愛月記
円城 玄
水柳 珂代
アルコールに沈むアイスボールがあまりにまるく、ふと外に視線をずらすと凍りゆくような満月だった。
昔、よく月に祈りを捧げていたのを思い出す。身勝手で、無謀な恋の成就を願って。
中学二年生にあがったとき、私は塾に入れられた。母は私の成績が低下したのを気にしていたらしい。当時の私は愚かで傲慢で、成績などその気になればいつでも取れると思っており、塾に入れられたことに対して若干の反発心を抱いていた。
そのため、塾での態度はすこぶる悪かった。
ひねくれていたのだ。努力、協力、全力、そして勝利。そんな使い古され陳腐ともいえる言葉を恥じることなく吐き散らす教師や同級生を冷笑的に見ていた。
ただただ、気に食わなかった。親の言う通りに行動し、先生の指図で勉強するのが。
『どうして、言う通りにできないの?』
うるさい。
『どうして、そんなに和を乱すの?』
うるさい。
『どうして、そんなに酷いことを言うの?』
うるさい!
この世のすべてが気に食わない。
そんな私は腫れ物として扱われ、講師の間でたらい回しにされた。
そして最終的に私を受け持ったのは、大学生アルバイトである男性講師だった。
「はじめまして、僕は
一対一の個別指導。詩郎先生は私の目をまっすぐ覗き、名前を尋ねた。
「……」
天邪鬼な私は、答えなかった。それでも、詩郎先生は嫌な顔ひとつせずに笑った。
「そっか。じゃあ、名前教えてくれるように精一杯授業するね」
この人も、同じだ。
いい人の仮面をつけて、内心ではひねくれものの私を蔑んでいる。
絶対に、名前は教えない。
私は、そんな意地の悪い決意を固めていた。
今思えば受け持つ生徒の名前を知らないわけがないのだが、詩郎先生は名前を知られたくないという私の意思を守ってくれたのだろう。
それからしばらく、授業の間私は沈黙を貫いた。
詩郎先生は一方的に私に語りかけたが、私は頑として答えなかった。
それでも、詩郎先生はたまに目が合うと、とげとげした私を包み込むようにふわりと笑った。
そのうち、私の心には困惑の情が芽生え始める。
毎週会っているうちに、詩郎先生への警戒が解けていき、心が開きかけていたのだ。
こんな私を誰よりも優しく受け入れてくれる詩郎先生と話してみたい。
でも、ここで態度を変えることは自分の敗北を認めるようなことで、そんなことはしたくない。
二つの気持ちがせめぎ合っていた。
こみ上げる欲望をつまらない意地で抑えつけ、自分に自分の本音を隠す。
でも、欲望がどんどん巨大に激しくなるにつれ、それに蓋をするのが不快になり、ばかばかしくなり。
やがて、ちっぽけな決意は瓦解する。
「みなぎ……かよ。……、わたしの……なまえ」
授業が終わり、去ろうとする詩郎先生の袖をつかみ、絞りだす。
精一杯の、敗北宣言。
私は、あなたと話したい。
詩郎先生は驚いた顔をしていた。
しかし、すぐにいつものようにふわりと笑った。
「ありがとう、
詩郎先生の口から私の名前を聞くのは初めてだった。
それを聞いた瞬間、頭が茹ったようになにも考えられなくなり、ぼーっと家路についた。
感じたこともない、心臓の奥底からぐつぐつ湧き上がる熱。
制御のしようもない衝動が全身を震えさせ、叫びもがかなければ身体が破裂しそうになる。
なにもしていないのに、鼓動がはやく胸が苦しい。
落ち着かせるのに、それなりに時間がかかった。
頭もある程度思考できるくらいには冷え、春の夜、私は空を見上げた。
そして、願った。願ってしまった。
煌煌と明るい月に向かって、叶うはずのない、恋の夢を。
私は塾に対して積極的になった。
前まではあんなに足が重かったのに詩郎先生に会うのを毎週の楽しみにして学校が終わると塾へ急いだ。
そして、恥知らずにも本能のまま尻尾をふった。
「せんせ、すきな食べ物なに?」
「僕の? んー、全部好きだよ。でも、甘いものが特に好きかなぁ」
そう言ったので、私は手作りクッキーを何度も渡した。
「せんせ、すきな映画なに?」
「映画かー。ジブリとか好きだよ」
そう言ったので、私もジブリを好きになりたくさん話した。
「せんせ、……すきな女の人のタイプなに?」
「努力できる子」
そう言ったので、頑張っているアピールをした。
返す返すもみっともない。周りの目も気にせず意味のない行為を繰り返していたと思う。
当時の私にとって、すべての中心は詩郎先生だった。
詩郎先生の好きなものを好きになり、彼の言う理想を追いかける。
そんな一方的な追いかけっこをやっているうちに、季節は夏になっていた。
ある日のこと。
はやく詩郎先生に会いたくて授業の一時間前に着いた私は、衝撃的な場面を目撃する。
詩郎先生が別の女の子に授業していたのだ。
いや、当然のことなのだけれども。なにも詩郎先生は私だけを受け持っているわけではない。
それでも、当時の私は大好きな恋人が浮気をしたようにショックだった。
いつものような穏やかで優しい笑顔を別の女の子に向けている。それが耐えられなかった。
私は苦しい嫉妬心と醜い独占欲を暴れさせ、詩郎先生にたくさん甘えた。不機嫌なのを主張して元気づけてもらったり、簡単なことで褒めてもらったり。
授業中は詩郎先生の袖をずっと掴んでいた。放したくなかった。放したら、私以外のところへ行ってしまう気がして。
詩郎先生は私に絶対触れようとしない。私が袖をつかむのは、詩郎先生との繋がりを感じるための、せめてもの抵抗だった。
ほんとうに、馬鹿馬鹿しいことをしていた。
詩郎先生が別の女の子を教えることに耐えられなかった私は、親に我儘を言った。教え方がうまいだとか人柄がいいだとか、それっぽい理屈を弄し詩郎先生を私専属の家庭教師にするようお願いした。
幸か不幸か、家が裕福なこともありそれは叶う。
こうして私は塾をやめ、詩郎先生は私の家庭教師になったのだ。
私の家は和風な建築でかなり大きい。父の趣味で庭も広く、詩郎先生と勉強するときはその庭に面する居間で教科書を広げていた。
詩郎先生が最初に私の家に来てくれたときは嬉しかったものだ。いっぱいおもてなしをしようとしてお茶をいれたりお菓子を出したり。忙しなく台所と居間を行き来していた。
母も最初こそ一抹の警戒心を抱いていたようだが、一ヶ月も経てば完全に詩郎先生を信用していた。
私は詩郎先生の授業で現代文が一番好きだった。
先人が残した美しき日本語を畳の上で朗読している詩郎先生の姿にうっとりとしてしまう。
その日は、ちょうど『山月記』をやっていた。
「『天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易すい内心を誰も理解してくれなかったように。己の毛皮の濡ぬれたのは、夜露のためばかりではない』……ここで聞かれてるのが、毛皮が濡れたのは夜露のためばかりではないとはどういうことかってことなんだけど……珂代さん分かる?」
ししおどしの音がする。静寂な空間に私と詩郎先生のふたりきり。そんな状況に酔って、ついにやにやしてしまう。
「珂代さん、聞いてる?」
「きいてます
「正解、よく分かったね」
その一言だけで詩郎先生は私の心をくすぐる。嬉しくてさらに頬が緩んだ。私は詩郎先生の蜂蜜のような声が好きだった。
「李徴は後悔している。尊大に振る舞い詩友をつくらなかったことを。才能の不足が暴露することを恐れ刻苦を厭ったことを。そんなふうに、過去を空費してしまったことを。そして孤独を嘆き、月に咆えた」
孤独。当時の私はその言葉にピンとこなかった。
私は友達がいなかった。学校では確かに孤独だったはずだ。
だけど、私は友達なんて必要ないと思っていた。ひとりでいることの何が辛いのか疑問だった。
それに、友達なんかいなくても詩郎先生がいてくれればそれでよかったのだ。
とはいえ、そんな私でも虎になり人間としての自分を失いつつある李徴には若干の同情心を抱いた。
「かわいそうなひと、李徴って」
「そうだね。でも、他人事ではいられないよ。人間は誰でも猛獣使いであると李徴は言っている。僕や珂代さんも、虎になり得るんだよ」
「……、どういうこと?」
そう聞いたけれど、詩郎先生は穏やかな笑みを浮かべるだけで答えてくれなかった。いつか分かるよ、とでも言うように。
意地悪な詩郎先生に少しむくれ、外を見る。青く淡白な月光が庭にそっと降り注ぎ、世界全体が寂しさに包まれていた。その草の陰からは今にも虎が躍り出て、月に向かって咆えそうだった。
秋も深まり、虫の音をよく耳にするようになったころ。
約半年間熱烈な片思いをしている私は告白を考えるようになっていた。
当時の私は頭が沸いており冷静な判断などできそうになく、それがいたづらに詩郎先生を困らせるだけだと想像できなかった。
ただただ、伝えたかった。この溢れんばかりの愛を、熱を。言葉にして、声に出して、詩郎先生に知ってもらいたかった。
私にとって問題はどこで告白するかだった。
授業中であれば想いを伝えるチャンスなどいくらでもあるが、さすがにそれではロマンに欠ける。理想を言えば誰もいない夜の公園で。次点で閑静な夜道とか。できれば晴れている夜がいいだろう。
告白を決心してから、なかなかその状況をつくることができなかった。授業のあと、一緒に近くの公園に行こうと誘っても詩郎先生はきっぱりと断った。私との関係を最小限に留めようとする、意思を感じた。
そんな詩郎先生に対して私が捻り出した苦し紛れの策は、授業のあと駅前のスーパーに用があるので帰りがてら送ってほしいと頼むことだった。これならば、家以外で二人きりになることができる。
よく晴れた夜のことだった。私は詩郎先生に言った。
「せんせ、スーパーにいくから、えきまで送って」
「……僕が送るの?」
「夜道こわいです」
詩郎先生は迷いつつも了承してくれた。
こうして私は詩郎先生の隣を歩いた。
夜の街は静かだった。秋の虫が遠く、かすかに鳴いている。少し肌寒いが、その涼しさも気持ちいい。
ずっざ、ずっざと二人分の足音が耳をくすぐる。横から見上げる詩郎先生の顔は、月に照らされとても綺麗だった。
これから、この溶岩流が如き恋心を伝える。その高揚か、あるいは不安か。一歩、一歩、歩くにつれて心臓がうるさいほどになっていく。
何度も喉元まで言葉がくるが、すぐひっこめてしまう。そのたびに深呼吸して、次こそはと覚悟を決める。
そして、漸く絞り出せた一言。
「すき」
やけに大きく聞えたその声はしっかり届いていたようで、詩郎先生は立ち止まり振り返った。
ついにやったと、私は思った。その一言で、先生と生徒としての関係を壊した感触があった。もう後戻りはきかない、その意識が私の背中を押した。
「わたしは詩郎先生がすき。塾にいたときから、ずっと、ずっと、毎日詩郎先生のことばかり考えてる。詩郎先生に会ってから、毎日がきらきらしてて、楽しかった」
一歩、歩み寄る。そして袖を掴む。
「うまく言葉にできないけど……とにかく詩郎先生のことがすき。すきですきでたまらない。ほんとうに、だいすきなの」
まっすぐに目を見る。絶対にそらさない。
「ねぇ、せんせ。先生とか、生徒とか、そんな関係壊れてもいい。年齢に差があるのもわかってる。健全じゃないこともわかってる。それでも、だいすきだから。だから――」
――わたしを、恋人にしてください。
……どれくらい経っただろうか。いつの間にか虫の音は聞こえなくなっていた。
夜道を照らす街灯の下、私と詩郎先生はふたりきりで見つめ合う。
詩郎先生に驚いた様子はなかった。ただ無表情に、じぃっと私の顔を注視する。
何を考えているのだろうか、想像するのも怖かった。
やがて、詩郎先生はゆっくりと口を開いた。
「珂代さん」
水晶のように透き通った声だった。
私は黙って次の言葉を待つ。
「家庭教師っていうのは接客業で、珂代さんとお母様は客なんだ。当然、こちらは客側が不快にならないように振る舞う」
微笑むことなく、淡々と言葉を紡ぐ。
「……俺は、珂代さんの前では一切素を出していない。お互いにほんとうの相手のことを知らないのに、深い関係にはなれないよ」
そういって、袖を掴む私の手を振りほどいた。
残酷なまでに現実的な、拒絶の言葉。
涙が溢れそうになるのをこらえて、もう一度詩郎先生の袖を掴んだ。
「……お互いのことなんて、付き合ってから、いくらでも知れる。だから、」
「お互いをよく知らないのに付き合うなんて早計な判断は、不幸しか生まないよ。いつも授業で言っているだろう。近視眼的になってはだめだ。俯瞰的に物事を見ないと、成功させるのは難しい」
私の抵抗は、にべもなく遮られた。
涙腺が決壊し、涙が溢れる。
それでも私は袖を掴む腕に力を入れて、精一杯の抵抗を続けた。
「なんで……なんで少しでも、わたしと付き合うことを前向きに考えてくれないの? わたしがこどもだから? 中学生だから?」
「違うよ」
「じゃあなんで! 考えてよっ! わたしと付き合うことを、もっと、真剣にっ!」
ぼろぼろと涙がこぼれ、詩郎先生の袖にしみる。
詩郎先生はゆっくりと息を吸い、強い意思をともした瞳で私をさしながら、大きく吐いた。
「お金を、もらっているから」
お金。その生々しい響きに、私は息詰まる。
「お金が関わると、俺はもう、自分の気持ちを交えることができないんだ」
子供が踏み入ることのできないその領域に、なにも言えなくなる。
「俺の家はさ、貧乏だから。そんな環境で育った俺は、どうしてもお金を強く意識してしまう。お金をもらって、それに見合う責任を負って、珂代さんに教えているわけだから。君と恋愛なんて、絶対にできない。だから――」
――ごめんね。
月光は明るく、されど冷ややかに私を照らす。木々が蠢き、夜の闇が広がった。
絶望感と喪失感が私を覆い、深い悲しみに沈んでゆく。
ごめんの一言は、理想に燃えていた私の心を容易く裂いた。
視界は涙で歪み、さらに暗い。
しばらくの間、わんわんと子供のように泣いていた。
嗚咽が収まってきたら、詩郎先生は口を開いた。
「スーパーに用があるんだっけ?」
私は黙って首を振る。
もはや、そんなものに意味はなかった。
「そっか。じゃあ帰ろう。送っていくよ」
詩郎先生は歩き出す。
私はただひたすらに泣きじゃくって、詩郎先生の後ろを歩いていた。
やがて家に着く。
詩郎先生は目を赤く腫らしている私を包み込むように、ふわりと笑った。
「それでは、さようなら」
いつもの蜂蜜のような声で別れを告げた。
私は去っていく詩郎先生を黙って見送ることしかできなかった。
その後は、晩御飯も食べずにベッドに突っ伏した。
悲しみに暮れているといつの間にか朝になっていたが、なんのやる気も起きず、学校を休んだ。
時間が経てば、この傷も癒えるだろうか。
そんなことを思っていた私だが、さらに深い絶望へと落ちることになる。
告白から二日後の夜、母は部屋にこもりっきりだった私を引っ張り出して、残酷な便りを持ってきた。
「詩郎先生、事情があってもう家にくることはできないって」
詩郎先生は私の家庭教師を辞めた。
そのことを知った途端、私は家を飛び出した。
走る。走る。走る。
静謐な夜の街を、駆け抜ける。
感情の濁流がうねり、動かずにはいられない。
私の、神野詩郎という人間への愛情は、もはや猛獣だった。
詩郎先生さえいればいいと、他を顧みず、自分勝手な熱愛。
とにかく好きで、好きで、愛していた。
醜悪な虎になるのは、
なぜ、詩郎先生は去っていった。
私が告白したからだ。
なぜ、私は告白した。
詩郎先生を、好きだからだ。
なぜ、私は詩郎先生を好きになった。
詩郎先生が、優しいからだ。
永遠と続く自問自答。その問答が終わることはない。
すべてはその生き物のさだめであり、幸福に、不幸に、絶望に、理屈はない。
走って、走って、走り続ける。
やがて、人気のない丘に辿りつき、
私は、まんまると浮かぶ月を仰いで、咆える。
この世の不条理を。理不尽を。
何度も、何度も、月に向かって咆えたのだ。
今となっては、若気の至りともいえるこの話。
大人になってから思い返すと、詩郎先生には迷惑かけたなと、切に思う。
あの人は今、なにをしているのだろうか。
恋愛感情はすでに残っておらず、今あるのは尊敬の念だけ。
会って、一緒にお酒でも飲みながら、昔話に花を咲かせたいものだ。
二十歳の誕生日、溶けかけて歪になったアイスボールを眺めながら、そんなことを思うのだった。
愛月記 円城 玄 @EnjoGen
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