第五章 しらなかった!

雨が降っていた。

そんなことは当たり前なんだろうが、雨の日になると気分がおちこんだり、不安定になったりするものだ。特に女性であればそうなりやすいだろう。そんなときの女性たちは、服装がはでになったり、態度が変わったりしてしまうものである。

千代は、その日、いつもどおりに買い物から帰ってきたのであったが、何故か、自宅に買えると家の中は何故か人がいた。なんだか変な匂いもする。なんだろうと思ったら家にいるのは、警察官であった。

「奥様ですか。隣の方の通報がありまして参りました。ご主人がガス栓をひねって自殺しようとしたようです。」

警察官に言われて千代はびっくりしてしまった。

「主人は自殺しようとしたんですか?」

思わずそうきいてしまう。

自殺しようなんて素振りを見せたことは、一度もなかったのに。ましてや、そんなふうに悩んでいたなんて、千代は一度も聞かされたことはなかった。

「幸い、お隣の方が、回覧板を届けに来てくれて、ご主人をすぐに病院に連れて行ってくれましたので、命に別状はありません。しかし、一応こちらも事件として処理しなければなりませんので、奥様にお話をうかがいます。」

警察官の顔は厳しかった。

「私、何も知りません。主人が何かを悩んでいたなんてそんなこと知りません。ましてや自殺しようなんてそんなこと。」

千代はとりあえず自分の答えを言ったのであるが、たしかに警察がここへ来ているのだから、夫が自殺を図ったことは、間違いなく事実なんだろうなと思った。

「何も知らなかったなんてそんなことがあるものですか。奥さんなら何か知っているはずですがね。仕事のことで悩んでいたとか、そんな素振りはなかったのですか。」

警察官に言われて千代は、とりあえずいつも見ている夫のことを言った。夫は、いつもパソコンに向かって原稿を書いている。インターネットで原稿の依頼を受け取って原稿を書き、依頼主にメールなどで提出する。それが千代の知っている夫の姿だった。

「ごめんなさい。それしか分かりません。」

千代がそういうと、別の刑事が夫が意識を取り戻したといった。それでは事情聴取に応じられるなと、警察官たちは、そちらの方へいった。

とりあえず千代はがらんどうになっている部屋に一人で残った。その日は、とにかく何がなんだか分からないままだったので、あまり気にならなかったが、よく朝になると、夫が不在であるということに、千代は異様な寂しさを思ったのだった。おはようございますという相手もいない。なんだか、当たり前にしていたことがすごく偉大なことのように見えた。

それからも、何回か警察がやってきて、夫の事情聴取から、自殺の原因がわかるようになった。それによると、夫は、千代が知らない男と逢瀬をしているのではないかと思いこんでいたらしい。そんなことは絶対ないと千代は主張したが、警察は疑うのが仕事のようなものなのでなかなか納得しなかった。夫にしてみれば、千代が水穂さんのことを考えているのを、不倫をしているのかと思っていたという。全く頼りない人だと千代は思ったが、それがある意味男と言うものかもしれないと思った。 

その日も、お琴教室はやってきた。また野田愛永さんが博信堂の楽譜を持って、しっかり爪を持って、調子笛も持ってやってきた。それは全部、古道具屋とか、インターネット・オークションのようなもので調達してきたという。愛永さんが持ってきてくれる楽譜のおかげで、千代も一緒に練習させてもらえるのであるが、なんだかそういう事をしてもらえるのも、愛永さんに申し訳ないというか、そんな事していいのかなと思われるような気がした。できるだけ早く、本物を用意したいけれど、今は夫のことで、自分のお琴教室にかまけている暇はなかった。

とりあえず、お琴のお稽古は終了した。

「三浦さん、何を考えているの?」

不意に愛永さんに言われて、千代ははっとした。

「ああ、三浦さんじゃなくて、千代さんといったほうがいいかな。なにかあった?ご主人とでも喧嘩でもしたの?」

「そんなんじゃないわよ。」

と、千代はムキになっていった。

「まあ、家が大変だってことは、千代さんの顔に書いてあります。だからと言って、それにハマり過ぎちゃだめよ。そういうときこそ、ちゃんと自分が自分であるという安心感を持たなきゃだめだって、本に書いてあったわ。」

「そんなことができたら、もうとっくにしてるわ。」

千代は、愛永さんに言われて思わずそう言ってしまった。

「そうかも知れないけど、でも、そういうときこそそうしなければだめなのよ。困難なときこそ、自分を見失わないで、ちゃんと自分の事を考えることだと、私は思ってるわ。」

「そうなのね。でもそれは、当事者で無いから言えること。一度当事者になってしまえば、そういう綺麗事は言えないってわかるわよ。」

千代は愛永さんに言い返すが、

「それなら、今日私、ピアノレッスンあるんだけど、一緒にいかない?」

と愛永さんはそういったのであった。

「そんな、私は主人が待ってるわ。」

千代は急いでいうが、

「いいじゃないの。そんな落ち込んだ顔してるより、明るくて元気な千代さんのほうが、ご主人も喜ぶんじゃないかしら。」

愛永さんはにこやかに言った。

「でも、主人が待っていますし。」

「そうかも知れないけど、今日は、ちょっと寄り道して、元気を出したほうがいいわよ。すぐに行ったほうがいいわ。もし、ご主人から変な事言われるようであれば、私が穏やかな気持になるために行ったんだと言えばいいのよ。」

愛永さんに言われて千代は、仕方なく彼女についていくことにした。愛永さんと一緒に、富士駅でバスを降りて、富士山エコトピア行のバスに乗り換え、製鉄所に向かう。製鉄所と言っても、ただ部屋を貸しているところだけど、なんだか千代にとっては行っては行けない場所のような気がする。

製鉄所の門構えはいつもと変わらないが、植えられているあじさいがきれいな花を咲かせていた。

「こんにちは。今日は、千代さんも一緒に連れてきました。水穂先生、いらっしゃいますか?今日、ピアノのレッスンをお願いしました。」

愛永さんはインターフォンの無い玄関の引き戸をガラッと開けて、中の人に声をかけた。

「ああ、野田さんいつも来てくれてありがとうな。水穂さんなら寝ているよ。起こして来るからちょっと待ってて。」

と、杉ちゃんが愛永さんを出迎えた。

「じゃあ、よろしくおねがいします。お邪魔しますね。」

愛永さんはそう言って上がり框のない玄関から製鉄所の建物内に入った。簡単に入れるようになって居るが、そう簡単に入れていいのかと思えるところもある。

「こんにちは。水穂先生。今日もよろしくおねがいしますね。今日は、えーと、ゴルドベルク変奏曲でしたよね。」

そう言って、愛永さんは四畳半に入った。水穂さんは布団に座って、二人が来るのを待っていた。

「こんにちは。今日は千代さんも一緒ですか。今日はレッスンを見学に来られたのですか?」

水穂さんはにこやかに言った。やっぱり、水穂さんは、すごくきれいな人である。

「ええ、まあ、そんなところです。」

千代は水穂さんにそういった。

「じゃあ先生、今日はちゃんと練習してないですけど、よろしくおねがいします。」

愛永さんがそう言うと、水穂さんは弾いてみてくださいといった。愛永さんはピアノの前に座り、ゴルドベルク変奏曲のアリアを弾き始めた。千代はびっくりしてしまう。愛永さんはいつのまにこんなにうまくなっているのだろう。千代は驚きを隠せなかった。

「そうですね。よく弾けているとは思いますが、もう少し装飾音を柔らかくしましょうね。少し、装飾音がきつすぎるような気がします。きちんとしているのはいいのですけど、それだけでは、音楽として柔らかく演奏させることで、より音楽的にできるのではないかと思います。」

水穂さんは愛永さんに言った。

「そうなんですか。わかりました。じゃあもう一回やってみますから、頑張ってみます。」

「ええ、頑張らなくてもいいんですよ。そうではなくて、楽しんで演奏できるといいですね。」

愛永さんはもう一回演奏を始めた。短い曲なので、すぐに終わってしまうのであるが、それでもメロディと伴奏が決まっていないので、難しい曲でもある。

「そうですね。確かに運指が書かれていないので苦労すると思いますが、なにか書くものはありますか。運指はこういうふうにすると良いと思います。」

水穂さんは愛永さんから鉛筆を受け取って、楽譜に運指を書き込んだ。

「ありがとうございます。結構動かしにくい運指ですけど、頑張って馴染むように練習します。」

愛永さんは水穂さんに頭を下げた。

「ええ、多分この運指であれば、なめらかに弾けると思います。もし、手に合わないと思うようなら言ってください。また別の運指が考えられると思います。装飾音が多い曲ですので、それが難しいところでもあるんですけど、細かい動きはゆっくり弾いていけば、できるようになります。そうすれば、より柔らかく弾けるようになるのではないでしょうか。とにかくこの曲は、不眠症の治療のために用いられているくらいですから、速いテンポで弾くことは必要ありませんので。」

水穂さんはにこやかに言った。

「そうですか、なんだかお琴の曲より、静かでいいわね。洋楽は。私、最近お琴の演奏会に行ったんです。そうしたらね、ものすごくうるさい音楽で、なんだか本当にお琴って感じがしませんでした。でも、それは生田流という人たちがやっていることであって、私達が習っている山田流ではそういう事は無いそうです。だから、山田流で本当に良かったと思っているんです。今は少数流派になっているんですが、そっちのほうがより琴っていう感じがするの。」

愛永さんはそういうのである。

「まあ確かに、生田流の人は、たしかにけたたましい音を立てたり、正規のお琴の奏法ではない奏法を多用しますからね。いろんな作曲家がお琴の曲を書いていますが、大体の人が生田流の奏法でしか勉強をしていないようで、個性的な作品は皆生田流に取られてしまっていると聞きました。山田流がやるものは、古典しか無いと聞きますが、その古典も、楽譜が入手できない状態で、にっちもさっちもいかないということを聞いたことがあります。」

水穂さんが静かに愛永さんに言った。愛永さんはそうなのよ、そうなのよ!と水穂さんに相槌を打った。

「それでも山田流の人は、流派存続のために生田流の作品を無理やりやって、出ない音があっても無理やり山田流の小さい琴に当てはめて、演奏しているようですね。別の人の話では、もう古典は諦めて、お琴同士で合奏させるという、バンドに入っている人もいるそうです。とはいっても、そういうバンドは第一バイオリンの部分を山田流がしなければならないので、なんで山田流の下に生田流が入るんだと偏見を持たれることも多いようですけど。生田流の人に言わせれば山田流は新参者ですから、山田流の下に立つのは、我慢できないようですけど。」

「水穂先生詳しいですね。お琴の事情をちゃんと理解していらっしゃいますわ。そうなんですよ。私のお教室でも、博信堂でなければだめって叱られるのは、生田流に対抗するためなのかもしれないわね。いつまでも生田流が威張っているような世の中では、日本の音楽が発展しないわよね。」

愛永さんは水穂さんの話に続けた。

「だから私は、山田流の先生のもとでがんばります。私、家族もいないし、一人ぼっちだったけど、琴に出会って良かったと思ってるから、それは負けないでいたい。」

「そうですか、愛永さんみたいにやる気がある人がたくさんいてくれば良いんですけど。何処かの高校の箏曲部では、生田流と勘違いして入ってきたちゃらんぽらんな部員しかいないと聞きました。それではいけないですよね。」

水穂さんは、にこやかに言った。

「本当は、伝統を担っているのは、偉い人ではなく、私たちであるってこと思い知らせてやりたいわ。」

愛永さんもそう笑い返した。

「それに、琴に救われたという人もここに一名居るんだから。私、大事な友だちを一人見つけたのよ。それが誰なのかは、先生もすぐわかるでしょ。あたしのことは、もうみんなお見通しなのよ。あたしが、お琴教室に来てお琴を習って、いろいろ必要なものを買っているのは、何よりも友達がほしいからでしょ。だから、みんなで楽しくやりたいわけ。」

「大事な友だち。」

千代は思わず自分を指さした。

「まあ、鈍いわね。」

愛永さんはそういうのだった。

「そういうことだから、千代さんにもここでちょっと息抜きしてもらいたかっただけなのよ。それなのに、主人が待ってるんだからって、真面目すぎにも程があるわね。あたしは、そんな悪人でもないし、家庭を壊すつもりは毛頭ないのよ。なんか私にできることって無いかなと思っただけよ。だけど千代さんには通じないかな。」

千代はそう言われてなんだかちょっとこまってしまう顔をしていた。

「なんで、愛永さんがわたしのことを。」

千代は、そう言ってしまったが、

「当たり前じゃないの。千代さんは大事な友だちだもん。その人が困っているなんて、助けにはいられないでしょ。だけどね、これしか方法もなかったのよ。なにかものを買ったって、それが通じるわけじゃないでしょ。だったら態度で示すしか無いわよね。だから、ここへ連れてきたってわけ。それでわかってもらえたかなあ。」

と、愛永さんは言った。

「最近ね、千代さん落ち込み気味だから。なんでも、旦那さんが、自殺を図ってしまって、大変だって聞いたわ。そういうことなら、自分で立ち直るのはなかなかできないし、ここへ連れてくるしか、無いかなと思っただけよ。」

「そうですか。愛永さんも誰かの事を考えてあげられるんですね。」

水穂さんは細い声で言った。

「きっと愛永さんがなにかしてあげようと言う気持ちも優しいんだと思うし、悩んでいる千代さんも、きっと優しいんだと思いますよ。」

愛永さんは照れくさそうにしていたが、千代はずっと水穂さんを見つめていた。私のような女性が優しいと言えるのだろうか。だって夫が、悩んでいることだって知らなかったのだ。

「知らなかったわ。」

千代は思わずそう言ってしまう。

「知らなかったって何が?」

愛永さんに聞かれて千代は返答に困ってしまったが、

「いえ、うちの主人が、悩んでいることを知らなかったのよ。」

とだけ答えた。

「でも一生知らないで死んでからわかったんじゃ遅すぎるって言うじゃないの。良いじゃない、それがわかったんだからさ。これから改善していけば良いことじゃないの?」

愛永さんに言われて千代は、

「そうね。」

とだけ言っておいた。

「そういうことなら私、もう帰らなくちゃ、主人の見舞いにいかなくちゃいけないし、病院もしまっちゃうし。」

千代は、立ち上がって部屋を出ようとした。

「そうなんですか。確かに自殺は未遂したあとが救命だと言いますからね。千代さん、ご主人を大切にしてあげてください。」

水穂さんにそう言われて千代は、なんて辛いセリフを言われてしまったのだろうと思った。千代は、やはり水穂さんは、主人とちょっと違うような気がした。それがどういうわけなのかわからないけどそう思った。

「ごめんなさい、もう帰ります。ここではタクシーは呼んでもらえるのかしら?」

「ええ、こちらの番号に電話をかけると来ますよ。」

水穂さんは電話番号を紙に書いて千代に渡した。

「あ、ありがとうございます。」

千代はそれを受け取ったが受け取ったてはわなわな震えていた。愛永さんはもう少しここに居ると言った。なので千代は一人でタクシー会社に電話して、製鉄所を出て、タクシーを待つことにした。

それにしても、やっぱり水穂さんの前に来てしまうと、顔が偉く赤くなっているのを自分でも感じる。やっぱり私は、あの人が好きなんだと千代は心のなかで思った。そういうことなら、うちの主人が、ヤキモチを焼いても仕方ないかもしれなかった。水穂さんはそれくらいきれいな人であるから。

やがて、タクシーがやってきて、千代は、それに乗り込んだ。タクシーの運転手は、最近着物を着ているお客さんが多いと世間話をした。

「いろんな着物の方を乗せてるんですけどね。最近リサイクルきものというのが流行っているそうじゃありませんか。中にはとんでもなく昔の着物を着て、タクシーに乗っている方がいらっしゃいました。皆さん習い事しているとか、そういうことで着物を着ている人ばかりでは無いんですね。なんでも、銘仙とか言うすごい派手な着物を着ている方も乗せたことがあります。いやあ、びっくりしましたよ。今はそういう着物まで有効活用しているようですな。」

運転手は千代が着ている色無地の着物を見てそんな事を言った。

「でも、お客さんが着ているのは、一般的な着物ですよね。やっぱり昔の人間からしてみると、そっちのほうが良いなあ。昔は銘仙と言いますと、どうしても貧しい人を連想させてしまいますからな。ははははは。」

千代はその銘仙という言葉が何となく気になった。

「銘仙をバカにしているわけではないのです。確かに可愛くて派手だから着てみたくなってしまうんでしょうね。でも僕らは年だから、ちょっと複雑な気持ちになるな。だって銘仙を着ていたのは、ちょっと事情がある人ばかりでしたから。まだ、貧しい人が着るという意識が僕らが子供の頃はありましたからねえ。さあお客さん、着きましたよ。」

運転手は千代の家の近くにあるコンビニの駐車場でタクシーを止めた。千代は、運転手にお金を払ってタクシーを降り、家に帰った。

只今という相手がいないのは確かに寂しかった。千代は急いで着物を着替えた。そのときに、先程運転手に言われた銘仙という着物はどういうものだろうかという疑問が湧いたので、スマートフォンの検索欄に銘仙と入れて見る。文書だけではわからないので、画像を検索してみたところ、出るわ出るわ、銘仙を着ている人たちの写真がこれでもかと出てくる。それを見て千代はあることに気がついた。

「水穂さんが着ている着物と同じだわ!」

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