第二章 紫の色無地を着て

そのままタクシーは何もなかったように走っていった。先程の愛永さんのセリフがどうしても千代は気になった。

「はい、こちらですね。増田呉服店様ですね。」

「ありがとう。帰りも乗せてくれますか?」

「ええ。じゃあ、領収書に書いてある電話番号に電話ください。」

そう、咲と運転手が話している声が、まるで遠くで聞こえているようであった。

「それでは、中に入りましょうね。大丈夫よ。ここでは、おかしな押し売りをすることも無いし、囲み商法をすることも無いから。ただ、着物の説明をすると時間がかかるということはあるかもしれないけれど、絶対押し売りはしないわよ。私が保証する。」

咲に言われて千代は、こわごわタクシーのドアを開けた。愛永さんも反対側のドアを開けて外へ出た。

「へえ、思ったより素敵な店だわ。これなら、着物屋っていうより、なんか雑貨屋みたい。確かに、怖いイメージはなさそうね。」

愛永さんはそう咲に言っている。

「でしょ。だから、あるところにはちゃんとあるのよ。さ、入りましょ。カールさん待たせちゃうわ。」

咲はそう言って、店の入口のドアをすぐに開けた。ドアに設置されているコシチャムがカランコロンとなった。

「こんにちは。」

「はい、いらっしゃいませです。」

そう言ってやってきた店主のカールさんは、明らかに外国人とわかる顔つきなのだが、それでも着物を着て、袴もちゃんと履いていて、まるで日本人以上に着物を着こなしているように見えた。

「えーと、電話でも言ったとおり、この二人にあう、着物をほしいのよ。」

「はあ、また羽二重ですか。お宅の先生は、よく羽二重にこだわりますな。まあ幸い、羽二重の紫の色無地は、こちらに用意しておきましたんで、ちょっと、着てみるなり何なりして、大きさを確かめてもらえませんか。」

カールさんは日本語が上手だった。ただ巻き舌が少ないので、英語を母語としている人では無いなと思われた。

「ありがとうございます。色無地とは、どんな着物なんですか?」

と、愛永さんが聞いた。千代は、そんなことも知らないのかと言われてしまうのではないかと思ったが、

「はい、柄を入れないで、黒かしろ以外の一色で染めた着物のことですよ。柄がないから確かに、見かけは難しくないんですが、その分素材や色で格を判断しないといけませんので、非常に難しい着物でもあります。こちらの方は、正しく羽二重ですが、地紋はサメの肌に似ていると言われる鮫柄です。そして、もう一つのこちらの方は、同じく羽二重ですが、地紋は芝生を表しています。」

と、カールさんは着物の袖を見せながら言った。

「そして、地紋の入り方も気をつけなければなりませんね。隙間を入れて、大きく地紋を入れてある色無地もあれば、訪問着のような大きな柄配置をしてある色無地もあります。こちらの2つは、細かく隙間なく入っていますので、江戸小紋のような感じで着られると思います。」

「それで、格の方はどうなるの?」

と、咲が聞くと、

「はい。着物の格と言いますのは、柄をできるだけ小さく、隙間なく入れていくほど格が高くなるのですが、こちらの2つは、隙間なく入っていますので、結構格の高い色無地なのではないでしょうか。素材も羽二重ですし、結婚式などにも着用できますよ。もちろん、未婚の女性であれば、振袖を着るのが当たり前ですけどね。」

と、カールさんは言った。

「そうですか。じゃあ、お琴教室なんかには使えるんでしょうか?」

愛永さんがそうきくと、

「はい、問題なく使えます。しかしですね。色無地でお稽古に出ることはよくあることなんですが、羽二重でこんな格の高いものを、要求して来るなんて、そちらの先生もこだわりが強い人ですなと思って、感心してしまいましたよ。他にも、生花や茶道などを習っている方が来ることがありましたが、皆さん色無地を欲しがるというケースはありませんでした。柄がなくて、つまらないといいまして。なので、今どき、色無地でお稽古する教室は珍しいなと思うんですよ。」

と、カールさんはにこやかに言った。それを聞いて、千代は、もう一枚かわされるのかなとか思ったが、そのような感じではなさそうだった。

「それでは、こちらの色無地を買っていきたいのですが、すみません、おいくらでしょうか?」

愛永さんがそうきくと、

「はい。えーと、鮫柄は1000円で、芝生柄は1300円です。なぜ高いのかというと、鮫柄のほうが、古い時代のものだと思われて、少し袖が長いので、お安くしてあります。芝生の方は、現在の規格品サイズになっているようで、袖は49センチです。あ、サメの方も教えておきますか?こちらは59センチで、10センチ長いです。」

と、カールさんは説明した。

「そうなんですか。じゃあ、鮫柄の方は誰かに袖を短くしてもらわなくちゃいけませんね。苑子さん、袖の長さもうるさいから。」

咲がそう言うと、

「はい。幸い、袖を短くする方法は、インターネットで公開している方もいますし、本も出版されていますから、そんなに難しいことではありません。専門の和裁屋さんに頼んでも、4000円くらいでやってくれるんじゃないかな?」

と、カールさんはすぐに言った。

「わかりました。じゃあ私、鮫柄っていう方を買いますよ。でもおじさん、本当に、1000円で良いのですか?」

愛永さんは、カールさんに聞いた。

「はい。構いません。全く構いませんので、遠慮なく着てあげてください。」

「わかりました!ありがとうございます。ちなみに、こんな小さな点を円盤のように集めた柄が、なんでサメなんですかね?」

愛永さんは興味深そうに聞いた。

「ええ、詳しい経緯は不詳ですが、なんでも紀州徳川家が魔除けとして使い始めたのが始まりだそうです。この柄は武士が将軍に謁見するときの裃の柄を女性用に転写したものですが、武士が発祥の柄なので、礼装として使用もできるんですよ。」

「はあ、そうなのね。それでおじさん。こっちの柄はどうなのよ?なんか半月型みたいにしか見えないけど?」

愛永さんは芝生の地紋の色無地を指さした。

「はい。これは半月に見えますが、芝生の柄と言われるものです。芝生は、刈ってもすぐ生えてしまうので、転んでも立ち直れるという意味が込められております。」

「はあ。」

愛永さんも、千代も着物の柄にそんな意味があったのかと感心してしまった。

「他にも色々ありますよ。四角形を敷き詰めた通しという柄は、筋を通すと言う意味。トンボはまっすぐに飛ぶので強い意志を表します。そういうふうに、着物の柄はいろんな願いが込められていますよ。逆にお琴教室などでは、使ってはいけないという柄もあります。例えば、蝶柄はまっすぐに飛ばないので、意思が弱い。桜は散るところから縁起が悪いということ言われたことがあるのではないでしょうか?そういうふうにですね、着物は、着る人が幸せになってほしいという意味で、いろんな願いが込められているんですよ。それは無病息災とか、魔除けだとか。日本人は結局、平穏な日常に喜びを感じられる民族なんでしょうね。」

カールさんが説明すると、愛永さんも千代も大きなため息をついた。

「そうですか。おじさん何処の国の人?」

愛永さんがそうきくと、

「イスラエルから来ました。」

と、カールさんはしたり顔で言った。

「そうなんだ!じゃあ口がうまいわけだ。そっちの方の人は、商売が上手だって言うでしょう。正しくカールさんはそのとおりだわ。着物の知識もあるし、これから必要なものが出たら頼りになりそうだわ。じゃあ、この鮫柄だっけ、色無地お願い。」

愛永さんは、カールさんに1000円を支払った。カールさんが、領収書を書くので名前を教えてくれというと、愛永さんは、野田愛永と言った。カールさんは領収書を書いて、愛永さんに渡した。

「そちらの方はお着物はご入用ではないのですか?」

と、カールさんに聞かれて千代ははっとする。

「千代ちゃんだって、必要じゃないの。」

と咲に言われて千代は、

「この、芝生とかいう柄の着物、使えるんでしょうか。あの、お琴のお稽古です。」

と急いで言った。

「もちろんです。芝生は先程も言ったとおり、転んでも立ち直れるという意味がありますから、お琴教室でも、やる気があるとみなしてくれるでしょう。着物を着るというのは、一種の意思表示なんですよ。柄の意味で、先生に対して、やる気があると示すことができるんです。すごい衣服ですね。そんな衣服は、世界にもなかなか類例がありませんよ。」

カールさんがそう言うと、千代は、300円高いのがちょっと気になったが、

「じゃあ、これ、買っていきます。」

と、言った。

「わかりました。じゃあこちらは1300円です。物はまだいいものですので、ぜひ大事に使ってください。」

カールさんに言われて千代は、

「はい。わかりました。1500円でお釣りをください。」

と言って、1500円をカールさんに渡した。

「わかりました。お釣り200円です。じゃあ、名前を教えていただけますかね。領収書を書きたいと思いますので。」

カールさんは、千代にもそういったのであるが、千代は、カールさんに、領収書は不要ですといった。カールさんはわかりましたと言って、千代には着物だけ渡した。

「ありがとうございました。また必要なものが出てきたら、いつでも相談に乗りますので、お気軽にいらしてくださいね。みんな、1000円程度で買えるお店ですから、そんなボッタクリのような事はしませんので、大丈夫ですからね。」

「ええ、ありがとうございます。もう常連になるかもしれないわ。着物って一枚だけでは、済ませられないって言うから。」

愛永さんはとてもうれしそうだったが、千代は、ちょっと不安な気持ちになっていた。

「そうですね。着物は、いろんな種類がありますし、格は色々ありますから、用事にあわせて変える必要もありますしね。またなにかありましたら、いらしてください。」

カールさんはにこやかに笑った。

「ありがとうございます。それじゃあ今日は、ここまでかな。今からタクシー呼ぶから、ちょっと待ってて。」

と、咲は、急いでスマートフォンを出して、先程のタクシー会社に電話した。タクシーを呼ぶのに、15分ほど待ったが、その間に愛永さんは着物のことについてカールさんに説明を求めた。愛永さんの聞いたことは袖の長さのことだった。袖が59センチでは、ちょっと中途半端な長さであると言うことだ。60センチをこしていれば、小振袖として振袖の仲間とみなされるが、一般的な着物の袖丈は49センチ。50センチ代はどちらにもなれず、中途半端な長さなので、切ってもらうほうが良いとカールさんは丁寧に説明した。

「わかりました。じゃあ私、この着物も、49センチにしてもらいます。そうしないと、いけないですもんね。4000円程度じゃ大した額じゃないわ。」

愛永さんはそんな事を言っている。

「だったら、杉ちゃんに頼みなさいよ。彼なら和裁屋さんだからすぐやってくれるわよ。」

咲がそう言うと、愛永さんはとてもうれしそうに、

「ほんと!じゃあ、もう一回製鉄所に戻ってすぐに頼みたいけどやってくれるかしら?」

というのだった。

「わかりました。じゃあ、そうしましょう。すぐにやってくれる人がいてくれて良かったわね。きっとそうやってうまくことが運ぶんだから、きっとお稽古もうまくいくわよ。」

咲に言われて、愛永さんは更に嬉しそうな顔をした。それと同時に、タクシーが店の前にやってきた。三人は購入した色無地を持って、ありがとうございましたと言って、軽く頭を下げて、入口を出ていった。

タクシーに乗ると咲と愛永さんは着物の話で盛り上がっていた。愛永さんは着物って本当に楽しいわねという顔でにこやかに話していた。千代は、その二人の盛り上がった会話に入れず、どうしたら良いのか迷ってしまった。

会話が続いている間に、タクシーは、製鉄所に到着した。三人は車を降りるとまたインターフォンのない玄関を開けて、

「杉ちゃん居る?ちょっと、彼女の着物の袖丈を短くしてほしいのよ。」

と、咲が言うと、ちょっと待ってくれという声がして、車椅子に乗った杉ちゃんが出てきた。どうも千代は彼の風貌を受け入れることができないのである。彼は、車椅子で着物を着るというだけではなく、羽織も着ないで着流しだし、しかも蜘蛛の巣のような気持ち悪い柄である。なんでこういうものなんだろうと千代は不思議であった。

「まあとりあえず縁側へ来てもらおうか。それで、袖をどれ位短くしたいのか聞かせてもらおう。」

杉ちゃんに言われて、愛永さんはわかりましたといった。三人は上がり框のない玄関で靴を抜いで、縁側に行った。上がり框が設けられていないで、土間の次にすぐフローリングになっているのは変だと思ったが、杉ちゃんのような人が入っても困らないためだと言うことだと千代はようやく気がついた。

千代と、愛永さんと咲は、縁側に行った。千代は、縁側の近くに、四畳半があったことを思い出した。咲が、右城くんはどうしていると聞くと、杉ちゃんは寝てるよと答えた。ということはやはり、あの美しい人は、何処か悪いのかなと千代は思った。

「それでは、お前さんちょっと着物を羽織ってみてくれるか。袖の長さを見たいから。」

と、杉ちゃんが言うと、愛永さんはわかりましたと言って色無地を羽織った。

「ああ、なるほどね。確かにちょっと袖丈が長いな。それでは、ちょっと短くするか。それで、お前さんは結婚しているのかい?それとも、独身?そのくらいの年なら、どっちもあり得るな。」

と、杉ちゃんに言われて、千代はなんて失礼なと思ったが、

「いや、それは大事なことだぜ。結婚しているやつとしてないやつは、袖の形が違うんだよ。してるやつはたもと袖と言って四角張った袖にするし、してないんだったら、丸みの大きな元禄袖にする。これも大事なルールだ。」

杉ちゃんはすぐ言った。

「元禄袖ってなんですか?」

愛永さんは聞くと、

「ああ、丸みが大きくて、振袖なんかによくある袖の形だ。元禄時代の小袖の袖の形に似ているので、元禄袖という名前がついた。若いやつは、動きが敏捷なので、袖が引っかからないように、袖を丸くしたんだ。だから、元禄袖の着物であれば、ああこの着物というのは若いやつに着るように出来てるんだなってわかるんだよ。」

と杉ちゃんは答えた。

「そうなんだ!じゃあ四角張っている袖は、お年寄り用なのね。そうやって対象年齢までわかるようになってたのか。全然知らなかったわ。私は既婚者ではないので、元禄袖でお願いします。」

愛永さんはとても恥ずかしそうに言ったが、それがなんだか本当に恥ずかしくて言っているのか、それともわざと言っているのか、千代にはわからなかった。それから、杉ちゃんと愛永さんは、色無地の着物の袖を詰めることの打ち合わせを続けてしまって、千代が手を入れるところはなかった。千代は、ちょっとお手洗いにと言って、縁側を離れてしまった。

実はお手洗いに行くというのは嘘で、千代は、本当は何をしたいのかわからなかったのだった。なんだか愛永さんたちの側に居るのは不愉快というか不快というか、そういう事を思ってしまうのである。千代は、廊下を歩いて、四畳半のふすまをそっと開けてしまった。あのきれいな人の顔をもう一回見たかった。確かにピアノの前に一枚のせんべい布団が敷いてあって、あのきれいな人はそこで寝ていた。でも完全に眠ってしまっているわけではなさそうだった。時々、苦しそうな顔をして、咳き込むのだった。千代は、それを眺めてどうしたら良いだろうと考えていると、あのきれいな人が枕元に手を伸ばした。でも、咳き込んでいるせいで、手が届かなかった。千代は、その人が何を取ろうとしているのか直感的にわかった気がして、

「これですか?」

と、思わず水のみを取って、聞いてみた。きれいな人は、小さく頷いた。

「わかりました!」

千代は、その人の骨っぽくなってしまっている手に、水のみを握らせてあげた。彼はそれを受け取ると、中身を飲み込んだ。千代としてみればどうしてみんな放置しているのだろうという気持ちだった。誰も、この男性の側には来ないから。

水のみの中身を飲むと男性は、数分して咳き込むのをやめてくれた。千代は、また彼から水のみを受け取って、枕元にあるお盆にそれを乗せた。

「どうもすみません。」

と彼は言った。千代は、

「いえ、大丈夫です。それよりお体大丈夫ですか?お医者さん、呼んだほうがよろしいのでは?」

と言ってしまう。でも答えは返ってこなかった。もう薬には眠気を催す成分が入っていたのだろう。男性は静かに眠ってしまったのである。千代は彼の側にずっといたいという気がした。周りを見ると、小さな本箱があってそこに、大量に本が入っているのが見えた。その本のタイトルは、アルファベットで書いてあったり、カタカナで書いてあるものもあったが、「ゴドフスキー」と読めたのである。千代は、思わず自分のスマートフォンを出して、その名を検索サイトにかけて調べてみたところ、何でもロシアの作曲家で、世界で一番難しいピアノ曲を作曲した人物であった。そんな人物の作品をこんな人が弾くのだろうか?千代は疑り深くなってしまったが、その本が大量にこの部屋にあるので、多分弾くのだろうと思った。しかし、よくもまあ、こんな難しい作曲家の作品ばかり取り上げるものだ。ある意味、虐待と言えるかもしれなかった。

「ここで何をしてるんだ?もう愛永さんの着物のお直しは、目星がついたよ。」

いきなり杉ちゃんに言われて千代はぎょっとする。

「いえ、ただ、この人がとても苦しそうだったので。」

思わずそれだけいうが、

「ああそうなのね。水穂さんに薬だしたのか。ほんじゃあどうもありがとうな。」

と杉ちゃんは言った。そこで千代はこの人が、水穂さんという名前であることと、この人は世界一難しいと言われる曲を弾いたことがある人であることがわかった。

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