第七章 楽譜を作る

その日は、いつもと変わらずにお琴教室が行われた。その日もいつもと変わらずに、愛永さんも千代もお稽古をして、今日も終了と思ったのであるが、

「次回は、六段の調べはだいぶできるようになったから、新しい曲にしましょうね。曲のタイトルは、末の契という曲にしましょう。もちろん博信堂の楽譜でやるのよ。それでは、次回までに末の契の楽譜を用意しておいてください。」

と、苑子さんは言った。千代も、愛永さんも嫌な顔をする。

「そうですか。またお琴屋さんと、喧嘩をしなければならないわね。」

愛永さんがそういう事を言った。確かに、彼女の言う通りなのである。だって六段の調べを入手するときだって、お琴屋さんとガチンコバトルを繰り広げてしまって、正直言うと千代は、もうお琴屋さんに行く気がしなかったのだった。

「まあ、お琴屋さんと喧嘩をしたと言っても、正当な琴の楽譜を探し求めているといえば、出してくれるはずよ。」

と、苑子さんは言うのであるが、そのようなことができれば、苦労はしないはずである。

「苑子先生、記憶力悪いんですか?六段の調べを買ったとき、すごい喧嘩をしたの、私いいましたよね。それをどうして忘れちゃったんです?その時は、生田流の楽譜を買って我慢してくれと言われたんですよ。それだって、ちゃんと私はお伝えしたはずですが。そういうことなら、生田流の楽譜を買ってくるしか方法はありませんよ。」

愛永さんがそう言ってくれるのはありがたいが、千代は、苑子さんがまたきついことを言うのではないかと思った。

「その正当な山田流の楽譜を買ってくるのも、大事な勉強でもあるのよ。それを守らないと、お琴教室に来てもらっては困るわ。」

「でも、出版社が廃業されているっていうんだったら、もうどうしようもないじゃないですか。いくら欲しいほしいと言っても、出版社で製造してないというか、出版社が存在しないわけですから、無理ですよ。」

苑子さんに言われて、千代は思わず言ってしまった。苑子さんは、

「二人あわせて、私に反抗するのかしら?」

というので、

「反抗じゃありません。ちゃんとお琴を学んで見たいからこそ、お琴屋さんと喧嘩をするんじゃありませんか。だけど、お琴屋さんと喧嘩をして、こいつは嫌な客だと思われるのもまた嫌ですよ。」

と千代は言った。

「でも、必要な物は、必要なのよ。生田流の澤井箏曲学院とか、そういうものと、対抗しようというのであれば、正当な楽譜でなければ対抗できません。」

苑子さんは、そう主張するのであるが、たしかに苑子さんの主張もわかる。山田流というとどうしても少数流派だし、生田流にバカにされていることもあるだろう。それに生田流の澤井箏曲学院のようなところは、まるでショスタコーヴィチのような曲を演奏して、山田流の生徒をぶんどってしまうという話だから、そういうところに対抗するには、正当な古典の楽譜がほしいというのもわかる。だけど、博信堂の楽譜は、もう廃業してしまっているので、どんな手を使っても手に入らないのだ。

「そうかも知れないですけど、わたしたちには手に入りませんよ。野田さんが、メルカリのようなところで買ってくれるにしても、それだって限界があるし。全部の譜面を用意することは出来ないでしょう?もう、博信堂の楽譜のことは、諦めたほうがいいって、お琴屋さんも言ってますよ。」

千代は、苑子さんの言葉に頭に来て、思わずそう言ってしまうのであったが、

「そういうことなら、苑子さんが持っている楽譜を、印刷屋さんへ持っていって、わたしたちに配るのはどうかしら。」

と、愛永さんが言った。

「ちょっと待って。愛永さん。それは、著作権の問題があるわ。コピーすることは、クラシックの曲であってもできないでしょうに。」

千代がそう言うと、

「それでも、お琴屋さんと無いものを巡って喧嘩をするよりはいいわ。それなら苑子さんの楽譜を貸してください。それで私、印刷所へ持っていきます。」

愛永さんの発言はきつかった。

「印刷所って、誰か知り合いでも居るの?」

苑子さんはすぐに聞いた。

「知り合いはいません。でも、そういう事情があるって説明すれば、すぐにやってくれるはずです。」

「でも愛永さん、パソコンでやればいいとか、そういう事を言われても仕方ないんじゃないですか?印刷屋さんだって、たった二部しかすらないのであれば、儲からないじゃない。」

千代は心配な顔をしてそう言うが、

「大丈夫。あたしたちは、日本の伝統がいかに需要がないかよく知ってる。それは琴を入手したときも、着物を入手したときもよくわかってるわ。だから、印刷屋さんだって、そういう印刷屋さんを通せばやってくれるわ。」

と、愛永さんは言った。

「そういう印刷屋さんって、何処にあるっていうの。今の時代は、印刷業といえば、パソコンで何でもやれる時代よ。印刷と、着物や琴とは違うわ。」

千代が言うと、

「大丈夫よ、昔のやり方でやっている印刷屋さんを探せば。昔ながらの石版印刷をやっている事業所を探せばいいのよ。」

愛永さんはそういうのだった。

「石版印刷?そんなの、昭和の中頃でなくなっているじゃない。」

千代は大いに驚いてしまった。

「そうかしら?需要は確かに無いかもしれないけど、それを守ろうという芸術家は居るし、ただ実用的な印刷に使用されてないだけのことよ。そういう人のためにまだ稼働している印刷屋さんは絶対あるわ。そういうところを探してやってもらえばそれでいいの。」

「でもそれは手作業だし、えらく時間もお金もかかるのでは?」

愛永さんの発言に千代はそう言うが、愛永さんは大丈夫だといった。お琴を買ったときも、着物を買ったときも、需要が無いので、安く買えるということを知っているから大丈夫だという。

「お願いです。できるだけ早く刷ってもらいますから、末の契の楽譜を貸してください。よろしくお願いします。」

愛永さんが頭を下げると、苑子さんは、

「そうですね。できるもんならしてみなさいよ。」

と言った。その言い方が苑子さんもそういう事は経験しているのではないかと思われるような言い方だった。それでも苑子さんは、末の契と書かれた博信堂の楽譜を貸してくれた。

「じゃあ、コピーができたら、お返ししますから、ありがとうございます。」

愛永さんはにこやかに笑ってそれを受け取った。

「このまま、その印刷屋によっていくわ。ちょっと遠いけれど、観光気分で行ってきます!」

愛永さんはにこやかに笑って、お稽古場を出ていった。千代はびっくりしながら、愛永さんのあとをついて、コミュニティセンターを出た。

「あなたも一緒に行きます?千代さん。」

愛永さんはそういった。千代は心配で仕方なかったので、

「お邪魔でなければ、ご一緒するわ。」

と言った。

「そう、じゃあね、それならタクシーで行ったほうがいいわね。バスは、あまり大人数で乗るとちょっと変な顔をされるから、それならタクシーのほうがいいわね。」

と愛永さんは急いで、スマートフォンを出して、タクシー会社に電話した。

「すぐに来てくれるそうだから、それで一緒に行きましょう。」

「何処にあるんですか?その印刷会社は?」

千代は思わず愛永さんに聞くと、

「ええ、ただの中小企業に毛が生えたような感じのところで、印刷会社というより、普通の家という感じだけどね。まあ、機械を使わないで、手作業でやるから、工場って感じじゃないわね。」

という答えが返ってきた。

「何ていう会社?」

千代が聞くと、

「ええ。堀場リトグラフ研究所というそうよ。」

と返ってきた。千代は自分のスマートフォンで堀場リトグラフ研究所と入れてみると、確かに出てきた。なんでも、神谷というところにあるらしい。それではここからタクシーで、30分以上かかるじゃないかと千代は言おうとするが、それと同時にタクシーがやってきて、二人の前に止まった。愛永さんはすぐにそれに乗った。千代も続いてそれに乗った。愛永さんが堀場リトグラフ研究所に行きたいというと、運転手はハイわかりましたと言って、タクシーは動き始めた。

確かに、タクシーで30分以上かかった。タクシーの中には、冷房が効きすぎていて、千代は眠りたいと思ってしまうほどだった。ちょっとこっくりとしていると、

「ほらついたわよ。堀場リトグラフ研究所。」

と愛永さんの声が聞こえた。タクシーは一軒の家の前で止まった。確かに、印刷会社という雰囲気は感じられず、まるで個人の家のような感じの建物であるが、それでも堀場という表札の隣に、堀場リトグラフ研究所と書いてある小さな看板が見えた。愛永さんが帰りも乗せてくれと言ってタクシーにお金を払うと、タクシーは領収書に書いてある電話番号に電話してくださいといって、その場を離れていった。

愛永さんは、何も迷いもなく、堀場リトグラフ研究所と書いてある看板近くのインターフォンを押した。

「こんにちは。あの、野田というものです。この前お宅に電話しました、野田です。今日は、私の相方である、三浦千代さんも一緒です。開けてもらえませんか?」

愛永さんがそう言うと、

「ちょっとお待ち下さい。」

という声がした。そして、玄関のドアがガチャンと音を立てて開いた。

「あの、堀場さんでいらっしゃいますよね。堀場学さん。今日は、楽譜の印刷をお願いしたくて参りました。ちょっとお話をさせてもらえないでしょうか?」

愛永さんはすぐに言った。

「ええ、たしかに堀場は私ですが、、、。」

そう応答してくれた男性は、確かに職人気質の顔つきをしているのだけど、もう80を超えているおじいさんだった。

「それならなお、好都合ですわ。石版印刷で、この末の契という曲のコピーを作ってください。」

愛永さんは単刀直入に言った。

「楽譜のコピー?そんなものをわざわざここに頼まなくてもいいのに。そんな事、パソコンでできるのではないですか?」

と堀場さんは言うのであるが、

「ええ。ですが、多分、こういう高度な技術を持っているところでないと、お琴の先生が納得してくれないんです。だから、作って頂きたいんです。」

と、愛永さんは言った。

「そうでもねえ、わざわざ石版印刷に頼らなくても。もう石板印刷で本を作ったり、楽譜を作ったりする時代は終わりました。もう、パソコンというものがあって、印刷屋に頼らなくても、パソコンでできるじゃないですか。そういうわけだから、もう石版印刷なんて必要ないんですよ。」

堀場さんは、そういうのであるが、

「ええ、それはわかります。でも、大手の印刷屋さんなんて、こんな個人的なお願いは頼めないって、言うに決まってますよ。私も、大手の印刷屋さんに電話もしたこともありますが、メール一つ返してくださいませんでした。だから、こういう中小企業のような印刷屋さんに頼むしか無いんです。」

と愛永さんは続けた。

「しかし、何の楽譜を作るというわけですか?ピアノですか?それとも他の楽器ですか?」

堀場さんが疑い深そうにそう言うと、

「お琴の楽譜です。山田流というお琴の世界では少数流派で、もう楽譜を製造している、博信堂という出版社が廃業になりまして、何十年も経っているんです。それなのに、お琴の先生が、博信堂の楽譜を持ってきてくださいって主張して、話を聞いてくれないんです。だから、それなら、うちの車中だけでもいいですから、お琴の楽譜を作って欲しいんです。いけませんか?」

愛永さんは、すぐにそういう事を言った。

「はあ、行けないとかそういう問題ではなくて、楽譜を作って利益になるかどうかです。」

堀場さんは、企業人らしく言った。

「そんな事、関係ないじゃないですか。利益とか、そういう事は関係ありません。私達は、お琴というものを真剣に学びたいですし、お琴という楽器が、消滅してほしくないことから、こうやって、お願いしているんじゃありませんか。もちろん、高度な技術が要ることも知っています。だからこそ、楽譜を印刷してほしいんです。それは、悪いことでしょうか?そんな事ありませんよね。もちろんパソコンでやることだってできるでしょうけど、この楽譜は、大事な楽譜だから、そういうふうに邪険に扱いたくないってことも、わたしたちの気持ちなんですよ。だから、お願いします。作ってください。あたしたちだけしか使いませんし、あたしたちの分だけで大丈夫ですからお願いします。」

愛永さんは堀場さんに頭を下げた。それを見た千代も、

「よろしくお願いします。」

と言って頭を下げた。

「あたしたちは、真剣に山田流のお琴を学びたいからこうしてお願いに当たっています。お願いです。楽譜をコピーしてください。」

愛永さんがもう一度そう言うと、堀場さんは、二人に他の人には無いものを感じてくれたらしい。そうですなと少し考えて、

「わかりました。お二人は面白い。やってみることにしましょう。」

と言ってくれた。

「本当ですか!ありがとうございます!本当に助かりました!」

愛永さんがにこやかにそう言うと千代も、

「ありがとうございます!」

と再度頭を下げた。

「じゃあ、どちらのお教室に所属されているのかとか、お名前や、連絡先を教えていただけませんでしょうか?」

堀場さんがそうきくと、愛永さんが自分の名前と、お琴教室の主宰である下村苑子さんの名前、そして自分のスマートフォンの番号を言った。堀場さんは、メモ用紙に丁寧にそれを書き込んだ。

「じゃあ、一週間ほどかかると思いますが、出来上がったら連絡いたしますね。お琴のお稽古、頑張ってください。」

堀場さんに言われて愛永さんも、千代も、とても嬉しくなった。そして原稿である末の契の楽譜を、堀場さんに渡して、二人はまた用意したタクシーに乗って、戻っていった。

それから、一週間ほど経って、堀場さんから、連絡があったことを愛永さんから聞かされた千代は、二人でまたタクシーに乗り、堀場さんの工場に向かった。二人がインターフォンを押すと、お待ちしておりましたという声が聞こえてきて、堀場さんががちゃんと入り口のドアを開けてくれた。

「ようこそいらっしゃいました。印刷物は予定通り完成しましたので、こちらにお入りください。」

堀場さんに言われて、愛永さんも千代も、部屋の中に入った。堀場さんは、二人を自分の仕事場と思われる部屋に案内してくれた。

「まず初めに、お二人分の楽譜ですね。こちらになります。」

堀場さんに渡された楽譜は、たしかに手作業で作ってあることから、本物そっくりにコピーしてあるとは言えないが、でもちゃんと、楽譜として通用するものであった。

「ありがとうございます。本当に助かりました。おいくら払えばいいですか?」

愛永さんがそう言うと、

「いえ、これは初めてなのでお金は要りません。二回目以降ですと料金が発生しますが、今回はお試しということで、無料で作らせて頂きます。」

と堀場さんはにこやかに言った。

「そんな!私達、無理を言ってしまったわけですから!いくらかでもお支払いしないと。」

と、愛永さんがそう言うが、堀場さんはにこやかに笑って、机の上にある正方形の大きな石を顎で示した。

「いえいえ、こんなふうに本格的な印刷をさせてもらうことで、この子も喜んでいると思いますよ。だから、気にしなくて結構です。料金の支払いは、二回目以降で大丈夫です。」

「そうか、これが石板印刷に使う石板なんだ!」

愛永さんがすぐいった。

「ええ、全盛期は、石板がすり減ってしまうくらい使っていたんですが、今は、もう使わなくなって、何年たつのかというくらいですよ。久しぶりにこの子を使って、印刷をやらせていただきまして、こちらも楽しくさせていただきました。お礼をいいたいのはこっちの方です。」

と、堀場さんは言うのであった。確かにそうなのかもしれない。石版印刷は、もうパソコンとかそういうものがあれば、需要がなくなって要ることだろうし。

「本当にありがとうございました。またお願いしてしまうと思いますが、そのときは、ちゃんと料金を支払いますので、よろしくお願いします。」

と愛永さんは、にこやかに笑って言った。なんだか、堀場さんに嬉しい気持ちを与えることができたんだなと千代は思った。

「お師匠さんによろしくね。本当にありがとう。」

「ええ、またよろしくお願いしますね。」

優しい顔で二人を眺める堀場さんの顔から判断すると、千代は自分の思ったことは間違いではないと思った。そして堀場さんは、二人を玄関先まで送ってくれた。千代と愛永さんはまたタクシーに乗って、今度はコピーしてもらった楽譜と一緒に帰っていったのであった。

「なんだか、いいことをしたみたいね。あのおじいさん、また印刷することができてとてもうれしそうだったじゃない。」

千代は、タクシーの中で、愛永さんに言った。

「ええ、だから私、古い時代に生きていた人が好きなの。ああいう人にとって便利すぎる世の中は、もう宿敵みたいなものだけど、それを乗り越えてしまえば結構気さくで、素敵な人なんじゃないかしらね。」

愛永さんは、そう言っている。確かにそれはそうだなと千代は思った。

「でも、印刷も、一昔まえは、こんなに手のかかる作業だったのね。昔はいいわね。なんでも手作業でやるから、こうしてものを大切にしようっていう気持ち、人を大事にしようっていう気持ちが湧いてくるわ。今の世の中は、何でも機械でやってくれて、たしかに便利なのかもしれないけど、でも、同時に人やものを大事にしないということにもなるんじゃないかなと思うのよね。だから私は、今の時代のものが好きになれないわけ。千代さんもそういう気持ちが湧いてこない?こうして、伝統芸能に携わっていると。」

愛永さんに言われて千代は、ちょっと言葉に詰まってしまった。もう家に帰ってきている夫は、相変わらパソコンで文章を書く仕事をしている。だから、その恩恵に預かっている千代としては、そうやって全否定することはできなかった。

「でも、時代から外れた勉強ができるって幸せね。」

愛永さんに言われて千代は確かにそうだと思った。


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