第三章 不思議な日々
その日も、千代はお琴教室に行った。もう羽二重の紫の着物も手に入ったわけで、入門は認めてもらうことができた。それは千代だけではなく、野田愛永さんも同様だった。二人は、毎週紫色の羽二重の色無地を着て、あのあと通販で買った、作り帯をつけて、お稽古に向かった。しかし愛永さんのほうが、帯締めを本結びではなく藤結びで結んできたり、帯揚げを蝶結びのように結んできたりして、苑子さんに叱られるので、千代はちょっとそれが気になった。それでも、二人は毎週一回、お琴教室に通った。千代も愛永さんも、お琴の調弦の仕方や、爪のはめ方、絃を弾くコツなどを教えてもらい、何回か稽古をしていくうちに、六段の調の初段を弾ける様になった。これで少し自信ができたかなと千代は思った。
「じゃあ、次回から、第二段を弾いてみましょうか。それでは予習できるようならしてきてください。」
「ありがとうございました。」
千代と、愛永さんは静かに頭を下げた。二人は、お琴の片付けもできるようになっていた。
「今日は次の方が見えるから、片付けなくていいわ。じゃあ、来週のお稽古までに、六段の調べの第二段を予習してきてください。」
苑子さんに言われて、二人はハイと言った。そして、コミュニティセンターから出て、二人でバスに乗って帰ろうと言うことになった。
「今日も楽しかったわね。千代さん、なんか前よりうまくなったみたいね。あたし、びっくりしたわ。このままだと、千代さんのほうが先にこさせれちゃいそうだわ。」
と、愛永さんはバスの中で千代に話しかけてきた。
「いいえそんな事ありませんよ。私は、ただ苑子先生のマネをしているだけで。」
千代は、照れくさくなってそう言うと、
「まあ、千代さんも素直じゃないわね。それで、このあと何処か行くの?千代さんは。」
愛永さんはそういう事を言った。
「いいえ、まっすぐ家に帰るわ。うちは、家族が居るから、ご飯の支度もしなくちゃ。」
千代がそう言うと、
「そうなのねえ。あたしは、家族もいないし、つまらない生活よ。でも、恋はしたいかなあ。もう、こんなおばさんかもしれないけどさ、でも恋はしたいと思うのよね。中年おばさんでも、恋をして、心も体も満たされて、きれいになりたいって思うのよ。だから今日は、ちょっと、寄り道して帰ろうと思って。」
愛永さんはとてもうれしそうに言った。
「寄り道?」
千代が言うと、
「ええ。あの素敵なピアノ教室によっていくのよ、習い事はお琴だけじゃないわ。いろんな事習わせて貰えばそれで良いと思ってるわけ。まあ、ピアノなんて子供の頃習ってたから一応楽譜は読めるけど、まあ、規則づくめのお琴教室の、息抜きかな。」
と、愛永さんはそういうのだった。
「じゃあ、愛永さんはこれからあの建物に?」
千代がそうきくと、愛永さんはそうよといった。当然のように言っている愛永さんを、やっぱり独身の人はそういうところが自由が効いていいなと千代は思うのだった。
バスのアナウンスが、まもなく富士駅に到着するというと、愛永さんは降りる支度を始めた。多分ここから、富士山エコトピア行に乗り換えるのだろう。本来千代が降りるとことはもう少し先なのだが、千代はなぜか愛永さんと、一緒にバスをおりてしまった。
「あら、千代さんも今日はここで降りるの?」
愛永さんに聞かれて、
「ええ。私もちょっと寄り道したくなっちゃって。」
千代はわざと笑顔を作って、富士駅前のエコトピア行のバスが止まる停留所に向かった。
二人がその停留所に到着して、10分くらい待って富士山エコトピア行のバスが到着した。少し人は乗っていたが、それはあまり気にならなかった。他のお客さんは、富士山エコトピアの近くにある、富士かぐやの湯という温泉旅館をめがけていく人が多いのを千代は知っていた。だから製鉄所があるバス停で降りる人は、自分たちだけである。
「千代さんが寄り道したいなんて珍しいわね。なんか千代さんって真面目で、家がちょっと厳しそうな感じだったけど、意外にそうでも無いってことかしら。」
愛永さんにバスの中で言われて千代はなんて答えたらいいか迷った。
「ああ、迷わなくたっていいわ。千代さんは、ちょっと大変な家庭なのかなとあたしが勝手に思っていただけだから。」
愛永さんに言われて、千代は、更に困ってしまう。
「まあ、いいじゃないの。千代さんは旦那の稼ぎで悠々自適でしょ。あたしは、自分で何でもしなくちゃならないのよ。だから、こういうところに来て、ガス抜きガス抜き。だって、家に帰っても只今という人もいないのよ。だから寂しいのも、当たり前みたいになってるわよ。」
愛永さんの言うことが、なんだか嫌味に思えてきた。
「今ね。先生にモーツァルトのソナタを見てもらってるの。ソナタ11番イ長調。六段の調べと同じよ。小さな変奏曲形式だから、少しづつやってもらえて私も気が楽だわ。」
愛永さんはそんな事をいいだした。そんな曲を見てもらっていたのかということを知って千代はびっくりする。
「そうなの?あんな曲を?」
「ええ。ほら、ここに楽譜があるわ。博信堂の楽譜みたいに、洋楽は、用意しなくていいから、嬉しいなあ。」
愛永さんは、タブレットを取り出して、楽譜を提供してくれるアプリを開いた。そんなアプリがあるのは知っていたが、まさか実際に使っているというのは、珍しかった。それなら確かに重たい楽譜を持ち歩かなくてもいい。
やがて、車内アナウンスがあって、千代たちは、バスを降りることになった。急いで降りる支度をし、停車ボタンを押してバスをおりた。製鉄所はそこから歩いてすぐのところにある。予想したとおり他のお客は、多分かぐやの湯を目指して行く人たちで、誰もその停留所ではおりなかった。
「あーついたついた。今日もいらしてくれるかな。」
愛永さんは、製鉄所の正門をくぐり、前にわを通って、インターフォンのない玄関の引き戸をガラッと開けた。
「こんにちは。水穂さんいらっしゃいますか。今日もレッスンにこさせていただきました。」
愛永さんは明るくそう言うと、
「ああ、今日もいらしてくれたんですね。愛永さん。ありがとうございます。水穂さんなら四畳半にいますから、お入りください。」
と、製鉄所の利用者がそう答えた。確か、杉ちゃんたちの説明によれば、心とか体とか病んでいる人たちが、勉強や仕事をするための部屋を貸している施設であるという。なんかそういうところを貸す施設というと、いかにも訳ありという人ばかりだと思うのだが、利用者さんたちは、皆明るかった、利用者さんの中には通信制の高校に通っている人もいるというが、千代にしてみれば、そんなところあっても意味がないと思っていた。でも、皆さんとても楽しそうである。
「今日は、庭の松の木を診察するために木のお医者さんが見えるそうですが、気にしないでレッスンを受けてくれということです。」
利用者さんに言われて愛永さんはハイと言って、上がり框の無い玄関から中に入った。千代もそれに続いた。二人が建物の中に入ると、モーツァルトのソナタ11番が聞こえてきたのであった。ゴドフスキーもすごいけれど、こういう癒やし系の音楽も弾けるんだなと千代は思った。
「こんにちは。よろしくおねがいします。」
愛永さんが四畳半に入ると、水穂さんがピアノを弾いていたのを止めて、すぐに椅子からおりてくれた。そして、愛永さんを椅子に座らせて、どうぞ弾いてみてくださいといった。愛永さんはすぐに弾き始めた。やはりモーツァルトのソナタ11番であるが、なんだか全然凸凹な演奏である。とりあえずテーマを弾いてもらうと、
「そうですね。もう少し、メロディを歌うことを考えましょう。少し音量が出すぎているところがあるから、もう少し穏やかな音でやってみてください。それではどうぞ。」
愛永さんは、すぐに弾き始めたが、やはり音量が大きなままだった。
「じゃあ、考え方を変えましょう。この曲は上の音がよく響く曲です。他の音はその引き立て役。だから一番上の音をよく鳴らして、他の音は静かに弾くように心がけてください。改めましてどうぞ。」
水穂さんに言われて、愛永さんはもう一度テーマを弾いた。今度は上の音を鳴らして他の音を弱くするように気をつけていた。
「そうですね。じゃあそれをもう少し落差をはっきりさせてみてくれますか?」
愛永さんはもう一度弾いた。やっと上の音を鳴らすということができるようになった。
「すみません、できの悪い生徒で迷惑でしたよね。あたし、お琴教室でも出来が悪いと言われてるんです。こちらの千代さんのほうがずっとうまいくらいですわ。全く、恥ずかし限りです。」
愛永さんが照れくさそうにそう言うと、
「いいえ、そんな事ありません。出来が悪いということより、自分が音楽をどれだけ楽しめるかのほうが大事ですよ。」
水穂さんはにこやかに笑っていった。
「ありがとうございます。本当にできの悪い劣等生ですけど、これからもよろしくおねがいします。」
「それなら、もう一度やってみてください。」
愛永さんは、そう言われてまたテーマを弾き始めた。なんだか千代はそれを眺めて、なんでこんなに愛永さんは楽しそうなのだろうと思った。それに水穂さんも体長がいいようだし、千代は、なんだか水穂さんは、愛永さんの方へ行ってしまうような気がした。
「こんにちは、橘です。庭のイタリアカサマツの診察に参りました。上がってもよろしいでしょうか?」
と、中年の男性の声が聞こえてきた。水穂さんは、愛永さんが弾き終わったあと、立花さんどうぞと玄関に向かっていった。わかりましたと言ってやってきた立花さんという男性は、水穂さんのような美しい男ではなく、ごく一般的な人物だった。
「失礼しました。レッスン中だったんですね。それでは松の診察をして、すぐ帰りますからね。」
立花さんは、すぐに庭に出た。そして庭の石灯籠の近くに生えているイタリアカサマツを冷静に観察した。
「だいぶ、良くなってきましたね。以前は黄色くなってしまう松葉が多かったんですが、今日はだいぶ緑の葉が増えてきました。松は縁起のいい植物ですからね。大事にしてやらなくちゃいけませんね。」
「でも、イタリアカサマツですよね。日本古来の松じゃないじゃないですか。だから、この子も、日本の気候とか、そういうものに馴染めないんじゃないですか?」
水穂さんがそう聞くと、
「そうですね。まあでも、同じ松であることに変わりは無いのですから、松を大事にしてやらないとだめじゃないですかね。それは人間だって同じことだと思いますよ。水穂さん、それはあなたが一番良くわかっているのではないでしょうか?」
と立花さんは答えたのであった。水穂さんが、そうかも知れませんねというと、
「イタリアカサマツであっても松は松です。それは大事にしてやらなければいけませんよ。どんな松でも日本の文化では、松を愛してますから。そういう民族である日本人が、イタリアカサマツを差別するのはおかしなことでは無いでしょうか。じゃあ今日も薬をお出ししますから、肥料や水に溶かして松にあげてください。」
と立花さんはにこやかにいった。
「まるで人間並みですね。松に薬を出して上げろなんて。」
千代はすぐにそう言うが、
「ええ。だって、日本人は色んなものに松を使い、松を愛してきました。能舞台にだって松を使いますし、箏曲の松竹梅という曲もありますし、おみやの松とか、最近では奇跡の一本松とか、そういう記念碑的な名所もあります。だから、どんな松でも愛しなければいけません。そういう民族だからこの松も治療してあげなくちゃ。松を大事にするっていうことは、同時に人を大事にするっていうことでもあるんですよ。」
と、立花さんは言った。
「そうですか。最近は、植物学者をテーマにしたテレビドラマもやってますしね。私は、独身だし、家族もいないし、ペットを飼ってるわけじゃないし、寂しい生活だけど、なんか立花さんを見て、松を育ててみたくなっちゃったわ。」
愛永さんがそういう事を言った。
「それならしてみたらいいじゃないですか。松の盆栽、結構若い女性にも人気があるようですよ。それに植物なら、犬がうるさいとかそういう苦情も無いし。植物はいいペットになりますよ。」
と立花さんはにこやかに笑って言うのだった。
「そうですね。何も言わないけど、良いペットか。木のペットといえば良いのかな。じゃあ私も、松の盆栽を買ってこよう。」
愛永さんはとてもうれしそうにそう言っている。水穂さんが、立花さんにイタリアカサマツの診察料を払うと、立花さんは領収書を書いて彼に渡した。レッスンも、それと同時にお開きになった。立花さんはタクシーで帰るといった。水穂さんが、立花さんに二人を富士駅まで乗せていってやってくれというと、立花さんはわかりましたと言った。
「どうもすみません、わざわざ駅まで送ってくださって。」
愛永さんは立花さんにお礼を言った。千代はなぜか、彼にお礼を言うことができなかった。というのも千代のスマートフォンに着信が数回入っていたので千代はまたかと思ってしまったのである。とりあえず、三人は立花さんが用意してくれたタクシーで富士駅へ帰った。そして、愛永さんと千代は、それぞれ別のバスに乗って自宅へ帰ったのだった。
千代が、自宅へ帰って、只今というと、
「お前何をしていたんだ?」
と千代の夫が、変な顔をして千代を見た。千代はせめて、夫が自宅を仕事場にしている仕事ではなくて、普通の会社員とかそういう仕事だったらどんなに良いだろうと思った。千代の夫は、文筆業をしていて、原稿を収めに行くとき以外は自宅で仕事をしていた。ちゃんと雑誌にも所属しているし、生活に不自由するような仕事ぶりではないのであるが、それだからこそ千代は辛いのである。
「ごめんなさい。今日はお琴教室が長引いて。」
千代はそういったのであるが、
「はあ、でもお琴教室に電話したらとうの昔に帰ったと言っていたぞ。」
夫がいうので、返答できなかった。
「ごめんなさい。買い物によっていて。買うものが結局見つからなかったのよ。」
千代はそういい切ってごまかした。夫はそれ以上千代を詰問しなかったが、どうして自分はこういうふうに自由が無いのかなと千代は思うのだった。確かに、生活には不自由していない。夫も会社員では無いけれど真面目に働いてくれているのだし。確かに、ちょっと他の人よりも弱くて頼りないところもあるけれど、でも、こうしてちゃんと家にいてくれるだけありがたいと思わなくちゃ、と千代は自分に言い聞かせた。別に家庭内暴力があるとか、そういうことでは無いのだし。だけど、千代は夫の事は鬱陶しいと思うばかりで、何故か魅力を感じられなかったのである。
「食事の支度するわ。」
と、千代は台所に戻ろうとすると、
「いやあ、あんまり遅いので、コンビニでカップラーメンを買って食べてしまったからもういい。」
と夫はいった。もうそんな時間なのかと思った。せめて、夕ごはんくらい作らせてくれればいいのにと千代は思うのであるが、真面目すぎる夫にはそういう事はできなさそうだった。
「そうなの。じゃあ私もそうしようかな。」
と千代は言って、台所にあった即席麺を取り出し、急いで料理した。夫は文筆業の仕事に戻ってしまったが、もう疲れてしまったようで、寝室に戻ってしまった。全く男ってのはどうしてこうなんだろうと千代は思う。だって実家の両親だって、洋吉さんを大事にしろと言うのであるが、実際のところ、家の中では一心不乱に原稿に向かっている姿と、疲れて寝てしまっている姿以外見せたことがない。千代を休みの日には、何処かへ連れて行ってくれるとか、そういう事は全く無く、休みの日はずっと寝ているだけである。体が丈夫ではないので、そうなっても仕方ないと思うけど、何故かそれでも大事にするんだよと言われてしまうのだから、千代は不愉快だった。そんな事を考えながら千代は、まずい即席麺を食べた。その後は適当に風呂に入って、テレビを見て、あとは寝てしまった。ちなみに夫婦の寝室は、別なのである。
翌日、お琴教室はなかったが、千代はすぐに洗濯物を干して、夫と自分の朝食を作り、家の掃除をするという日常生活をこなしているだけであった。あの愛永さんはどうしているのだろうと千代は思ってしまう。もしかして本当に木のペットを買いに行ったのだろうか?
夫は朝ごはんを食べるとすぐに原稿の仕事に戻ってしまうのであった。それしかしないというか、それしかできない夫に千代は、なんでこんな人と結婚してしまうんだろうなと思うのである。特に何も魅力もないし、体もさほど強くない。そんな夫の前にいても、自分は何もできないだけである。
そう考えると、あの水穂さんという男性は、抜群に色っぽく、とても美しかった。本当は、千代が家を飛び出していって、水穂さんのところに出向いてしまいたいくらいだ。千代は夫が食べたご飯の皿を片付けながら、そんな水穂さんのことを考えていた。いつもというか、四六時中水穂さんのことが頭から離れないで、夫のことは何処かよそへ行ってしまったくらいだ。
本当に週に一回のお琴教室が待ち遠しかった。そうすれば、愛永さんにくっついて水穂さんに会いに行けるのだ。なんだかそればかり考えて居るから自分はいられるような気がした。
そんな千代を他の家族は、なんだか千代が変になったということで、心配しているようであったが、千代はそんな事は気にしなかった。それより早く水穂さんに会いたい。そんな気持ちで、ふわふわと浮遊しているような、そんな毎日を送った。
そんな事を繰り返している間に、季節は夏に近づいてきた。今は雨ばっかり降って、ちょっと涼しいなと感じる季節だけど、もう暑く燃えるような夏が、すぐそこまでやってくるということが、いろんなものを通して知らされてきているのだった。
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