気がつけば隣にいつも君がいてなのに視線は交わらないで

 思えば、僕たちはただ、生きることに必死だった。二人三脚のようにお互いを縛り付け、前ばかりを見据えては走り続けて。

「長かったね」

 本当に、長かった。小さな頃から、なんとなくご近所付き合いがあって。勧められるままに結婚して。僕が出世を夢見ている間に、娘も息子も、お前は一人で立派に育て上げてしまった。

「僕は、本当にひどい夫だ。これだけ長く付き合ってきたのに、未だにお前のことがわからない」

 どれだけ家をないがしろにしても、文句の一つも言わないで。一体、何を考えているのか。まるでわからない。

 昔から、お前はそういう奴だった。

「なあ、最後くらい、本音を言ったらどうだ。家庭から逃げてばかりの、最低最悪のクズ野郎だって」

 仕事もだいぶ落ち着いた。子供も独り立ちした。ようやく、お前の顔を真正面から見られると思ったのに。

「頼むよ、怒らないから。もう、お前を一人になんかしないから。今更気がつくなんて、馬鹿な人だと。思いっきり、思いっきり罵ってくれ……」

 そう、今更。遅すぎたんだ。もっと早くこうするべきだった。後悔の念だけが、無様にも棺の内に滴り落ちる。

 かつて僕がお前をかえりみなかったように、お前が僕を見つめることはもう二度とない。僕たちの視線が交わることは、金輪際、あり得ない。

「……親父、これ」

 久しぶりに顔を見せた息子は、知らぬ間に一人前の男となっていた。それでも、どこか大人になりきれないような面持ちで、無愛想に何かを棺に放る。

「……あ」

 それは、古ぼけた一枚の写真だった。

「……ああ、そうか。そうだったのか」

 写っていたのは、幼い頃の些細な思い出。虫取りに夢中な僕と、そのかたわらで微笑むお前の姿。

「僕だけだったんだ。僕だけが、何も見えていなかった。見ようともしなかった。僕、だけが」

 お前は、今までずっと、僕のことを見守り続けていたというのに。

 項垂れる僕の両隣で、娘と息子は静かに手を合わせる。安らかな炎の中で、お前のあどけない微笑みだけが、ゆらゆらと揺らめいているような気さえした。


『気がつけば、隣にいつも君がいて』

 思い出の裏側に、人知れず記された本音。たった一行の恋文は無情にも、透明な灰となって、その行方を永遠にくらませた。

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