先輩が好き

炬燵蜜柑

先輩が好き

 本の濃い匂いが漂う文芸部の一室にぺらり、と紙を捲る音が響く。


 きしり、と年寄りのパイプ椅子が声を上げる。


 くすり、と先輩が思わず漏らした笑い声が私の鼓膜を震わせる。


「…………」


 思わず机を挟んだ向かいにいる先輩へ視線が誘導される。本へ目線を落とし、こちらの様子に気付かない先輩に内心安堵の息を吐いた。手元の本の端っこを指先で弄りながらまじまじとさっきよりも図々しく彼女の表情を盗み見る。

 もっちりつるりとした肌。アーモンド型の猫を彷彿とさせる可愛らしい瞳。思わず摘みたくなるような形の良い鼻。ふっくらとした、けれど下品ではない柔らかそうな唇。同性だからこそわかる、手入れの行き届いた艶やかな黒髪。

 …………美人だなぁ。いや、本当に。なんかもうシルエットですら可愛い。丸っこい頭の形にさえ愛おしさを覚える。溜め息が漏れそうになるのを頬肉とともに咄嗟に嚙み殺す。犬歯に食い込む肉の繊維の感触が耳の奥に響いて、思考を染めていたピンク色の感情を晴らす。集中している彼女は少し耳が遠くなるようなので気付くことはないと思うが、それでも自分の気持ちがばれてしまう可能性に臆病になる。恐ろしい。なんと恐ろしいことか。これが“恋”。自分が自分で無くなるような、別のなにかに侵食されていくような気分だ。


「っふふ…………!」


「…………っ⁉」


 な、なんだその笑顔は⁉可愛すぎる⁉

 自己の内面について巡らせていた思考が一瞬で吹き飛び、先輩のこぼれた笑顔を脳内へ保存すべく体が反応するのを脳裏で理解する。瞳孔が開き、眼球からの情報を最大まで収集する。指先から血の気が引き、脳へ集まって情報を処理せんと動き出す。………………先輩が今読んでいるのはライトノベルだっただろうか。ブックカバーで表紙は判別出来ないが、昨日の放課後、長編のライトノベルのシリーズに手を付けたのだと楽しそうに笑っていた。


 はっ、として無意識に先輩へ伸びていた右手を握りこんで、左手で辛うじて支えていた本で隠す。先輩に見せたくなかった。隠したかったのだ。自身の浅ましさを見られてしまいそうで。

 そう、今私は先輩へ触れようとしていた。無遠慮に、欲望のままに、浅ましく。


 愚か。なんと愚か。

 何処に触れようというのだろう。


 瑞々しく柔らかそうな白い肌?

 一度目が合えば吸い込まれてしまいそうな蠱惑な瞳?

 興奮すると気色ばむ頬?

 常に微笑を携える薄紅色の唇?

 天使の輪をつくる、自身とは比較にもならない黒髪?


「………………」


 分かっている。先輩は本が好きだ。先輩が本当に笑いかけるのは本だけだ。先輩は愛想笑いはしても誰かへ心の底から楽しそうに笑いかける姿を見たことがない。

 それなのに、今自分はなにをしようとした。

 手を伸ばした。触れようとした。

 何故か?…………許されたのだと思ったからだ。先輩が笑った。本を読んだから。私の前で。無防備に、まるで私になら見せても良いのだと言わんばかりに。


 そんなわけがあるか。


 浅ましい浅ましい浅ましい。恋という仮初の免罪符を得て、愛しているからと調子の良い言い訳を臓腑に満たして、なにをしようとしていた。おい“私”。気持ち悪い欲望を誰にぶつけようとしていた。


 おぞましいおぞましいおぞましい。

 許さない。先輩にそんな汚らしいものを押し付けるな。願うな。嘱望するな。


 ビクン、と鐘の音に体が跳ねた。ぎぎぃ、とパイプ椅子が悲鳴を上げて咄嗟にごめんと口に出かける。私の悪癖である。本来の用途以外で物を乱暴に扱ってしまったらつい謝る癖がある。そんな中身の無い謝意を吐き出す自分に嫌悪感が湧く。


「んん~……もう時間か~」


 鐘の音に反応したのは、私だけでなく先輩も同様だった。同じ体勢が窮屈だったのかパイプ椅子をぎぃぎぃと鳴らしながら体を伸ばす。空を仰ぐように、胸を張るような体勢になったことで私のそれよりも大きなあれが強調される。咄嗟に目を顔ごとずらす。


「ひゅ……そう、ですね……」


 うわずる声。回らない舌。無様。さっきまで脳にまわっていた血液が顔に集中していくのを感じる。違う……違うっ……!これは、滑舌の悪さが恥ずかしかったから……!それだけだから……!


「赤井さん、今読んでるのってもしかしてこの間私がおすすめした本?」


 呼ばれたのは、私の名前。

 赤井。

 赤井恵美。

 1つ下の私にも先輩は丁寧にさん付けで呼ぶ。それが嬉しくも少し歯痒い。


「はい、先輩の話を聞いて読んでみたくなりましたのでどうせならと」


「わぁ!嬉しい!その作者さんは私昔からファンなの。赤井さんもファン、っとまでは言わないけど、その本を楽しめたら他の作品も読んでみて!」


「はい。今読んでいるこの本も楽しめておりますし、別の作品も教えてください。先輩」


 一昨日の放課後、今日と同じように文芸部員として部室で読書しており、その時読んでいた本を丁度読み終わったところを先輩に勧められるままに読むことにした。殺し屋たちが新幹線の中でお金やターゲットを巡って殺し合い騙し合いを繰り広げるというお話。先輩が絶賛するのも分かる。まだ途中までしか読めていないが、小説というコンテンツに慣れていない私でもなかなかに楽しめている。購入する際に軽く調べたところ、今度映画化もするらしい。


「えへへ、うん!もちろん!赤井さんが好きそうな本いっぱい教えるね!」


 先輩は嬉しそうに、頬を緩める。目元に若干だが力が入っていて、唇も少し強張っているのが分かる。愛想笑いだ。

 先輩は、愛想笑いを良くする。学校について、勉強について、友人について、先輩とはもうすぐ1年の付き合いともなって様々が話をした自負があるが、彼女から愛想以上の笑顔を向けられたことは無い。彼女が心の底から笑顔を浮かべるのは、本の世界へ身を投じた時だけ。そして、私はどうしようもなく、その笑顔に惹かれてしまった。


 先輩と部室の戸締りを確認すると、目付きの悪いウサギのストラップの付いたキーケースをスカートのポケットから取り出すと、その中の鍵の一つを取り出し部室を締める。文芸部は3年生がおらず、2年生は3人いるものの先輩を除いた2人は半分幽霊部員として籍だけを置いている。そして、1ヵ月前に入学した1年生の内、入部したのは私1人。つまり、実質的に文芸部員は2人しかいない。更に言えば、私は先輩と知り合うまで本というものに触れたことは殆どない。先輩との話題作りとして手を付けたに過ぎなかった。いや、今はちゃんと楽しんでいるけども。

 つまり、文芸部員として正しい心持ちのある人間は先輩1人しかいない。部室の鍵を持つ人物として、先輩以外にありえないだろう。


「じゃあ、私は帰りに本屋さんに寄ろうと思ってるけど赤井さんはどうする?」


「同行してもよろしいですか?」


「もちろん!」


 ぱたぱた、と夕日が沈み夜に迫らんとする時刻の廊下に、学校指定のシューズがタイルを叩く音が響く。並んで歩きながら先輩は笑みを形づくる。

 相変わらずの愛想笑いながらも、興奮しているのか頬を上気させている様子の可愛らしさに心臓の鼓動が早まるのが分かる。


 先輩。先輩。先輩。先輩。先輩。


 可愛い先輩。初恋を与えてくれた先輩。私に愛という感情を教えてくれた先輩。

 頬を染める熱は、先輩の本への情熱だろうか。その頬に触れたら、先輩の持つ熱を私は分かるのだろうか。熱を私へ移して貰えたら、その頬に触れたら、あなたの心は分かるのでしょうか。私の心はあなたに伝わるでしょうか。あなたの心を私に…………私は、私は…………。


「赤井さん…………?」


「っあ…………⁉」


 いま、わたしは、なにを…………⁉


 目の前に、怪訝そうに、けれどどこか緊張を孕んだ表情で私を見上げる先輩。そして、先輩との距離が縮まった右手。誰のか。私のだ。後30センチも距離はない。1歩、いや半歩も近付く必要はない。私は、無遠慮に、感情のままに、欲望のままに、先輩へと、手を伸ばしていた。

 無意識。そうとしか言いようがない。つい、先ほど、自分へ戒めたばかりと言うのに。愚か。圧倒的に愚か。いっそ、この場で消えてしまい程の自己嫌悪の激情が胸中に巻き起こる。


 1歩、2歩と後ずさる。伸びていた手は下ろし、行く先の失った掌の無力感を圧し潰すために指の腹を擦り合わせる。ぎゅぎゅ、と感情も諸共に潰せないかと願いながら。手に籠る力と裏腹に、体の奥から血の気が引いていく。背中から噴き出す汗の量が現実から目を逸らすなとばかりに不快感を演出する。


「あのっ……、これ、は……その…………っひぅ……」


 喉からこみ上げるのは、言い訳ともつかない言語以下の呻き。怪訝な顔をした先輩の表情にますます喉が締まり、乾いた口内を舌が空回りする。無様という言葉を絵図にしたら正に今の私だ。視界が闇に染まっていく。瞼ではなく、脳が必死に見ようとしないように暗く染まる。


 ふわり、と柔軟剤の香りが鼻先をくすぐる。次いで、握りこんだ右手を包む柔らかな感触。脳よりも本能が理解した。

 先輩。先輩。先輩。

 視界が黒から白へ、そして色づくと焦がれて病む、愛しき少女の姿。


「赤井さん、大丈夫……?」


「あ……え……はい……」


 右手を包む掌。心配だと意思を示す眉。まっすぐに私を見つめるアーモンド型の瞳。自分とは違う香り付きの柔軟剤。

 情報量過多に脳が揺さぶられる。停滞していた血流が活発化し、私の肌が熱を纏う。


 柔らかい。良い匂い。好き。可愛い。放したくない。好き。喋らないと。可愛い。好き。気遣ってくれた。嬉しい。好き。優しい。笑って欲しい。好き。嫌わないで。気持ち悪がらないで。好き。喋りたくない。失望しないで。好き。なにか喋らないと。好き。なにか。好き。好き。好き好き好き。


「ごめん、なさい………………ごめんなさい……………………ごめんなさい…………………………ごめんなさい…………ごめんなさい、ごめんなさい………………ごめんなさい………………」


 だから、嫌わないで。好きです。好きなんです。初恋なんです。“愛”がなにかとやっと分かったんです。あなたの言葉に救われました。あなたの笑顔が生きる希望です。

 なんてことない会話。自分の好きなものはこれです、と自己紹介の一部に過ぎない定型文。けれど、私はそこに“愛”を見つけた。心を、感情を、曝け出す様に心臓が締め付けられた。

 姿を目で追うようになった。見かけたら思わず声を掛けた。目が合うとドキドキと心臓が高鳴るようになった。一緒の時間を共有したくなった。触れたくなった。好きになった。これが、愛なのだと知った。知ってしまった。決して、綺麗なだけのものではないことも。


 些細なやり取り。彼女は思いもしないだろう。発端がそんななんてことない会話だと。

 おかしいと思われないか。気持ち悪いと思われないか。近寄るなと言われないか。不安が心を満たす。恐怖が体を縛る。だから、決して知られてはならない。不用意に近寄ってはいけない。心の中でも名前で呼べない。彼女の笑顔を曇らせるのが、自分の思いだとしたら、一生知られなくて良い。知ってほしくない。


「大丈夫、大丈夫だから」


「あ……う、ぁ………」


「ね?」


 それなのに。それなのに、溢れ出す。抑えきれない。

 先輩は、私の頭を抱き込む。身長差のせいで変に腰が折れ曲がり、額が鎖骨に埋まる。

 今まで仄かに感じていた彼女の香りがダイレクトに鼻孔を刺激する。

 気付けば、先輩の背中に両手が回り込み、抱きしめるような、いや抱き締めていた。骨ばって堅そうな私の体と違い、柔らかな体の感触に身を委ねたくなるような安心感がある。


「…………っく、はい………………」


 溺れる。深く、深く底へと呼吸を忘れて沈み込む。言葉にするのもおこがましい感情に全身が浸かる。

 自身が今世界一の幸福を享受しているのだと脳髄を甘く痺れさせる。


 先輩。先輩。先輩。先輩。先輩。先輩。先輩。

 好き。大好き。愛してる。あなたに全てを捧げる。


 だから……。だから…………。


「先輩……。ありがとう、ございます…………」


 私を、あなたの心の片隅に、入れてください。






********************






 うーむ困ったなあと右手を包む後輩の手を堪能しながら、悩むふりなどしてみる。


「……………………」


 ちらり、ともう1年近くになる後輩を見上げれば、頬を赤らめ、まるで恋する乙女のような表情で私達の間にぷらぷらと揺れる繋がった私達の手を見つめている。

 なんなんだ。可愛いな。


「ひぇ……あ、すいません……」


 私の視線に気付いたらしく、恥ずかし気に俯く。けれど、進める歩もを握る手を緩めることはない。可愛らしいことだ。

 そもそも、部活終わりに唐突に甘えられてからずっとこんな調子。なんか辛そうだけど無理に聞くのもなんだかなぁという気持ちで落ち着かせようとしたら赤ん坊みたいにうにゃうにゃ言うだけ。結局、本屋に寄る道中もこうして引率する親のように手を引いて歩いている。…………傍目から見たら逆なんだろうけどさ。

 残念なことに、私の発育は一部を除いて小学生で止まっている。どう高めに見繕っても私の見た目は中学生。対して、我が後輩たる赤井恵美という少女は私でなくとも羨むモデル体型。スカートから覗くすらりとした生足やすれ違えば思わず振り返る作り物めいた美貌。人づてながら成績も悪くないというし、欠点といえば普段は表情の変わらない鉄面皮ということぐらい。

 …………そんな評判も今の赤井さんをみたら信じてもらえそうにないけど。


 今日の赤井さんはなんだかおかしかった。普段から、私相手だとあたふたしがちだったけど今日はいつにも増して噛み噛み。なんだか素を見せてくれてるみたいで可愛いなーと思っていたけど、もしかして緊張させてたのかなと不安になってくる。

 え、大丈夫だよね?私たち仲良いよね!?


「ふふっ」


「…………っ⁉」


 目力をこめて笑顔を成形してみれば彼女の顔面が一瞬で茹で上がる。カップ麺もびっくりの早さ。これは自惚れではなく、客観的な事実として、赤井恵美という少女は私に対して好意を抱いてくれているらしい。出会った当初では考えられなかった彼女の、照れ屋な部分が見せてくれるようになったのは仲が深まった証左に違いない、と少し自惚れてみたり。

 繋がった手に力を込めて、身を寄せる。肩がびくり、と跳ねるものの嫌な顔をしないことから嫌がってはいない、と思う。


 人と密着するとその人独特の空気に包まれることがある。その人の纏う香りだったりパーソナルスペースに入り込んだことによる緊張感だったり。人と距離をとりたい人は、近付くと顔に出さなくとも緊張感がこちらにも伝わるし、苦に思わない人からは受け入れてくれる空気が感じる。赤井さんは、不思議な人だった。初対面は、なにもないと思った。拒む気持ちも、受け入れる気持ちも無い。無味無臭、って感じ。なんというか私も人のことを言えないが他人の興味無いんだなと思った。私は本以外のことになかなか興味を持てないけど、赤井さんは興味そのものを抱いたことがないという感じ。始まりこそなんでもないけれど、それから段々交流を持っていいて、二人でいる時間が良い意味で気を使わなくなっていって。いや、なんかこの感じ見ると気を使ってないの私だけかも?


「しぇ……せんぱい……?」


「赤井さんはかわいーねー」


「…………っ!?」


 それでも、こうやって軽口を言えるぐらいには仲良くなれたことは間違いないわけで。もっと仲良くなりたいな、と自分の気持ちに驚きながら顔をトマト色にしながら無言で握る手を強めるかわいい後輩を見上げた。




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先輩が好き 炬燵蜜柑 @tatsuya0629

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