深い眠り

 家に帰っても、彼女はまだ寝ていた。

 さすがにおかしいと思って、彼は彼女を揺すった。「なぁ、もう夜の8時だぜ?さすがに寝すぎじゃないか?」

 しかし彼女の眠りは深い。まるで死んでいるみたいだ。でも体は温かいし、呼吸もしっかりと行われている。

 僕は背を向け、部屋の扉を開けた。駄目だ、こんなことをしてたら、僕まで寝てしまいそうになる。実は既にかなり眠いのだ。そこにあんな寝顔を見られたら、たまったもんじゃない。

「ヒデキ、行かないで」

 彼女の声だ。振り向くと、どうやらまだ寝ている。寝言のようだ。

 しかしおかしいと僕は思う。彼女はまだ僕の名前を知らないはずなのだ。

 嫌な汗が体から吹き出る。ショックで体が動かない。いや、冷能になれ、直接聞かなくても名前を知る方法ぐらいいくらでもあるじゃないか。何かある可能性も否定はできないが、そうじゃない可能性のほうが高いだろう。

 それに、と僕は思う。既に動悸はおさまっていた。仮に何かがあったとしても、それでいいじゃないか。どちらにせよ、避けようが無かったのだから。流れに身を任せよう。抵抗するのもめんどくさい。たまにはいいじゃないか、海藻みたいにふにゃふにゃにふやけて、フワフワと海中を漂うのだって、

 どちらにせよ、僕には理解できないことなのだから。

「ごめん、明日も仕事があるんだ」

 返答はない。

 僕はカレーを作った。温かくて手間のかかる料理がどうしても食べたくなったのだ。具材をグツグツと煮ている間、僕は何度か彼女の所へ行った。いつまで寝てるのかと呆れもしたが、ずっとその寝顔を見ていられると考えると、不思議と甘い気分にもなれた。

 カレーを白米にからめて頬張る。ピリッとした辛さがアクセントになって、スプーンの動きが止まらない。

 昔のインド人に感謝もしつつ、彼はカレーライスを食べ終えた。生きている実感がある。明日の分も彼女のと合わせて作っておいたので、気もずいぶん楽に感じた。

 ちょうどそのとき、リビングに足音が聞こえてきた。

「ちょっと、なんで起こしてくれなかったんですか」彼女は涙目でそう呼んだ

「自業自得にもほどがある。布団をめぐったり、体を揺らしたりしてもまだむにゃむにゃしてから、もう辞めるしかなかったんだよ」

「はぁ」彼女はわざとらしくため息をついた。「何もかもうまくいかないですよ。全く、11時に寝て、起きたら夜の8時だなんて、どんな冗務ですか。時計の針が一週分ズレてますよ」

「本当冗談みたいに寝てたよ。死んだのかとも思った」

「そういえば、なんかいい香りがしますね」彼女は興味ありげに台所の奥をのぞきこんだ。

「カレーを作ったんだ」

「へえ、私のために?」

「自分のためさ、食べていいけど」

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グレーゾーン 佐寺奥 黒幸 @sajioku_kurosati

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