ピアニストの指

 ホワイトボードには今月のノルマがびっしりとマーカーで書かれている。

 僕は与えられた課題を頭の中で整理し、どのような段取りでそれを処理するかを考えた。そうしていると、後ろから上司が来る。田村課長、筋肉質で、ちょっとおっかない雰囲気をかもし出している。

「どうだ?今月のノルマは達成できそうか?」

 僕は笑顔をつくり「ええ、なんとかできそうです」と、普段よりもトーンを高くして言った。

 それはよかった、と田村課長は言い、また自分のデスクへ戻っていく。

 僕はまるで僕じゃないようなすばやい動きで、どんどん仕事を処理していく。営業はつらい。外回りは嫌いだ。接待も嫌いだ。無理して笑顔を作るのも嫌いだ。かといってオフィスにいるのも嫌いだし、なんなら仕事自体が嫌いだ。-

 18歳のころからこの仕事を続けている。大学へ行かなかったのは、無論金の事情だ。行かなかったというよりか、行けなかった。県下二番目の進学校で上位30%という、良いといえは良いが、特別飛び抜けてるわけでもなかった僕は、親の借金があ、担保があ保障があ、とか言う理由で、奨学金すら借りることができなかったのだ。

 そのときは腹も立ったし、悔しがったりもしたのだが、現実というのは恐ろしいもんで、悲しむ余裕すら僕にはなかったのだ。

 僕は身振り手振りを使って、取引先に人工の笑顔をばらまいた。明るい人格を演じるというのもの、見方によればおもしろいものだ。それで相手が喜ぶのだから、胸の中から違う種類の笑みがこぼれそうになる。僕の舌は上下左右へ、ピアニストの指のように縦横無尽に動き空気を震わせる。

 もしかすると、僕は俳優に向いているのかもしれない。

 建物を出る。新規の契約をぶらさげて。僕は顧客リストを確認して、また次の場所へ向かう。

 ただ、この移動する間が苦痛でたまらないのだ。疲れがどっと沸いてくる。自分は何をしているのだろう、とも考えてしまう。人為的に上げたテンションはボールと同じで、必ず下に落ちる。

 僕はときどきこう考えた。「今仕事しているのは僕じゃない。違う何かだ。僕はそれをラジコンみたいに操作してるだけなのだ。」

 今日の分の仕事を終え、僕は家に帰った。甘くて生温かい空気が、町の夜にただよっていた。

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