ならず者
増田朋美
第一章 新しい展開
その日は、前日に台風と、前線が重なって線状降水帯なるものが発生したとか言うことで、みんな活動を自粛していた。まあ、それでもでなければ行けない用事というのは、よほど重大なことなのだろう。そういうわけだから、三浦千代は、今日が重大な日だと思うのだ。今日は流石によく晴れて、いい天気であり、電車もちゃんと走ってくれていて、富士の教室まで行くことができるのであった。幸い千代が住んでいるところは線状降水帯の被害は何もなかった。近くでは緊急安全確保も出たらしいが、電車はちゃんと走っていたし、バスも走っていて、富士市役所近くまで彼女を乗せていってくれた。
「えーとここか。」
千代は、市役所近くのバス停でバスをおりた。そこは、富士市の公共のコミュニティセンターで、お教室はそこにあるのだった。別にピアノの教室でもないから、特に防音設備はいらない。千代はそこの第一会議室で、お教室が行われることを知っていた。
千代が第一会議室の入り口のドアを叩くと、ハイどうぞと優しい声がして、ドアが開いた。
「お待ちしておりました。お琴教室に体験レッスンですね。私は、ここの手伝い人で、浜島咲と言います。特に、芸名もなく職業はフルートなのに、尺八の旋律を吹いてます。」
そういう中年女性は、にこやかに行ってくれた。その近くにいた、ちょっと高齢の何も柄のない着物を着ていた女性が、
「浜島さんもういいわ。早速、お琴教室を始めましょう。はじめまして、下村苑子です。あなたが来るのを楽しみにしてました。お名前はえーと、三浦千代さんね。」
と、言った。
「今日は、もうひとり、体験入門者がいらっしゃいます。それでは、彼女と一緒にやって見ましょうね。あと五分くらいで到着するようだから、もうしばらく待っててね。その女性の名は、野田愛永さん。」
「苑子さん、今彼女から連絡がありました。バスが到着したそうです。」
咲が、自分のスマートフォンを出して、そう確認した。まあバスで来ると言うのだから、遅れても仕方ないことだった。それから、数分して、
「すみません苑子先生。遅くなりました。申し訳ありません。野田愛永です。」
と言って、一人の着物姿の女性が入ってきた。彼女は取り合えず買ったと思われるような、ポリエステルの小紋着物に、浴衣用の作り帯をつけて、やってきた。
「まあ、化繊の着物なんて、お琴教室には使えないの、ご存知なかったんですか?」
苑子さんはすぐに言った。
「申し訳ありません、着物を着てくるようにと言われて、すぐに用意しようと思ったんですけど、どれが化繊なのか見当がつきませんでした。この次には、必ずそれでは無いものを用意します。今日は許してください。」
愛永さんという女性は、丁寧に頭を下げた。千代は、そうやって、新しいものができて、いろんな事を口に出して言えるなんてすごい女性だと思った。千代は、自分などは、ただのスーツを着ていて、着物の着方なんて何も知らなかった。
「それでは、お稽古を始めましょうか。えーと、ふたりとも、お琴を習われたことはありますか?」
苑子さんがそうきくと、
「はい。結婚する前に大学の箏曲部でお琴を習っていました。演奏会にも出たことがあります。家にはお琴もあるんですけど、弾いたのは、20年ぶり。それではいけないと思って、こちらにこさせていただきました。よろしくおねがいします。」
愛永さんはすぐに答えた。千代は、小さな声で、
「えーと、私は、子供の頃に、お琴を習っていたんですが、やはり大学進学でやめて、大学を出てからはずっと、働き続けていたんですけど、結婚してやめて、それで心が病んでしまってから、居場所も何もなくなっちゃって、それでここで習わせてもらおうかと思いました。もうお琴の弾き方とか、昔に忘れていると思うけど、よろしくお願いします。」
と、自己紹介した。
「声が小さい!もう一回!」
苑子さんに言われて千代は、余計に緊張してしまって、
「あの、三浦千代です!大学入るまでお琴を習っていましたが、おとなになってまた続けたくてこさせてもらいました!」
と、一気に言った。苑子さんはよろしいと言って、
「では、六段の調の楽譜を出してください。」
苑子さんに言われて、愛永さんはすぐに楽譜を出した。それは、生田流正派というところで発行されている楽譜だった。千代も楽譜を取り出したが、それは大日本家庭音楽会というところで発行された楽譜であった。その楽譜の表紙を見て苑子さんはすぐ顔色を変えて、
「まあ、ふたりとも博信堂の楽譜を持ってこなかったのね!それではやる気が無いということになるわね。」
と厳しく言うのだった。
「そんな事ありませんよ。ふたりともちゃんと六段の調の楽譜を持ってきてくれたじゃないですか。それなら博信堂でなくても、それを持ってきてくれたことを褒めてやるべきなんじゃないですか?」
咲がすぐにそう言うと、
「いいえ、やる気が無いんです。博信堂で出ている楽譜が一番正確なのよ。それを使わないなんて、やる気が無いのも同じよ。」
と苑子さんは言った。ちなみに博信堂という出版社は、ピアノの楽譜で言ったらウイーン原典版と同じようなものである。それくらい、楽譜として権威があって、持っていると、褒められるような楽譜であった。それに作曲者が書いたものと一番近いのが博信堂の楽譜ということになっているが、その出版社はとうの昔に廃業して居る。しかし、苑子さんのように依然として博信堂にホコリを持ち、今でもそれを使いたがる箏曲家は多いのである。それなら復活してくれればいいのにと思うのであるが、出版社側は何もその気は無いらしい。なので、店に残っているものを買うしか無いのであり、それを巡って店側とガチンコバトルということも珍しくない。
「そんな事言わないでくださいよ。だって今日は初めて来てくれたんだし、博信堂が無いってことは知らないで買ったのかもしれないわ。今日だけは許してあげましょうよ。」
咲が苑子さんにそういうのであるが、
「いいえだめです!山田流箏曲教室に、博信堂の楽譜を持ってこなかったということは、やる気が無いということなのよ。それに、着物だってちゃんと着てないじゃないの。それでは全くやる気が無いんだわ。」
苑子さんはそういうところは許さなかった。
「山田流箏曲は、角兵衛獅子の稽古じゃありません。それとは違うんだと言うことをはっきり示すために、ちゃんと楽譜を持ってきてください。そうでなければ今日は稽古をしません。」
「そんな事。」
咲はそう思うのであるが、苑子さんにしてみれば、そういうことなのであった。確かに他の流派に比べると、山田流なんて演る人が少ないし、他の流派に比べると地味であまり目立たない流派でもあるから、他の流派から馬鹿にされやすい。中には、宮城道雄と敵対視したということを無理やりこじつけて、山田流自体を否定する箏曲家もいる。だから苑子さんのようなお教室を開いている人が、そういうふうに頑固になってしまっても仕方ない。だから、博信堂だって廃業してしまったのだろうし、他の部品なども山田流独自の物は入手が難しくなっている。
「今日はこれで終わります。博信堂の楽譜を持ってこなかったから、お稽古は抜きですよ。」
「そんなあ!」
と咲はいうが、苑子さんの意思は固かった。確かに他の流派から馬鹿にされている事は、間違いでもない事実でもあるのだが、生田流の楽譜を持ってきてしまったことでお稽古を中止するというのは極端すぎる気がする。
「ちょっとまってください。私達は、たしかに山田流の正統派な楽譜は持ってこなかったかもしれません。ですが、やる気が無いと決めつけないでください。私は、博信堂という出版社があって、それが廃業されていることは、お琴屋さんからきかされました。なので、いっときこのお教室に来るのは諦めようと思ったけど、でも、お琴屋さんが、生田流の楽譜を使うこともあるからって言って、それでこちらの六段の調を渡してくれたんです。」
と、野田愛永さんが言った。苑子さんはすぐ
「大学時代、博信堂ではやらなかったの?」
と聞いた。
「ですが、もう20年前のことです。一度私は結婚して居るので、その時の引っ越しですべて処分してしまいました。琴だけは残してありましたけど、他の物はすべて処分してしまいました。ごめんなさい。」
野田愛永さんははっきりと言った。苑子さんが、あなたはどうなのと言って、三浦千代を見た。
「私も、琴はあるんですけど、楽譜はありませんでした。でも、もう一度やらせていただきたいって思って、それでお願いしてきたのですけど、やっぱりそういう気持ちでは、だめだったのかな。」
千代は、正直に言うが、
「いえ、彼女も一緒です。きっとやる気が無いと言うことはないと思います。だけど、もう博信堂の六段の調という楽譜は何処にも無いんだと思います。私達は、もうたくさんお琴を習ってきてるからそれでいいけど、他に習いたいという人は、無理だと思います。」
と、愛永さんはそう言ってくれた。
「お願いです。博信堂を持ってこないので差別したり怒ったりするのはやめてください。私達を、やる気がないと決めつけないでください。」
愛永さんがそう言って頭を下げる。そして千代も申し訳ございませんと言って頭を下げた。
「お願いします。私はやる気が無いことは一切ありません。」
二人がそう言って頭を下げると、咲も、
「ほら、苑子さん一生懸命謝ってるんだから、許してあげましょうよ。」
と言った。苑子さんは少し考えて、
「そうね。じゃあ、これからお稽古しますから、そのためには条件がある。それでは、ちゃんと羽二重の色無地で、地紋に松がある着物を着てくること。色はふたりとも敬意の高い紫。それさえ用意できれば、次の稽古をしてあげるわ。ただし、それを持ってこなかったら、もう二度と稽古はしませんから。」
と言った。
「わかりました。紫の、地紋に松がある羽二重の色無地を用意すればいいのですね。それでは私、通信販売か何かで買ってきますから、どうかお稽古を続けさせてください。お願いします。」
愛永さんは単純にそう答えるが、千代は、なんて難しい難題を出されたのだと思った。昔、親戚の結婚式のときに振袖を作ってもらいに呉服屋を訪れたことがあるが、そこで羽二重という布を見せられたことがある。値段はたしか、七桁くらいしたような。そんな着物、すぐに用意できるだろうか?
「じゃあ、必ず、用意してくるのよ。そうでなければ、お稽古はしませんからね。着物はあなた達の意思表示よ。着てこなければ、やる気がない事になりますからね。では、今日はこれで帰ってよろしい。」
苑子さんに言われて、千代は、やっぱり自分にはお琴教室は無理なのかと思った。
二人は、どんよりした顔で、コミュニティセンターを出た。これから、ものすごい大金をはたいて、着物を買わなければならない。ああどうしようと千代は思った。
「大変な事になったわね。」
千代は思わず呟いてしまう。
「ええ。新聞紙切っても私はなんとかするわ。」
愛永さんはそう言っている。
「そんな事、できるの?」
千代は聞いてみるが、
「でもそうしなくちゃできないじゃない。どうせ、何処のお琴教室行っても同じことよ。遊女とか、そういうものと区別したいからって行って、高級な着物を買わされたりすることはよくあることなのよ。」
愛永さんは、納得したような顔でそういう事を言った。
「ふたりとも!ちょっとまってくれる!」
と言いながら浜島咲が走ってきた。
「ああ、追いついてよかったわ。全く、横暴な先生でごめんなさい。紫の羽二重を用意しろなんて、無理難題を突きつけられたと思っているでしょう?」
「ええ、でも、お琴教室に入るにはそうしなくちゃなりませんもんね。」
と、愛永さんが言った。
「でも大丈夫なのよ。リサイクルきものというのがあれば、数千円で羽二重が買える。一式一万円で揃うことだってできるわ。着物のほうが、部品より安いことだってある。あたしが、その着物に詳しい友達が居るから、彼に手伝わせましょう。」
咲は二人に言った。
「地獄に仏とは、このことだわ。」
愛永さんの言うとおりでもあった。
「でも、そういう気軽に買える店に行っても、どれが羽二重か、私はわかりません。羽二重という言葉だって初めて聞いたんです。」
と、三浦千代さんは申し訳無さそうに言った。
「知らないのは当然なのよ。」
咲は彼女に優しくいう。
「だから知っている人に教えてもらうのよ。それだって当然のことでしょう?」
「つまり、着付け教室に私達を勧誘しようと言うのですか。残念ながらそれはお断りです。」
愛永さんがそう言うが、
「いいえ、着付け教室なんかじゃないわよ。着物に詳しい私の友達。タクシーでここから、30分くらいかな。呼べば来てくれるから、それでいきましょうか。」
と、咲は急いでタクシーを呼び出した。三人乗りたいというと、タクシーはすぐにやってきてくれた。咲は、大渕の富士山エコトピアの近くというと、タクシーはわかりましたと言って、走り始めた。
それから30分位経って、タクシーは森の中をはしっていった。もう市街地とはえらく違う風景になっていた。千代はどうしてこんなところまでと言おうとしたその時、目の前に日本風の建物が建っていた。タクシーはそこの前で止まった。咲がタクシーにお金を払って、三人はタクシーをおりた。その建物の正門をくぐり、インターフォンの無い引き戸をガラッと開けて、
「こんにちは、浜島です。ちょっと、相談したいことがありまして来ました。」
と、咲が言うと、ああいいよ入れという声が聞こえてきたため、咲はすぐに建物に入った。
「なんだか日本風のすごい大昔にタイムスリップしたみたいね。」
愛永さんもそう言って草履を脱いで、中にはいった。千代はこわごわ中に入ったが、たしかに建物の作りといい、本当に江戸時代にタイムスリップしたような気がした。それに廊下が、きゅきゅと音を立てる、鶯張りの作りになっていたからなおさらだ。まもなく、ピアノの音が聞こえてきたときはまるで異世界に言ったようだった。咲は、ああ右城くん今日は調子が良くてよかったといった。
「こんにちは、ちょっと相談なんだけど。」
咲はそう言って、四畳半のふすまを開けた。すると、ピアノの音が止まった。そして、なんとも言えない、西洋の俳優さんみたいにきれいな男性がそこにいた。でもげっそりと痩せていて、着物がまるで衣紋を抜いているようであった。本来男性の着物で衣紋を抜くことは無いので、ちょっと異様な光景だった。彼の着ている着物が葵の葉が入れられた銘仙の着物であるのを、千代は知る由もなかった。
「ねえ、右城くん。ここにいる人たち、うちの教室に新しく入ってくれた仲間なんだけど、羽二重の紫の色無地をどうやって買ったらいいのか教えてあげてよ。あなたなら、羽二重の見分け方を知っているでしょ?」
咲がそう言うと、右城くんと呼ばれた美しい人物は、こういうのだった。
「そうですね。今の時代であれば、通販でも買えるし、ヤフーのオークションなどでも買えるんですが、他のブランドと比べ方が難しいでしょう。どうしても羽二重ではないとだめですよね。お琴教室行くんだったら。」
「さすが右城くん、よく分かるわねえ。やっぱりさすが、音楽家ね。羽二重の見分け方を教えてちょうだい。」
咲がそう言うと、彼は少し考えて、
「羽二重であれば、別名を光絹というくらいですから、ぜんたいを通して弱い光でも光りますよ。ただ写真では、地紋だけ光る紋意匠と識別が難しいでしょう。そういうことでしたら、実際に店にいかれるのが早いんじゃないかな。」
と言った。
「そうなのね。カールさんの店は何時までやってるかしら?」
咲は彼に聞いた。
「ええ、確か、18時までだったと思います。」
と彼は答えた。渋くて細い声であり、ちょっと顔に合わないが、それでも本当にきれいな人であった。こんな美しい顔の男性は、他の誰かと比べようがない。もしかしたら、雅楽の蘭陵王という舞踊の主人公は、あまりに美しいので兵士が戦いをしなくなってしまうからいつも気持ち悪い仮面をつけて戦場に出たというが、それはもしかしたらこういう顔なのかもしれない。
「それなら、今は15時か。じゃあ、ギリギリで店に飛び込めば買えないこともないかしら。」
「そうですね、着物の説明というのは時間がかかりますからね。」
咲と美しい顔の人物はそういう事を言っている。千代は、こんなきれいな人と一緒にいられるのなら、こうして異世界に着てしまっても仕方ないと思った。一方の愛永さんの方は、咲の話に乗って、
「それでは本当に羽二重の着物が買えるのですか?」
なんて咲に質問したりしている。
「ええ、あそこはリサイクルきもの店なので割と安く買えるんですけど、羽二重が2つあるかどうかはわかりません。なので、行く前に電話で問い合わせることをおすすめします。」
と、彼は答えた。そこで咲は、急いで電話をかけ始めた。千代としてみれば、ずっとこの人と一緒にいたかったから、すぐにこの建物を出てしまうのは、嫌な気がしたけれど、咲は、え、ある?と言うのだった。そして電話を切って、
「紫の羽二重の色無地、ちゃんとあるそうよ。今から買いに行くと言ったら、気持ちよく承諾してくれたわ。じゃあ、三人でタクシー取って言ってみましょうか。」
と、二人に言った。きれいな人もそれが良いと言った。なので三人は、増田呉服店に行くことになった。千代はあの蘭陵王の主人公のような人と離れてしまうのはちょっと、嫌だったけれど、咲に促されて、タクシーに乗った。
タクシーの中で千代が、あの美しい男性の事をぼんやり考えていると、
「あの人、なかなかきれいな人ね。」
と愛永さんが言うのだった。
「それに着物のことを知っているようだし、何かこれから新しい展開が始まりそうみたい。」
愛永さんがそういう事を言うなんて、千代はぎょっとして彼女を見た。
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