終末世界の過ごし方_16 家計簿
世は事もなく過ぎて真夏が終わり、晩夏から初秋に差し掛かり、少しずつ涼しくなってきた。マギーとニナは、二、三カ月に一度の頻度で
フードを被ったマギー姉さんとニナは、連れ立って商業区画へと足を踏み入れていた。泥とレンガの家屋。木と布切れの天幕。鉄骨やセメントで作られた崩壊前の建築物。木板とレンガの頑丈な建物。豆を炒った匂い、香辛料の匂い、肉を焼く香り、家畜の臭い。貨幣の鳴る音。埃っぽい地面を踏みしめて入り込んだ一角には、遊牧民や隊商など、雑多な人々が様々な言葉で値段や数量の交渉を行っていた。未だ夏の半ば。数多の農村と取引を独占し、飢えとは無縁な自由都市の闊達な空気は、行き交う人々にも活力と陽気さを与えている。
しかし、ズールに踏み込むマギーの顔色は優れていない。まるで他人の目に触れるのを厭うているかのように毎回、フードを深く被って顔見知りの前でしか素顔を見せなかった。特に衛視の姿を避ける素振りも見せないことから、後ろ暗いところがある訳ではないのだろうが、顔を合わせたくない相手がいるだろう。
いつも通りに僅かばかりの麦を卸してズール通貨を得ようと、いつも利用している食料品店に足を踏み入れた。
「やあ」扉を潜ったマギーが親しげに挨拶する。
「おっす、マギー」店番をしていた娘さんからも気安い挨拶が返ってきた。
マギーは背嚢から麦の入った袋を取り出した。
「麦の売却かな」と店番の娘さんが麦袋を開けて、品質を確かめた。
「色を付けてくれてもいいんだよ」とマギー。
「品質は悪くないね」娘さんは用心しながら言葉を続ける。
「小口だし、あまり高く買えないのは本当だよ」
相変わらずのしわい返事にマギーは首を振った。
「残念」
この間、ニナは一言も口を利かなかった。
取引が終わると、マギーとくせ毛の娘さんはテーブルを挟んで、しばし世間話に興じた。
お茶を飲みながらの話題は、もっぱら交易路に出没する
情報交換を兼ねた世間話が一段落すると、マギーは本題に入った。
「もう何か月かすると、ポレシャで食糧庫が解放される」
「秋の終わりの頃ね」娘さんが頷いた。
「五十キロ。ポレシャの二等保証付きとして、八百で売りたい」
マギーの提案に対して、店番の娘さんは小首を傾げた。
「引き渡しは、ポレシャの食糧庫?」
マギーが頷くと、店番の娘さんが頷いた。
「量も多いし、それなら、十キロあたり百三十出してもいいよ」
「ポレシャの二等級を?」マギーが聞いた。
「ポレシャの二等級を」娘さんが頷いた。
しばし、無言で手元のカップを眺めてから、マギーは頷いた。
「お茶をありがとう。美味しかった」
そうして立ち上がり、値段交渉をするでもなく、あっさりと出ていった。
見送った店員が肩を竦めた。
「買い叩き過ぎでは?」
「黙って」店の娘さんは、ぴしゃりと言った。
表通りに踏み出すのを躊躇うかのように、マギーは軒先の下に留まって日差しを避けていた。それから傍らのニナを見て、苦く笑った。
「買い叩いてくるもんだね。足元を見られた?」つまらなそうな口調でニナが言った。
「……どうなのだろう」マギーは考え込んでいる。
「他所の店でも、似たような値を付けると踏んだのだろうか」
マギーは分からんと首を傾げた。
「それでも大分、買い叩かれたかね」とマギーは苦笑を浮かべた。
昔の友人に舐められた、とニナは店の娘さんの変節を勝手に腹立たしく思ったが、マギーは随分と冷静に見えた。理知的にも見えるし、人によっては煮え切らない性格に思えるかも知れない。
「……悔しいよぅ」多感な年齢なのだろう。ニナは涙を零した。
マギーはびっくりしたようにニナを見た。
抱き寄せるも、慰めの言葉を思いつかずにただ髪に顔を埋める。
麦十キロあたり百八十ズール通貨の値は、百キロ単位を農村で仕入れて、大量輸送と護衛の手配をした上での買取価格だった。
麦百キロを売買するのではなく、百キロを最低単位としての仕入れ量での価格であって、扱う量が少なければ当然に運搬と護衛の単価コストは上がる。百キロの取引なら百六十。五十キロなら百四十が妥当な価格とマギーは踏んでいた。
麦の商売が門外漢のマギーにとって、それを確かめる為の申し出ででもあったのだけれど、自分の為に泣いている少女へ説明するのも違うような気がして、困ったマギーはただ肩や背中を擦ったり優しく抱きしめた。
小口の客で偶の取引。長く滞在しないよそ者。収穫期に取引価格が低下することを含めても、足元を見られたことには違いない。
誰にとっても軽侮されるのは嫌な体験だろうが、
しばらくするとニナは平静を取り戻したように見えた。
「……取り乱した、恥ずかしい」
そう呟きつつ距離を取ると、紅潮した頬に掌で触れている。
それから、思考をはっきりさせようとするかのように頭を振った。
「……マギーは怒ってなかったね。予想してた?」
ニナの言葉は、質問ではなく確認のようでもあった。
「後で考えを説明するよ」マギーが言うと
「うん」ニナは深々と頷いた。
それから二人は連れ立って、自由都市の通りをゆっくりと歩いた。多分、今年の見納めとなるだろう市場の盛況を眺めながら、手を繋いで色々と歩き回った。
「今年の冬は、
「ポレシャで冬を過ごしてもいいし、ズールで過ごしてもいい」とニナ。言葉と同時に、手を握る力を強めてきたので、マギーは微かに笑った。
「ズールなら冬でも仕事を探せたけど……ポレシャも過ごしやすい町だし。ポレシャに帰ったら、簡易宿泊所に予約を入れよう」マギーの言葉に、ニナは静かに頷いてから、肩に頭を寄せてきた。
「冬越えね。ドキドキしてるよ」
簡易宿泊所の帳場にて、ニナを連れたマギーが問答していた。
「毛布は貸さないでいいか?」と主人が問いかける。
「毛布は持っている」マギーが頷いた。
「すると、薪代と寝床代で、50
頷いたマギーが紙幣を数えながら支払うと、主人がまたそれを確認してから、予約票を発行した。
大きな居留地などでは、予約票を盗まれてしまうと宿泊できなくなるが、ポレシャでは顔見知りな主人が、手元の宿泊簿に客の名と支払いを記入していた。
利用者も限られた簡易宿泊所で予約票を盗まれても、盗人が図々しく宿泊するなんて真似は出来ない。もっとも、トラブルは避けるに越したことはないので、マギーは予約票を大事に財布の奥へと仕舞い込んだ。
簡易宿泊所を出たマギーとニナは、その足で食料品店を兼ねた酒場へと足を踏み入れ、隅のテーブルに腰を下ろした。
薄いビールとレモネードを注文してから、ニナがノートの家計簿のページを広げる。
~~~~~~~ニナちゃんの家計簿~~~~~~~
07月 初夏 80ポレシャ通貨 100ズール通貨
08月 真夏 90ポレシャ通貨 100ズール通貨
09月 晩夏 100ポレシャ通貨 150ズール通貨
10月 初秋 110ポレシャ通貨 150ズール通貨
・簡易宿泊所に050ポレシャ通貨の支払い
初秋 060ポレシャ通貨 150ズール通貨
11月
12月
注※1ポレシャ通貨=麦1キロと兌換できる
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「……家計簿を見るに。
07月頭に80ポレシャ通貨と100ズール通貨
08月頭に90ポレシャ通貨と100ズール通貨
09月頭に100ポレシャ通貨と150ズール通貨
今が10月初頭で、60ポレシャ通貨と150ズール通貨」
ニナが支払った後の所持金について報告してくる。
「今が10月初頭。12月の頭までに麦90キロを貯めておきたいです」とマギー。
「大丈夫かなぁ」呻くニナと対照的に、マギーは楽観していた。比較的に安全な廃屋を漁るだけでも、月に10キロ相当のポレシャ紙幣は楽に稼げてきたからだ。
よしんば廃墟漁りに出かけないでも、ビールとレモネードにお菓子、肉を減らせば、普通に働いても充分に80キロ相当のポレシャ紙幣に手が届いた。
最悪でも、所有しているフライパンや金属の鍋などを売れば問題ない。
「冬には、怪物や野生動物も飢えるから廃墟漁りはお預けだけどね」
マギーに言われて、ニナもぎこちなくだが微笑んだ。
二人は明るい雰囲気で、冬になったら何をして過ごすか話しあった。冬は厳しい季節だけれども、同時に準備の出来た者たちにとっては一年でもっともゆっくりと過ごせる季節でもあった。
二人が笑っていると、突然に怒鳴り散らす声が上がった。
「……楽しそうだなぁ!ええ!」
酒場が一瞬、しんと静まり返った。最初は自分たちに向けられた怒鳴り声とは思わずに顔を見合わせたニナとマギーだが、声の主は訳の分からぬことを怒鳴り続けている。
終わらぬ罵声に振り返ると、酔客の一人が顔を真っ赤にしてマギーたちを睨みつけていた。
「いいもん食ってるじゃねえか……」酔客の男は喚いているが、言われるほどのいいものではない。一番安いビールとレモネードに、乾燥豆が一皿。戸惑いながらも、マギーは、ニナを庇うようにして近寄ってくる酔客へと向き直った。
喚いている酔客は銃などは持ってなさそうだった。周囲に騒めきが広がる中、立ち上がったマギーは困惑した様子を隠し切れずにいた。
「……なんの用かな?」
「てめえの面倒もろくに見れねえくせに。他人の餓鬼を食わせてやるとはな……」
険悪な表情でマギーを睨みながら、酔客は声高にとんでもないことを言い出した。
「怠けもんの分際でいいご身分だぜ。だが、人の懐に手を突っ込むのは感心しねぇな?」
当然にマギーに心当たりはない。
「はあ?なんのつもり?」
「前からおかしいと思ってたんだ。前からよぉ」
酔客は、勝ち誇ったようにニヤニヤと卑しい笑みを浮かべていた。
「お前ら、働きもせずにしょっちゅう遊びまわってて、その癖にいいもん食ってやがる」
困惑を隠しきれないマギーへと、嬲るような口調で言葉を投げかけた。
「なあ、その水や薪は何処から出てるんだ?ちょくちょく路地裏で盗みが発生するようだしなぁ」
酔客の悪意はいまや隠しようもなかったが、マギーは醒めていた。
周囲へと視線を走らせる。興味本位で見ているものが半分、戸惑っているのが半分。今のところ、酔客に同調する者は一人もいなかった。知らぬ間に根回しされて、黒い羊に仕立てられた訳でも無さそうだ。なら、なんとかなるだろう。
「曠野で薪を採ってる。週一で採ってくるのを大勢が見てるよ」
マギーの返答に、酔客は怯まずに矢継ぎ早に言葉を投げかける。
「じゃあ水だ」
「煮沸に使える薪が多いなら、水だって飲める。浄水装置も持ってるし、薪採りや水汲みにも毎度、参加してる」
言ってから、マギーは酔客の顔を眺め、淡々と呟いた。
「そう言えば、あんたは見ないな。参加すればいいものを。普通に買ったら薪や水も高いだろう」
「……だれの責で」マギーの言葉を受けた酔客が、憤ったように唸り声を漏らした。
それでマギーは思い出した。やってきた当初に上からマウントを取ろうとして失敗し、今は周囲の労働者によく揶揄われている自由労働者の一人だった。揶揄われる切っ掛けは、マギーの一言だったような気もするが。
「ようするにあれだ。大勢の面前でやり込められ、恥をかいたのが気に入らないで難癖をつけてるんだろう」吐き捨てたマギーは肩を竦めて、言葉を続けた。
「ついでに他人に濡れ衣をひっ被せれば、自分は疑われないで済む、となるほどなるほど」
それで酔客の親父が激怒した。全然、恐くはなかったが。
「なんだと!てめえ!人を泥棒扱いしやがるのか!」
「えぇ、どの口で言うんだ。これ」
脱力しているマギーの途方に暮れたような言葉に、他のテーブルで誰かが低く笑った。
「許さねえぞ!」腕まくりをして迫ってくる酔客の親父。
「ちょっ、恐いって」
マギーはちょっと後退して、肉料理を食べてた人のテーブルに右手をついた。
客も巻き込まれまいと慌てて席を立ち、テーブルのナイフとフォークがガチャガチャと鳴った。
マギーは、左手をひらひら振って「止めようよぉ」なんて呟いている。
若い娘が。給仕のようだが、酔客とマギーの間に割り込んだ。
「や、やめてください」
「うるせえ!」若い娘を突き飛ばした酔客の親父だが、流石に見かねたのだろう。
今度は男性の店員が出てきて、腕を掴んだ。
「旦那、飲み過ぎだぜ。その辺にしておきな」
「放せ!このがきゃあだけは!大の男を馬鹿にしやがって!身の程って奴をおしえてやるぁ!」
「……飲み過ぎよ」女店主の呟きに他の男性店員や客までが出てきて、酔客の親父の腕を掴んだ。酒場の二階担当の強面の店員も混じっている。
「俺は悪くねえ!あのアマぁだけは勘弁できねえ!」
「分かったよ。あんたは悪くない。だから頭を冷やしてもう帰んな」
なだめられて、喚きながら酒場から強制退店させられる酔客の親父を見送って、ニナはくすくすと笑った。
「……変な人だったねぇ」
マギーは、ニナほど楽観的には成れなかった。
「ああいう変なのに逆恨みで、撃ち殺された人もいるよ」
「私たちも、もう帰ろう」
お金をテーブルに置いたマギーに、女性給仕が謝罪の言葉を掛けた。
「ごめんなさい。本当に」マギーに対して頭を下げてくる。
「いや、気にしてないよ。店員さんはよくやったと……」
「家族なんです」女性給仕の唐突な一言。マギーも流石に面食らった。
「……お父さん。もうじき冬が来るのに、上手くいってないで」
弁解してる女給仕のもとに強面の店員を連れた女店主がやってきて、マギーに穏やかに頷いた。
「あの人も、ちょっとお金が出来ると呑んじゃってね。毎年、そう言う人はいるんだけどね」
マギーが苦笑すると、女店主が女給仕にテキパキと指示をした。
「さあ、みんな。仕事に戻って」
頷いた女給仕がもう一度、頭を下げてから立ち去ると、女店主はマギーに対して微笑みながら言葉を投げかけた。
「お酒を飲まないと女の子にも文句を言えない小心者なんだから、ビクビクすることはないわよ」
「……そうだと良いんだけど」マギーも苦笑を浮かべてる。
「ええ、簡単に人は殺さない方がいいわ」酒場の女店主は、マギーを見つめながらそう告げた。
「……わたしが?」マギーは首を傾げる。
「右手のナイフ、戻しておいてね」
酒場の女店主を見つめるマギーの表情からは、感情の色が抜け落ちていた。
肩を竦めると、マギーの右手に魔法のようにナイフが現れ、次の瞬間にはテーブルへと突き刺さっていた。
「またね」と手を振って踵を返したマギーの背中を見送ってから、酒場の女店主は、
「……恐い娘」と呟いて肩を震わせた。
風が涼しくなり始めていた。冬の来訪に憂い顔で囁きあっている
酒場からの帰路で、マギーがぼやいていた。
「……あの人は、わたしをなんだと思ってるんだろう?」
「ステーキのナイフを掴んだのが良くなかったのかも」ニナが指摘した。
マギーの背負ってるバットは血塗れで先端がテープで補強してある。時々、血痕が増えてるのが良くないのかも知れない、とニナは思ったが口には出さなかった。
「とんでもない風評被害……なんとかしないと」
マギーが悩んでいるが、解決策は思い浮かばないようだ。
「……マギーは、なんかそういう雰囲気あるよね」
ポツリと漏らしたニナの言葉に、マギーが露骨に嫌そうな顔を浮かべたので慌てて慰めた。
「大丈夫。大丈夫だよ。マギーはいい人だし」
マギーはやや少し不安そうに、慰めの言葉にうなずいたのだった。
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