第3話 自分に似た人
喫茶「イリュージョン」で山田さんと典子といろいろ話をしてからひと月ほど経ってからのことだった。やはり、つい最近まではずっと気になっていたことだったはずなのに、ある日を境に急に思い出すことができなくなってしまった、こういちだった。
ある日を境にという、その「ある日」とは、
「自分に似た人を見た」
と感じた時だった。
前にも同じように自分に似た人を見たような気がしていたが、ハッキリと見たというには、あまりにも自信がなさすぎた。
なぜハッキリと見たと言えないのかというと、それがいつのことだったのかというのがまったく分からないからである。正確に言えば、分からないというわけではなく、
「見たのは子供の頃だった」
という思いと、
「いやいや、ごく最近のことだった」
という思いが頭の中で交錯していて、本当に見たのであれば、どちらにも信憑性があるように思えるのだ。
どちらも信用できないというわけではなく、どちらとも言えないという感覚が強く、ちょっとした言葉の違いだけで、これほど正反対の意味になるのかと感心するほどのことであった。
どちらとも言えないということは、事実としては存在するので、どちらかを選定できれば、その信憑性はあるという考えである。それなのに、どうして自分としては信用できないと思うのかというと、
――時系列がハッキリ確定できないということは、夢の可能性がある――
という感覚になるからだった。
――夢の中には、そもそも時系列という感覚は存在しない――
とこういちは考えていた。
確かに、
「夢というのは、目が覚める寸前に一瞬見るものだ」
と人から教えられて、それまで夢に対していろいろ不思議に感じていたことが、その一言だけで、急にハッキリしてきたように思えたからだ。
その話を聞くまで感じていた不思議に思うことを、その瞬間から、忘れていたのだ。
つまり、この言葉だけが頭の中に残っていて、最初に感じた不思議な感覚が消えていたということで、共存が許されないと思えてきたのだ。
それは、ひと月前に話した時に出てきた、「多重性」、「多層性」との違いを思わせた。目からうろこを落とすような話を聞いた時、その話が頭に入ってしまって、前に思っていたことが消えてしまったということは、共存を許さないという意味で。「多層性」を思わせた。
しかし、それは意識から消えていないということも証明していた。なぜなら、膜のようなものを通して、見えないだけで、すぐそばにあることを示しているからだ。
見えないだけですぐそばにあるものが何かと言えば、それが、頭の奥にある記憶を格納している場所なのかも知れない。
そういう意味では、
「記憶が欠落しているというのは、記憶の奥に格納されているからだ
という自論に当て嵌まることでもあった。
プロセスは違っても、結局同じところに辿り着くというのは、それだけ本当に信憑性があるということであり、自分を納得させることでもあるのであろう。
過去に「誰かを見た」と思っているが、今こういちは、もう一つ飛躍した考えを持っていた。
――過去に見たと限らないのではないか?
という思いだった。
予知能力といえば、超常現象のようで信憑性に欠けるが、
――デジャブがあるのだから、逆デジャブもあっていいんじゃないか?
という思いである。
デジャブというのは、
「前に見たことがあったような」
という思いで、逆デジャブがあるとすれば、
「これから、目の前で起きたことが起こるような気がする」
というものである。
言葉に出してしまうと、予知能力よりも、相当信憑性があるのではないか。
今目の前で起こっていることを疑う人は誰もいないだろう。しかし、デジャブを信じるのであれば、前に見たことを後になって思い出すのだ。それは忘れていることを思い出すのであって、それこそ、共存を許さない「多層性」のようではないか。
しかし、それが共存を許す「多重性」であったとすれば、逆デジャブもあり得る気がする。
つまりは、デジャブが「多層性」であり、逆デジャブが「多重性」に当たるのではないかという考えである。今回の「似た人を見た」という感覚がデジャブなのか、逆デジャブなのか分かりかねていたのは、やはり時系列がハッキリしないからだった。
そんなことを考えていると、次第にその時のことと、この間実際にあった、
「自分に似た人を見た」
という関連性が、この間のことを思い出していくうちに、ハッキリしてくるのではないかと思うようになってきた。
あれは、一週間くらい前のことだっただろうか? 場所は会社の最寄り駅、コンコースのことだった。
仕事が終わって、いつものように、喫茶「イリュージョン」で二時間ほどいて、帰宅途中のことだった。日が暮れてからだいぶ経っていたにも関わらず、相変わらずの乗降客、コンコースを通る人も多かった。
「橋爪さん」
と、後ろから声を掛けられビックリした。
なぜビックリしたのかというと、その声が女性の声だったからである。しかも、その声に聞き覚えがあるような気がしたのだが、誰なのか、振り向いて確認するまで分からなかったのだ。
振り返ってみると、
「ああ、なあんだ。君か」
と、少し脱力感に包まれていた自分に気が付いたが、それでも最近ずっと、会社内で仕事関係の相手から声を掛けられるくらいしかなかったので、嬉しい気持ちに変わりはなかった。
そこに佇んでいたのは、喫茶「イリュージョン」でアルバイトをしている女の子だった。その娘の勤務時間はランチタイムで、普段からカウンターの奥で忙しく立ち回っている姿しか見たことがないので、実に新鮮だった。声が分からなかったのは、忙しい時間帯に仕事で出している声と、仕事を離れた時の声とでは、これほど違うのかと思うほど声のトーンがかなり高かったことが新鮮だったからだ。
彼女の名前は、友香ちゃんと言った。苗字は最初に聞いたが、すぐに名前で呼ぶようになったので、名前の方しか分からない。忙しい中でも数人いるアルバイトの女の子の中で一番人気がある女の子だった。
「友香ちゃん」
と、皆から親しまれていて、まるでマスコットのような存在だったのだ。
そんな友香ちゃんが、さっきまでいた喫茶「イリュージョン」で違う時間帯によく遭っている人だと思うと、少し不思議な感覚を覚えた。
「橋爪さんは、いつもこの時間までお仕事なんですか?」
友香は、こういちが喫茶「イリュージョン」の夕方の常連にもなっているということを知らないようだった。
「いやいや、今までイリュージョンにいたんだよ」
というと、ビックリしたように、
「そうなんですか? 不思議な感じですよね」
「僕もまさか夕方の常連になるとは思わなかったんだけど、典子さんや山田さんとはよく話をしたりしますよ」
というと、
「典子とは、同じ大学なんですよ。学部は違うんですが、同級生なんです。実は典子も最初、ランチタイムに入っていたんですよ」
「えっ、そうなんですね? それは知りませんでした」
「典子は、元々貧血気味になることが多かったので、忙しい時間帯は無理があったんです。でもそれでも頑張っていたんだけど、昼間のお客さんにはいろいろな人がいますよね? 典子に話しかける人も多くて、途中からいっぱいいっぱいになってしまったんです。それで、ある日、典子が貧血で倒れたこともあって、今の夕方になったんですよね」
典子が昼間に入っていたなど、まったく知らなかった。
――先輩が教えてくれなかったということは、先輩が通うようになった前のことなんだろうな――
と思った。
「典子がこの間気にしていたことがあったんですよ」
「というのは?」
「『昼間のお客さんは、もう私のことなんか覚えている人なんていないんでしょうね』って聞いてきたんです」
「それで?」
「私も、どうしていまさらって思ったんだけど、正直に誰も典子の話題に触れる人はいないわよって言ったんですね」
「はい」
「それでも、典子が気にしているようだったので、次の日にわざと典子のことを昼間に少し話題にしてみたんだけど、誰も知らないって言ったのよ」
そういえば、少し前、友香がお客さんに話しかけているのを聞いたことがあった。昼の時間なのに珍しいと思ったのだが、小声だったので、内容までは分からなかった。それが典子のことだったなどと、想像もできなかったのだが、今から思えば、その話があの時だったのだと思うと、不思議な感覚になったのだ。
「誰も知らないというのは、典子さんの存在をまったく覚えていないということなの?」
「私も最初、そうなのかって思ったんだけど、よく聞いてみると、存在自体を意識していない人がほとんどなの。少しでも覚えていれば、どこかに気配があるというもので、思い出そうとする様子もないんです。明らかにまったく知らない人の話を客観的にしているという人ばかりでした」
一人だけなら、からかっているだけなのかとも思うが、皆が皆客観的になっているというのでは、話が違ってくる。明らかに違う発想なのだ。
「それで、私一つ気になったことがあったんです」
「というのは?」
「典子は、同じ時に二つ以上のことができない人だったので、他の人も、典子のことを客観的にしか見ていなかった。ただ、それが短い間であれば、それは普通のことなんだろうけど、長い間、ずっと客観的にしか見ていないというのだから、もうそうなれば、存在というよりも、気配を感じることがなくなったのだと思う方が自然なのかなって思うんですよ」
「なるほど。道に落ちている石を、誰も意識しないのと同じで、そこにあるのに、まったくその存在を感じることのないような感じですね。いわゆる『路傍の石』というのは、自分が気配を消しているのか、まわりが意識していないという客観的な目で見ているから意識しないというのか、どちらなのかで、いろいろ違ってくるのではないかと思うような気がします」
「典子の場合はどっちなんだろう?」
と友香が言うと、
「僕は、典子さん自身が気配を消しているような気がするんです」
「なぜですか?」
「夕方の時間の典子さんは、存在感がないという意識はありません。まわりから客観的に見られたとしても、気配を感じなくなるほど消えてしまうとは思えないんです。だからもし客観的に見られることがあったとしても、自分から気配を消そうという意識がない限り、『路傍の石』になることはできないと思うんですよ」
というこういちの言葉に、
「私も、そうかも知れないと思います。大学でたまに会って話をする時も、決して気配が他の人と違うという意識を与えるようなところはないんです。もし、そこに彼女の意志が働いているのだとすれば、気配を消すという難しいことでもできそうな気がするんですよね」
「そうですね。気配を消すというのは、簡単にできることではないですからね。あくまでもさりげなく行わないと、気配が出てしまう。自分の中だけで気合を入れ、表には決して悟られないようにしないといけないというのは難しいです。でも、一つの時間に、二つ以上のことができない彼女に、そこまでのことができるんでしょうか?」
「逆に多重でできないからこそ、気配を消すことに長けているとも言えなくはないですか? 少し都合のいい考えなのかも知れませんが」
都合のいい考えではあるが、話としては、理に適っているように思えて仕方がなかった。
こういちは、友香と出会ってそんな話をしていると、ある時、急にゾッとするような身震いを感じた。それは、横にいる友香にも分かったようで、
「どうしたんですか? 身震いなんかして」
「えっ? 僕、身震いした?」
「ええ、肩を竦めているように見えましたよ」
こういちは、確かにその時身震いをした。何か、ゾッとする視線を感じたからなのだが、その視線の方向を見ると、すぐに視線がキレてしまったことに気が付いた。
だから、本当に一瞬だったので、友香に自分の身震いが分かるなどということはないと思っていた。それなのに分かってしまうというのは、自分でも気づいていないところで、身体が反応したということになるのだろう。
「う~ん、そうなんだ」
と、自分が身震いしたことを認めたとも認めていないともどちらとも言えないという素振りを見せた。
しかし、それも仕方のないことであった。
自分が身震いしたことに気づいていないのだから、それも当然のことである。
すると、間髪入れずに、今度は別の方向から、自分を見つめる視線を感じた。今度は友香にも分かるくらいの衝撃を自分で感じたことを理解していたので、友香にも分かったことだろう。
しかし、不思議なことに、今度は友香は何も言わない。
――今の衝撃を感じなかったんだろうか?
とぼけているようには思えない。真面目な顔をして前を向いている友香は、最初にこういちが感じた視線の方向を見ていた。つまり、こういちと友香は、お互いにまったく違った方向を見ていたことになる。
こういちは、先ほどと同じように、衝撃の方向を凝視した。
――どうせ、今度もそこには誰もいないんだろうな――
という意識を持って見つめたのだが、今度はそこに明らかにこちらを見ている視線を感じた。
「わっ」
思わず出てしまいそうな声を必死で抑えた。
そこにいるのは見覚えのある顔であったが、最初に見た時、
――よく見る顔だけど、誰だったっけ?
とすぐには分からなかった。
しかし、一テンポずらして考えると、そこにいる人自体が衝撃の正体であることに気が付いたのだ。
――自分がいる――
思わず、そう思った。
しかし、そんなはずはない。きっと、本当によく似ている人がいて、相手が先にこちらを発見し、自分によく似た人がいるということに衝撃を覚えると、どこまで似ているのかを確かめようと、熱い視線を送ったに違いない。
熱いというよりも、恐怖に近い視線のような気がした。もし、そこにいる人が自分の立場だったら、恐怖を感じながらの視線に違いないからだ。
――まさか、本当に自分だったら?
と思うかも知れない。
すぐに打ち消すことになるのは間違いないのだろうが、それでも少しの間であっても、見てしまったことに違いはないのだから、その間、視線を逸らすことはできないに違いない。
「あ、あそこにいるのは……」
思わず、声に出してしまった。同時に指も差している。
それに気づいた友香も、反射的に振り返り、同じ方向を見ていた。
「どうしたの?」
友香は、何があったのか、状況をまったく把握していない。
「いや、あそこに、僕によく似た人が……」
と言ってさらに指を突き出したが、
「えっ、どこに? 誰もいないわよ」
と、こういちにはハッキリ見えているはずのその人物を、友香は確認できないようだった。
「そんなバカな」
と、こういちは自分の目をこすってみる。しかし、そこにいるのは紛れもなく自分で、最初は無表情だったはずなのに、かすかにニヤッとしているのを感じると、またしても、ゾッとするほどの恐ろしさを感じた。
こういちは、最初に感じた鋭い視線と同じものを感じた。しかし、その二つはかなりの距離である。一瞬にして移動するのは、ハッキリ言って不可能だ。どちらかが錯覚だったと思うしかない。
しかし、同じように不可解な表情をしているのは、友香だった。
友香は、最初にこういちが見ていた場所に目が釘付けになっているようだ。こういちが自分の姿を確認した瞬間から、おかしな気分になったのと同じように、今の由香の顔は、いかにも幽霊でも見たかのような表情をしていた。
「どうしたんだい?」
今度は、こういちが訊ねる番だった。
「えっ」
友香はこういちの声に反応はしたが、視線は相変わらず、こういちが最初に見つめていた方向を向いている。しかも、わなわなと震えていて、自分から何かを喋れる雰囲気ではない。ただ、その様子を見ている限り、ただ事ではないことだけは分かった。
――まさか、友香にも、自分に似た人が見えているんじゃないだろうか?
友香に、こういちが見てほしいと言った場所を見せても、友香はこういちに似た人を確認することができなかった。つまり、こういちにしか見えていなかったということである。友香も自分が見つめているところに、友香にとてもよく似た人を認めて、あまりにも似ていることで、金縛りに遭ってしまったのかも知れない。ただ、その驚きは尋常ではない。いくら女の子と言っても、ここまで固まってしまうのは、おかしい気がした。
「私……」
顔は相変わらず、一か所しか見ていないのだが、何とか声を発することができた友香は、消え入りそうな声ではあったが、何かを言いたいという気持ちは、こういちにも伝わってきた。
こういちは、友香が自分から言い出すのを待っているしかなかった。下手に促そうなどとすると、せっかく口を開く勇気を持てたのに、自分の手でくじいてしまいそうで怖かったのだ。
「私、今目の前に、自分によく似た人を見ているんです。さっき、橋爪さんが言ったように、私にも見えるんです。でも、さっき私が見えなかったように、橋爪さんには私のそっくりな人は見えていないでしょう? 実はこれとまったく同じ経験を、以前にしたことがあったんです」
友香は、ゆっくりと話し始めた。
その口調は、言葉を選んでいるというよりも、どういえば伝わるかということを考えているようで、結果としては同じなのだが、微妙に気持ちの持ちようが違うということだけが、こういちにも分かっていた。
「それはいつのことだったんだい?」
「いつのことというよりも、さっきまでは、時々思い出してはいたけど、記憶に残っているだけで、ありえないことのように思っていたんです。でも、やっぱり、記憶に残っていることは、ありえないことではなかったと、今はそう思っています」
「記憶に残っていることが、いつのことだったのかというのを聞くのは、ナンセンスなことのように思えてきたよ」
というと、
「それも少し違うような気がするんですが……」
と前置きを入れた後で、本題に入り始めた。
「その時に見た人というのは、実は自分に似た人ではなかったんです。その人は、自分の親戚の人で、本当なら、そんなところにいるはずのないと思う人だったんですよね」
「それで?」
「地元から出たことのない人で、見ていると、普段は絶対にしないような服装をしていたので、やっぱり、他人の空似だって思ったんですが、どうしても気になったので、連絡を取ってみたんです。実際にはかなり長い間、連絡を取っていなかった人だったので、電話にも出てくれなかったんです。でも、やっぱり気になったので、その人の近くに住んでいる別の親戚に様子を聞いてみたんですが、ビックリしたことに、その人はその前の月に、交通事故に遭って、病院で寝たきりだったらしいんです。最初は命には別状ないと言われていたんですが、ちょうど私が見たその頃に容体が急変して、そのまま亡くなったということでした。病院でも何が起こったのか分からない。しかも、死因も特定できなかったというオカルトめいた話だったらしいんですが、そこに私が見たという話をすると、さらに話が飛躍してしまって、虫の知らせというのは、こういうことなのかって、考えさせられた事実だったんです」
「本当に虫の知らせだったのかな?」
「そうとしか考えられないんですよ。だから、自分にしか見えない相手を見てしまった時、あの時の記憶がフラッシュバックして、金縛りに遭ってしまったんです。今は金縛りから解き放たれて、だいぶ楽になったんですが、やっぱり、虫の知らせだったんじゃないかって思うと、恐ろしくなってしまいました」
「しかも、当事者にしか見えないというのも、オカルトだよね」
「そうですね」
そのことが、今のこういちには一番怖いことのように思えていた。
こういちは、今まで夢の中で一番怖いと思った夢が、
――どうして一番怖い――
と感じたのかということを、最近まで分からなかった。
しかし、大学を卒業する頃くらいから、その理由が分かってくるようになったのだ。
――もう一人の自分が見ているからだ――
その夢には、もう一人の自分が出ていた。
そのおかげで、自分が夢を見ていることをすぐに看過できたのだが、なぜすぐに看過できたのかというと、誰もまわりの人が驚いていなかったからだ。
視界に入るくらいの距離のところに瓜二つの人がいるのだ。まわりにいる人の誰か一人くらいはビックリして、何らかの反応をするはずである。
それなのに、誰も反応しないのはなぜなのだろう? 一人が反応すれば、他の人も反応するはずである。それが連鎖反応というもので、すぐに、そのあたりはパニック必至だったはずである。
目の前の自分は、まったくの無表情で、こちらを見ているはずであり、目も合っていると思っているのに、何も反応を示さない。凍り付いた様子に見えた。そう思っていると、自分も金縛りに遭っていることに気づき、顔が引きつっているのを感じていた。
――もしかして、相手も同じ状態なんじゃないか?
と思うと、自分も同じように無表情で、何を考えているのか分からない様子なのかも知れないと思った。
そう思っていると、さっきまでまわりにいたはずのエキストラが、どんどん少なくなってきていた。気が付けば、誰もいなくなっていて、歩いていたはずの道が、まったく違った場所になっていた。
そこは小部屋のようなところだった。パッと見ただけでは小部屋だとは思わない。なぜなら、そこには空気以外何もなかったからだ。
その場所に自分と、そして無表情のもう一人の自分がいるだけだった。足元から伸びている影を確認し、どこから光が当たっているのか、まわりを見渡そうとしても、首を動かすことができない。
――ライトがどこかにあるはずなんだが、存在しているようには思えない――
と感じていた。
こういちは、その部屋で思い切り声を出そうと思い、息を吸ってから吐き出したのだが、とても声になりそうな気がしなかった。実際に声を出してみたが、声になっていない。本当なら、響いてきてもよさそうな物音も、まったくしなかったからである。
そう思って目の前にいる自分を凝視すると、いきなり、目の前から消えてしまった。ビックリして、その男が立っていた場所の足元を見ると、何と、存在していない人の影だけが、足元から伸びていた。
反射的に自分の足元に目線を送ると、今度は自分の足元から伸びているはずの影が、どこにも存在していない。
それを見た瞬間、
――さっきの男は、やっぱり自分だったんだ――
と、本当は信じていたと思っていたが、どこか半信半疑だった自分の気持ちに確信を与えた。
しかし、こういちは、この瞬間、自分が夢を見ていることにも確信を持った。夢を見ているのだから、さっきの男が自分だったとしても、潜在意識の中で感じていることだとすれば、別に不思議ではない。さらにもう一つ、
――夢の世界は、本当に自分の思い通りになるんだろうか?
という思いも頭をもたげた。
夢が潜在意識の中でしか起こらないことであれば、
――夢だと思った瞬間、目が覚めてもいいだろう――
と感じた。
しかし、実際に夢から覚めることはなく、夢を見ているという意識の元に、夢は展開した。
だが、いつの間にか目が覚めていたので、後から思うと、
――夢を見ているという夢を見ていたのではないか――
とも感じられた。
――夢というのが「多層性」としても存在しているとすれば、「多重性」は考えられるのか?
という思いも頭をもたげたが、その答えを前に皆で話をしたような気がした。
――どんな結論になったんだろう?
思い出そうとしても思い出せなかったので、そのまま、考えるのをやめてしまったこういちだった。
見ているのが夢だとして、その中でこういちが気になっていたのが、
――自分に似た人の存在を見ることができるのは、自分だけ――
という感覚だった。
夢というものが、潜在意識の見せるものだと考えると、もう一人の自分の存在を自分だけが、曲がりなりにも認めているということになる。それがどういう意志から結びついているのか、心理的に気になるのだった。
こういちは、子供の頃から守護霊のようなものを信じていた(はずである)。
元々は守護霊というよりも、背後霊の存在を意識していたのだが、小さかった頃は、それが怖いモノでしかないと思い込んでいた。
なぜ怖いモノだと限定して考えていたのか、今となっては覚えていないのだが、それを守護霊だと思うようになったのは、祖母から教えられたからだ。
「いいかい、こういち。こういちの後ろには自分を守ってくれるご先祖様がいるから、安心していいんだよ」
「ご先祖様なんて、見たことないよ」
というと、
「いつもご先祖様を感じることができるわけではないんだよ。ご先祖様を感じることができるのは、自分がご先祖様を必要とした時なんだ。たとえば、何か危険に見舞われそうな時、ご先祖様が現れて救ってくれたり、他にも自分が何かの目的を達成したいと願った時など、一人ではできないところを手助けしてくれたりするのがご主人様なんだ。そんな時、ご主人様がひょっとすると見えるかも知れないね」
「じゃあ、その時を楽しみにしておく」
と、まだ疑うことを知らなかった頃だったので、祖母の話をまともに信じていた。
だが、強く意識していたのは、それから一定期間だけで、次第に話されたことさえ忘れてしまっていた。そのため、守護霊というよりも、背後霊の方ばかりが意識の中に残っていた。
こういちが、今まで一定期間だけ強烈な印象として覚えていることを、急に忘れてしまったり、意識すらなくなってしまったりすることが多いのだが、それがなぜなのか、分かっていなかった。
しかし、この頃になると、それがどうしてなのか、漠然として分かってきたような気がしていた。
――きっと、覚えていたいと思っていることと、対になる意識が自分の中にあって、その二つが頭の中で争うことで、ジレンマに陥ってしまった自分が、負けた方を記憶の奥に封印し、なるべく思い出さないようにしようと考えたのではないだろうか?
と、思うようになった。
そのことに気づくきっかけになったのが、守護霊と背後霊という、相対する二つの思いが頭の中にあったのを思い出したからだ。
そして、この守護霊への思いは、自分に似た人というのが、本当に自分ではなく、自分のご先祖様ではないかと思うと、自分にしか見えないことや、
――夢の中で見たさらにその夢――
という意識を持たされるという感覚に結びついてくることになったのだ。
こういちは、そのことを感じながら、祖母を思い出していた。
祖母の家に、夏休みになるとよく遊びに行っていたが、広い敷地の中に、新しい家が建っていた。そして、庭を挟んでその奥には、まだまだ農業に使うための納屋や、土蔵のようなものがあり、
――同じ時代とは到底思えないものが目の前にあった――
という意識が残っていたことを思い出した。
その意識がありながら、もし思い出すとすれば、それぞれの時代のものしか思い出すことができない。ある時は、
――新しい家に広い庭――
という感覚。
ある時は、
――農業をするための土地に、納屋や土蔵の光景――
それぞれを同じ次元として思い出そうとしていた気がした。
そのため、高校時代から、祖母の住んでいた田舎の家を思い出すことができなくなった。祖母の家に遊びに行ったことすら、記憶から抹消していたような気がするくらいだった。
――古きよき時代――
そんなものは、自分の記憶の中にはないものだと思っていたのだ。
しかし、最近、祖母の家を思い出せるようになった。それがいつのことだったのかというと、思い出せるようになったことを自覚したのが、少し後になってからのことだったので、ハッキリとしなかった。
――思い出せるようになったけど、少し前から思い出そうと思えば思い出せたような気がする――
と感じたのだが、それを感じたのは、以前イリュージョンで山田さんや典子といろいろ話をしてすぐのことだった。それまで気づかなかったのがウソのように、目を瞑ると、祖母の家の面影がよみがえってきたのだ。
「橋爪さんは。今までにどれくらい不思議な経験をされたことがありましたか?」
友香が聞いてきた。
「そうだなあ。不思議な経験をしていれば覚えているはずなので、覚えている数がすべてだとすると、数回かも知れない」
「それは、皆関連性のあることですか?」
「というと?」
「人間関係が関連しているとか、現象が酷似しているとか、そのどちらもということは考えにくい気はするんですけどね」
「どちらもあったように思うんだけど、でも、今思うと、本当に恐ろしいことは他にもあったんじゃないかって思うんですよ。その根拠は、気になることは一定期間覚えているんだけど、ある瞬間を超えると、記憶の中から消えてしまったかのように思うことがあるんですよね。今まで何か考えていたはずなのに、何だったんだろう? ってね」
「ええ、それは私もあります。でも、それが本当に怖いことだったのかどうか、自分でも分からないんですよ」
友香はそう言って、少し考え込んでいた。
少しの沈黙の後、友香は続けた。
「私は、今のお話にあった怖い話を忘れてしまう瞬間に、一緒に何か予知が働いたような気がすることがあるんです。だから、忘れてしまうのは、その予知を働かせるために必要なことではなかったかと感じるようになったんですよ」
と言われて、こういちも考え込んだ。
「確かに、僕も予知が働いているような気がしたことはありました。でも、それが実現したという記憶はないので、気のせいだって思っていたんですよ」
すると、友香が答えた。
「じゃあ、そのことを誰かに話をしたことってありましたか?」
「いえ、なかったですね」
というと、
「なるほど」
と言って、今度は友香が考え込んだ。
「実は予知能力というのも、ある一定の時期を過ぎると忘れてしまうものなんです。だから、誰かに話をしていれば、それが的中した時に、自分が予知したということを、話をした相手から聞かされるので分かるんですが、話をしていなければ、自分の中だけで終わってしまって、結局記憶から消えてしまうことになるんですよ」
「じゃあ、友香さんは誰かに話してそのことを教えられたんですか?」
「ええ、私はおしゃべりですからね。それに、話の内容が誰かにとって危険なことで、話をすることで助けることができれば、いいと思うからですね」
「でも、どうして、相手のためになったって思ったんですか? もし、話をした相手が予知を信用してくれなければ、そこで終わってしまうことではないですか。しかも、予知を通告したから、その人が助かったというれっきとした証拠のようなものがあったんですか?」
「それがあったようなんです。私の予知は交通事故が多いようで、普通に歩いていれば、その人が交通事故に遭っていても不思議のない状態だったので、信憑性は確かなものになりました」
「なるほど、でも、交通事故ばかりというのも、少し怖い気もしますね。だって、それだけたくさんの交通事故を助けているということでしょう?」
「でもね、交通事故なんていうのは、秒刻みで必ずどこかで起きているものなんですよ。これはいくら注意しても減るものではない。だから運命のようなものを感じませんか? それを予知できるということを運命と考えれば、予知というのは決して不思議な力でも何でもないような気がするんですよ。ただ、運命自体を不思議なものだと考えれば、不思議な力になるんでしょうけどね」
友香の言葉には説得力があった。
友香は続ける。
「でも、私は最近、その力が欠如してきたんですよ。実際に自分の知り合いが交通事故に遭ったことがごく最近あったんですが、私はその時運命を感じることはなかったんです」
「それは、力が衰えたと見るべきなのか、それとも、運命というものが、何かの拍子に変わってしまったのか、はたまた、他に要因があるというのか、難しいところですね」
とこういちが言うと、
「そのどれかかも知れませんね。でも、私は運命というものがどういうものなのかって、気にし始めてから、急に予知ができなくなったような気がするんです。実際の運命と私が考えようとした運命が違っているからそうなったのか、それとも、私の想像が本当の運命に近づきすぎたことで、運命の方が遠ざかって行ったのか、どちらかではないかと思うんです」
「友香さんはどっちだと思います?」
「私は、後者ではないかと思うんですよ」
「どうしてですか?」
「前者ということになると、違っていれば共通点がないのだから、二つの別の考えが頭の中にあるというだけで、別に問題はないはずだと思うんですよ。でも、私の予知が当たる瞬間、自分の意識の中に予知したという思いがないことでも分かるように、運命は、私の中にある意識とは一線を画したいんじゃないかって思うんですよね。だから、後者ではないかって思うんです」
友香の発想に、またしても説得力を感じた。
これだけの発想ができる人なので、予知能力が備わっていたとしても、不思議はないような気がした。運命の方も、元々意識の中に素質のある人を選んで入り込んでいると思うと、理屈にも合うような気がするからだ。
「橋爪さんは、典子さんのことをどう思っています?」
いきなり話を変えてきた。
「えっ、いきなり何の話なんだい?」
「橋爪さんが典子を意識しているのが分かっていたので、私は少し気になっていたんです」
彼女の方からの愛の告白とみてもいいのだろうか?
特にさっきまで、難しい話をしていたと思ったのに、急に砕けた話で、しかも恋愛関係の話。砕けたというよりも、男女の会話としては重要な会話であることに違いはない。どう答えていいのか、困惑してしまったこういちだった。
「それはどういう意味での気になっているということなの?」
こういちは、自分の顔が紅潮しているのを感じた。
典子に対しては、
――綺麗な人だ――
というイメージと、難しい話ができる他の女性にはない魅力を秘めた女性だという意識であった。
友香に対しては、今までは真面目で几帳面な性格というのは分かっていたが、何しろ忙しい時間帯だったので、お店で話をすることはほとんどなかった。意識していなかったと言えばウソになるが、典子と話をするようになってから、頭の中には、典子への思いが強いのは事実である。
しかし、気にしていないとは言え、意識の中では、
――典子が綺麗なタイプなら、友香は可愛いタイプの女性だ――
という思いが強く、できれば話をできる機会が訪れるのを心待ちにしていたというのが本音だった。
その友香とバッタリ出会って、ここまでの話ができている。こんな幸福ってないような気がする一日である。
――待てよ? これって本当に偶然なのだろうか?
彼女の話には運命が根底にあった。
運命という言葉への意識が強くなりすぎると、今日の出会いは、完全に、
――偶然という運命だ――
ということになる。
果たしてそうなのだろうか?
話の主導権も完全に友香が握っている。制空権を握られた対戦国は、身動きが取れないのと同じで、相手の話に思い込まされていると言えなくもない。ただ、これが偶然ではなく運命でもないとすれば、こういちにとって光栄なことではないか。
こういちに対して、典子の話をしたのも、運命という言葉を印象付けた後だったこともあって、こういちの考えが幅広くなったのは間違いない。柔軟な考えができることで、こういちの本音に近づくことができると考えたのだろう。
果たして、典子はどういう意識を持って、こういちに典子の話を敢えてしたというのだろう。
「私は、正直橋爪さんのことをずっと気になっていました。元々橋爪さんは、先輩に連れられてイリュージョンに来られたんですよね? その先輩さんと私は、結構お店でもお話したんですよ。その時に、橋爪さんのお話を時々してくれたんですね。それが気になっていたので、実際に来てくれるようになってから、なかなかお話もできていなかったことが少し寂しく思っています」
「僕は、カウンターの奥で一生懸命にお仕事をしている友香さんを見ていて、話しかけてみたいけど、悪いなと思いながらずっと見つめていたんですよ」
「そうだったんですね。先輩さんは、実は橋爪さんが私に声を掛けやすいように、わざと私に話しかけることはなかったんですよ」
「そうだったんだ」
そういえば、イリュージョンで先輩と話をしている時に、急に黙り込んで、何も話さない時間があった。それは気まずい時間になってしまったと思って恐縮していたが、こういちにとってチャンスを与えるための時間だったなど、気がつくはずもなかった。
――惜しいことをした――
と思ったのと同時に、二人の優しさに暖かさを感じた。
「でも、先輩さんがいなくなって一人になった橋爪さんを見ていると、私の方から声を掛けるタイミングがなかなかなかったんですよ。何度か声を掛けてみようと思ったんですが、私にはできませんでした」
「それは申し訳ないことをした」
「いえ、いいんですよ。私は元々、好きになった相手には自分から声を掛ける方だったんだけど、なぜか橋爪さんには声を掛けることができなかったんです。最初はどうしてなのか分からなかったんですが、橋爪さんのことを考えていると次第に、二人の間に運命のようなものがあるんじゃないかって思うようになったんですよ」
やはり、友香は運命のようなものを感じてくれていたのだ。
「ありがとう。とっても嬉しいよ」
完全な愛の告白だった。
「僕も、相手は誰なのか分からないんだけど、運命の相手に出会えるような気は最近していたんですよ。さっきの予知の話ではないけど、今までに感じたことのない初めての感覚だったんだよね」
「それは大切なことだと思います。初めての感覚というのは、感情の中でも大切なポイントになると思っているんですよ。私も橋爪さんに対して初めての感覚を感じていますし、その二つを合わせると運命というのかも知れませんね」
こういちだけではなく、目の前の由香も顔が心なしか紅潮しているのを感じた。まるでリンゴの皮のような真っ赤な頬は、可愛いと感じた最初のイメージを思い起こさせるものだった。
こういちは、いつの間にか有頂天になっていた。
今までに恋愛をしたことがないわけではなかったが、長続きしない。相手に愛想を尽かされることが多かったのを思うと一抹の不安もあったが、お互いに、
――初めての感覚――
という言葉に運命を感じていることから、
――今度は大丈夫だ――
と思うようになっていた。
「私、これからこういちさんって呼んでいいですか?」
「いいよ。僕も友香って呼び捨てにさせてもらうね」
「ええ」
「でもお店では今まで通りの態度でいいかな?」
「いいけど、もう少し話しかけてくれないと、お互いに却ってぎこちなくならない?」
「そうだね。それももっともだ。今までの自分たちが運命を意識しながら、一歩踏み出せないことで、余計な緊張を張り巡らせていたんだからね。自然ではなかったということだね」
「今の笑顔を見せてくれれば、それでいいの。必要以上な会話も必要ないしね」
「運命というのは、静かに育むものなんだろうか?」
「私は前はそう思っていたけど、そうでもないように最近は感じているの」
「どういうこと?」
「黙って進展させないと、自然消滅してしまいそうな気がするの。私が予知をある一点を超えると忘れるようにね」
「でも、それは運命だと思ったから忘れたともいえるでしょう? 僕たちの進展に何か運命がまたしても関わってくるのかい?」
「もし、運命が存在しているとすれば、それはお互いが運命を感じるまでであって、運命を感じてしまうと、二人の間に運命が関わってくることはないんじゃないかって私は思っています」
と友香は話していた。
「私が今日、あなたに告白したのは、私の中で、何かあなたに今日、告白しておかなければいけない気がしたからなの」
「それはどういうことなんだい?」
「実は、私、あなたに似た人をここに来るまでに見かけたの。それまではここまでハッキリとあなたに告白するつもりはなかったんだけど、あなたに似た人を見た時、言わなければいけないと思ったのね。でも、あなたに似た人を見かけたということを言おうかどうか、正直迷ったんだけど、でも、言っておかなければいけないと思い、その前兆として、さっきの話をさせていただいたの」
なるほど、友香が途中でいきなり話を変えたのは、そういう含みがあったからだということをこういちは悟った。
「でも、それを聞かされて、僕は一体どうしたらいいんだ?」
「私から言えることとしては、『交通事故には気を付けて』としか言えない。もちろん、このことをあなたに話したら、あなたが混乱したり極度な不安に襲われることも分かっているの。それでもあなたには言っておきたいと思ったのは、あなたに告白した気持ちに間違いはないということをあなたに分かってもらって、少しでも、恐怖や不安を払拭してくれればいいという思いからだったの。余計なことをしてしまって、本当にごめんなさい」
友香は恐縮して話した。
「ありがとう。気を付けるようにするよ」
最初は、友香と普段からお互いに感じていたことの会話ができて、楽しかった。その後、唐突に告白され、戸惑いもあったが、嬉しさで有頂天になった。その後、自分に似た人を見たと言われたことで、恐怖と不安のどん底に叩き落され、どうにも頭の中を整理することが困難だった。
友香とはその日、それ以上話をすることもなく帰途についたこういちだったが、交通事故を避けるという意味で、車の通らないような裏の路地を伝うように、家路についた。
真っ暗な裏路地には、誰もおらず、元々、普段はオフィス街になっているようなところであったが、ここまで誰もいないというのも不気味なものだ。
時間としては、午後九時を過ぎたくらいなので、少しくらいはまだ残業をしている会社があってもいいと思うのに、どこも電気がついている窓もなく、街灯すら、ほとんどついていないありさまだった。
「それにしても、こんな路地があるというのも、今まで知らなかったな」
と思いながら歩いていると、
――どこかで見たことがあるような景色――
と感じた。
それは、ビルの影になっていて分からなかったが、道を挟んでビルの反対側は、まったくビルが建っていなかった。そこにあるのは、まるで昭和の風情を感じさせる住宅街の一角を思わせた。
――平成生まれの僕が、どうして昭和の風情を分かるというんだ?
自分でも不思議だった。
垣根の生えているその向こうには庭があり、木造の一軒家が建っている。
「おばあちゃんの家を思わせるようだ」
とも感じ、その向こうに、うっすらと光が漏れているのが見えた。
縁側に一人の老婆がいた。白髪でなければ、老人だとは分からないくらいの明るさなのに、なぜに、それが老婆だと分かったのか、それも不思議だった。ちょっとだけでも雰囲気が分かれば、全体の雰囲気を垣間見ることができるような気がしたからだ。
――子供の頃に見た覚えのあるおばあちゃんだ――
こういちは、そのおばあちゃんに引き寄せられるように、垣根から、家の中を覗いていた。
明かりはどうやら、ロウソクのようで、揺らめいているのが見て取れる。
子供の頃に聞かされた守護神の話を思い出していた。
――あの時も、こんな雰囲気の中で聞かされたんだっけ――
忘れていたはずの記憶がよみがえってきた。
今は完全によみがえっているのを自分でも分かっている。しかし、その記憶がずっと残っているかというと自信がない。むしろ、すぐに消えてしまいそうに感じた。目の前のロウソクが消えてしまうと、そこにいるおばあちゃんも、目の前にそびえている家も、さらには、この一帯すら消えてしまうようで、恐ろしかった。
おばあちゃんは、こういちの方を見た。手で、
「おいでおいで」
しているようだった。
おばあちゃんには、こういちが見えているのだろうか?
こういちにはその視線がまっすぐに自分に向いているのに、見ているのは自分ではないような気がして仕方がなかった。
「おばあちゃん」
と声を掛けてみるが、おばあちゃんの反応に変化はなかった。
「こうちゃん」
おばあちゃんは、声を掛けると、視線を次第に下げていき、誰もいない空間を抱きしめるような素振りをした。
しかし、包み込まれている空気、その間には他の空気は存在しない。つまりは自分が空気だと思ってみているのは、透明の何かを抱きしめている様子だった。それが透明人間であるとすれば、一体誰が透明になっているのか、そこにいるのは誰なのか、分かる気がした。
「おばあちゃん」
小さな声が聞こえてくるようだった。その声は明らかに、こういちが小さかった頃の声だった。姿が見えないだけで、そこにいるのは自分である。
――そういえば、おばあちゃんに抱きしめられたくて抱き寄って行った時、背後に気配を感じた気がしたな――
ちょうどその時、おばあちゃんと守護霊の話をしたような気がした。
今だから思い出せるのかも知れないが、おばあちゃんは自分を抱きしめながら、僕の背後にいる何かを見つめていたような気がする。自分を抱きしめながら別のものに意識が分散しているのを感じたにも関わらず、別に嫉妬したわけでもなかった。
――守護霊ならいいか――
と自分に言い聞かせていたからだ。
――何だ、守護霊でも何でもないじゃないか。そこにいたのは、未来の自分だったんだ――
子供だったら、怖いとは思いながらも素直にこの現実を見つめることができるかも知れないが、大人になって、こんなことが目の前で起きていれば、普通なら、自分がおかしくなってしまったのか、それとも、超常現象の中に入り込んでしまったのかという思いから、恐怖を感じるに違いなかった。
しかし、二十代の自分が信じられる許容範囲は、完全に飛び越えているはずだった。
それなのに、どうして、こんなに素直に受け止められるのだろう。それはきっとおばあちゃんの笑顔が、今も昔も変わらないからだ。
――僕だけが年を取ってしまった――
おばあちゃんは、とっくに死んでしまっていた。
母親から、祖母が亡くなったという事実を聞かされた時、なぜか悲しい気がしなかった。確かに子供の頃にはよく遊びに行っていたが、中学に入ってからは、まず行くことはなくなった。おばあちゃんがどんな顔をしているかということすら忘れてしまっていたくらいだった。
そんなおばあちゃんの思い出は、小学生までだったはずなのに、どうして今になって思い出すことになったのか、それは、子供の頃におばあちゃんに抱き着いた時、おばあちゃんが意識していた自分の背後が誰だったのか、気になっていたからだろう。
――今だったら、誰だったのか分かりそうな気がする――
と思ったとすれば、あまりにも都合がよすぎる。
都合がよすぎる解釈ができる年齢になったことで、再度おばあちゃんのことを想像していると、後ろから見ていたのが守護霊ではなく、未来の自分だったのではないかと思うと、逆に自分が守護霊になったつもりで想像を膨らませることができるのではないかと思ったのだ。
こんな感覚は初めてだった。
大人になって子供の頃のことを思い出す機会は、むしろ増えてきた。それだけ守護霊だと思っていた子供の頃の自分の気持ちが、今なら一番分かると思うようになったからで、今の自分も後ろから誰かに見られているような気がするのも気のせいではないかも知れない。
「四十代の自分だったりして」
と、冗談のつもりで口にしてみたが、どうにも笑えない自分がいるのも事実だった。
子供の頃から見た二十代の自分に比べると、二十代の自分から見る四十代の自分は、そんなに変わっているわけではないと思うに違いない。
「三十代に入ると、一気に時間の流れが速くなるものだ」
と言っていた先輩の話を思い出していた。
そんなことを考え倣が歩いていると、急に目の前に白い閃光が走った。
「キュルルルル」
何の音か、すぐには分からなかったが、危険な音であることは想像がついた。その音とともに、こういちは、自分の頭の中が走馬灯のように過去の記憶がよみがえってくるのを感じたが、一番印象に残っているのは、
「おばあちゃんを見た」
ということだった。
しかし、おばあちゃんの姿を見たのは、白い閃光を確認する前だったはずだ。子供の頃の記憶の中にあったおばあちゃんの家の縁側に佇んでいた姿が印象的で、その笑顔は忘れられない。
白い閃光を浴びた時、そのおばあちゃんがニヤリと笑うと、
「お前を見た」
とその口が動いたことを感じた。
――どうしておばあちゃんが?
おばあちゃんの顔がみるみるうちに変わっていく。
恐怖に歪む顔をしているはずのこういちに対して、その顔は容赦なく、笑顔を投げかける。
そして見覚えのある顔になり、
「私、あなたに似た人を見たのよ」
と言っている友香であったり、次の瞬間には、
「お前を見た」
と言って、不敵な笑顔を見せる典子だったりしているのを見ると、自分が交通事故に遭ったのだということに気が付いた。
「ここは一体、どこなんだ? 僕は死んだのか?」
というと、
「あなたは死んでいないわ。死んだのなら、私たちにここで出会うことはないからね。しいていえば、あなたは夢の中にいると言った方が一番適切なのかも知れないわね」
そう言ったのは、典子だった。
友香が現れた時は、
「あなたに似た人を見た」
と言っただけで、何を言っても、答えは返ってこないと思えるような表情を見ると、何も聞けなくなってしまった。
もっとも、無表情の相手に何を聞いていいのか分かるはずもなく、金縛りに遭っている自分が分かった。無表情以外の由香を想像することは、ベッドの上でロープによって縛られている自分を、心配そうな目で見ている友香を想像することしかできなかった。
――僕は一体、どうなってしまったんだろう?
こういちは、夢を見ている感覚に陥っていた。
「手術はうまくいきましたが、昏睡状態は少し続いています。そのうちに気が付くでしょうから、その時は個室に移しますね」
「ありがとうございます」
救急病院での明け方の会話だった。
昨夜の十時過ぎくらいに緊急搬送された交通事故に遭った男性を緊急手術した。名刺からその人が橋爪こういちであると分かると、会社の上司には、翌日の朝しか連絡が取れない状態だった。
交通事故を知らせてきたのは、友香だった。
友香は、こういちが交通事故に遭うのではないかと危惧していたこともあって、こういちの後を密かにつけていたのだ。交通事故に遭ってすぐ、救急車と警察に連絡を入れ、何とか病院に搬送し、手術を受けることができた。
「処置が早かったのと、致命的な損傷はないのがよかったです」
という医者の話で、意識は戻っていないが、命に別状はないということで、ホッと胸を撫で下ろした友香だった。
翌日昼頃になると、こういちの意識は戻り、ケガの後遺症もほとんどなかった。少しだけ記憶が欠落している部分があるということだったが、
「これくらいなら心配いりません。思い出すことになると思いますよ。生活に影響するほどのこともありませんし、心配はいらないと思います」
というのが、医者の見解だった。
友香は、安心して昼からも少しだけ、こういちのそばにいてあげようと思った。
「せっかく、警告してくれたのに、まさか、本当に事故に遭うなんて……」
とこういちは、後悔と友香への申し訳ないという気持ちが頭の中にあるようだった。
「いいんですよ。それよりも、こういちさんが無事でよかった」
友香は少し意識が朦朧としているようだった。昨日からずっと付き添っているので、無理もないことだ。
友香は、すでにこの時から、呼び方を下の名前で呼ぶようになっていた。こういちも、まったく意識していなかったのは、話をしたのが昨日というよりも、もっと前のことだったように思うからだった。
医者が入ってきて、こういちの様子を見ていた。脈を取ってみたり、血圧を測ったりと、定期的に形式的な検査をしているだけだった。
「あなたの方は大丈夫ですか? 少し横になった方がいいですよ。少し休んでから出ないと、帰宅するのは危ないですからね」
と、友香に言った。
こういちは意外そうに思い、
「先生、そんなに彼女は衰弱しているんですか?」
というと、医者はこういちが何も知らないということを意外に思いながら、
「それはそうだよ。彼女は君のために、昨夜輸血をしてくれたんだからね。あれから寝ていないようなので、今は気が張っているかも知れないけど、気を抜くと、一気に虚脱反応を起こしかねないから、彼女も十分、気を付けてあげなければいけないんだよ」
こういちは、驚いて友香を見た。
友香は、下を向いたままで表情は見て取れなかったが、
「そうだったんだね。ありがとう」
と、こういちは、心から感謝の気持ちを伝えた。
「私のことはいいのよ。こういちさんが元気になってくれれば」
と、ニッコリと笑った。
さすがに衰弱しているのだろう。よく見ると、目の下にはクッキリとクマができている。いくら自分が事故に遭ったばかりとはいえ、気づかなかったことを恥ずかしく感じたこういちだった。
友香の状態も、医者は診てくれた。同じように、血圧と脈を調べていた。
「さすがに若いだけあって、回復も早いのかも知れないね。異常はないですよ」
と言われて、友香はホッと一安心だった。
その表情を見たこういちは、
――思ったよりも、本人はきついと思っているのかも知れない――
と感じた。
やはり気が張っていると、それだけ表情には出ないのかも知れない。医者の言った、若さというのも理由の一つなのかも知れない。
心情として、好きな人への一途な気持ちが彼女を奮い立たせているとも思える。本人の意識としては、それが一番強いのかも知れない。
「それでは、お二人気を付けて」
と言って、立ち上がると、看護婦を制して、次の巡回患者の元に向かった。
「少し、寝た方がいいよ」
と、友香の体調を気にするこういちは、そう言った。
「ありがとう。こういちさんこそ大丈夫?」
「大丈夫だよ。医者もそう言ってくれたしね」
そう言って見せる笑顔を見た友香は、睡魔が襲ってくるのを感じた。
「じゃあ、お言葉に甘えて、少し横にならせてもらうわ」
「どうぞどうぞ」
病室は二人部屋を用意してくれていた。
友香が輸血をしているという事実があるのも分かっていることだったので、友香がいる間だけ、二人部屋を使っていいと、病院側から言われていたのだ。
友香はベッドに潜り込むと、さすがに一気に襲ってくる睡魔には勝てず、すぐに可愛い寝息を立てて、眠りに就いた。こういちも、それを見ていると、自分も睡魔に襲われてくるのを感じ、そのまま眠りに就いていた。
「あなたに似た人を見た」
またしても、こういちは夢の中にいた。
今度は夢の中には友香しかいない。典子はどこに行ってしまったのだろう?
こういちは、その声を聞いて、
――あれ? さっきの由香なのか?
と感じた。
どこが違うのかというのは、すぐには分からなかった。だが、何かが違っている。
――ああ、さっきよりも、声のトーンが低く、ハスキーだ。まるで寝起きの時の声のようだ――
と感じた。
寝起きというのは、普通機嫌の悪いもので、最初に聞いたその声は、いつもの優しい友香では考えられないような声だった。
というよりも、感情がこもっていないと言った方がいいかも知れない。
そう思ってみると、その目にはクマが浮かんでいて、今にも倒れそうな状態を必死で耐えている様子だった。
さっきまでベッドの横で付き添ってくれていた人と同じ人なのかと思うほどのひどい形相で、本人というよりも、
「あなたに似た人」
と言った方が正解ではないかと思えた。
――ということは、友香が言っている「あなたに似た人」というのは、自分であって自分でない相手を見ているように感じるのと、もう一つ、友香自身が自分ともう一人の自分が同じ相手を見ることで、感覚的に「似た人を見た」という感覚になると考えるのも無理なことだろうか?
と感じた。
友香の場合は、ひょっとすると、後者ではないかとも思えてきた。
友香は、それ以上何も話そうとはしない。ただ、じっとこういちを見つめているだけで、次第にその友香の顔色が悪くなってくるのを感じた。
よく見ると、左手の袖がまくられていて、肘を曲げるところに針が刺さっていた。そこから真っ赤に染まった管が伸びているのを感じると、こういちは、思わず自分の腕にチクっとした痛みがあるのを感じた。そこには友香と同じように針が刺さっていて、真っ赤な管が見えていた。
――まだ、輸血されていたのか?
と思うと、友香の顔色が悪くなってくるのも無理もないことだった。
顔色は悪くなっているのに、表情は変わらない。元々表情などなく、顔色だけが悪くなっていっていたのだ。
――そういえば、似たような感覚を覚えたことがあったな――
思い出したのは、事故に遭う前に見たと思っていたおばあちゃんの幻だった。
おばあちゃんの家に似た佇まいの道を歩いていて、気が付けば白い閃光に見舞われた……。ここまでは意識の中の時系列に間違いはないと思っている。
おばあちゃんが死んだのは、確かこういちが遊びに行って帰っていてからすぐだったように思う。
「お父さん、おばあちゃんが亡くなったんですって」
「えっ? あれだけ元気だったのに?」
「ええ、今からすぐに私行ってきます」
「分かった。こういちはどうする?」
「おいていくわけにはいかないので、一緒に連れていきますね」
と言って、帰ってきてすぐではあったが、とんぼ返りのような状態で、またおばあちゃんの家に行くことになった。
おばあちゃんの家に行くと、すでに白と黒のストライプになった膜が張られていた。お花が飾ってあって、線香の匂いが印象的だった。
「そういえば、おばあちゃん、死に際に言っていたわ」
おばあちゃんの死に際を看取ったおばさんがお母さんに話していた。
「何て?」
「こういちに、『おばあちゃんに似た人を見たって言われた』ってね。どういうことなのかしらね?」
その時の記憶は、しばらくずっと残っていたが、ある瞬間を境に忘れてしまった。この感覚をそれ以降、何度も感じるようになるのだが、今から思えば、一番最初に感じるようになったのは、その時が最初だったのだ。
それを今、こういちは思い出していた。
――まるでこのことを思い出すために、僕は交通事故に遭ってしまったかのように感じる――
そんなバカなことはないと言い聞かせたが、その思いに至らせてくれないのが、夢の中に出てきた友香の存在だった
――まさか、友香の存在自体が、このことを思い出させるためのものだったのか?
と思うと、友香の言っていた、
「運命」
という言葉の本当の意味を、今知ることになるのではないかと思えてきた。
こういちは、自分の身体に流れる友香の血を意識していた。
輸血されて、輸血してくれた人の血を意識するなどということは普通であればないだろう。意識しても仕方がないと思うからだ。
こういちも同じように、
――意識しても仕方がない――
と感じていたのだろう、最初はまったく何も感じていなかった。
しかし、いくら夢とはいえ、面と向かって自分に輸血してくれている人の顔をまともに見てしまうと、意識しないわけにはいかない。意識しない方がウソというものだ。
またしても、意識は輸血のシーンに戻ってくる。
「私はこういちさんの中に入れて幸せだわ」
と、顔色からは信じられないような言葉を吐いているにも関わらず、まったくウソを言っているようには思えない。
そのくせ、目の前の友香に恐怖を感じている。
――何て恐ろしい形相なんだ――
そう思うと、またおばあちゃんの顔が浮かんできた。
今度のシーンは、病院の一室で、寝ているおばあちゃんの横で、お父さんもベッドに横になって、輸血をしているシーンだった。友香から輸血されたという話を聞いたから、取って付けたように、自分が想像したものではない。間違いなく記憶の奥に燻っていた意識だった。
おばあちゃんくらいの年齢になれば、いろいろな病気が身体を蝕んでも無理はないということを分かるような年齢ではなかったはずなのに、今思い返してみると、子供心に分かっていたかのような気がしてきた。
「おばあちゃんは大丈夫なの?」
と聞くと、お父さんが、
「ああ、大丈夫だよ。何しろお父さんの血が、おばあちゃんを助けることになるんだからね。こういちは、お父さんを信じることができるんだろう?」
と言われて、
「うん」
と元気よく答えた覚えがある。
その元気がどこから来ているのかを思い出そうとすると、お父さんを信じているという意識と、おばあちゃんが元気になるという思いとが、本当は繋がっているはずなのに、それぞれの思いとして浮かんできたことで、余計に元気に返事ができたのだと思えてならない。
お父さんの血がおばあちゃんを助けたのか、おばあちゃんはそれから回復した。その時から、
「お父さんはすごいんだ」
と思うようになり、人に輸血をするということがどれほどすごいことなのかという思いを、子供の頃からずっと抱いてきた。
それを、先日、
「あなたのことが好きだ」
と告白してくれた相手からしてもらったのだ。
「ありがたい」
という気持ちと、
「申し訳ない」
という気持ちが交互に沸いてきて、次第に、申し訳ないという気持ちの方が強くなってくるのを感じていた。
何と言っても、
「交通事故に遭うかも知れない」
という警告を、彼女から受けていたにも関わらず、それを予見することができず、事故に遭ってしまったのだ。
「歩行者が悪かったわけではない」
という事故だったにも関わらず、それでも予見できなかったことは、本当に情けなく感じた。
ただ、一瞬のことだったので、何がどうなったのか分かるはずもなく、すべての事情を知っている人が本当にいるのかどうかも、分からなかった。
とりあえず、事故を起こした人は、業務上過失致傷ということで、当事者として警察から話を聞かれることだろう。しかし、まったく覚えておらず、聞かれても何と答えていいのか分からない状態だったのだが、考えているうちに、事故に遭った前後の記憶が曖昧であることに、その時はまだ気づかなかった。
――記憶が途切れているところがある?
そんな気もしているが、覚えている記憶は全部繋がっていて、途切れているところはなかった。
かつてのおばあちゃんとお父さんの記憶を思い出すと、
――輸血できる人はすごいんだ――
という意識になった。
さらに友香を見ていると。年下のはずなのに、自分よりもかなりしっかりしていて、冷静に先のことを読んで判断できる人のように思えた。
自分が喫茶「イリュージョン」の常連になったことで友香に輸血してもらえるようになったのも、夕方の時間、典子や山田さんといろいろな話をして頭を柔らかくできたからではないだろうか。
典子や山田さんと話をしている時は気づかなかったが、あの二人は結構仲が良かった。確か山田さんには、奥さんがいたように感じていたが、典子と一緒にいるのを見ていると、そんなことはどうでもいいことのように思えてくるから不思議だった。
人との出会いは不思議なもので、どこからがスタートになるのか分からない。
友香との出会いも、最初はランチタイムに見てはいたが、実際に話をしたことがなかったのに、偶然だったのか必然だったのか、二人で会ったその時から、
――ずっと以前から知り合いだったような気がする――
と思えてならなかった。
しかも、友香と一緒にいると、おばあちゃんのことを思い出す。これも偶然なのか必然なのか分からない。
友香を見ていると、
――おばあちゃんの生まれ変わりではないんだろうか?
とさえ思えてきた。
典子や山田さんと一緒にいる時、自分は普段の自分との「多層性」を感じていた。
――普段の自分とは違う――
という意識からなのだが、友香と一緒にいる時は「多重性」を感じるのだ。
普段の自分と、友香と一緒にいる時の自分は、同じであり、
――ひょっとすると、もう一人の自分が、同じ時間、誰かと会っているのかも知れない――
と思えるほどだった。
「お前に似た人を見たぞ」
と、言われてしまいそうな気がして、今考えていることを、友香に話してみた。
「大丈夫よ」
「どうしてなんだい?」
「あなたは、この間交通事故に遭ったでしょう? 似た人を見たと言われて交通事故に遭うのは一度だけなのよ。だから、あなたはもう二度と似た人を見たと言われたことによって交通事故に遭うことはないのよ」
「そうなんだ。でも、『お前を見た』って言われそうで怖いんだ」
今まで自分の頭に引っかかっているもう一つの「見た」という言葉、これに対しても、友香には考えがあった。
「これも大丈夫。あなたのように、今自分と同じ思いを持った『もう一人の自分』の存在を感じているでしょう? それは他の人が感じることはなくて、自分だけで感じているのであれば、他の人から、もう一人のあなたを見ることができないのよ」
「どうしてなんだい?」
「もう一人のあなたが、本当のあなたではないからよ。あくまでも似た人ということなのよね。だから、あなただけが意識しているのであれば、他の人には、もし視界に入っていたとしても、ただの石のようにしか見えないの」
「どうして、君はそんなに何でも分かっているの?」
「私にも、もう一人の自分がいるからなのよ。ただ、私に似ている人ではないんだけどね。その人は私のことをもう一人の自分だって気づいているかも知れない。でも、お互いにその意識は違うところから出てきたと思うの。いつも近くにいるんだけど、絶対に一緒に存在していることはない。だから、あなたの前に、二人が同時に現れることはないのよ」
「まさか、そのもう一人というのは?」
「典子のことよ」
「そんな、信じられない」
「でも、あなたが私の中におばあちゃんを意識しているでしょう? 私には分かるのよ。そしてね、世の中というのは、途中とプロセスがどうであれ、最後には必ず辻褄が合うようになっているの。あなたが交通事故に遭ったというおは、その辻褄を合わせるためなのよ」
そこまで言うと、友香の顔が典子に変わっていくのを感じた。
「あなたは逆デジャブを感じているの。だから『多重性』なのよ。似た人を見たというのも、お前を見たと言われることを気にしているのもね……」
こういちは、典子のその声が次第に消え入りそうになるのを感じていた。自分が深い眠りに就いていく証拠でもあった……。
「あなた、あなた、大丈夫?」
「えっ?」
目の前に広がっている青い空を遮るように、心配そうに覗き込んでいる妻の典子の顔があった。
「俺はどうしたんだ?」
「いやね、表の木を手入れしていて、木から落っこちたんじゃないの。しっかりしてくださいよ」
「ああ、そうか、それはすまない」
と言って、身体を起こした。
「ところで、孫たちがそろそろ来るんじゃないか?」
「そうね。こういちも今度小学生になるから、少しは大きくなったんじゃないかしら?」
「そうだね。ところでおばあちゃんは?」
「おばあちゃんは、さっきまで寝ていたんだけど、孫たちが来るからって、その前に仏壇にお参りすると言って、今仏壇の前よ」
「おばあちゃんも、すっかりよくなってよかったな」
「ええ、前に事故に遭った時、あなたの輸血のおかげで助かったんですものね。おばあちゃんは感謝していたわ」
すると、お待ちかねの孫たちがやってきたようだ。玄関先の「山田」と書かれている表札の下にある呼び鈴が押された。
「やあ、こういち、よく来たね。おばあちゃんがお待ちかねだよ」
こういちと呼ばれた少年は、垣根を気にしながら、庭を覗き込んでいた。
「おばあちゃんがいるよ」
「えっ、どこに?」
「ほら、縁側からこっちを見て、おいでおいでしてるじゃないか?」
こういち少年はそう言ったが、
「何言ってるの」
と言って誰も信じてくれなかった。
それを見ながら、
「そうなのかな?」
と不思議に思ったこういち少年は、おばあちゃんの姿が消えていくのを感じていた。しかし、それは自分が意識して消しているということに、すぐには気づかなかったのだ。
それがこういちにとってのデジャブだった。
しかし、こういちは逆デジャブをその時見た気がした。それは二十年後の自分である。二十年後の自分がどうなっているのかを想像すると、なぜか、少年時代のおばあちゃんの家に出掛けたあの時を思い出す。
――辻褄合わせと副作用――
逆デジャブは「多重性」で似た人が一人とはいわず、たくさんいることだろう。それは時代をまたいでという意味で、二十年後にも同じことを考えている自分が存在していた。
こういちの横には、いつまでも笑顔を忘れない友香がいた。
その世界では、「お前を見た」と言われても、まったく意識しないこういちが、友香の横で幸せそうに微笑んでいる自分を見ながら、ずっと二十代でいる自分を感じ続けていたのだった……。
( 完 )
心理の挑戦 森本 晃次 @kakku
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