第六章 身分違い

その日は雨が降って、それなのに気温が高くで蒸し暑いという言葉がピッタリの日であった。それでも、愛永さんは元気で、今日もお琴教室が終わっってから、また水穂さんのもとでピアノのレッスンを受けると言う。愛永さんについていくのは、千代は少しきが重いのであるが、それでも、水穂さんが居るのだからということで、愛永さんに続いて、製鉄所に行ったのだった。

製鉄所では、やはり水穂さんがいて、愛永さんはゴルドベルク変奏曲のレッスンを受けた。ゴルドベルク変奏曲はなかなか難しいものですねと解説している水穂さんは、紺色に葵の葉が入った銘仙の着物を身に着け、いつも以上に痩せて窶れていた。そんな水穂さんを、千代は、普通の人として見ることはできなかった。

愛永さんがレッスンを続けていると、製鉄所の玄関の引き戸を叩く音がした。

「あれ、彼女が来訪するのは、一時間もあとなのに。」

水穂さんが思わずそう言うと、

「彼女って誰ですか?」

愛永さんがそう聞いた。

「はい。以前、ここでピアノのレッスンを受けていた、岩原喜和子さんという、岩原株式会社のお嬢さんです。なんでも、今日は、どうしてもしてほしい相談があるということだそうですが。」

水穂さんがそう言うと、

「岩原喜和子さん来ましたよ。なんでも、変な男性を連れてきたよ。ほら、入るのに苦労しないようにできているから、ちゃんと入れ。」

杉ちゃんに言われて、お邪魔しますと言って、一人の女性と、一人の男性が製鉄所の建物に入ってきた。女性は、きちんと歩いているが、男性の方が、足が悪いようで車椅子に乗っていた。

「ごめんなさい。間違って違うバスに乗ってしまったんです。本当は、一時間後のはずだったんですけど、間違えてきてしまいました。」

女性は明るい口調で言いながら、製鉄所に入ってきた。杉ちゃんに案内されて、二人は、製鉄所の食堂へ向かった。水穂さんもご挨拶だけしてくると言って食堂へ行った。

「水穂さん、コンクールに出たときはご指導ありがとうございました。入賞はできなかっけど、楽しい経験になりました。ありがとうございます。」

「全くそそっかしいなあ。一時間バスを間違えて来るなんて。」

そういう岩原喜和子さんは、杉ちゃんにそう言われて、ごめんなさいと照れくさそうに言った。

「それで、この変な男は一体何処の誰なんだよ。」

「ええ。今日はそのこともあってこさせてもらいました。名前は、藤井正さん。職業は、フルートやってらっしゃる方です。」

岩原喜和子さんは、そう言って車椅子の男性を紹介した。藤井正さんと呼ばれた男性は、こんにちはと頭を下げて、

「藤井正です。どうぞよろしくお願いします。」

と、言った。その顔は、ちょっと特徴的なところがあって、細身であるがちょっと骨っぽいところがあり、指がやたらと長く、耳が長くて尖っているのが、他の人と明らかに違っていた。

「はあ、マルファンの方ですか。」

水穂さんはすぐにわかったらしく、

「ラフマニノフとか、パガニーニも同じ疾患で悩んでいましたね。」

と言った。

「で、今日は何の用で、ここに来たんだよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「はい。あたしたち、結婚しようと思っているんです。」

と、岩原喜和子さんは言った。

「は?」

杉ちゃんが思わずでかい声で言う。

「ちょ、ちょっと待って。お前さんたち、本気でそうしようと思ってるのか。結婚って、熱でもあるんじゃないの?」

「熱はありませんよ、杉ちゃん。あたしたちはちゃんと、籍も入れるし、式だって上げるつもりだし、ちゃんと段取りを踏んで結婚しようと思ってるんです。だから、今日は、その式場について相談に来ました。杉ちゃんだったら、車椅子の人でもやってくれる式場はないか、知ってるかもしれないと思って、ここに来たのよ。」

岩原喜和子さんは、そういう事を言った。

「じゃあ、その前に、ちゃんとお前さんのお父様の許可をもらったんだろうね?」

杉ちゃんがそう言うと、

「いいえ、父は、反対なの。お前にはもっといい男が居る、もっとマシな男を探せなかったのかって、いつも怒ってるわ。」

喜和子さんは言った。

「そりゃそうだろうね。お前さんは、だって、その、岩原株式会社の社長さんのお嬢さんであるのに、そんなお前さんが、そんなとんがり耳の男を婿に取るなんて、お父様からしてみれば、なんて自分をバカにしているんだって、怒鳴っても仕方ないよ。」

「そうですね。それに、岩原株式会社といえば、海外進出も果たしている、有名なネジの製造会社です。ただの町工場ではありません。そこの社長の一人娘であるあなたと、彼はちょっとつり合いませんね。お父様の言うことも、わかるような気がしますよ。」

杉ちゃんと水穂さんが相次いで言った。

「そうなの?だって、あたしたちは愛し合っているんだから、それで構わないと思うんだけど。」

そういう喜和子さんに、

「まあ待て待て。そもそも、お前さんたちは何処で知り合った?なんでお前さんと、藤井正さんが一緒になろうと思ったの?」

と杉ちゃんが言った。

「ええ、父が企画した、新しい営業所のオープニングセレモニーで、彼に演奏をお願いしたんです。」

喜和子さんは答える。

「はあ、そのオープニングセレモニーには、どっかの吹奏楽団から呼んだのか?」

「いえ、あたしがインターネットで呼び出したんです。たまたまその吹奏楽団の人が、指をけがして出演できなかったんです。それで彼が代演で来てくれたんです。それからあたしたちは付き合い始めて、それで、結婚することにしたんです。」

喜和子さんは、すぐに答えた。

「はあ、、、。そうなのか。まあインターネットで知り合うってことは最近の若い人はよくあることのようだけど、ちょっと、立場が悪すぎるというかねえ。うーんとねえ、それだけではなくて、なんか不良華族事件として報道されても良さそうな感じのカップルだぞ。」

杉ちゃんは呆れた顔で言った。

「そんな事はちょっと言い過ぎかもしれないですけど、でも僕もちょっとお二人の結婚は疑問視してしまいます。だって、こんな事を言うと失礼ですが、喜和子さんは、杉ちゃんがいいました通り、岩原株式会社の社長の一人娘です。そのような方であれば、そのような方のための教育しか受けてないでしょうし、そのような方のための生活しかしてこなかったでしょうし。きっと掃除や料理だって、ほとんど家政婦さんのような人に任せきりで、してこなかったのではないでしょうか?そういう人が、車椅子の方のお世話ができるとは到底思えないんですよね。」

水穂さんが、そういった。

「そうそう。だから愛し合ってればとか、そういう理屈は通らないの。もうちょっと、身分があう男性を考えたほうが幸せになれるのでは無いかな?」

「それに、これはあまり耳に入らないと思いますが、結婚することによって、あなたが受けたことのなかった差別を、受けることだってあるんですよ。それと、考えたことはありますか。そうなれば、愛し合っていれば構わないという理屈は通らないことになります。」

杉ちゃんと水穂さんが相次いでそう言うと、

「いいえ、水穂さんと私は違います。私は、水穂さんのような弱い男とは違います。それに、お二人とも理屈ばかりで、なんで祝福してくださらないのですか。私、いいましたよね。あの家には私の居場所が無いって。だから一生懸命居場所を探して、その結果が彼の世話です。それをなんで今さら立場が違うだことの不良華族事件だことの、変な事いうんですか!バカにしないでよ!あたしは、本気なのよ!それを、私まで人種差別されるなんて、嫌なこといいますね。これから新しい生活が始められると思ったのに。」

と、喜和子さんは言った。

「あたしは、結婚したほうが良いと思うなあ。幸せなことじゃないの。そうやって、居場所を見つけることができたんなら、それに乗っちゃって間違いないわよ。結婚に失敗したことがある私としては、居場所が見つかったというのは素晴らしいことだち思うわ。ご主人を介護することが自分の居場所になるなんて、素晴らしいことよ。ぜひ式をあげて、幸せになってよ。」

不意に、愛永さんがそんな事を言った。

「愛永さん、結婚に失敗したの?」

千代が思わずいうと、

「そうよ。あたしはね、今でこそ一人で暮らしてるんだけど、四年くらい前かな。結婚したいと思って付き合ってた人がいたの。だけど、その人は海外転勤で私の前から消えてしまった。私はね、あの人ほどすごい人はいないと思ってたから、結婚はおろか、恋愛一つできなかったわ。だから私は、ずっと、一人で暮らしてるのよ。」

と、愛永さんは言った。

「だから、愛する人がいてくれて、そのお世話ができるのが幸せなんて、こんなすごいこと無いわよ。それに、家に居場所がないんだったら、出てってもおんなじことじゃないの。だったら結婚してしまったほうがずっと楽よ。」

「そうかも知れないけどねえ。でも、それは普通の身分の人同士ですれば良いのではないかなあ。まず初めに、とんでもない世間知らずのお嬢様と、障害者の冴えない男じゃ、釣り合わないんだよ。そう思うだろ、水穂さんも。」

杉ちゃんがそう言うと、

「ええ、僕も身分違いの結婚は、難しいと思います。」

水穂さんも小さな声で言った。

「そうかも知れないけど、、、。ねえ千代さん、あなたはどう思う?」

愛永さんに言われて千代は、困ってしまった。

「千代さんは恋愛したこと無いの?今いる旦那さんと結婚したとき、嬉しくなかった?」

「そうですね。確かにこれから新しい生活が始まるって事は嬉しかったけど、でも私は、杉ちゃんたちの言う通りだと思うわ。きっとつらいこともたくさんあると思う。それを乗り越えて行けるかは、やっぱり、それなりに経験を積んでいる女性でないと、難しいと思うわ。水穂さんのいう、人種差別をされなくちゃならないからやめろという気持ちも、何となく分かるわ。」

千代は、小さな声で言った。

「そうかあ、私は、身分なんて、今の時代は、関係ないと思うし、憲法でも両人の合意で大丈夫だって保証されてるんだから、それで行けると思うんだけどね。」

愛永さんはそう言うが、千代は、水穂さんの着ている着物を見た。確かにこれは、銘仙である。銘仙について、千代は少し調べさせてもらったところ、何でも人種差別を受けて来た貧しい人たちが着用していた着物で、単に部屋着としてしかみなされていない着物だという。それを常用しているということは、水穂さんも、そういう身分に相当する人だとすぐに分かってしまったのだ。それに、水穂さんの部屋にゴドフスキーの楽譜が大量にあったのは、水穂さんが、角兵衛獅子のような生き方をしてきたのだとすぐに目星がついてしまった。それなら、今の時代であれば十分治る病気で苦しんでいることも十分にありえる。

「いくら法律で保証されていても、日本では、実現できませんよ。法律なんて、机の上で考えごとしてる人が勝手に作っていることでしょ。実際に生活している一般人にはほとんど浸透していないでしょうよ。だから、僕たちみたいなやつがいつまでも生活できないわけだ。まあ、そういうところだから、日本は。だから無理なこともあるというわけで、やめたほうが良いよ。」

杉ちゃんがでかい声でそう言った。

「でも、それにかこつけて、愛し合うことだって、できるわ。」

愛永さんはそういう事を言った。

「そうかも知れないけどね、、、。でも、難しいと思うよ。それに結婚ということは跡継ぎを作るということでもあるしね。それでできた次の世代に、迷惑をかけずに行きていくことも必要になるからな。ちゃんと家族として成り立たない家庭に生まれた子は、大変な人生を生きていかなくちゃならなくなるからな。それを救済するような機関は日本では何処にも無いんだよ。」

杉ちゃんは話を続けた。

「そうですよ。そうなると、愛し合っていれば大丈夫という事は、できませんよね。正常な家庭で、正常な生活をして、それができないってことは、やっぱり不幸になってしまうのでは無いでしょうか?」

水穂さんも、そう話を続けた。

「そうなのか。水穂さんも、不幸になると思っているわけね。あたしは、愛し合っていれば、なんとかなると思ってたけど、どうでもないかあ。水穂さんもその顔ではモテそうなのに、そういうことが無いって言うことは、やはり頭が古いってことね。」

愛永さんは変な顔をしてそういった。

「でも、僕は。」

いきなり、黙っていた、藤井正さんと言う人が、そう切り出した。えらくしゃがれた声だった。

「喜和子さんが、自分の居場所が見つかったといったとき、やっと自分も生きていてよかったんだと思うことができました。確かに、喜和子さんを幸せにすることはできないのかもしれませんが、喜和子さんに出会えて、感謝されたことは、大事な思い出です。」

しばらく部屋の中に沈黙が走った。

「僕も確かに、みなさんが言っているとおりになってしまう不安はあると思います。ですが、一瞬だけでも、自分が必要にされることがどんなに嬉しいか。それは、どんな言葉で表現しても足りないくらい。だからもし、皆さんに反対されて、別れてしまっても、その思い出があるから平気です。」

「はああ、、、。とんがり耳の男にしては、強い言葉だねえ。」

杉ちゃんは、すぐにそういう事を言った。

「そういう純粋なところがあるんだったら、大丈夫だよ。もし、彼女のお父さんに怒鳴られても平気でやっていけるだろう。」

「でも、なんだか、あたしは、二人が障壁を押し切って、結婚してほしいと思うんだけど、それは無理なのかしら。なんかできそうな気がするんだけどなあ。」

と、愛永さんは言った。

「身分がどうのこうのなんて、大昔の話で、もうどんどん結婚しても良いと思うんだけど。今の時代は誰でも結婚できると思うんだけどなあ。そんな身分がどうのこうのとかそういう事は、今の時代で、憲法でも保証されていることにかこつけて、無理やりすることだってできると思うんだけど。」

「そんな事、無いわよ。」

千代は思わず言ってしまう。

「だって銘仙の着物がまだ販売されている以上、その差別は亡くならないわよ。だって、お年寄りでは銘仙は家できるものっていう人はいっぱいいるみたいだし。年寄りの権限が強く残っている社会では、今の時代はもう変わったなんてことは通用しないわ。」

「そうかなあ、自らの意思で行動してもいいと思うけど。」

千代の話に愛永さんがそう言うが、

「それは、お年寄りや他の人と一緒に暮らしてない、愛永さんだから言えることです。大体の人は、他の人達に逆らえないで、我慢して生きているしかできないんです。」

千代はきっぱりといった。

「そうでなければ、水穂さんがこんな病気で苦しんでいることは無いじゃありませんか。」

「まあそうねえ。」

愛永さんは小さな声で言った。

「でも、私は、周りの人の圧力に屈してしまわないほうがすごいと思うけど。それができるってことは、すごいことだと思うんだけどなあ。まあ、それに引き換えて自分がどうだったかというと、私もできなかったんもんね。まあ、だからできるようになってほしいと思われるのかなあ。」

「きっとそういうことですよ。みんなできないから、小説とかテレビとかで完遂する様子を書くんじゃないですか。実際のところは、周りの圧力に屈して負けることのほうが多いんだと思います。できないから、そういうできる事例を作ろうとする。それは、音楽でもなんでも同じですよ。人間望みが叶わないからそういうものを書くんでしょう。」

水穂さんが芸術に携わる人らしいセリフを言った。確かにそうだなと千代も思う。

「そうかあ。みんなできないことだらけか。だからこそ表現するというものがある。なるほどねえ。私も、結婚に失敗したり、いろんな事に失敗したけれど、それを本にでもしてみようかな。せっかくお琴も習い始めたことだし。」

愛永さんは負け惜しみを忘れなかった。

「それでもさ、失敗してる人間だから言わせてもらうけど、ふたりとも、お別れすることになっても、後悔はしないでね。私みたいに、あのときああしておけばよかったって、言わないでね。それだけは約束させてね。頼むわよ。」

もう良いではないかと千代は言おうと思ったが、愛永さんはそういうのだった。

「ありがとうございます。私は、いくら杉ちゃんや水穂さんが祝福してくれなくても、この人と一緒に居ることは、幸せなんだって思うことにします。」

また部屋に沈黙が走った。

「そうだけど。」

と、杉ちゃんが言うが、

「でも、杉ちゃんよく言ってましたよね。人間にできることは、事実に対してどうすればいいか考えることだって。それなら、私ならこう考えますよ。杉ちゃんたちが、私達の結婚に反対したとしても、それをなんとかして乗り越えで一緒になることを目指します。彼もそう思っていると思います。」

と、彼女、岩原喜和子さんは言った。

「はあ、強いねえ。若いやつは。」

杉ちゃんがそう言うと、

「ええ、だって私達は、繋がっているのです。それがなくて強いはずは無いじゃありませんか。私、杉ちゃんや水穂さんの言葉を忘れませんよ。でも、それでも一緒になりたい気持ちがあるんだと思って、それで貫き通すことにします。」

と、岩原喜和子さんは言った。

「だけどねえ、さっきもいったけどさあ、こりゃあ、昔だったら不良華族事件で大騒ぎだぜ。それくらい、お前さんたちは、違いすぎる。そんなんで、果たして幸せになれるとは思わない。だから、僕らはそう言ってるんじゃないか。」

「いいえ、そういう言葉は、もう今はもう消え去ってしまっていて、あるのは皆同じだと言うことだけですよ。」

喜和子さんはきっぱりと言った。

「逆効果だったかなあ。」

杉ちゃんは、大きなため息をついた。水穂さんも、なんだか変な方へ行ってしまったという顔をしていた。でも、若い二人は、多少のことでは躓かないように見えた。


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