バンパイア君、溺愛注意報!

望月くらげ

第1話

 チャイムが鳴るまであと少し。教卓で担任の笠羽先生がため息を吐いているのが見えたけれど、私は息を殺すようにジッとしていた。

「はあ。じゃあ、続きは来週のHRの時間に決めるから、各自ちゃんと考えておくように」

 言い終えた瞬間、教室にチャイムが鳴り響いた。

「……ふう」

 ようやく息を吐き出すと、私は机の横にかけておいたスクールバックを机に置いた。バックにはこの間、友達と作ったネームプレートがついていて私の名前である桜井さくらい夏希なつきの『NATSUKI』と彫られていた。私の趣味とは違う、シルバーのプレート。でもみんなが作るって言い出したから、私だけいらないなんて言えなかった。そんなこと言ったらどうなるか、想像しただけで胃がキリキリと痛くなる。

「夏希、今日の帰りなんだけど」

 帰る準備をし始めた私に友人の上津かみつ美愛みあが声をかけて来た。私は美愛の言葉に身構える。どこかに遊びに行こうという誘いだったらどうしよう。今日はお母さんに早く帰ってくるようにと言われているから遊びに行くことはできない。でも、美愛の誘いを断って、気まずくなるのも嫌だ。

「顧問から呼び出されちゃって。だから先に帰ってもらってもいい?」

「え、あ……そうなんだ?」

「ほら、私二年のまとめ的なポジションしてるでしょ? 多分そのことでだと思うんだよね」

 美愛は二年生ながら、新体操部のエース的ポジションだ。三年生を押しのけてレギュラー入りしているし、高等部に上がればきっとインターハイ出場間違いなしと言われていた。

「そっか、わかった。じゃあ、今日は先に帰るね」

「ホントごめんねー」

 両手を合わせて美愛は申し訳なさそうに言う。なのに私は一緒に帰らなくていいことにホッとしている。そんな自分が大っ嫌いだった。

 帰りのホームルームも終わり、一人で教室を出る。五月だというのに、あまりの天気の良さに夏を先取りしたのかと思うぐらい。

「あっつ……」

 十分も歩けば頬を汗が伝い落ちる。カバンの中にはお母さんに持たされた折りたたみの日傘が入っている。使えば少しは暑さが和らぐことはわかっていたけれど、通学で日傘を使っている人なんてほとんどいない。なのに使ったりなんかしたら、目立つに決まっている。ヒソヒソと何か言われるかもしれない。そんなの絶対に嫌だ。

 できるだけ目立たず、普通に生活したい。そのために、わざわざ中学受験をして同じ小学校の子とは違う中学に進学したんだから。

 ようやく家の近くまで帰ってきた。あと少しだ、そう思った私の目に映ったのは、お店のシャッターにもたれかかるようにして倒れている男の子だった。

「え、ええ!? ど、どうしよう!」

 救急車を呼んだ方がいいのだろうか。ううん、とりあえず大人の人を呼んでくるべき!? 私の家まですぐだから、家に帰ってお母さんに――。

 色々なことがグルグルしていると、男の子はうっすらと目を開けた。

「あ……」

「あ? 頭が痛いとかですか? それとも……」

「暑い……なんだこの気温は……喉がカラカラだ……」

「え?」

 たしかに今日はとても暑いけど、倒れるほどではないと思う。でも目の前の男の子はぐったりと倒れ込んでいる。もしかしたら暑さにすごく弱いのかもしれない。

「おい、お前」

「え? 私?」

「お前以外に誰がいるっていうんだ。この暑さをなんとかしろ」

「なんとかって言われたって、無理だよ」

「なんだと?」

 私の返事が不服だったのか、男の子は眉をひそめた。その態度に思わず肩がビクッとなる。でも、暑さをなんとかしろって言われても、どうしたら……。

「……あ、そうだ」

 私はカバンから日傘を取り出して開けると、男の子が隠れるように立てかけた。

「これ、は……?」

「あとちょっと待ってて」

 近くの自動販売機に向かうと、スポーツドリンクを買った。水でもよかったんだけど、脱水症状になっている可能性があるときは、ミネラルを含むスポーツドリンクの方がいいって前に先生が言っていた。

「はい、これ」

 買ってきたスポーツドリンクを手渡すと、男の子は一気に飲み干した。よっぽど喉が渇いていたみたいだ。

 って、そろそろ家に帰らないとお母さんに怒られちゃう。

「じゃあ私もう行くから!」

「え、あ……ありが、とう」

「あ、日傘はあげるよ。どうせ私、使わないしね。それじゃあ!」

 それだけ言うと、私は家に向かって走り出した。


「ただいま!」

 バンッと玄関のドアを開けると、そこには仁王立ちをするお母さんの姿があった。普段のパンツスタイルではなく、今日は薄いピンク色のワンピースを着ていた。

「もう、遅かったじゃない。そろそろ蒼月さんがいらっしゃるっていうのに」

「蒼月さん? って、お母さん。それよりも」

 どうしてよそ行きの格好をしているのかとか、蒼月さんが誰かとか気になることはあったけれど、それよりも先に私はさっきの男の子の話をした。あのままにしておいて、また倒れてしまったりしたら、そう思うと不安で仕方がなかった。

「あら……それは心配ね」

 時計に視線を向けた後、お母さんは玄関に降りて靴を履いた。

「すぐ近くでしょ? まだ時間は大丈夫だと思うから見に行きましょうか」

「うん!」

 お母さんの言葉に凄くホッとして、私は元来た道を案内するように歩いた。でも。

「誰もいないわね」

 さっきまで男の子が座っていたところには、もう誰の姿もなかった。もちろん私が貸した日傘も。

「さっきまで本当にいたんだよ! 嘘じゃないの」

「嘘なんて思ってないわ。夏希が渡したスポーツドリンクのおかげで少しマシになって歩いて帰ったのかもしれないし、お母さんたちが来るよりも前に他の人が助けてくれたのかもしれない。少なくともここに来るまでに救急車の音は聞こえなかったから、悪化したってこともないと思うわよ」

「よかったぁ」

「あら? そんなにホッとするなんて、よっぽどカッコよかったの? もしかして一目惚れ?」

「は? そういうんじゃないよ! 心配だっただけ!」

「そう? なーんだ、つまんない」

 からかうように笑うお母さんに頬を膨らませてみせる。なんでもかんでも恋愛に結びつけないでほしい。一目惚れなんかじゃない。ただあんなふうに倒れている人を見るのが初めてだったから、心配だっただけ。

 それに――。もう恋愛なんて、誰かを好きになるなんて、こりごりだ。

 黙り込んでしまった私に、お母さんは「ふう」とため息を吐くと、優しく微笑んだ。

「まあそれはそれとして、夏希が倒れている誰かを助けようと思うような、優しい子に育ってくれてよかったわ」

「……別に、そんなんじゃないよ」

 優しいから助けたわけじゃない。ただ素通りして、あとで何かあったときに、私のせいでって言われるのが嫌だっただけだ。そんなの優しいなんて言わない。

 お母さんは私の背中を軽く押すと歩き出す。私もお母さんに連れられるようにして自宅への道のりを再び歩き出した。


 家に帰り、制服を着替えようとすると、お母さんからそのままいるように言われた。

「どうして?」

「だって蒼月さんがいらっしゃるんだから。私立中の制服の方が見栄えがいいでしょ?」

「さっきから言ってる蒼月さんって誰?」

「あ、そういえば夏希には言ってなかったわね。蒼月さんっていうのはパパの会社の人で――」

 説明しようとするお母さんの声を遮るようにして、チャイムの音が鳴り響いた。どうやらその蒼月さんとやらが来たようだ。

「はーい」

 パタパタとスリッパの音を響かせながら、お母さんは玄関へと向かう。一瞬、どうしようかと迷って私も後ろをついていった。一緒に出迎えた方がいいかもしれないと思ったから。

「こんにちは、お久しぶりです。あ、こちら息子さん? わ、凄く大きくなられましたね」

 どうやら蒼月さんとやらは、息子さんを一緒に連れて来たらしい。恐る恐るリビングのドアから顔を出すと、そこには――さっきの男の子がいた。

「え、なんで」

「あっ、お前!」

 向こうも私に気付いたようで、驚いたような表情を浮かべたあと、嬉しそうに笑った。

「よかった、また会えた」

「あら? 夏希ってば夜斗やと君と知り合いなの?」

「夜斗、君?」

「ええ、蒼月夜斗君。夏希より一つ年上の中学三年生よ」

 夜斗君は笑みを浮かべると、私に手を差し出した。

「蒼月夜斗です。さっきはありがとう。あまりの暑さに倒れ込んでいたんだけど、君のおかげで命拾いしたよ」

「そ、そんな。私は何も……」

「あら? さっき夏希が言ってたのって夜斗君のことだったの?」

「そう、みたい」

 私もまだ状況が飲み込めていない。なのに、お母さんとそれから夜斗君のご両親は何か楽しそうに話をしている。

 どうにも居心地が悪くて、視線をさまよわせていると夜斗君がずっとこっちを見ていることに気付いた。

「えっと、もう身体は大丈夫?」

「うん、夏希のおかげだよ。本当にありがとう」

 当たり前のように呼び捨てで呼んでくる夜斗君にドキッとする。男子に名前で呼ばれたのなんていつ以来だろう。

「夏希?」

「あ、ううん。なんでもない……です」

 そういえば年上だった、と慌てて敬語にした私を、夜斗君はおかしそうに笑う。

「敬語じゃなくていいよ」

「でも」

「今日から一緒に住むのに、敬語なんて堅苦しいじゃん」

「そっか……って、待って。一緒に住むってどういうこと!?」

 思わず声を荒らげた私に、隣に立つお母さんが眉をひそめた。

「ちょっと、何? お客様の前で大きな声を出すなんてお行儀よくないわよ」

 躾がなってなくて、と蒼月さんご夫婦に謝るお母さんの腕を私は引っ張った。

「ねえ、お母さん。一緒に住むってどういうこと?」

「ああ、そのこと。蒼月さんたちね、お仕事の都合で海外に行くことになったんだけど、ちょっと治安がよくない場所で。夜斗君を連れて行くかどうか悩んでいらしたから、それならうちで預かりますよって話になったのよ」

「待って! 私そんな話、聞いてない!」

「言ってないんだから当たり前でしょ。これは大人同士の約束事なの。子どものあなたに反対する権利はありません。わかったら、二階の、夏希の隣の部屋、あそこに夜斗君を案内してあげてくれる?」

 どうやら夜斗君が一緒に住む件については大人たちの間では決定事項のようで、ボストンバッグが夜斗君に手渡された。

「じゃあ夏希、お願いできるかな」

 夜斗君に言われ、嫌だと言うこともできず、私は「こっちだよ」と階段を上りはじめた。


「ここが夜斗君の部屋だよ」

 ドアを開けると、以前はなかったはずのベッドや勉強机が置かれていた。いつの間に運び込んだのだろうと思っていると、荷物を置いた夜斗君がベッドに腰掛けながら口を開いた。

「これ、俺のなんだ。元の家で使ってたやつ。一昨日、こっちに運んだんだ」

「そう、なんだ」

 一昨日といえば、美愛と一緒に映画を見に行っていた。まさかそのとき、ベッドが運び込まれていたなんて知らなかった。

「……何?」

 だから映画に行くことに対して、すんなりとオッケーしてくれたんだな、なんて考えていると、夜斗君がジッと私を見ていることに気付いた。

「ん? 夏希は可愛いなと思って」

「かっ……」

「可愛い。凄く可愛い」

 夜斗君は優しく微笑みながら手を伸ばすと、私の頬にそっと触れた。

「さすが、俺の花嫁だ」

「……はな、よめ?」

 何を言われたのかわからなくて、思わず聞き返す。けれど、夜斗君は当たり前だと言うようにニッコリと笑いながら頷いた。

「そう、俺の花嫁。同じぐらいの女子のいる家で同居なんて気が進まなかったけど、花嫁となれば話は別だ。ずっと夏希と一緒にいられるんだ。海外に行ってくれた両親に感謝しなくちゃな」

 一人納得をし、嬉しそうな夜斗君。でも私には夜斗君の言葉が全く理解できないままだった。

「待って、花嫁ってどういうこと?」

「そのままの意味だよ。君は俺の花嫁。だって、俺の眼力が効かなかったから」

「眼力……?」

「そう。吸血鬼バンパイアの眼力が効かないのは、伴侶の証し。夏希、今日から君は俺の花嫁だ」

 そう言って口を開けて笑った夜斗君の歯は、まるで漫画か映画の中に出てくるバンパイアのように尖って見えた。


 ハッと目を覚ますと、私は自分の部屋のベッドにいた。制服のまま眠ってしまっていたようで、スカートが皺になっている。

 どうやら学校から帰ってきて、そのまま寝てしまったようだ。と、いうことは。

「全部、夢、だよね」

 夜斗君という男の子が一緒に住むことになったことも、バンパイアを名乗る彼の嫁だと言われたことも、どっちもきっと悪い夢を見ていたんだ。

 ホッとした瞬間、お腹がぐうっと大きな音を立てて鳴った。時計を見ると、もう夜の七時だ。晩ご飯を食べなきゃ、と自分の部屋のドアを開ける――と、そこには夢の中で出会った彼の姿があった。

「もう大丈夫なのか?」

「な、なんで」

「俺の話を聞いて倒れちゃったから心配してたんだ。でももう大丈夫そうだな」

 夜斗君は私に一歩近づくと、至近距離から見つめてくる。吐息が罹りそうな距離に、思わず息を止める。心臓はうるさいほどの音を立てていた。

「や、とく……」

「どうした? 顔が真っ赤だぞ?」

 私の反応に、夜斗君は嬉しそうに笑うと、何かを思いついたかのようにニヤッと口角を上げた。

「ああ、もしかしたら熱があるのかもしれないな」

「え……」

 そう言ったが早いか、夜斗君は右手で私の額にかかっていた前髪を上げると、自分の額をくっつけた。

「や、あ、あの」

「熱はないみたいだな」

 額を話しながらクスクスと笑う。その表情にからかわれたことを知る。

「わかっててやったでしょ!」

「ん? そんなことない。大事な花嫁が風邪でも引いたらと思うと心配だからな。ああ、でももし風邪を引いたときは俺がつきっきりで看病してやるから安心しろ」

「全然安心できない! そもそも吸血鬼ってどういうこと? そんなのいるわけが……」

「いるぞ?」

 ニッと笑った口元から、ニュッと伸びた犬歯が見えた。明らかに普通の人より長くて、先が尖っているそれが吸血鬼の証しなのだと言われたら、否定することは難しかった。

「じゃ、じゃあ血とか、吸うの?」

「俺はまだ吸わない」

「まだ?」

「と、いうかよく映画とかで出てくるみたいに誰彼構わず血を吸う吸血鬼なんて今はもういない。吸血鬼は生涯に一人だけ、伴侶となる人の血を吸う。俺なら夏希、お前だ」

 真っ直ぐに見つめられ、反射的に首筋を隠すように手を当てる。そんな私の反応を見て、夜斗君は楽しそうに笑う。

「大丈夫だよ、まだ吸わない。正しくは吸えない、だな」

「どういう……」

「血を吸えるのは、大人になったとき。今の俺は太陽の光が苦手なだけで普通の人間と変わらないんだ。ほとんどな」

「そう、なんだ」

 ほとんどというのが気にはなるけれど、基本的に普通の人と変わらないのであれば少し安心なのかもしれない。一つ年上の男の子と一緒に住むってだけでも一大事なのに、さらに血まで吸われるとなったら安心して生活することもできない。

「ちなみにこのこと、お母さんたちって」

「知ってるわけないだろ。夏希も言うなよ。まあ言ったところで信じてなんてもらえないと思うけどな」

 それはたしかにそうだろう。普通に考えて、吸血鬼がこの世にいるなんて思うわけがないのだから。私だって本当はまだ信じられていない。だって吸血鬼なんて、そんな。

「私だって信じられないって顔をしてるな」

「それ、は」

「まあ追い追い信じさせてやるよ。それより」

 夜斗君は階段を指差した。

「おばさんが晩ご飯って呼んでたぞ」

「あ、ホントだ。もうご飯の時間だ!」

 慌てて階段を下りようとした私は、夜斗君を振り返った。

「何してるの?」

「ん??」

「夜斗君も行こうよ」

 私の言葉にキョトンとした表情を浮かべたあと、夜斗君はふっと柔らかく笑った。

「夏希は優しいな」

「何か言った?」

「何でもない。それじゃ行くか」

 後ろから夜斗君がついてくるのを確認して、私は階段を下りた。


 翌日、私は学校に行く準備をしながら、昨日のことを思い返していた。あのあと、晩ご飯のために一階に下りた私たちだったけれど、お母さんは凄く機嫌が悪かった。

 当たり前だけど夜斗君に対してはにこやかで、私に対してだけ「下りて来ないから食べないのかと思ったわ」と不機嫌さを隠そうとしなかった。いつもなら必死に謝ってどうにか許してもらうのだけど、昨日は違った。

 夜斗君がお母さんをジッと見つめて、それで気付いたら機嫌が直っていた。「遅れる日もあるわよね」なんて今まで一度も言ったことのないようなことを口にしていた。

 あれはいったいなんだったんだろう。

「って、グズグズしてたらもうこんな時間。急がなくちゃ」

 慌てて制服のリボンを結ぶと、カバンを持って部屋を出た。

 リビングのドア越しに夜斗君とお母さんが何かを話している声が聞こえてくる。私はドアを開けることなく「いってきます」と声をかけて家を出た。

 自宅から学校までは歩いて三十分。今からなら少し速い足で歩けば、いつもの時間に教室に着けるはずだ。人が少なすぎることも、遅刻ギリギリで悪目立ちすることもない、一番人混みに紛れて席に着ける時間に。

 春は桜並木が綺麗だった道を、一人静かに歩こうとした。けれど。

「あれ? なっちゃんだ!」

「涼真君?」

 聞き覚えのある声に振り返ると、そこには一つ年下の幼馴染みである黒崎涼真君の姿があった。つい先日まで小学生だった涼真君は、私と同じ中学のブレザーを身に纏っていた。

「やっとなっちゃんに会えたよー! せっかく同じ学校に行ってるのに全然会わないんだもん」

「一年生とは階が違うもんね。それに涼真君、朝練でいつも早いし」

 私の隣に並ぶと、もうほとんど変わらない背丈となっていることに驚いた。

「どうしたの?」

 ジッと見ている私の視線に気付いたのか、涼真君は不思議そうに首を傾げる。その仕草が可愛くて、身長が伸びても涼真君は涼真君だと思うと嬉しくなった。

「ううん、身長伸びたなってビックリしちゃって」

「でしょ!?」

 私の言葉に、涼真君は目を輝かせた。

「俺さ、春休み中で一気に身長伸びたんだよね。もうすぐなっちゃんを追い越すよ!」

「ホント? じゃあ私も頑張って牛乳飲んで身長伸ばさなきゃ」

「ちぇー、そしたら追いつけないじゃん」

 不服そうに口を尖らせた姿が可愛くて、私は思わず笑ってしまう。そんな私の態度に、涼真君はさらに拗ねたような表情を浮かべた。さすがに謝った方がいいかと心配になった。

「あの、私」

「ま、いいや。そしたらなっちゃん、またね!」

 けれど涼真君は気にしていないようで、少し先を歩いている友人の元へと走って向かった。残された私は、再びゆっくりと歩き始める――けれど。

「おい、どうして置いて行くんだ?」

「え?」

 再び後ろから呼び止められた声に振り返った。この声は。

「夜斗く……ん?」

 振り返った私は、夜斗君の姿を見て、思わず口を開けたまま立ち止まってしまう。

「なんだ、その疑問形は」

 形のいい眉をひそめると、夜斗君は言う。別に夜斗君がそこにいることに驚いたわけではない。問題は夜斗君の着ている服だ。

「どうして、うちの制服を……?」

「どうしてって、俺もお前と同じ学校に通うからだ」

「な、なんで」

「最初はどうせ転校することになるなら近くがいいと思っていたが、夏希と一緒とはラッキーだ」

「ラッキーって……」

 私は頭が痛くなって、思わずその場にしゃがみ込んだ。

「夏希?」

 心配そうに私の名前を呼ぶ夜斗君に、目線だけ向ける。

 夜斗君はカッコイイ。うちの中学の真っ白なブレザーもよく似合っている。きっと転校初日から凄くモテると思う。だって今中等部でカッコイイって言われている三年の先輩よりも凄くカッコイイから。

 でも、だからこそ困る。そんな夜斗君と同じ家に住んでいて、しかも『俺の花嫁』なんてことを学校で言われてしまえば、普通に平凡な中学生活を送りたいと思っていた私の希望とは真逆の方向に行ってしまうであろうことは想像に難くない。

 ヒソヒソと噂されたりクラスで仲間はずれにされる、なんてことはもうこりごりだ。

「ねえ、夜斗君。学校では他人のフリをしてほしいんだけど、どうかな……? できれば一緒に住んでいることも秘密で……」

 顔を上げ、夜斗君を見つめると私はダメ元で頼んでみた。けれど。

「やだ」

「なんで」

「そんなことしたら、夏希に変な虫が寄ってくるかもしれないからな。それに俺は独占欲が強いんだ。できることなら片時も離れずそばにいたいぐらいだ」

 想像していたよりも、夜斗君の答えはさらに上をいっていた。

「そっか……」

 気は重いし胃は痛い。けれど、学校は待っていてくれない。時計を見るとあと三分でチャイムがなる。それまでには教室に行かなければ。

 立ち上がると、私は再び早足で歩き出した。隣をニコニコと笑顔を浮かべながら歩く夜斗君とともに。


「それじゃあ、三年生の教室は三階だから」

 階段を上り切ると、私は二階の自分の教室に、夜斗君はもう一つ階段を上った先にある三年の教室へと向かう。職員室に行かなくていいのかと確認したけれど、教室の前で待っていてくれるらしい。

 階段を上がっていく夜斗君を見送ると、私は一人自分のクラスへと向かった。

「あ、夏希! おはよー!」

 教室に入ると、私の姿を見つけた美愛が手を振りながら声をかけてくれる。私も手を振り返しながら美愛の元へと向かおうとすると、美愛は目を見開き驚いたような表情を浮かべる。

「美愛? どうかした?」

「ど、どうかって、う、うしろ」

「後ろ?」

 何かあっただろうか。そう思って振り返った私の目に映ったのは、ひらひらと手を振る夜斗君の姿だった。

「ど、どうして。三階に向かったんじゃないの?」

「向かったけど。三階には夏希がいないから」

「いないからったって、私は二年だからこっちの教室にいるよ」

「うん、わかってる。だから俺がこっちに来たんだ」

「え?」

 夜斗君はニヤリと笑うと、私の肩越しに美愛に声をかけた。

「ねえ」

「え、ええ? なんですか?」

 夜斗君のかっこよさに視線を奪われていた美愛は、突然声をかけられたことにドキドキしているようで顔を赤くしていた。

「俺さ、ここにいたいんだけどどう思う?」

「え、どうって……」

 困ったように口ごもった美愛の目をジッと見つめながら、夜斗君はもう一度言った。

「俺、ここにいてもいいかな?」

「はい! もちろんです!」

「え、えええ!? 美愛!? どうしちゃったの!?」

「どうもしてないよー? でもいたいって言ってるんだからいてもらった方がいいでしょ?」

「どう考えてもよくないよ……って、美愛?」

 もう一度、美愛に視線を向ける。いつもぱっちりとした美愛の目が、今日は半開きで焦点が定まらない感じだった。これはいったい……。

 不意に、昨夜のお母さんの不自然な態度を思い出した。

「……ねえ、夜斗君」

「ん?」

「美愛に何かした?」

 すぐ後ろを振り返ると、私は真っ直ぐに夜斗君を見据えた。すると、一瞬の間のあと夜斗君は得意げに笑った。

「これが俺が使えるもう一つの能力、眼力だよ。俺に見つめられて言うことを聞かないのは、夏希。お前だけだ」

「え……?」

 どういう意味か聞きたかったけれど、夜斗君が楽しそうに話し続けるから聞きそびれてしまった。

「あとはここのクラスと俺のクラスの担任がオッケー出せば大丈夫だろ」

「大丈夫じゃないよ!」

 そんなことしたら混乱が起きてしまう。それに。

「無理矢理言うことを聞かせるなんて間違ってる」

 私の言葉に、夜斗君は――驚いたような表情で頷いた。

「まあそう言われればそうなのかも知れないな。ったく、俺の花嫁さんの言うことを聞くか」

「だから花嫁じゃないって」

 そう言った瞬間、私の背後でドサドサと何かが落ちる音が聞こえた。慌てて振り返るとそこには――涼真君の姿があった。

「なっちゃん、今、花嫁って……嘘、だよね?」

「りょ、涼真君。どうして……」

「なっちゃんの担任が困ってたから、これを届けに来たんだ。なっちゃんに会えるかもって思って。でも、そしたら……」

 涼真君は呆然とした顔で私と、それから夜斗君を交互に見る。そして。

「なっちゃんが普通の学校生活を送りたいって言うからそっとしてたのに!」

「りょ、涼真君? なんの話?」

「俺、こんな奴になんか負けないから! だいたい、俺の方が先になっちゃんと結婚する約束してたんだからね!」

 それだけ言い残して、涼真君はチャイムの音とともに私の教室をあとにした。残された私は――静かな中学生活が崩れて行く音が聞こえてくる気がした。


 夜斗君が転校してきて一週間が経った。あんなにも平和な生活を望んでいたはずなのに、気付けばクラスメイトどころか全校生徒に知れ渡ったのでは、という勢いで夜斗君と私が一緒に住んでいることが知られてしまっていた。

 当の夜斗君は、いつの間にかファンクラブができるぐらいに校内で人気になっていた。実は高等部の人もファンクラブに入っている、なんて話も聞こえてくるぐらいだ。

 そうなると、どうなるかというと――。

「だから! みんなの夜斗君なんだから! あんたのものじゃないんだからね!」

 昼休み、お手洗いに行こうとしたところを三年生の女子に捕まり、家庭課室に連れてこられていた。三人の女子に囲まれて、睨みつけられる。そんなこと言われても、私が望んだわけじゃないのに。そう思うけれど、そんなこと言おうものなら火に油を注ぐことになるのはわかっていた。

「わかった!?」

「何か言ったらどうなのよ!」

 わかったとも無理だとも言えないまま黙り込んでいる私の耳に、聞き覚えのある声が聞こえた。

「何かっていうのは何だ?」

「あ……夜斗、君」

 その声に驚いたのは、私だけではなかった。目の前にいる女子たちは、突然現れた夜斗君に青い顔をしていた。

「俺の花嫁に手を出して、ただで済むと思ってないよな?」

「ち、ちが……私たちはただ、夜斗君が……」

「俺が何?」

「そ、そんなに怒らないでよ。ね、夜斗君いつも優しいじゃん」

 女子のうちの一人が夜斗君に手を伸ばそうとして、パシッと音を立てて払われた。

「俺が優しい? そんなのお前らに興味がないからに決まってるだろ」

「え……」

「どうでもいいから優しくもする。でも、俺の大切な夏希に手を出すなら、どうなってもしらねえよ?」

「……っ」

 至近距離から睨みつけられた女子たちは、逃げるようにしてその場を駆け出した。残されたのは私と夜斗君だけ。

「大丈夫か!?」

「……っ」

「夏希……?」

「大丈夫じゃ、ない……」

 平和で静かな中学生活が送りたかった。もう小学校のときみたいにいじめられたり意地悪されたりするなんてことは嫌だった。だから難しい勉強も頑張って、この学校に入った。これでもういじめてくる人も過去を知っている人もいないって、そう思ったから。

 なのに、夜斗君がきてから全部グチャグチャだ。

「なつ……」

「もう、やだ」

「夏希……」

「夜斗君のせいで、私の中学生活が無茶苦茶だよ! 返してよ! 私が頑張って勝ち取った中学生活を返して!」

 溢れてきた涙を隠すように顔を背けると、私はその場を走り去った。――夜斗君は、追いかけてこなかった。

 ただ顔を背ける寸前、夜斗君が傷付いたような悲しそうな表情を浮かべていたことが、心に残っていた。


 その日、夜が来ても隼都君が帰ってくることはなかった。お母さんたちが何も言っていないところをみると、何か連絡はしたんだと思うけど。

 私は昼休みの出来事を思い出して、気持ちが落ち着かなかった。夜斗君がきっかけではあるけれど、別に夜斗君が悪いわけじゃない。モテたいと言ったわけでもファンクラブを作ってほしいと言ったわけでもない。夜斗君は夜斗君でただ学校生活を送っていて、その中でたまたま私が夜斗君のことを好きな女の子に目を付けられただけ。

 だいたいうちに住むことになったのだって、ご両親の仕事の都合で夜斗君が望んだ訳じゃない。それなのに、一方的に夜斗君のせいにして、責め立てた。

「私って、最悪だ」

 机に向かっていたものの、勉強に身なんて入らない。ずっと夜斗君のことを考えてしまう。

 私は鉛筆を置くと、自分の部屋を出て夜斗君の部屋へと向かった。電気の消えた部屋。あったはずの荷物はどこかに消えていて、まるでもうここには帰ってこないかのようだった。

「夜斗君……」

「……はい」

「え?」

 無意識のうちに呼びかけた言葉に、どこからか返事が聞こえた。いったいどこから、そう思い探すと、少しだけ開いた窓の向こうに人影が見えた。

「こんなところにいたの?」

 カーテンを開けると、ベランダの隅で膝を抱えて座っている夜斗君の姿があった。

「だって、俺の顔なんて見たくないと思って……」

 まるで捨てられた子犬のように、顔だけこちらを見る。吸血鬼のはずなのに、俺様で強引なのに、可愛く思えてしまうのはどうしてだろう。

「……そんなところにいたら、風邪引いちゃうよ」

「夏希……」

「そろそろ晩ご飯だって言ってたから、一緒に食べよ」

「俺、帰ってもいいのか……?」

 不安そうに私を見上げる夜斗君から、私は顔を背けた。そして。

「わ、私は! あなたの花嫁なんでしょ!? それなら旦那さんはいつでも私のそばにいてくれなきゃ駄目なんじゃないの!?」

「夏希!」

 夜斗君は私の名前を呼んだかと思うと、立ち上がり私を抱きしめた。

「きゃっ」

「俺、そばにいるから! 夏希のことを守るから! だから俺の花嫁さんになってくれ!」

 その言葉に私は小さな声で「はい」と頷き、その背中に手を回そうと――。

「あーーー!」

 するより先に、その声は響いた。

「お前! なっちゃんから離れろ! 変態!」

 隣の家の窓から、身を乗り出す涼真君の姿が見えた。

「うるさい、静かにしてろガキ」

 わざとらしく舌を出すと、夜斗君は私の身体を抱きしめる腕に力を込めた。


 望んでいたはずの、普通の生活とは違うけれど、こんな生活もありなのかもしれない。

 静かな夜に響き渡る、夜斗君と涼真君の声を聞きながら、自然と私の口元は笑みを浮かべていた。

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