
杉ちゃんに言われて、水穂さんはごめんなさいといった。
「あやまんなくていい!それより、ご飯を食べることのほうが大事なんだ!」
思わず杉ちゃんがそう言うと、水穂さんはまた咳き込んでしまった。そう考えると、水穂さんの状況はかなり深刻なのかもしれないと思った。
それと同時に、
「こんにちは、水穂先生いらっしゃいますか。今日も、レッスンにこさせてもらいましたよ。」
と、愛永さんが入り口のドアをガラッと開けた。水穂さんは咳き込んでいて、返事をすることはできなかった。
「ああごめんねえ、ご覧の通り、こうなっちまってさあ、レッスンは、また良くなってからにしてくれ。」
杉ちゃんに言われて、愛永さんも千代もびっくりした。
「お医者さまには見せたんですか?」
千代は思わず聞いてしまう。
「ああ、まあ、医者なんて、どうせ役には立たんよ。医者なんてさ、目を吊り上げて、自分のことばっかり考えているでしょ。そんな人に、水穂さんを見てもらいたくないね。」
杉ちゃんがそう言って即答した。
「どうして見せられないんですか?」
思わずそう言ってしまうと、
「この銘仙の着物着てればバレバレだろ。銘仙なんてそういうものだよ。だからみんなただの室内着としかみなさないでしょ。他の着物にしてみたらと言ってくれる人もいたけれど、まあ、それをした上で身分がバレたときのつらい思いをするのなら、始めから銘仙を着ていた方がいいって、こいつがいうからさ、その通りにさせてやってるわけ。だけど、なくならないね。人種差別ってのは。銘仙の着物を着ていようといなくとも、起きちゃうんだよな。」
杉ちゃんがすぐ言った。杉ちゃんの言う通りなんだと思う。確かに、人種差別はいつの時代にもあるし、何処の国家にもあるだろう。それは間違いなく差別された本人でしかわからない苦しみでもある。
「そうなんですか。一見すると、すごくきれいな着物のように見えるけど、そういうことでも無いんですね。」
千代は、杉ちゃんにいうと、
「ああ、きれいだと思ったらいけないよ。そうなるとお前さんも、つらい思いをすることになるから。それはしたくないでしょ。もうそうなっちまうんだから、やたらと近づかない方がいい。」
杉ちゃんはすぐに答えた。
「そういうわけで、医者とか、そういう人は、こういう人間の苦しみなど、考えちゃいないさ。きっと、銘仙の着物を着ているやつを診察したというとで自分の名前に傷がつくとか、そういう事言うんだろうよ。だから、そういうことには触れさせたくないわけ。わかってくれるよな。悪いけどレッスンは本日は諦めて帰ってくれ。」
「そういうわけには行きません!」
不意に愛永さんがでかい声で言った。
「はあ、どういうことだ?」
と杉ちゃんが言った。
「それなら、あたしが医者に連れていきます。杉ちゃんたちが、そうやって水穂さんを医者に見せることを拒否するならあたしが連れていきます!あたしだったら、口のうまさには自信があるから、それで医者を説得して、水穂さんを見てもらうことにします!」
愛永さんは自身のある顔でそういう事を言った。
「口のうまさには自身があるっていいますけどね、あんた。どうせすごいことをやっている医者なんて、周りからすごいすごいって言われ続けていて、もう得意になって弱いやつのことなんて見ないよ。だから、水穂さんを見てもらおうなんてできるわけ無いじゃないか。どうせ救急車で病院に運んだってね、銘仙の着物を着ているからといって、他のところに行ってくれって言われて追い出されるのが落ちに決まってるさ。女中さんを、何回も雇ったりもしたけどさあ。水穂さんが大変すぎると行ってやめちゃうんだ。長く持って、一ヶ月。まあ医者に見せるのは無理だね。」
杉ちゃんはそういったのであるが、
「いいえ。あたしが、連れてきます。ここへ来てもらうように、あたしが説得します。だから落ち込まないでください。大丈夫ですよ。患者さんは医者に見てもらう権利があるんですから。それを主張すれば、絶対見てもらうようになります。先程も行った通り私は、口のうまさでは誰にも負けませんから!」
と愛永さんは主張した。その主張の仕方が、なんだかまた変わっているような気がして千代は不安になった。
「あたしの家の近所に、有名な開業医があるから、そこへ行って水穂さんを見てもらうように頼んできます。しばらくお待ち下さい。」
愛永さんはそう言ってもう出かける支度を始めてしまった。千代も愛永さんが心配だったので一緒についていくことにした。
二人はまたタクシーに乗って、今度は、三田村クリニックという呼吸器内科のクリニックに連れて行ってもらった。そのクリニックは、たしかに腕の良い医者がいるという感じがした。規模こそ大きくないが、病院はきちんと掃除が行き届いているし、バリアーフリーの設備もちゃんとしている。ということはつまり、儲かっている証拠だと言うことだ。
そのクリニックの前でタクシーは止まった。愛永さんと千代は何の迷いもなくそのクリニックに入った。千代はまっすぐ受付へいき、三田村先生にあわせてもらえないでしょうかといった。
「先生は只今診察中なんですがね。」
と受付はいうが、
「それはどのような患者さんですか。どうせただの開業医だし、単なる風邪だとか疲れだとかそういうことしか見てないでしょ。だったら、もっと大変な患者さんが一人おりますので、その人のところまで来てほしいと三田村先生に言ってください。お願いします。」
愛永さんは堂々と一礼した。着物を着ているので、愛永さんの態度はすごく大きな態度であるように見えた。
「ええ、じゃあ、もう少し待ってください。そうしたら呼び出ししますから。」
「それでは、五分だけお待ちしますから、なるべく早くしてくださいね。」
愛永さんは、そう言って待合室の椅子に座った。千代も小さくなって、愛永さんの隣に座った。
五分くらいして、診察室のドアがガチャリと開いた。そしてまだ若いけど、なんだか格好つけているような女性医師が、二人の前に現れた。
「三田村先生ですね。至急見てほしい患者さんがいますので、一緒に来ていただきたいんです。」
愛永さんは単刀直入に言った。
「はあそれは、どんな患者さんなんですか?」
三田村先生はすぐに言った。
「ええ、ピアノを職業にしている方で、とても美しい心を持った方です。あたしたちは、彼のことを一日でも早く良くなってほしいと思っていますし、彼の仲間を彼を必要としています。だから、彼のことを見ていただきたいんです。お願いします、三田村先生。」
愛永さんがそう言うと、
「あなた達、一体何処からきたの?」
と、三田村先生は言った。
「何処からって、あたしたちは、富士市内に住んでいますけど。」
愛永さんが答えると、
「着物着て、そうやって診察を懇願するような人たちでは、ろくな事無いでしょう。見ればすぐに分かるわ。そういう人は、わたしたちがやっている、西洋医学の恩恵に預かっていなければ行けない年齢でありながら、それをばかにするようなことを散々言ってきた。そういう人に悪いけど私は関わりたくないわね。多分、その人だってあなた方が連れてくるのであれば、たいしたことないでしょう。悪いけど他を当たってもらえないかしら。」
と三田村先生は言った。
「そんな事ありません。私達は、着物を着ては居るけれど、西洋医学の事は十二分に尊敬しています。だから、彼の事を三田村先生に見ていただきたいんです。」
愛永さんがもう一度いうと、
「そうね。あなた達が、もう少し、伝統の紐を緩めてくれたら行ってあげてもいいわ。どうせ、着物着て、格好つけているようでは、何もたいしたことないわよ。ただ、伝統は大事にしたいとかそういうこと言って、結局西洋文化を否定しているだけでしょ。そういう人たちを患者としてみるのは私は好きじゃないのよ。医者なんていくらでも居るじゃないの、私でなくたって、医者はいっぱいいるわ。だから、そういう情け深い人を探して、その人を見てもらえばいいわ。私は、悪いけど、そういう人とは関わりたくありませんから。それでは。」
と、三田村先生はそう言って、診察室に戻ってしまった。愛永さんはちょっとまってください、と言って、三田村先生を追いかけようとしたが、
「愛永さん。私達、本当にならず者だと思われてしまうわ。着物を着るって、そういうイメージ持っている人は意外に多いのよ!」
と千代は愛永さんを止めた。
「そうかも知れないけど、人の命の話よ!」
愛永さんがそう言うが、
「でも、そうとも限らないわ。今日は諦めたほうがいい。私達のイメージが悪いことにならないようにするために。」
千代は、愛永さんにいったのだった。そして千代は、何するのよと言っている愛永さんの手を引っ張って病院を出て、すぐにタクシーで製鉄所に戻った。なぜか千代にはそれができたのであった。なぜか知らないけどできたのであった。
二人が戻ってくると杉ちゃんが出迎えた。
「やあどうもありがとうね。やっぱり馬鹿にされちまったかい。水穂さんなら薬を飲んで眠ってもらったから大丈夫だ。まあ、そういうことだから、今日は悪かったね。」
「でも根本的な、」
愛永さんがいいかけると、
「ええ、人間の人生なんてそんなものじゃないですか。本当にごめんなさい。役に立たなくて。」
千代はそういって頭を下げた。愛永さんはなんてことを言うのかと言う感じの顔で千代を見る。
「まあそういうもんだからね、いずれにしても、水穂さんを最新鋭の医学でどうのなんて無理な話だ。まあ今回は、この程度で済んでくれてよかったよ。前には、こっちへ脅迫状をよこした医者だっていたからな。まあ、この事は忘れてくれや。」
杉ちゃんは、できるだけにこやかにそういうのであるが、
「どうしてそういう事を言うの?あたしは、口のうまさには自信があったのに。」
と、愛永さんは言う。
「確かに愛永さんは口がうまいというか、外部との交渉は上手だったと思うわ。でも、あなたがうまく交渉できたのは、もう廃業になってしまいそうな分野だけ。今現役で必要とされている分野では、あなたはただ感情で押し通している女にしか見えないでしょうね。」
と千代は、愛永さんに向かって思わずそう言ってしまった。千代はあとになって振り返ってみても、なんで愛永さんにこんなセリフをいったのかわからないのだった。でも、千代はたしかにそう言ってしまった。それはなぜなのだろう?
「そうなのね。」
愛永さんは小さな声で言った。
「まあとにかくな。水穂さんは、眠ってくれたし、こっちはこっちでちゃんとやるから、今日のところは。」
と杉ちゃんに言われて千代は、
「言われなくてもそうさせていただきます。」
と言った。そして自分のスマートフォンでタクシーを呼び出し、愛永さんをタクシーに無理やり乗せ、富士駅まで送り届けてもらった。愛永さんを富士駅の敷地内で下ろすと、千代は彼女の方なんか振り向きもしないで、急いで帰ってしまった。なんでそういう事をしたのか、千代は未だにわからないのだが、そういう事をしてしまったのだ。それはいけないことであっても、それをしてしまうのだった。
タクシーは黙って大通りを走り続けた。千代は後を振り向くことは絶対にしなかった。
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