07 亡き王子のためのパヴァーヌ

「あ、あ……」


 馬脚をあらわすという言葉があるが、今のルイ十八世がまさにそれであろう。

 つまり、警察卿ジョゼフ・フーシェは、いかなる理由かは知らないが、亡きルイ十七世の死を追っていた。

 そして、その類稀たぐいまれなる情報収集力で(いちどきに別々の場所に存在する、とまで言われていた)、不幸な少年王を追いつめたのは、その叔父であるプロヴァンス泊、すなわちルイ十八世であると睨んだ。

 革命の揺籃期、動乱期を生き抜いた男だ、その独特の嗅覚も利いたであろう。


「……だが、決定的な証拠に欠いている」


 怜悧な警察卿は、いわゆる刑事事件の証拠のような証拠ではなく、この場合の犯人たるルイ十八世に王手をかけるべく証拠は、持ち合わせなかった。

 後日聞いたところ、ルイ十八世は確かに獄吏に意を用いたが、それは非常にあいまいな示唆であった。


「貴人になことだ。あとで言質を取られぬよう、の『愛のキャベツ』を腐らせてやれと伝えたらしい」


 その獄吏も、今はいない。

 何の証拠もない。

 ところが。


「……しくもマリー・テレーズ殿下がタンプル塔の資料を見たいとおっしゃった。おそらく資料には、獄吏の選定にも、指示にも、ルイ十八世の名は見えないであろう……が、『愛のキャベツ』という言葉は、タンプル塔の資料のAアートロワ、いや、カトルに載っていました」


「愛の……キャベツ……」


 それは、マリー・アントワネットあのオーストリア女の、ルイ十七世に与えた愛称である。

 当然ながら、それはごくごく身内しか知り得ない。

 そう、


「愛のキャベツが何を意味するのか。それは使いを通して、獄吏に口頭で伝えられたのでしょう……成功報酬をちらつかせながら」


「ちがう!」


 ここで老人の吠え声が響いた。

 老人――そう、ルイ十八世はまるで断末魔のごとく、ちがう、ちがうと吠えた。


「そんなことを朕がしてどうなるというのか! 何の得が……」


「王位が得られたんだろうよ」


 その容赦のない発言は、記すべくもないだろうが、タレイラン・ペリゴールの口から出た言葉だった。

 そしてフーシェは酷くつまらないものを見るような目で、ルイ十八世を見ながら、言った。


「……そんな資料をマリー・テレーズ殿下に見られたら、と思った陛下は、破棄を命じた。だが性急に過ぎましたな。そして稚拙だ。今度という今度は、証拠をつかませてもらった」


「ちがう……ちがうんだ……」


 この期に及んでなおも否定するルイ十八世。

 彼は、すがるようにマリー・テレーズ殿下に目を向けた。


「ちがう、ちがうんだ。わがよ。だ、大体、この警察卿は、不幸な兄ルイ十六世を、リヨンの臣民を乱殺した輩だぞ? そんな輩の……」


「叔父上」


 マリー・テレーズ殿下は無表情だった。

 それはどこまでも感情が無く、それでいて、あらゆる感情がないまぜになっているような、そんな無表情だった。


「少なくとも警察卿は、いえ、ジョゼフ・フーシェどのは、己がしたことを認めています。わが父の処刑に賛成票を投じ、リヨンの霰弾さんだん乱殺者であることを。ひるがえって叔父上、貴方はなぜ、お認めにならないのか?」


 ルイ十八世は言葉に詰まった。

 当然であろう。

 マリー・テレーズ殿下はかぶりを振る。


「……それが、わらわ、マリー・テレーズがフーシェの言を信じ、貴方を信じない理由です」


「う……お……おのれ……」


 ここでルイ十八世は思わぬ行動に出た。

 タレイランの手を振りほどき、まっしぐらに執務室を出んとして駆け出したのだ。


「こうなったら、ここにいる奴らをまとめて、大逆罪で……」


 ところが、駆け出したルイ十八世の襟を片手でつかみ、その足を止めた人物がいた。


「フーシェ……」


「まだ話は終わっていません、陛下」


 フーシェはおもむろに、残った片手を懐中に入れて、を取り出した。


「見ろ」


 ここに来て、警察卿は初めて己の感情を顔に浮かべた。


「ルイ十八世、よく見ろ。が、がお前によって、この世のありとあらゆる背徳を浴びた鳥の、鳥籠の鳥のだ。お前のの遺言だよ。見ろ、ルイ十八世ことルイ・スタニスラス・グザヴィエ」


 国王を本名で呼び捨てにする。

 冷酷ではあったが、謹直である警察卿にあるまじき暴言。

 そう、彼フーシェは、怒っていた。

 そして。


「うっ、うわあああああ」


 老人の絶叫が響いた。

 ルイ十八世は、フーシェの取り出した、何かの石のかけら、そのかけらに記された言葉を、そう、たった二語であったが、その言葉を見て、取り乱した。半狂乱だった。


「うわあああ、ち、ちがう、ちがうんだ! あっさりと! 事故で! 事故を装って! それで良かったんだ! それを! それを! あの愚かな獄吏が勘ちがいをして!」


「叔父上……」


 ついに弟の死の真相を知ったマリー・テレーズ殿下。

 その表情は疲れ切っていた。

 けれどもその足は動き、そしてフーシェに向かって、手を伸ばした。


「妾にも、見せて下さいませ、警察卿……を」


「……お辛い思いを味わいますよ」


 フーシェはもう、冷酷な表情を取り戻していた。

 だがその目は……いや、これ以上は書かない方がいいだろう。

 ただ言えることは、マリー・テレーズ殿下も同じような目をしていた。


「見せる前に説明を。私がルイ十七世に会った時、陛下は、タンプル塔に囚われの身でしたが、、ただただ、花を捧げていたそうです。に」


 傲岸不遜なタレイランですら、顔を下に向けた。

 私もまた、辛い気持ちだ。


「その時の私はリヨンの血に酔った群衆を……いえ、これは関係ない話です、失礼。いずれロベスピエールにタンプル塔に閉じ込められるなら、と獄吏の買収を目論んでいました」


 抜け抜けと言うが、もはや誰もそれをとがめない。

 そしてフーシェは語る。

 塔を歩いていると、花を取って欲しいと願う子どもに会ったことを。



 ――小父さんムッシュウ、どうか僕に花を。


 ――小父さんムッシュウと言うのはたまえ。市民シトワイヤンと言いなさい。


 革命盛期、人々は敬称までも変えていた。

 フーシェは花を摘みながら注意をしたが、それを獄吏に言いつけることは無かった。

 そして。


 ――ありがとうございますメルシーボークー小父さんムッシュウ、ではない、市民シトワイヤン……。


 ――ジョゼフ・フーシェだ。覚える必要は無いがね。


 ――僕はルイ・シャルルです。ここの人たちにはカペーの餓鬼、と呼ばれていますが。


 ――……獄吏にはあとで気を付けるように言っておこう。


 ――ああ、それはいいんです。あの人たちがそれで気が済むんなら。


 ――……そうか。


 フーシェはきびすを返した。

 囚われの王は可哀想ではあるが、今の自分にできることはない。

 その背に、声がかかった。


 ――待って下さい、ひとつだけ、ひとつだけ、教えて下さい。


 ルイ・シャルルは母のことを知りたがった。

 フーシェは一瞬ためらったが、ルイ・シャルルの落ちくぼんだ目を見て、教えることにした。

 それが死相であると判じたからだ。

 母の死を知ったルイ・シャルルの様子を、フーシェは「言えない」とだけ言った。

 そして。


 ――ああ、どうか、フーシェさん、おそらく僕はもう長くないでしょう。だけど、だけどせめて、あの言葉を、残してくれませんか。


 フーシェは見た。

 牢獄の壁。

 ごつごつとしたその壁に、炭か何かで書かれたを。



が、これです」


 タンプル塔の破却の際、フーシェは皇帝ナポレオンに願い出て、を得た。

 タンプル塔内ルイ十七世の牢獄の壁のかけら。

 仔細を知ったボナパルトは、持って行けと許したという。

 このあたり、さすがは英雄エロイカと言ったところだろうか。


「タンプル塔の資料も、公開することは無いが、しまっておけと」


「委細はわかりました……見せて下さいませ」


 フーシェはを、そっとマリー・テレーズ殿下の手のひらに落とした。


「おお……」


 嗚咽おえつが上がった。

 ……には、こう書かれていた。


 ――Maman, je(お母さん、僕、あのね……)、と。

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