第四章 悪い日

その日は、梅雨の中休みというべき日で、よく晴れて暑い日だった。まあもうすぐ夏がやってくるなということなんだと思うけど、でも、過ごしにくい日であると思った。

その日も、三浦千代は、下村苑子さんのもとへ、お琴教室に行った。その日、千代は用事があったので、ちょっと開始時刻に遅れて到着した。

「こんにちは。」

千代が、コミュニティセンターの会議室のドアを開けると、

「こんにちは。お世話様です。」

と、野田愛永さんがもう琴を準備してくれて待っていた。琴は、平調子がすでにできていた。

「それでは、お稽古を始めましょうか。じゃあ、本日は六段の調べの二段をやることになっていたわね。野田さんは、博信堂の楽譜を手に入れることができたそうだから、あなたもあるわよね?」

苑子さんはそれを当然のように言った。

「すみません。何処のお琴屋さんにも売ってなくて、申し訳ないですけど買えなかったんです。」

千代が正直にそう言うと、

「でも、野田さんは、ちゃんと博信堂の楽譜を持ってきたわよ。爪もちゃんと、古典箏曲用の爪も持ってきてくれた。あなたは、そんなことも努力しないで、ここへ来たのかしら?」

と、苑子さんはお琴の指導者らしく言った。

「もしよければ、私のをコピーしてもいいですが、」

愛永さんがそういいかけたが、

「いいえ、著作権の問題があるから、ちゃんと本を用意しないとだめです。それを持ってこれないのなら、やる気ないとみなすわよ。」

と、苑子さんは言った。

「苑子さん、もう博信堂が廃業して、10年以上建ってるんだし、それでは手に入らないのは当たり前ですよ。仕方ないじゃないですか。愛永さんのを、写真にとって、それを印刷して、それで使うしか無いじゃない。」

と、フルートを掃除していた浜島咲が、そう言ってくれた。確かに、博信堂が廃業して、10年以上経っているとお琴屋からは聞かされていた。それと同時に山田流の中で一番正確な楽譜であることも、聞かされていた。だけど、現実問題、それは入手できないので、生田流の楽譜で我慢してくれとお琴屋から聞かされていた。それなのに苑子さんという人は、どうしてこう、博信堂にこだわるのか、千代はよくわからなかった。

「それじゃあ、咲さんの言うとおりにするわ。タブレットで写真に取れば、大丈夫よ。それを、PDFファイルとして千代さんのアドレスに送るから、それを印刷して次回持ってきてよ。」

愛永さんがそう言って、自分が持っていた博信堂の六段の調べの楽譜の写真を撮り始めた。

「私、全部の楽譜は用意できないかもしれないんですけどね。でも、できることならちゃんと用意したいと思ってるんです。まあ新品では無いですけど、メルカリとかで結構いいのが買えたりしますからね。昨日ね、メルカリで楽譜10冊セットというのがあったので、それですぐ買ってしまいました。ちょっと高くついちゃったけど、でも必要なので値下げ交渉もしないで買ったわよ。次の稽古に間に合うように早く送ってって言ったから、すぐに来ると思いますわ。」

愛永さんは、そう言いながら、楽譜の写真をアプリでPDFに変更した。最近のアプリは、画像からPDFに変更するのも簡単にできるのである。

「じゃあ、千代さんのメールアドレスか、ラインを教えて下さい。」

千代は、本来ならすぐにメールアドレスを教えるべきなのかもしれないが、何故か教える気になれなかった。メールアドレスを教えるのは住所を教えてしまうような気がしたのだ。そこで千代は、自分の電話番号を教えてそれでラインを検索してくれといった。愛永さんはすぐにラインを立ち上げて、千代の電話番号を検索して見たのであるが、

「あら、検索できないわよ。ユーザーが見つかりませんになっちゃう。」

と、わざとらしく言った。

「多分、検索できないように設定してあるんじゃないかしら。申し訳ないけど、このときだけでいいから、設定を解いてくれないかしら?」

「そんなこと、私がした覚えはないわよ。」

千代は思わず言った。だって夫のラインでもちゃんと検索できるようになっていたはずなのに。

「でも、そういうふうに設定してあることだってあるわ。千代さん、もしかしたら、スマートフォンを買い替えたばかりなのでは?」

愛永さんに言われて千代は、そんな事といったのであるが、

「まあ、最近ではセキュリティの問題があって、簡単に検索できないようにさせている人は多いというけれど、それはしないで貰えないかしら。私はそんなに悪人では無いわよ。それが嫌なら、メールアドレスを教えてもらえないかしらね。SMSでは、画像もPDFも送信できないわよ。」

愛永さんに言われて千代は、仕方なく自分のメールアドレスを教えた。愛永さんはそれをすぐに読み取って、

「じゃあ、楽譜のPDFファイル、そっちへ送ったから、ちゃんと確認してよ。」

と千代にいった。千代はメールアプリを開いて、添え付けのPDFファイルを開こうとしたが、このファイルを開くアプリがないと出てしまうのである。

「ページが開かないわ。」

千代がそう言うと、

「だったら、PDFビュアーとか、そういうアプリを出してよ。」

と愛永さんは言った。仕方なく、アプリを検索してみたのであるが、どれがPDFを読むために使えるのかよくわからなかった。口コミを見ても、良い口コミがあるアプリはなかなかないし、まずはじめに使い方がよくわからないのだ。

「とりあえずこれでやってみてよ。これなら初心者でもわかりやすいし、使いやすいわよ。」

愛永さんに言われて千代は、そのアプリをインストールした。

「そしてこれをどうするの?」

「えーととりあえず、メールのアプリから、先程のPDFを取って、そのアプリで開いてみて。今日は、ちょっと文字が小さいけど、それを楽譜として使ってよ。」

愛永さんはそういうのであるが、千代にしてみればよくわからないことばかりだった。まずはじめにメールを開く。そして、添え付けファイルとして表示されているPDFを長押しして、ダウンロードというところをタップすればいいのであるが、それをするのも千代は苦労した。それを自分のスマートフォンのストレージに保存して、次に先程ダウンロードしたアプリを使って、PDFを開けばいいのだが、それもよくわからない。

「もういいわ。こんなに人を待たせるんだったら、博信堂の楽譜を買ったほうがいい。第一スマートフォンでどうのなんて、役にたちはしないわよ。」

苑子さんが嫌がってそう言うと、

「そうかしら。スマートフォンをうまく使えば、お琴教室だって、ずっと楽になることだってあるわよ。オンラインレッスンだってできるじゃないの。」

愛永さんはすぐに返した。

「家が遠方にあってお稽古に来れなくても、オンラインがあればすぐにできるってことだってあるじゃない。それをまっぽうから否定してしまうのはまずいわね。」

なるほど。そういうふうに取ることもできるかもしれない。

「後で、PDFを使うのに、便利なアプリを教えてあげるわ。そして私の持っている楽譜なんかも送ってあげる。楽しみに待ってて。」

愛永さんに言われて千代は、恥ずかしいというか申し訳ない気持ちだった。その日はとりあえず愛永さんがダウンロードしてくれた楽譜を使って、お稽古することができたのだが、スマートフォンの画面は小さいので、非常に見にくいものだった。せめて紙に印刷する技術を教えてもらわないと、千代には使いこなせそうになかった。

「それでは今日は、ここでおしまいにします。これからは、楽譜をちゃんと買ってきてくださいね。」

お稽古はこれで終了した。

「ありがとうございました。」

千代と愛永さんは苑子さんに頭を下げて、お琴教室をあとにした。また、愛永さんはバスに乗って帰るというので、千代は一緒にバスに乗ることになった。愛永さんは、お稽古場を出ると、スマートフォンを取り出して、

「あ、もう発送されたんですって。最近の運送業は早いわね。速達便で送ってくれるらしいから、明日の夕方には来るらしいわ。追跡もできて今はホント便利よね。」

と言った。

「発送されたって何がですか?」

千代が愛永さんに聞いてみたところ、

「ああ、決まってるじゃないの。お琴の楽譜よ。」

愛永さんは明るく答える。

「何を買ったんですか?全部、博信堂の楽譜なの?」

千代が思わず聞くと、

「ええ、千鳥の曲か、四季の眺とかそういう曲よ。ホントはね、楽譜のまとめ売なんだけど、その中に博信堂の楽譜があったから、それを買ってみたのよ。」

と愛永さんは明るく答える。

「そういうのは、一体どうやって見つけるの?」

千代がそうきくと、

「ああ、メルカリとか、ヤフーのオークションとかそういうところ。不要品処分のサイトだけど、そういういいものが見つかるときがあるのよ。肉親がお琴教室やっていてその遺品を誰かに譲るとかそういうケースよね。まあ出す側もお金が得られるし、私は私で、いいものが買えるし、一石二鳥のアプリだわ。」

と、愛永さんは言った。

「そうかしら。そういうところって、トラブルも多かったって聞くけど、、、。」

千代はそれがちょっと怖いなという気がして、そういったのであるが、

「まあ、それはしょうがないわね。でも、いいものが買えるっていうのは、すごいことだと思うけど。たとえボロボロの楽譜であっても、腐っても鯛というのはこのことだわ。」

愛永さんは得意そうに言うのだった。

「大丈夫よ。あたしのところに届いたら、すぐにメールであなたのところにお送りするわ。それを印刷して持っていけば、千代さんも怒られる心配は無いわよ。」

「あ、ありがとう。」

千代は、小さな声で言った。

「じゃあ、楽譜が届いたらメールを送るから、楽しみに待っててね。できればPCから受信したほうがいいわね。スマートフォンだと印刷ができないからね。」

愛永さんは、そんな事を楽しそうに言っていた。まもなく、バスが到着したが、愛永さんは、ちょっと用事があるからと言って、バスには乗らなかった。千代は、結局一人でバスに乗って帰った。

その次の日。お昼の片付けをしていたら、夫が千代のいる台所にやってきて、

「おいお前、野田愛永さんという人からメールを貰ったのか?」

と言ってきた。なんだろうと思ったら、

「すぐに消去してくれないと、グーグルドライブのストレージがいっぱいになってしまうんだけどね。なんとかならないかな?」

夫に言われて、千代はすぐに二階に行った。パソコンを見てみると、大量のPDFファイルが添えつけされたメールが届いていた。

「ごめんなさい。すぐに印刷してすぐに消すわ。」

千代は急いで愛永さんに言われたとおりにメールからPDFを開き、それを大急ぎで印刷した。そして、急いで愛永さんのメールを消去した。そうしなければ、グーグルドライブがいっぱいになってしまう。千代は自分のパソコンを持っていなかった。特に書類のやり取りはしていないし、スマートフォンがあれば十分と考えていた。なのでグーグルドライブは夫が管理しているのであった。

琴の楽譜というものは意外に長い曲が多く、20ページくらいしてしまう曲も結構あった。古典箏曲は、5分くらいで終わる曲のほうが珍しいくらいなのだ。なので、グーグルドライブがいっぱいになってしまっても仕方ないのである。

「お前、こんな大量に印刷用紙を使用してどうするんだ。まあ、新しいのを買ってくればいいけどさ。パソコン屋はちょっと遠いからねえ。」

と、夫に言われるほど千代の楽譜は印刷用紙を大量に使用した。千代の家では、遠方まで外出することは殆ど無い。ネット販売で買ってしまうこともあるが、送り賃がかかってしまうので、できるだけ使いたくなかった。

「ごめんなさい。後で印刷用紙買ってくるわ。」

千代はそれだけ言って、大量の楽譜を印刷し終えて、自分の部屋に戻った。そうしたら、プリンターのインクが無くなってしまった。プリンターの消耗品はすぐになくなってしまう。それを買ってくるのだってかなり高額になる。

「悪いが、インクも買ってきてくれるとありがたいんだがね。」

夫に言われて千代はわかりましたといったが、それも痛い出費になるなと思った。プリンターのインクは、全部の色を買うと、6000円くらいしてしまうのであった。幸い、純正ではないものを使えばかなり節約できるのであるが、量販店の店員のようなひとは、純正ばかりを強引にすすめてくるのである。

全く、愛永さんと来たら、こんな大量に楽譜を送って、いい迷惑だと思う。印刷した最後のメールには、また楽譜を買ったら送りますという文句が書かれていたが、千代はもうこんな大量に送らないでほしいという気持ちが強かった。

とりあえず、バスに乗って、パソコン屋まで行き、インクと印刷用紙を買ってきた。やはり純正ではない印刷用紙やインクを買うと、店員はそれで異のですかという顔をしたが、千代は、そそくさと店を出て難を逃れた。

家に帰って夫にインクと印刷用紙を渡すと、千代は急いで楽譜の裏面同士を糊で貼り合わせ、ホチキスで止めて製本する作業をした。これもかなり時間がかかる作業であるが、それでも愛永さんがせっかく送ってくれたのだから我慢するしか無いと思った。

それからまた一週間経って千代は自作した六段の調べのコピー譜を持って、お稽古場に行った。苑子さんに、博信堂の楽譜をコピーしたものを持ってきましたというと、苑子さんは確認させてくれと言って、そのページを捲って、確認してみた。そして、

「この楽譜、5ページ目が抜けてるわ。」

とこわいかおして言った。千代はヒヤッと全身が冷たくなった。楽譜のPDFファイルだって、夫にああして言われたのであれば、もうとうの昔に削除してしまっていた。夫はパソコンの空き容量を気にしてたから、多分、もう削除されてしまっていることだろう。

「どうして五ページ目が抜けているの?」

苑子さんに言われて千代は、

「ごめんなさい。忘れてしまったようです。」

と小さい声で言った。

「あら。私、ちゃんと五ページ目も送りましたよ。ただ、ダウンロードし忘れたのではないかしらね?」

と愛永さんが言う。千代は、たしかにダウンロードし忘れたのではないかと思ったが、それを口に出して言うのは、ちょっと恥ずかしいというか、何故かしたくなかった。

「あのメール、まだ消さないで取ってあるでしょ?それを確認して、もう一回印刷すればいいわよ。」

愛永さんがそう言うと、

「あのメールはパソコンが故障して。」

と千代は思わず言ってしまった。

「故障したんなら、印刷できないはずがないでしょ。メールは消さないで取っておくものだと思うけどな。」

愛永さんが言うことはおそらく一般常識だろう。だけど千代の夫はそういう人ではなかった。もし夫が勤め人で、ちゃんと生活できているのなら、まだパソコンの空き容量を気にしなくてもいいかなと思った。でも、そういうわけではないから。そういうわけではないから。千代は、どう言い訳しようか迷ってしまって、困ってしまったのであるが、

「また私の譜面を貸してあげるから、落ち込まなくていいわよ。大丈夫よ。千代さんやる気ないって先生は絶対思わないから。」

と、愛永さんが耳元で囁いた。確かにそうなのかもしれないけれど、愛永さんの言うことを本当に信じてもいいかわからないほど、苑子さんは厳しかった。

「五ページ目を印刷してこなかったって、千代さんは人をバカにしているのかしら。最後までしっかり印刷してくることは、お稽古には大事なことのはずなのに?」

苑子さんはそう言っていた。

「ごめんなさい。私ちゃんと用意しますから、もう一度だけ楽譜を貸してください。」

千代はそう愛永さんに頭を下げる。

「ええ、大丈夫よ。」

愛永さんはにこやかにそう言っているし、尺八パートをフルートで吹いてくれてお稽古を手伝ってくれる浜島咲さんも、

「まあ、ちょっとしたミスは誰でもあることだし。今度こそちゃんと印刷はできるわよね。」

と千代に言ってくれたので、今回はその程度で済んだと思った。

「それにスマートフォンで画像は保存してあるでしょ?それをPDF化して印刷すればいいだけの話だから、簡単なことよ。」

咲に言われて千代は、余計に困った顔をする。それだってよくわからないのだ。画像をタップして、ダウンロードして、それをパソコンで共有して印刷するという作業は、咲や愛永さんには簡単なのかもしれないが、千代には難しい作業だった。千代は、困ったなと言う顔でぼんやりしていると、

「簡単なことだから、すぐできることよ。何なら、レシピみたいに、マニュアル的にまとめてみてもいいわよ。」

なんて咲が言ってくれたので、千代はそうするしか無いと思った。とりあえず手帳を取り出して、教えて下さいという。

「いいわよ。ちゃんとやればすぐできる作業だから全然簡単よ。」

愛永さんはそう言って、アプリの使い方を教えてくれた。千代はそれを忘れないように手帳に書いた。それでもよくわからない用語ばかりであるが、千代は、一生懸命手帳に書いた。それがなければ、もうダウンロードなんかできないのではないかと思った。簡単と言っても、細かく書けば、10段階くらいまである作業であった。

「まあ、いいじゃないの。それさえできれば、楽譜なんてすぐ作れるわよ。これからも楽譜が必要になったら、いつでも言って。私そっちへお送りするから。」

千代は、そう言われても嬉しくなかった。なんでこんなに嬉しくないのだろう。それよりも、なんだかみんなの前で赤っ恥をかいたような、そんな感じがしてしまうのである。とても、愛永さんや咲にお礼をするなんていう心情ではなかったが、それでも無理やり笑顔を作って千代は

「どうもありがとう。」

とだけ言った。それと同時に、持っていた手帳と鉛筆を落としてしまった。鉛筆の芯が折れてしまったのを見て、千代はなんて今日は悪い日なんだろうと思った。


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