第2話 多層性と多重性
「お前を見た」
と言われ、死んでいった人の話は、少しの間、こういちの頭の中を支配していた。
しかし、ある日と境にこういちの頭からその話がまったく消えてしまったのは、本人の意識のない中で何かのきっかけがあったのかも知れない。
「人の噂も七十五日」
と言われるが、まさにその通り、ちょうど二か月ちょっとが経過してからのことだった。
逆に二か月以上も気になっていたという方が異常なのかも知れない。普通であれば、一週間もしないうちに記憶の奥に封印されてしまうだろう。ただ、気になっていると言っても最後の方は、ロウソクの炎が消えるかのように、風が吹けばあっという間に消えてしまいそうで、風前の灯とはまさにこのことだった。
二か月が経ってしばらくすると、冬も本格的になっていた。この間まで明るかったと思っていた時間、あっという間に真っ暗になっていて、定時に会社を出る頃には、完全にヨロのとばりが下りていた。
いつものように喫茶「イリュージョン」に行くと、いつものようにカウンターの中には典子がいて、カウンターには山田さんがいた。その日の山田さんはいつになく饒舌で、典子にいろいろ話をしているようだった。
「ねぇ、今山田さんから話を聞いていたんだけど、橋爪さんに似た人をこの間見たんですって」
と言って、典子は山田さんを見た。
その様子を見ながら、山田さんはちょっと困ったような顔をしたが、こういちの方を振り返り、
「ええ、そうなんですよ」
と言って、再度典子を見た。
典子の方は、言ってはいけないことを言ってしまったと思ったのか、恐縮した顔になったが、すぐに気を取り直して、洗い物をしていた。
「実はそうなんだよ。遠くもなく近くもない中途半端な距離で見たので、君ではないということは分かったんだけど、どこかが違うと感じたのは、ある角度になった時、君なら絶対にあんな表情をしないという顔をしたんだ。一瞬のことだったんだろうけど、僕には結構長い間その表情を見ていたような気がしたんだ」
「それはどこで見たんですか?」
「あれは、S市の公民館だったかな? 最初に横顔が見えたんだけど、その時は君だと思って疑いもしなかったよ。少し近づいてから、その人が顔を背けた時、その瞬間に見た表情が君ではないと僕に教えてくれた。そうでなければ、声を掛けていたかも知れない。でも、その時にその人は、急に僕の顔を見たんだ。僕が最初に見た時に気づいたわけではなく、君ではないということを確信した瞬間、その人は僕に気がついたようだった。これも面白いよね」
「ええ、確かにそうですね。僕はS市の公民館に行ったことはないので、間違いなく別人だったんでしょう。でも、その人は山田さんに気づいてそれからどうしたんですか?」
「彼は、それから何もしませんでした。すぐに顔を反らして、そのまま別の方向に向かって歩き始めましたからね。でも、不思議なことに、その人が近くを歩いているのに、誰も彼を意識していないんです。中には彼が急に踵を返すものだから、もう少しで衝突しそうになった人もいたんですが、相手もその人も、何事もなかったかのように、すれ違ったんですよ。もう少しで肌が触れ合うくらいにですね」
「確かに、存在感が薄い人はいると思いますが、そこまでというのはありえないような気がしますね」
「まさしくその通り。僕も気になって、彼の後ろを追いかけたんですが、裏口に向かう狭い通路を抜けると、忽然と姿が見えなくなったんです。気持ち悪いと思いましたが、自分の用事を済ませて帰る頃には、そんなことがあったなど、すっかり忘れていましたね」
「その人の表情って、どんな感じだったんだろう? 特に自分にはできないような表情というのは」
「それは今思うと、もし似ている人が他の人であっても、その表情は、その人にはできないものだって思うでしょうね。言い方を変えれば、『その表情は、この世のものではないという雰囲気』でした」
「具体的には?」
「う~ん、そうですね。顔色が真っ青で、死人のような顔色だったと言ってもいいんじゃないかな? だから誰にもできそうにない表情に思えたんです」
「もし、山田さんが見たのが幻だったとすれば、僕に似た人だったということは、その時僕のことを意識していたということになると思うんですが、何か僕に対して意識がありましたか?」
「別に、橋爪君を意識したという気持ちはないんだ。誰かに似た人だという思いが先にあって、誰に似ているのかを考えた時、橋爪君だったというのが、その時の意識の流れだったような気がする」
「じゃあ、僕じゃなかった可能性もないわけではないんですね?」
「そう言われてみれば、そういうことだね」
それを聞くと、こういちは考え込んでしまった。
「どうしたんだい? どうして自分なのかということにそんなにこだわるんだい?」
と山田さんに言われて、話そうか迷っていたが、
「考えていて、迷っているのなら、話してみた方がいいかも知れませんよ」
と、カウンターの奥から、今まで黙っていた典子が口を開いた。
最初におどけていた様子がまったくウソのように、真剣そのものの表情をしていた。
「実は、僕も似たような経験を最近しているんです。ただ、それは僕が山田さんの立場に立っていたわけではなく、相手の男の立場だったんですよ」
というと、今まで静かだった山田さんが声を上ずらせて、
「何だって!」
と、本当なら、もう少し大きな声を発したいと思ったのかも知れないが、思ったよりも声が小さかったのに、こういちは気づいた。
それが却って気持ち悪く感じさせ、これから話すことが重大なことになるのではないかと感じたのだ。
「あれは、僕が出張に行っている時だったんですが、出張先の駅の喫茶店で支店長と待ち合わせた時だったんですが、電車は定刻に到着したんですが、支店長は業務の影響で出発が遅れたようで、少し駅で待っていたんです」
「迎えに来てもらう予定だったわけですね」
「ええ、その時支店長を待つのに、少しお土産コーナーなどを見て回っていたんですが、急に誰かの視線を感じたんですよ。そして、気になって振り向くと、そこには最初誰もいませんでした」
「錯覚だったんですか?」
「最初はそう思ったんですが、もう一度同じ方向から視線を感じたので、今度はそっちを見ると、ひとりの男性がこの僕を見ているんです。それも、まるで幽霊を見ているようなそんな感じだったんです。だから、最初誰か似た人を見つけたので、声を掛けるつもりで近づいたけど、実は違ったというのかなと思ったんですが、そのわりに、顔色があまりにも冴えない。真っ青だったんですね」
「僕が見た真っ青と同じ感じなんだろうか?」
「それは分かりませんが、その時僕は、もう一つの仮説を立ててみたんです」
「というのは?」
「その人が見たのは、確かに知り合いだったんだけど、本当であれば、そこにいるはずのない人の顔を見てしまい、ビックリしたのかも知れないと思ったんですよ。ひょっとすると、もうこの世にはいない人に似ていたのかも知れないと思うと、こっちも気持ち悪くなりました」
「じゃあ、橋爪君もゾッとしたということは、顔色が悪かったのかも知れないね?」
「きっとそうだと思います。そういう意味では僕のその時の顔、今の山田さんなら想像できるんじゃないかと思いますよ」
「いや、きっと無理だろうね。何と言っても、今話をしているのが、その当事者である橋爪君なんだから、今その顔を見ながら思い出すことができるほどの表情ではなかったんだよ。本当にこの世のものではないという表現がピッタリだね」
「でも、もし時期が違っていたとしても、主人公と見られていた人のどちらも自分だと思うと気持ち悪いですね。世の中って、知らない次元があって、すべてはどこかで繋がっているのかも知れないですね」
少し漠然とした言い方だったので、橋爪としては核心を突いた話だと思ったが、二人は敢えてそのことに触れることはなかった。
「それにしても、あまり怖い話しないでくださいよ。私、これでも怖がりなんですから」
と典子は言って笑っていたが、その声はひきつっていた。
こういちも山田さんも、しばらく口を開くのが怖いのか、典子の言葉の後、何も言わなくなった。
山田さんは週刊誌を、こういちは、週刊マンガをブックラックから取ってきて、各々読み始めた。
三人の間に、無言で不穏な空気が流れていたようだ。
その日は、それで話は終わったが、不思議なことにこの話も、少しの間頭の中で気になっていたが、ある日から急に意識しなくなった。
ただ、今回は二か月以上というほどの長さではなく、一か月ほどのことだった。
頭の中で、
――最近は、どうしてこんなに気になる話が相次いで、忘れられない時期が一定期間続いて、なぜかある日を境に忘れてしまうということが続くんだろうか?
と思うようになっていた。
そんなことを考えるようになったのは、典子が似たような話を始めたからだった。
「私、この間学校で、先輩を見たのよ。それも卒業した先輩なんだけどね」
「部活の後輩の指導でもしに来たんじゃないのかい?」
「そういうわけではないの。だって、その先輩、制服を着ていたのよ。しかも、手には当時と同じ学生カバンを持っていたの」
「それはおかしいよね。でも、学校でそんなイベントか何かがあったんじゃないの?」
「そんなことはないんですよ。だって、その先輩は進学せずに就職したんです。それも、勤務地は家から通えないから、今は一人暮らしをしているはずなんです」
「じゃあ、仕事を辞めて地元に戻ってきたのかも知れないよ」
「そんなことはないんですよ。先輩、高校三年生の時、親の転勤で家族は別の土地に住んでいるので、戻ってくるとすればここではなく、家族の住んでいる街のはずなんですよ」
「話だけを聞いていると、いかにも典子ちゃんの学校で見かけるはずのない条件が揃いすぎているくらい揃っているのに、見てしまったということなんだね?」
「ええ、どこをつついても、考えにくい条件ばかりが揃っているんですよ。本当に揃いすぎるくらいにね」
「で、その先輩に声を掛けたのかい?」
「声を掛けようと思って追いかけたんですが、角を曲がると煙のように消えていたんですよ。おかしな話ですよね」
「ん? 待てよ。こんな話、少し前にもここでしたことがなかったかな?」
こういちが言い出した。
すると、それを黙って聞いていた山田さんも、
「うん、確かにそうだ。確か誰かに似た人を見たという話題だったような気がする」
「元々は、山田さんからの話だったような気がするんですが、なぜか、詳細までは思い出せないんですよ」
「橋爪君もそうなのかい? 実は僕もそうなんだ。似たような話があったような気がしていたんだけど、思い出せない。ただキーワードは、似ている人を見たということだったような気がする。で、しかも、しばらくの間気になっていたはずなんだけど、それを過ぎるとバッタリ記憶から消えてしまったかのようなんだ。一つのことを気にしすぎて、結論が出てこないと、そのことが記憶から欠落してしまうようなそんな作用が人間の中にあるのかも知れないね」
「だけど、もしそうだとしても、その話をした当事者が二人とも同じ状況だったというのは、偶然にしてはうまくいきすぎていませんか? 僕はそちらの方が気持ち悪い気がするんですよ」
「でも、考えてみれば、同じ状況に陥るのに、同じ話を同じタイミングでしている相手とであれば、一番信憑性があるような気がしませんか? この二人が同じ状況に陥ることがないのであれば、他のどんな人でも同じ状況に陥ることはないんじゃないかって思うんですよ。ただ、あまりにもうまくいきすぎていると思うのは、何か一つきっかけがなければそんな状況に陥ることはありえないと思っているからではないですか? 僕は正直今そう思っています。逆に橋爪君も今同じことを思っているとすれば、それは偶然ではなく必然なんだよ。そう思うと、偶然という言葉の方が、信憑性の低いことに対しての言い訳のように思えるんだけど、考えすぎだろうか?」
山田さんの話は理屈っぽい。しかし、同じ話をするのでも、山田さんでなければ、うまく言うことはできないだろう。
「その通りですね。僕はそのきっかけが何かというよりも、きっかけの存在があるから、気になる期間が結構長く続いていて、最後には記憶から欠落してしまうという結果を招くような気がします」
「橋爪君も同じ発想のようなので、ここで言っておきたいんだけど、忘れてしまっているように思えるのは、記憶喪失ではなく、記憶から欠落しているからなんじゃないかという思いなんだ。どこが違うのかと言われると難しいと思っていたけど、逆に、長い間気になっていて、それが急に意識から消えてしまう時、記憶が欠落していると言えるんじゃないかな?」
この発想は、こういちの目からもウロコが落ちた気がするものだった。
そんな話をしていると、また典子が違う話をし始めた。
「私の友達で、小説家を目指している人がいるんですが、その人はSFチックな話に興味を持っているようで、パラレルワールドとか、タイムマシンとかの本を一生懸命に読んでいたんですよ」
「そういえば、僕も中学生の頃、興味を持ってそんな本を読んだことがあったっけ。タイムパラドックスの本なんかも、何冊か読んだことありますよ」
と言ったのは、山田さんだった。
「私の友達がいうには、『タイムマシンというのは、未来に対してはありえるんだけど、過去に行くことはできないような気がする』って言っていたんですよ」
それを聞いた山田さんは、
「その人が言っているのは、きっと『親殺しのパラドックス』という話から来ているんじゃないかな?」
「というのは?」
こういちが口を挟んだ。
こういちも「タイムパラドックス」という言葉は聞いたことがあった。しかし、言葉を聞いたことがあるというだけで、意味は分かっていない。前に聞いた時は、さほどSFチックな話に興味を持っていなかったからだ。
しかし、今となってみると、無視できないところがある。何と言っても、
「お前を見た」
と言われたあの頃、自分の目の前にあった鏡に写っているはずの人が写っていなかった一瞬でも見たからだ。
錯覚だったと言えればいいのだが、説得力はどこにもない。
しかも、見たと思って疑わう余地もないはずの鏡が、本当は存在していなかったのだと聞かされた時の驚きは、今考えても恐ろしかった。
だが、そんな感覚もある一瞬をきっかけに忘れてしまっていた。当然思い出す時もあるきっかけが必要だったのだが、忘れてしまう時よりもハードルは高くなかったはずなのに、きっかけがあったということは、忘れてしまう時よりも、しっかりと意識の中に残っていた。
「『親殺しのパラドックス』という言葉に代表されるように、過去に行って、歴史を変えてしまった時にどうなるかということなんだ。例えば、自分がタイムマシンに乗ったり、ワームホールに落ち込んで、過去に行ったとして、そこで自分の親を殺すというシチュエーションを思い浮かべると、理論的にどうなるかというのが、『親殺しのパラドックス』と言われるものなんだ。実際に教材のようなものなのかどうかは分からないけど、タイムパラドックスのサンプルとして、話されることが多いので、橋爪君にも教えておいた方がいいだろうね」
と、山田さんは話した。
さらに山田さんは続ける。
「タイムマシンで過去に行くと、よく言われるのが、『過去を変えてはいけない。その時代の人と関わりを持ってはいけない』と言われるんだよ。どうしてだと思う?」
「未来が変わってしまうからですか?」
「そうだよ。時代や時間というのは、過去からずっと一本の線で繋がっているんだ。そして行き着いた先が今であり、過去が変わってしまうと、今が変わってしまう。たまに、ビックバンのような爆発が起こって、ブラックホールが発生し、世界はブラックホールに飲み込まれるなんて言う話も聞いたことがあるけど、それは少し本末転倒な気がするけどね」
と言って山田さんは笑った。
「でもね、過去を変えてはいけないということと、『パラドックス』という言葉の説明に、親殺しという話をするのが一番理に適っていた李するんだよ」
「どういうことですか?」
「自分が過去に戻って、親を殺すとするだろう? するとまずどうなる? もちろん、自分が生まれる前の親だというのが前提だけどね」
「親が死んでしまったら、僕は生まれてきませんよね」
「そうだよね。だとすると、君は親を殺しにいけなくなる」
「あっ」
「そうなんだ。つまりは、親を殺しに行かないと、君は生まれてくることになるんだ。生まれてくると親を殺しに行くだろう? そうすると、君は生まれてこない。つまりは、『タマゴが先か、ニワトリが先か』という話に似通っているんだよ。どちらにしても、二つの条件を満たす回答は永遠に生まれないわけだ。そういう理屈を『パラソックス』っていうんだ」
なるほど、「親殺し」のたとえは実に分かりやすい。
「分かりやすいですね、。そのたとえは。でも、あまりにも漠然としてい過ぎているので、何か矛盾があっても、分からない気がしてきますね」
「確かにその通りなんだ。この話は難しいということもあるけど、あら捜しをすると、至ところに矛盾が潜んでいるような気がするんだ。何しろパラドックス自体が矛盾のようなものだからね」
「たとえば、自分が過去に戻った場合というのは、それから以降の自分というのは、どうなるんでしょうね?」
「たぶん、目の前から消えることになるんだろうけど、過去から戻ってくる時、自分が過去に旅立った時間、場所、そこに戻れば、元々からいなかったという事実はないわけですよね。だから、何も問題ないんじゃないかな?」
「でも、それは過去に戻って、過去の歴史をまったく変えていないという確証がなければ、過去から見た未来、つまりは過去に旅立ったその場所に、その時間、自分がいるという保証はないですよね」
「もちろん、そうですよ」
「でも、人が過去に戻ったという事実だけで、すでに歴史が変わっているんじゃないですか?」
「それも言えるとは思うんだけど、これこそパラドックスだよね」
「どういうことですか?」
「過去に戻ってきた人間がいるという事実が、今までの歴史の中で最初から組み込まれているとすれば、過去を変えたことにはならない。もし、過去に戻ったという事実があるなら、今現在の歴史自体は、最初から過去に戻ることを約束された運命であり、その運命には逆らえないとすれば、この矛盾は解決だよね」
「私はその話を聞いて、自分の前と後ろに鏡を置いた時、永遠に写し出される自分の姿を思い浮かべました。皮肉にもここでもキーワードは鏡なんですね」
「僕は、もう一つイメージしているんだよ。それは、一つの箱をもらって、その箱を開けると、その中にさらに一回り小さな箱が出てきた。さらにその中にはもう一回り小さな箱が出てくるんですよ。ずっとその箱を開け続けていくと、いつまで続くのかという思いが浮かんでくる。この場合も鏡と同じで、どこまで行っても、空箱ではないというイメージが頭をよぎるんですよ」
「パラドックスという発想は面白いですよね」
「そうだね。でも、過去に戻って過去を変えないようにするという発想なんだけど、過去の大まかなことは知っていたとしても、細部にわたって変えてはいけないという縛りがあるんだから、絶対に変えていないということは分かるはずないですよ。そうなると、過去に戻る発想自体、ありえないことになるんじゃないだろうか。もし、本当に過去を変えてしまう可能性がゼロでなければ、過去に戻るということは永遠にできないのではないかと思うんです」
「それはそうでしょうね」
「世の中の現象として、デジャブのように、昔見たことがあるような光景だと感じる場合、自分の意識や記憶の中にあるものの辻褄を合わせるための意識だという発想を聞いたことがあります。つまり、何かの現象は、変わってしまったことがあれば、必ずその辻褄を合わせようとするはずなんですよ。それが超常現象であったりするんだと思うんですよ」
「作用と、副作用のような感覚でしょうか?」
「そうそう、副作用という言葉が一番適切なのかも知れませんね。薬を飲んだりした時に起こる副作用、あるいは、僕は発熱なども辻褄合わせだと思ったりします」
「発熱も?」
「ええ、風邪による発熱などは、ウイルス性だったり、細菌性だったりしますよね。これは身体の中にウイルスや細菌が入り込んでしまって身体を冒そうとするので、身体の中の抗体がウイルスや細菌と戦おうとした時に、熱が出るんです。だから熱が出ている間、冷やすのではなく、熱が上がり切ったところで冷やさないと、熱は下がらないんですよ。その目安が発汗だと思うんだけど、熱が上がりかけている間は、身体に熱がこもってしまって、汗を掻くこともない。でも、熱が上がり切ると、今度は汗がドッと出て、汗から毒素が排出されるわけですね。発熱というのも、身体の中で起こるいい意味での副作用なんじゃないかって思いますね」
「話が戻りますけど、過去を変えたのかどうかという発想も、さっき山田さんが言っていた『過去に戻ったということ自体を踏まえた上で、今の世界が成り立っている』と考えれば、その疑問は解決しますよね。僕は前に友達とタイムマシンについて話をしたことがあったんですが、その時に出てきた疑問が今の発想だったんです。一般的に言われている発想をそのまま正しいとして解釈すると、いろいろなところで発想の綻びが出くるんですよね。僕は今こうやって山田さんと話をしていて、もう一つ先の発想をすることで、いくつかの矛盾が消えていくことが分かった気がします。きっと、途中で切断されているロープのすぐそばに、綺麗に繋がった金属でできたワイヤーがあるんでしょうね」
「それを気づかせてくれるとすれば、副作用という発想ができるかできないかなのかも知れませんね」
「タイムパラドックスの話をしていると、パラレルワールドとは切っても切り離せない関係に思えてならないんですよ」
「パラレルワールドは、一言で言えば、次の瞬間には、無限の可能性が広がっているということですよね。それがネズミ算的に増えていき、無限のさらに無限の可能性が、果てしなく繋がって行く」
「でも、おかしな発想ですよね。無限が果てしなく広がるというのは。果てしなく広がっているから、無限というんだからですね」
「それだけ、パラレルワールドというのは、細部に可能性が秘められているということなので、先ほど橋爪君が言ったように、過去に戻ってしまった時、歴史を変えたかどうかという発想で考えれば、歴史を変えたというよりも、違うパラレルワールドに入り込んだということでしょうから、一度道を間違えると、元に戻すことはまず無理です。なぜなら、変わってしまった瞬間から、次の瞬間の無限の可能性の中に、その前の道を進んだ時にあったはずの無限の可能性があるのかどうか分からないからですね」
「じゃあ、無限の可能性と言いながら、行く道によって、無限の可能性が違うのではないかという発想も出てきますね」
「そうなると、パラレルワールドの可能性というのは、無限ではないと言えるかも知れません」
話を聞いていた典子は、
「友達の言っていた、タイムマシンを使って未来には行けるけど、過去にはいけないんじゃないかっていう発想、今のお二人のお話を伺っていて、何となくですが分かったような気がします。ただ、理解できているのは今だけで、少し経つと、すっかり今日のお話を忘れてしまっているかも知れませんね」
と、言って、苦笑いした。
すると、山田さんが、
「いやいや、それでいいんだよ。僕も今までにこういう話をするのが好きで、よく学生時代などは友達と話をしていたんだけど、すぐに忘れてしまっていたりするんだ」
「でも、何かのきっかけで思い出すことがあって、話し始めると、結構話し込んだりするもんなんだよね。話の内容も発展していたりして、もちろん、相手の意見にもよるんでしょうねどね」
と、こういちは言った。
「これも、一種のデジャブなんだろうね」
「そうですね。以前に同じような話をしたような気がすると思って、他の話であれば、思い出すことはできないんですが、こういうお話をしている時は、必ず思い出して、自分の意見を確固たるものにする」
「でも、前の意見と変わってしまうことって、君にはあったかい?」
「僕はなかったような気がしますが、山田さんはいかがですか?」
「僕の場合は、変わることがあったよ。学生時代には変わるはずないと思っていたはずなのに、思い出してみると、前の考えを否定している自分がいたりする」
「それは相手の話を聞いてから自分で判断してなんですか?」
「そういうわけではないんだ。昔考えていたことを、ハッキリと思い出したのは間違いないことなんだけど、すぐにその思いが薄れていく。そして新たに自分の発想が生まれてくるんだ。だから、厳密に変わったと言えるかどうか分からないんだけど、変わっていないのであれば、記憶が薄れていくはずはないと思うんだ。ゆっくり忘れていくわけでも、一瞬にして消え去るわけではない。忘れたくないという思いが頭をよぎる中で、少しずつ、そしてハッキリと忘れていくんだ」
「僕にはそういうことがなかったので、よく分からないですね」
「これも一種の副作用のようなものなのかも知れない。デジャブが何かの辻褄を合わせようとするものなら、副作用によって、作用のクリ意を元に戻そうとするものなのかも知れない」
山田さんの話を聞いていた典子が、また口を挟んだ。
「山田さんのご意見、私分かる気がします。少し話が変わるかも知れませんが、見た夢を覚えていないというのも、どこかで発想が繋がっているような気がするんですよ」
「デジャブと、夢の関係について、自分なりに考えたことがあったんだけど、デジャブも夢も、忘れてしまうという意味では同じようなものに感じられたんです。そういう意味で、先ほど話に出た『辻褄合わせ』も夢と結びつけてもいいんじゃないかって感じがしました」
典子も、二人の話を聞いていて、何か感じるところがあったのだろう。こういちは山田さんと目を合わせてアイコンタクトを取ったのは、典子に対して同じことを感じているということが分かったからなのかも知れない。
「お二人のいろいろなお話を聞いていて、私も入ってみたいと思ったんですよ。でもなかなか難しくて入れなかったんですが、夢のお話だったら少しは私も入れるかも知れません」
そう話した典子に対し、山田さんが答えた。
「さっきの自分たちの話に無理にくっつける必要はないので、自分の意見で入ってきてもらっていいですよ。僕たちも話を聞いて、感じたことを話していきますからね」
そう言って、こういちを横目で見た。
こういちも同意見なので、黙って頷くと、
「ありがとうごます」
と言って、典子は二人を交互に見た。
二人を見て、典子の言葉を待っているようだったので、典子も思っていることを話し始めた。
「さっき、デジャブも夢も、忘れてしまうという意味で同じだと言われていましたが、私は少し違うと思っているんです。実は夢に関して今まで友達といろいろ話をしたことがあったんですが、その中で気になったのが、『夢というのは、どんなに長いと思われる夢であっても、目が覚める寸前の瞬時に見るものだ』って聞いたことがあるんですが、どうなんでしょうね?」
「その話は、僕も聞いたことがあります。目が覚めてからすぐに忘れてしまうのは、夢自体が薄っぺらいものだからではないかと思っていたのですが、その話を聞いた時、『なるほど』と感じたんです」
こういちがそう言うと、
「僕の場合は少し違っていますね。夢の世界というのは、現実世界とは違う次元のものだと考えていたからなんですよ。そう思うと、いろいろ面白い発想も出てきます」
と山田さんが言った。
山田さんは続けた。
「まずは、橋爪君の発想からいろいろ考えていこうじゃないか。夢というのは、確かに目が覚めるにしたがって忘れていくものだよね。でも覚えている夢というのもあると思うんだけど、どうだい?」
その問いかけに対し、すぐに答えたのがこういちだった。
「僕の場合は、怖い夢ほど覚えているんですよ。楽しい夢は、見たという意識は残っているんですが、具体的にどんな夢だったのかまでは覚えていない。漠然としているんですよ」
すると、典子がそれに対して意見を挟んだ。
「私も、怖い夢ほど覚えているんですけど、楽しい夢は忘れてしまったというよりも、肝心なところを忘れてしまっているので、話が繋がってこないんです。だから、漠然と覚えているというよりも、話が繋がらないことの方が気になってしまい、覚えているという感覚ではすでになくなっていますね」
「なるほど、それも一理ある。でも、僕には、その理由、分かるような気がするんですよ」
と、山田さんが言うと、典子とこういちが顔を見比べるようにして、アイコンタクトを取った上で、頷いてから、
「どうして分かるんですか?」
こういちが代表して聞いた。
「君たちは感じたことがないかな? 夢から覚める時というのは、覚める寸前に、『目が覚める』って感じるんだよ。しかも、その時、ちょうどいいところを見ているので、心の底で、『覚めないでくれ』と思っているんだよ。怖い夢であれば、目が覚めてほしいという思いと半々なので、その気持ちがそんなに強くはない。だから、目が覚めた時、怖い夢だけは覚えているんだって思うんだ。さっき、典子ちゃんが肝心なところを忘れていると言っただろう? それがこの辺りの発想を頭の中に描いているからなんじゃないかって僕は思うんだ」
山田のその答えに、
「うんうん」
と頷きながら納得していたこういちに対し、典子は驚愕の表情を浮かべ、その心の奥には、今まで燻っていたハッキリしないモヤモヤが、晴れてくるのを感じていた。
それも、次第に晴れてくるのではなく、一気に靄が解消されてしまうような強力な力を感じたのだ。
「山田さんの一言で、いくつかの途中で切断された糸が、一本に繋がったような気がしてきたのは、気のせいかしら?」
典子がそういうと、
「いやいや、そんなことはない。僕もビックリだ」
と、こういちも答えた。
「人の意見を聞きながら、自分の日ごろ考えていることを照らし合わせると、僕にとっても繋がっていなかった線がたくさんあって、それが繋がってくることもある。時には、自分が話している間に思いついたことだって少なくもない。やっぱり、人と話をするというのは、いろいろな意味で大切なんだって思うよね」
山田さんはそう言って、コーヒーを口に含んだ。
「僕は、夢を見ていてもう一つ感じたことがあったんですが、あれは、会社に入ってすぐだった頃のことなんですが、夢の中で大学のキャンパスが出てきたんです。つい最近まで通っていた大学だったので、まだ大学生だという意識なのかって思ったんですが、意識の中には、自分がすでに社会人だという思いは確かにあったんです」
「それで?」
「実はお恥ずかしい話なんですが、自分の中で卒業できるかどうか、気になっている時期があったんですよ。四年生になっても、習得すべき単位が残っていましたからね。でも、就職は内定をもらっていた状態だったんです。きっと、その頃の意識がまだ頭の中に残っていたんでしょうね。一種のトラウマのようなものだと思うんですが、夢の中で、僕は図書館にいたんです。テラスのようになったところで、学校内の通路が見えるところですね。まわりの人は皆知らない人ばかりだったんですが、図書館の中から見ていると、スーツ姿の人が数人、仲良く歩いてくるのが見えたんです。よく見ると、一緒に卒業した連中で、それぞれの会社の封筒を持っていました。『あいつらは、卒業できて、今は社会人なんだ』って思ったんですが、そう思うと、自分が卒業できずに、大学の中でうろうろしているのが分かったんです。ショックで声も出ません。目が覚めたのは、ちょうどその時でした。汗をグッショリと掻いていて、目が覚めるまでにどれだけかかるか分からないと、その時は真剣に感じました。このまま目が覚めないかも知れないとも思ったほどで、目が覚めているにも関わらず、夢と現実の間で、彷徨ってしまい、抜けられなくなっているような気がして仕方がなかったんです」
「まだ、その時君は、目が覚めていないんだよ」
と、山田さんは言った。
「僕にはそれが分からなかったんですよ。どういうことだったんでしょうね?」
「いいかい、橋爪君。君は目が覚めようとしている夢を見ていたということなんだよ。つまり、夢の中で夢を見ていたというべきか、そんな感覚を味わったことがないので、夢と現実の狭間に嵌り込んでしまったような感覚になってしまったんじゃないかな?」
「そうかも知れません」
こういちは、山田さんの話を神妙に聞いていた。
「私も、そう言われれば、同じような経験をしたことがあります。それも夢の中で夢を見ていたんでしょうか?」
「どんな感じだったんだい?」
「私はミステリーを読むのが好きだったんですが、時々、読みながら自分が主人公になってしまったんじゃないかって錯覚を感じることがあったんです。他の人が本を読んだ時、どんな気持ちになるかということが分からなかったので、他の人も皆同じように、小説の中に入り込んで本を読むものだって最近まで思っていました」
「その気持ちは分かる気がするよ。人それぞれなので、典子ちゃんと同じような気持ちになっている人も少なくないとは思うけど、客観的に本を読む人もいる。それは映像を見る時にどう感じるかということが少し影響しているのかも知れないね」
山田さんが口を挟んだ。
この意見にも、こういちは賛成だった。
「テレビドラマだったり映画化されたりした小説を、最初に映像を見てから本を読むか、あるいは本を読んでから映像を見るかでまったく違った感覚になりますよね」
と典子がいうと、
「そうだね。昔、映画のキャッチフレーズで、『読んでから見るか、見てから読むか』というものがあったんだよ」
「それは面白いですね」
とこういちがいうと、
「映画の主催が、出版会社だったこともあって、映画の興行だけではなく、本を売りたいという本音があったからなんだと思うけど、僕はあまり賛成はできなかったな」
「どういうことですか?」
「原作を読んで映像を見るよりも、映像を見てから原作を読む方が、絶対にいいからさ。本を読むということは想像力を高めることであるのに、映像は、その想像力に制限をかけてしまう。だから、先に本を読んでしまって想像を豊かにしてしまうと、映像からは、制限しか生まれないんだ」
こういちも、典子も、
「その通りだ」
と思った。
さらに、山田さんは口を開いた。どうやら、話はここで終わりではないようだ。
「でもね、たまに不思議な感覚を持っている人もいたりするんだよ」
「どういうことですか?」
「自分は絶対に原作を読んで映像を見るようにしているという人の話を聞いたことがあったんだ。僕は不思議に思って、『どうしてなんですか?』って聞いてみたんだけど、その人はニコリと笑ったんだ」
二人は固唾を飲んで次の言葉を待っていた。
「その人がいうには、『原作を読んで映像を見ると、夢を見ているような感覚になる』っていうんだ」
「夢を見ている?」
「ああ、そこからが不思議な感覚なんだが、『夢の中で夢を見ているといえばいいのかな?』って答えたんだ。一度見た夢から覚めようとする時、まだ夢を見ているという感覚が残っているというんだ」
「どういうことなんでしょう?」
「僕が思うに、最初の原作のイメージがあまりにも強すぎて、映像を見ることで、自分が夢の中にいるような感覚に陥るらしい。しかも、映像を見終わって、映像に制限があることに気づくと、目を覚まそうとするらしいんだが、その目を覚まそうとしている感覚が、まだ夢の中にいるような感覚だっていうんだ。その人は、本を読む時にだけ感じる感覚ではなく、時々、本当に夢を見ていて感じることでもあるらしい。彼の特殊な感性がそうさせるのか、それとも、夢の力が彼に影響を及ぼしているのかの、どちらかではないかと思うんだ」
「なるほど、そういう考えもありますね」
「典子さんはどうですか? 典子さんも、夢の中で夢を見ているような感覚を感じるんでしょう?」
「ええ、でも、夢の中で夢を見ている感覚は、目が覚めてから感じることなんですよ。ただ、完全に目が覚めてしまう前に感じておかないと、感じることのできないことで、そういう意味で、夢から目が覚めるまでの時間がとても重要な気がするんです。先ほど話に出ていた、『夢というのは、目が覚める寸前の瞬時に見るものだ』っていう発想に繋がってくるんですが、夢と現実の狭間の時間は、さほど関係ないと思っていたんですが、夢が一瞬だと思えば、狭間の時間が意外と重要なのではないかと思うようになりました」
と典子がいうと、
「そうなんだよね。夢と現実の狭間を考えると、僕の考えでもある、『夢と現実とは違う次元のものだ』という発想に繋がってくるんだよ」
と山田さんが言った。
「さっき、山田さんは、自分の考え方が少し違うような言い方をしたけど、こうやってお話をしてくると、結局繋がってくるんじゃないですか。やっぱり、考え方を人と話すというのは、自分だけで考えていては解決できないことを解決できるように思えてきますよね」
とこういちが答えた。
「そうですね、僕が夢と現実の世界の次元が違うと最初に感じたのは、さっき話題に出た『夢というのは、目が覚める寸前の瞬時に見るものだ』という発想からだったんだけど、確かに目が覚めていくにしたがって、夢の感覚が薄れていく。どんなに長かったと思った夢であっても、夢が終わって、現実に引き戻される、いわゆる『夢と現実の狭間』の時間の方が、長くなってくるんですよ。完全に目が覚めてから、その二つを比べても、『夢と現実の狭間』の方が長いように思えるんですよね。この感覚から、夢と現実の間には、何か結界のようなものがあって、何かのパスがなければ、開くことのできないものではないかって思ったんです」
と山田さんが言うと、
「それはおかしい気がしますね。もし、そうなら、そう簡単に夢を見ることもないように思えるんですよ。夢を覚えていることが少ないことを考えると、ひょっとすると、毎日夢を見ていて、ただそれを覚えていないだけではないかとも思える。そうなると、パスのようなものがあるという考え方は、矛盾に感じるんですよ」
とこういちがいうと、
「そうなんですよ。僕もその矛盾を感じた。だから、今度はその矛盾を解消するための発想として、まったく逆の作用を考えたんです。つまり、夢と現実の間には確かに次元の違いはあるけれど、結界などはなく、ただ誰も意識していないだけで、いつでも相互を入れ代わることができるのではないかってね」
と山田さんが答えた。
「それは少し過激というか、思い切った発想ですよね」
半分呆れたような表情になっていた典子だったが、すぐに思い直したようだ。それは、次の山田さんの言葉を聞いたからだ。
「そうかな? だって、さっきから話していて、まったく違った発想に思えたことがいつの間にか重なってくるのを感じるようになったんじゃないかい?」
そう言われて、典子はつい今していた呆れたような表情がみるみるうちにこわばってくるのを感じた。
「確かにその通りです」
典子は真剣な表情で、山田さんの顔を見ていた。別に叱られたわけではないのに、借りてきた猫のように、恐縮してしまっていた。
だが、それも少しだけの間のことで、話が始まると、興味の方が先に立ち、どんどん話の中に入り込んでしまっている自分を感じた。それこそ、本人とすれば、
――まるで夢の中にいるようだ――
と感じたことだろう。
「夢というのは、寝ている時に見る夢なんでしょうかね?」
典子がふっと口を開いた。
「起きている時に見るのは、幻や錯覚として感じるものだとすれば、夢ほど長いものではなく、一瞬のものでしょうね」
と、こういちが言うと、
「でも、さっきからずっと話題に出てるじゃないか、『夢というのは、目が覚める寸前の瞬時に見るものだ』ってね」
「あっ、そうでした。でも、それがもし本当だとすると、幻や錯覚まで、夢の一種だと思えてきますよね」
と典子がいうと、
「いいんじゃないかな? 僕はそれでもいいと思っているよ」
と、山田さんは答えた。
さらに、山田さんは続ける。
「じゃあ、さっきの言葉を少し変えてみよう、『現実とそれ以外の世界では、違う次元なんじゃないか』という発想にもなれるということだよね」
「少し乱暴な気がしますが、幻や錯覚が夢と同じものかどうかは、これからの話だと思えば、この発想もありなのかって思いますね」
こういちのその言葉に、典子は頷いていた。
「でも、現実以外をすべて同じ次元だと言っているわけではないんですよ。それぞれに次元が存在していて、多次元の世界が存在するという思いですね」
「そんなにたくさんの次元が存在しているというのは、ちょっと発送できないですね」
と典子がいうと、
「でもね、考えてみてごらん。今こうやって普通に過ごしている世界の中で、一次元、二次元の世界というのは、共存しているんですよ。もっとも、立体の三次元の世界から、点である一次元、平面である二次元という発想は、人間が創造したもので、それぞれの次元に思考できるモノが存在しているとすれば、我々三次元をどう思うだろうね。我々が四次元の世界をなかなか想像できないように、理解できないと思うんだ。ひょっとすると、その存在自体、まったく知らないかも知れないよね」
と山田さんが答えた。
「でも、一次元から二次元、二次元から三次元というのは、それぞれに基準があって、基準に何かを足すことで、新たな次元が生まれているという発想ですよね。四次元の世界という発想は、時間を足すという意味だと思うんですけど」
「橋爪君の発想に間違いはないけど、それは、一次元から三次元までを知っているから出てくる発想だよね。ある意味中途半端に知っていることで、余計な制限が入ってくると言えなくもない」
「制限ですか?」
「中途半端な知識が制限になるということも、僕は経験したことがあるんだけど、君たちはどうだい?」
と山田さんが問いかけた。
それに対して答えたのは典子だった。
「それはあるかも知れません。中学時代のことだったんですが、小学生の頃から英語教育に力を入れている学校があって、私たちの行っていた小学校は、それほど英語を熱心にしていませんでした。最初は、知識のある人たちの方が成績がよかったんですが、途中から逆転したんですよ。先生はその時、『英語に対して何も知らない人の方が、中学の英語の授業に新鮮な気持ちで向かうことができる』って言ったんですよ」
「でも、それは偏見では?」
「確かに偏見なんですが、子供の私たちにはその通りにしか思えなかったんです。理屈には合っていましたからね」
すると、山田さんが答えた。
「そうなんですよね。結局は中途半端な知識だったんですよ。元々次元の違いというのは、しょせん人間の発想なんですよね。だから、その発想を発展させるには、発想に制限を付けてしまうと、それ以上の伸びしろは出てきませんからね」
山田さんは続ける。
「僕が、次元の違いという発想で、一つの結論に達したんですが、それは『夢の共有』という発想なんですよ」
「夢の共有?」
こういちと典子は、ほぼ同時に声を挙げた。そしてお互いに顔を見合わせて、思わず吹き出してしまうのを、お互いに我慢していた。
「そうです、『夢の共有』です。それは『夢の世界の共有』に限らないという意味での『夢の共有』です」
理解困難な発想に、またしても、こういちと典子は目を合わせてしまった。
「『夢の世界の共有』というのは、誰もが見ているであろう夢の世界が同じ次元で展開されているという発想ですね」
「僕はそう思っていましたが、そうではない人もいるんでしょうか?」
とこういちが言うと、
「あら? 私は逆に違う世界のように思っていました」
と、典子は答えた。
すると、山田さんが口を挟み、
「そうでしょう。お二人の間だけでも違う発想なんですよね。でも、私が思うのは、橋爪君の発想が普通の発想で、典子さんの発想は、この話の中では違う発想なんですよ」
というと、典子がその言葉に反応した。
「えっ、そうなんですか? 私は自分の中に出てきた人が、その人の夢の中から抜け出してきたようには思えないんですよ」
と反論した。
「そうでしょう? その発想自体が、『夢の世界の共有』という発想ではないんですよ。今言った典子さんの発想は、『夢の共有』の話なんですよ」
というと、典子は頭の中が混乱してきたようで、
「言っている意味がよく分からないんですが」
と言った。
「そうでしょうね。現実世界というのは、皆同じ次元を共有しているというという理屈は分かりますか?」
「ええ、もちろん、分かります。だから、こうやって会話も成立して、実際に助け合って生活できているんですからね」
「助け合っているという件には疑問がありますが、まあいいでしょう。じゃあ、『夢の世界の共有』というのはどういうことか分かりますか?」
「夢の世界という一つの大きな世界が存在しているということですか?」
「ええ、僕はそう思っています。たぶん、橋爪君も同じ発想ではないかと思うんですよ」
「私には分からないんですよ。夢というのは、単独で見ているもので、その人それぞれだと思うんですよ。だから、夢の世界は、あくまでもその人の現実世界と対を成しているものではないかという考えです」
「確かにその考えであれば、典子さんのいうように、『夢の世界の共有』というのは、そのまま『夢の共有』に繋がってきますよね。だからこそ、両方とも、ありえないことだと思っている」
「そうです」
「この考え方は、夢の世界のグロスの違いこそあれ、橋爪君と結局は同じ考えなんですよね。でも、僕の場合は違う。『夢の世界の共有』と『夢の共有』とは違うものであるんだけど、どちらもありなんじゃないかっていう発想なんですよ」
山田さんがここまで話したところで、こういちが口を挟んだ。
「でも、『夢の共有』ということは、自分の中に出てきた他人、友達だったり、赤の他人だったりした人も、同じ夢を見ているということになりますが、それだったら、自分が見た夢は、自分の意志で見ていないと言えるんじゃないですか?」
「僕はそうも思っています。潜在意識が見せるのが夢だというのであれば、夢は覚えていてしかるべきだと思うんですよ。それをわざわざ忘れるように仕向けるというのは、何か思惑があるからではないかと考えました」
「それが夢の共有?」
「ええ、自分の意志ではない他人の夢をいちいち覚えている必要はないからですね。しかも忘れてしまわないと、夢の記憶領域がすぐにいっぱいになってしまうんですよ」
「夢の共有ということは、自分の夢に他に人が出てきたら、その人は自分の夢として、その夢を見ているんでしょうか?」
典子が聞いた。
「そこは難しいところだと思います。でも、僕は自分の夢だとして見ているんじゃないかって思うんですよ。そうでなければ、見た夢を忘れるという発想は成り立たないからですね」
「本人は、絶対に見た夢を覚えているわけではないですよね?」
「でも、覚えておこうとは思っているんじゃないかな? 夢の記憶装置があるとすれば、そこには格納されているような気がしますからね」
「でも、『夢の共有』と夢と現実の次元が違うということと、どう繋がってくるんですか?」
この質問はこういちからだった。
「夢の世界と、現実の世界に確固とした次元の違いがなければ、誰も夢を共有しているとは思わないでしょう?」
「その発想は、夢の共有が先に来ている発想ですね」
「そうですね。でも、最初に発想が浮かぶのは、夢と現実の世界の次元が違うことだと思うんですよ。ひょっとすると、誰もが感じていることなのかも知れない。でも、自分を納得させられるだけの理屈が見つからない。だから、考えようと思わなくなる。でも、僕は夢の共有の発想を思いついた時、次元の違いの発想が、間違っていなかったと自分を納得させることができたんです」
「僕も自分を納得させないと、あまり発想を展開させられない方なんですが、どこか、山田さんとは、考え方の面で違いを感じるんですが、気のせいでしょうか?」
こういちは、思い切って訊ねてみた。
「それは間違いではないと思いますよ。そもそも、人の発想に間違いというのはないような気がするんです。どこかが誰かと微妙に違っているだけで、どんなに正反対の意見でも、共通点は多いと思うんです。よく言うでしょう? 『長所と短所は紙一重』って、二重人格の人の性格だって、裏を返せば、紙一重だったりする。だから、人の考え方に正しい間違いの発想はないんじゃないかって思うんです」
と山田さんが言うと、
「その考えには賛成ですね。僕もそもそも人の発想に正しい間違いを決めるのはおかしいと思っていたんですよ。そのわりには、論争を繰り返しますけどね」
と言って、こういちは苦笑いした。
「夢についていろいろ語ってくると、デジャブについても、いろいろな発想が出てくるかも知れませんね」
典子はそう言った。
「典子さんは、デジャブというものを、感じることって結構ありますか?」
「私の場合は、それがデジャブなのかってまず考えてしまうんです。デジャブという感覚はもちろん頭の中にあるからですね」
「でも、デジャブというのは、『以前どこかで見たような』というのを感じ、思い出そうとするけど、なかなか思い出せないという現象がデジャブですよね」
「ええ。私の場合は、一度感じたデジャブが、その後同じ状況をまたデジャブとして感じるんです。だから、『デジャブの多重性』とでもいうべきか、それとも、『デジャブの多層性』というべきか、私の場合は後者なんです。一度感じたデジャブが、次に思い出されると思うんです」
「じゃあ、最初に感じたデジャブは、同じ現象であっても、二度と感じることはないと?」
「ええ、私はそう思います」
「そういえば、同じデジャブを何度も感じるということってあるんですかね?」
と、こういちは聞いた。
「僕は、何度も同じ内容のデジャブを感じるよ。その時は、典子さんと同じ発想で、「デジャブの多層性」を感じるんです」
「どういうことですか?」
「多層性というのは、年輪のように輪の中にさらに輪があって、包み込まれているような感じですね、でも、多重性というのは、二つのデジャブは同じ列にあって、含まれる含まれないという発想や、優劣に繋がることはないんです。同等という発想ですね」
山田さんの発想に二人は、ただただ頷くだけだった。
「でも多重性のデジャブというのはあるんでしょうか?」
と、こういちは訊ねた。もうここまで来ると、何が正しいというよりも、
――相手をいかに納得させるか?
ということに尽きるだろう。
もちろん、自分が納得していることが大前提になるだろう。山田さんにとって、それくらいのことは熟知のことに違いない。
「僕は、あるんじゃないかって思っているんですよ。信憑性には乏しいんですが、夢に共有があるんであれば、デジャブに多重性があってもいいんじゃないかって思うんだ」
山田さんも、どう答えていいのか分かっていないようだった。
「デジャブというものが、自分の記憶の中の辻褄を合わせるために存在するものだとするなら、最初のデジャブは二度目のデジャブですでに辻褄が合っていると考えられるんですよ。そうでなければ。デジャブの似たような発想が、二つ存在するようになり、もう一度デジャブを感じると、今度は三つ残ることになるかも知れない。でも、感じるデジャブは一つだけですよね。そう思うと、デジャブの多重性は考えにくいんじゃないかって思うんです」
こういちの意見だった。
「なるほど、物事を発生の根拠から考えるというのは、いい考えだと思います。物事は根拠があるから存在しているんだよね。橋爪君の考え方は理に適っているよ」
山田さんも、こういちの発想に賛成だった。
「でも、私は少し違う考えなんです。一回のデジャブですべての辻褄が合ってしまうのであれば、多重性は考えにくいと思うんですが、少なくとも同じデジャブを何度か見るのであれば、一度では解決できない辻褄合わせだったことになりますよね。そう思うと、デジャブの発想が同じ時期にいくつか存在していたとしても、それはありえることだと思えるんですよ」
そう言った典子は、少しムキになっているようだった。
そんな典子を見て、こういちは少し気になったようで、
「典子さんの発想ももっともだと思うんですが、最初に話に出た山田さんの『多層性』という考え方も捨てがたいんですよ。僕にはむしろ、最初に出た『多層性』の発想の方がスッキリするんですよ」
というと、典子が激怒するのではないかと思ったが、別に表情が変わったわけではなかった。むしろ、
――やっぱり――
という表情だったのが、印象的だった。
そんな典子の表情の変化に対し、最初に感じたムカッとした表情は、最初からこういちの考えが分かっていたからではないかと思えてきた。
――そういえば、典子は話をしている時、こちらの言葉を予知して話をするような雰囲気を最初に感じたような気がした――
こういちはずっとこれまでの話の流れから、絶えず山田さんを見ていたことに、あらためて気が付いた。
しかし、典子はその間、そのことに気づいていて、何とか自分も話の中に入り込もうと努力をしていたができなかったのは、本当は山田さんが言う言葉のほとんどすべてに自分が気が付いていたからなのかも知れない。
――こんなに難しい話を、最初から分かっていたなどと相手に知られてしまうと、気持ち悪がられるとでも思ったのかな?
ここが男と女の違いなのかも知れない。
こういちだったら、相手の言っている話があらかじめ分かっていたら、話を中断してでも、何とか自分が話しの主導権を握るという意味でも、かなり「ドヤ顔」を示すことで、相手を威圧してしまうかも知れない。それが人に嫌われる原因になることは分かっているが、
――低俗な話しかできない連中に嫌われたとしても、別に大した問題ではない――
と思っていたのだ。
相手の山田さんを見ていると、もし、こういちが自分の話の腰を折ったとしても、決して悪い気は起こさないような気がした。逆に相手が自分の発想についてこれることを誇りに思うくらいなのではないかと思ったのだ。
しかし、さすがにこういちには山田さんがどんなことを考えているかなど、想像もつかなかった。もし、典子が分かっているとすれば、ものすごいことになる。
――ひょっとして、ここに集まった三人は、集まるべくして集まった仲間であり、ただの偶然として言い表せないものに違いない――
と感じたのだ。
その中に自分も含まれていることを誇りに感じるこういちではあったが、それまでは山田さんの次に中心だと思っていたのが、実は一番遠いところだと思うようになると、気分的には複雑なこういちだった。
「そういえば、少し怖い話なんだけど、この間話した『お前を見た』という言葉で思い出したことがあるんだ」
と言い出したのは、山田さんだった。
「どんな話ですか?」
こういちが聞いてみた。
典子の方を見ると、急に顔色を悪くして、わなわなと震えているようにも見えたのは気のせいであろうか。まるでこれから山田さんが話そうとする内容を知っているかのように感じられた。
「実はね。僕の知り合いに聞いた話なので、どこまで本当なのか分からないんだけど、ある夫婦がいたというんだ。その夫婦の方の旦那さんが、会社に出勤途中に、毎朝会う男がいたらしいんだけど、その男から『お前を見た』と言われたらしいんだ」
「はい」
山田さんの話は、まだ導入部分のはずの話なのに、何となくこういちにはその話の結末が分かった気がした。
――この話、どこかで聞いたことがあったような――
確かに聞いたことのある話であり、誰から聞いたものなのか、この話を聞くまでであれば、覚えていたはずだった。
しかも、典子の顔を見れば分かるはずなのに、分からなかった。実は、典子が最初に怯えてしまったことで、こういちの頭から、元々あった記憶が消えてしまったのだ。
――どういうことなんだ?
明らかに覚えていたように思っていたはずなのに、話を聞くまで思い出すことができないはずだった。そのせいで、こういちはデジャブを覚えた。なぜこんな感覚になってしまったのかすぐには分からなかった。
そして、典子とこういちの様子に変化があるのを分かっているはずの山田さんは、話を淡々と続けるのだった。
「その時、『お前を見た』と言っている男の人を、旦那さんは知らなかった。最初に言われた時に初めて見たのだし、毎日のように会うのも、相手の男が『お前を見た』というために偶然を装って近づいてくるだけだったんだ」
「でも、そこまでくれば、偶然なんかじゃないんでしょう?」
「もちろん、偶然なんかじゃないさ。その男がなぜ毎日そんなことを言っているのか分かるはずもなく、旦那さんはその男のことを蔑視していただけなんだ」
「それで?」
「でも、その男が現れるようになってから、旦那さんは体調が悪くなってくる。次第に一人では歩けなくなって、入院を余儀なくされるようになったんだ」
「じゃあ、奥さんも大変だったでしょう?」
とこういちが言ったが、それを聞いた山田さんはニヤッと笑った。
それはあたかも、
――引っかかったな?
と言わんばかりのドヤ顔のようでもあったのだ。
それを見たこういちは、
――しまった――
と思った。
それは、自分が相手の術中に引っかかったというよりも、分かっているはずなのに、どうしてそんな聞き方をしたのか、山田さんに対してしまったと感じたわけではなく、自分自身に対してしまったと感じたのだった。
そのことは先送りにするかのように、山田さんの話は焦らしにかかっているようであった。
「その男は、入院しても、一日に一度、病室の前を通りかかって、声には出さずに『お前を見た』と言ったそうなんだ。その話を初めて奥さんにしたが、奥さんはそんな男は知らないと言っていた。そういえば、入院前に会社の同僚にも同じ話をしたんだが、毎日のことなので、何回かくらいはその男を目撃しているはずだった。実際に見られたという思いもあったからだ。それなのに、誰も知らないと言ったらしい、実に不思議だよね」
「そうですね」
ここまでくれば、ラストの内容がこういちには分かりかけていた。
幸一は続けた。
「その男というのは、もう一人の自分だったんじゃないかな?」
ボソッと呟いたが、
「僕もそう思うんだ。さすが橋爪君も、想像力は相当に豊かなようだ」
「山田さんと一緒にいるようになって、こういう話をよくするようになったからですよ」
「そうかも知れないな」
と二人は顔を見合わせて、ニヤッと笑った。
「それでだ。その男のことが気になりだした奥さんは、以前にその男を見たような気がしていたのだけど、そのことを誰にも話さなかっただ」
「どうしてなんですか?」
「理由は三つあって、一つはその人を見たと言っても誰も信用してくれないという考えで、もう一つは、これに関連していることだけど、その人を見ることができるのは、鏡を通してだけのことなんだ。もう一つは、もう少しして、話の展開で出てくることになると思います」
そのことを山田さんが話すと、典子はゾクッとしたかのように身体を固くした。
「それはどういうことですか?」
こういちも、何となく分かっているつもりだったが、敢えて何も知らないふりをして訊ねた。
「最初に見たのがどこだったのか、その奥さんには分からなかったらしいんだけど、その人が鏡に写っていたので、反射的に振り向いたらしい。なぜなら、そこには誰もいなかったことを意識していたので、鏡で確認できたことが不思議で振り向いたんです。やはり、そこには誰もいませんでした」
「じゃあ、奥さんはその日から、その人の存在を意識するようになったんですか?」
「最初はしていなかったようです。旦那がその男から『誰かを見た』と毎日のように言われているのを知らなかったし、その時は幻だと思ったからですね。しかも、奥さんはその人の存在を旦那が入院するまで忘れていたんですよ。入院して目の前に現れても、すぐにはその人が誰だったか、思い出せなかったからですね。でも、その男が旦那に向かって無言で何かを喋っているのを見て、やっと思い出した。そして、彼女はその男の存在をハッキリ、自分にとって命取りになりかねない人だということに気が付いたんです」
「えっ、今の話からすれば、何か奥さんは悪い人のように聞こえますが?」
「その通りです。この話の主人公は実は奥さんなんです。ここまでは奥さんはあくまでもご主人の病気を思いやる優しい奥さんであり、不思議な男を目撃したという意味では、話の中では第三者的な人に思えますが、奥さんの企みがなければ、成立しないお話なんです」
「奥さんの企み?」
「ええ、この旦那さんには、多額の保険金が掛けられていました。さらに、この奥さんのは、少し前から不倫を重ねている男がいる。その男は今まで話の中に上がっていませんが、実は、不思議な男が言っている『お前を見た』という本当の相手は、その不倫の男だったんです」
「えっ? ということは、このお話の裏で並行して別の事件が密かに動いていたということなんですか?」
「そういうことになります。その男は奥さんも知っている相手でした。さっき奥さんがその男のことを話せない理由が三つあると言って、もう一つは、もう少ししてから話題に出てくると言ったのは、このことだったんです。その人の存在を人に話すことは、万が一にも自分の計画が露呈してしまわないという危険を感じたからだったんですね」
「そういうことだったんですね。でも、奥さんはそのことを、不倫相手に話さなかったんでしょうか?」
この質問は、典子から出たものだった。
典子の中で女としての気持ちが奥さんが何を考えているのかを想像してみたのだろう。そして感じたのが、不倫相手に話をしていたかどうか重要だと思ったことだった。
「話をしてはいないと思いますよ。元々奥さんと不倫相手は、目の前の目的は同じだったかも知れませんが、最終的な方向性は違っていたようなんです。お互いに不倫を重ねながら、時間が経つうちに、最初はマンネリ化していたようなんですが、そのうちにマンネリ化が、相手への猜疑心に変わっていったようなんですね。その猜疑心というのは、嫉妬ということではありません。自分の目的達成に対して、本当に相手がこの人でいいのかという思いですね」
「それは恐ろしい。僕は最後の結末を今想像してしまって、ゾッとしました」
と、こういちが言うと、
「どういう結末ですか?」
山田さんはニヤリとしながら聞き返したので、山田さんには、こういちが何を考えているのか分かったようだ。
というよりも、山田さんも同じ結末を思い浮かべていたのかも知れない。
こういちはすべてを相手が分かっているのではと思いながら、敢えて焦らすかのように答えた。
「二人が殺し合うのではないかと思ったんですよ。ただ、それはあくまでも最後の手段であり、やってしまうと、最初からの計画が根底から覆ることになりますからね」
二人の話に、典子はついていけているのかどうか分からなかったが、典子も話に口を挟んだ。
「根底から覆るというのは、どういうことなんですか?」
という典子の話に、山田さんが答えた。
「これは、奥さんと不倫相手の間で綿密に練られた計画殺人だったんですよ」
「殺害相手というのは、当然旦那さんですよね?」
「ええ、普通に殺してしまっては、簡単に捜査が及んでしまって、逮捕でもされたら、何もかも台無しですからね。時間を掛けて徐々に毒を盛ることで弱ってくる旦那を、献身的に介抱する奥さんという構図を作り上げることも目的だったんですね。まわりから同情を得ることで、自分はすべての蚊帳の外だということを思わせ、殺害の事実を煙に巻いてしまおうという計画だったんですよ」
「でも、医者が見ればすぐに分かるんじゃないんですか?」
「ええ、そこも買収済みの相手を確保してからの計画ですね。お金だけでは安心できないので、奥さんが色仕掛けで男を騙したというところですね」
「えっ、でも、不倫相手が嫉妬しないんですか?」
典子が反応した。
それを聞いた山田さんは、ニヤリと笑って、
「だから最初から言ったでしょう。二人の目の前の目的は同じでも、最終的な方向性は違っているってね。だから二人は不倫の関係ではあるんだけど、それは目的のための関係の延長という程度のもので、嫉妬するほど男女の関係が深いわけではないですね。むしろ、不倫相手の方とすれば、医者に対して奥さんが心変わりしてくれた方が、最終的に自分が蚊帳の外になれれば好都合とまで思っていたのかも知れませんね」
さらに典子が答えた。
「そんな……。それじゃあ、旦那さんがあまりにも可哀そうすぎる」
山田さんは、またニヤリと笑うと、
「そうでもないんだよ。奥さんが旦那を殺そうと考えた最初の動機は、旦那が作った借金だったんだ。それも、女遊びにギャンブルと、結構荒れた生活をしていたようだ。元々旦那というのは、中小企業の社長をしていたんだけど、どこかで歯車が狂ったんだろうね」
「そうだったんですね」
「旦那というのは、親の会社を受け継いだ二代目のようで、子供の頃から社長になるということしか道はないように育てられた。だから、少々の贅沢は許されると思っていたので、ちやほやされたりしたら、歯止めも利かなかったんだろうね。ギャンブルにしても、金銭感覚がマヒした状態でのめり込んでしまえば、結果は見えているからね」
「じゃあ、奥さんも被害者だったのかな?」
「被害者というのはどうかな? 元々結婚したのも、玉の輿狙いだったからね。学生時代には、それなりにモテていて、玉の輿にも載りやすかったんだ。奥さんの方も、ちやほやされることで、普通の感覚がマヒしていたんだろうね。特に恋愛感覚は完全にその時にマヒしていたんだと思う。だから、不倫相手を本気で好きになることもなかったんだよ」
それを聞いた典子は、
「そんな女性に本気で誰かを好きになんかなれるわけはないわ。そんな権利もないと思う」
と言った。
「典子さんの考え方が、普通の女性の考え方なんでしょうね。こういう話をしていると、しているだけで、感覚がマヒしてきて、感性が歪んでくるんじゃないかって思うんですよ」
と、こういちは言った。
「そこは二人の言う通りだと思います。ただ、このお話で誰が正しくて誰が悪いということを論じるのは、ナンセンスなんじゃないかって思います。最初からそんな考えを持たずに僕の方も話しているわけなので、お二人も、そういう感覚を持たないようにしてもらいたいと思います」
「ところで、『お前を見た』と言った、その謎の男というのは、誰だったんでしょうね?」
「それは、たぶん二人が買収した医者だったんでしょうね。お金に目がくらんだのか、奥さんの身体に溺れてしまったのか、医者は完全に常軌を逸していたんでしょうね。ひょっとすると、かなり真面目な性格だったのかも知れない。いろいろなジレンマが彼の中にあって、ジレンマと戦いながら、理性を保とうとしたとすれば、どこかで何かがプツンと切れてしまったとも考えられますね」
「じゃあ、『お前を見た』というのは何だったんでしょうね?」
「これは僕の想像でしかないんだけど、自分を誘惑した奥さんは、不倫相手を自分だけだと思い込んでいたのに、何かのきっかけで、奥さんには他に男がいることに気が付いた。それが最初から計画の立案者だということを知らない医者は、その男に対して嫉妬心が浮かんできたとしても、無理もないことだよね」
「何となく話が繋がってきたような気がする」
こういちは分かってきたようだが、典子の方はまだまだ分かっていないようだった。
「医者の男が『お前を見た』というのは、きっと不倫相手に対しての嫉妬心から、その男の前に現れて、『お前を見た』という言葉をぶつけることで、相手にプレッシャーをかけていたんでしょうね」
「でも不倫相手は、その医者のことを知っていたんでしょうか?」
「そこは何とも言えないけど、医者の方は、自分のことを知らないと思っていたんでしょうね。きっと奥さんが二股をかけていたというよりも、その男に誘惑されたと思ったに違いないからですね」
「どうしてですか?」
「それだけ、医者が真面目だったともいえるでしょうね。もっとも、二人が計画した中で、騙せるような誠実そうな医者を探したのだろうから、そういう流れになっても、ありえることだと思いますよ」
「そうですね。医者としては、苦肉の策だったのかも知れませんね」
「苦肉の策というよりも、浅はかではありますね。まるで子供のような発想ですからね」
「その時に、不倫相手は、その医者の言った『お前を見た』その言葉に何も感じなかったんでしょうか?」
「感じていないと思いますよ。これだけの大それた計画を立てているんだから、少々のことは感覚がマヒしてきているはずだからですね」
「でも、その医者が旦那さんの前に現れて、『お前を見た』と言ったのは、どういうことだったんでしょうね」
「それは分かりません。何か幻か錯覚なのか……。でも、『お前を見た』というキーワードは、相手が死に近づいているという暗示であることは間違いないことですからね」
そこまでいうと、今度は典子が口を開いた。
「えっ、ということは、不倫相手というのも、死に近づいていたということですか?」
それに答えたのは、意外にもこういちだった。
「そういうことになりますね」
こういちも、そこまで先回りして分かっていたようだ。
山田さんが付け加えた。
「不倫相手が死んでしまうことは、実は不可抗力だったんですよ。旦那が死んで、四十九日が済んだあと、いよいよ相続の問題が奥さんに湧き上がった時、ふいに不倫相手が交通事故で死んだ。そこまでは不倫相手と奥さんの計画通りに進んでいて、医者もうまくやったんです。しかし、不倫相手が交通事故で死んでしまったことは、旦那さんの死の計画に対して、まったく関係のないものとして処理された。普通の交通事故で、事故を起こした人と、奥さんや旦那さんの関係はまったくなかったからですね」
「じゃあ、奥さんの計画通りになったわけですね。でも、医者はビックリしたでしょう?」
「さすがに医者も、不倫相手が死ぬに至って、これ以上奥さんに関わることが怖くなった。だから、お金を貰って、海外に逃亡したようです」
「じゃあ、奥さんの一人勝ちのような感じですか?」
「そうでもないんですよ。奥さんは、それからノイローゼになって、その後、気が狂ってしまった。結局最後は思い詰めて自殺してしまったようですね」
「何とも後味が悪いですね」
「そうでしょう? ホラーの話としても、どこか納得のいかないところがありますよね。この話を聞いた人は皆、どこか納得がいかないというらしいんですが、皆それぞれに納得のいかない部分が違っているんですよ。それは皆が皆、同じ話を聞いているはずなのに、解釈が違っている。だから、納得のいかない部分が絶対に出てきて、その部分が皆違っているんですよ。それがこのお話の特徴なんですよね」
「ということは、私が感じていることと、橋爪さんが感じていること、そして、自分なりに感じたことを話している山田さんと、それぞれに違った解釈を持っているということになりますね」
と、典子は言った。
「たぶんそうだと思います。このお話の本当の怖さは、実はここにあるんですよ。そして、やはりキーワードは、『お前を見た』という言葉になるんですよね」
そう言いながら、話し終えたことで、一気に疲れを感じているであろう山田さんの姿を見て取れた。話を聞いていた二人も同じように疲れからの脱力感があり、少し落ち着いた時間が必要であると感じていた。
山田さんや典子にとっては、今まで他の人から聞いた「お前を見た」という言葉が呪縛のようになっていることは、それぞれから今までに聞いた話で分かっていた。しかし、今回のこの話を聞いた時、こういちにも呪縛のようなものが訪れたが、自分に呪縛として残ることはないような気がした。
理由としては、一つの話を例として山田さんが話してくれたが、一人で考えていては理屈が通らずに、自分を納得させることができなかったことを、今回、皆で話すことでそれぞれ納得できるようになり、残ってしまっていた呪縛から解き放たれたのではないかと思ったからだ。
――もし、自分の中で呪縛として残ってしまっていたら、どんな気分だったんだろう?
と考えてみたが、やはり考えられることとしては、話を聞いてもらえる人を探して、一緒に考えてみるということしか、解決方法はないだろうと思われた。
しかし、まともに話して、こんな話を信じてくれる人がそうはいないだろう。同じような経験をした人、人から話を聞かされて、納得できないという呪縛だけが残ってしまった人しか信じてくれる人はいないはずだ。その人を見つけるのは、非常に難しい。本当に自分のまわりに、同じような経験をした人がそう簡単にいるとは思えないからだ。
それでも、実際にはいたではないか。
ということは、黙っているだけで、思っているよりも、日常的に皆が感じているものではないかと思えた。
「お前を見た」
という言葉は、いきなり言われたとすれば、何も覚えがないとしても、ビックリさせられる言葉である。むしろ、覚えがない方が、余計な気を遣ってしまって、不安に駆られてしまうのが人間というもの、
「叩いて埃の出ない人なんて、いないに決まっている」
と言っていた人がいたが、まさしくその通り、誰もが人には言えない何かを心の奥に秘めて毎日を暮らしているに違いないのだ。
――僕だって、埃塗れの身体だよね――
と感じていた。
人間というのは、矛盾の中で生きている。
人が一人では生きられないというのは、誰もが思っていることだし、テレビドラマや漫画や小説などの媒体を通しても言われていることだ。
「こちらを通せば、こちらが通らず」
特に自分の意見を持たず、まわりの意見に振り回されている人は特に、この言葉が身に染みているだろう。
誰かの意見を通せば、もう一人から文句が来る。逆であっても同じこと、それだけ人それぞれに性格も違えば、育った環境、そして今置かれている立場、すべてが違うのだ。そうなれば、敵対する気持ちが生まれてくるのも必至であり、同じ考えを持った人の中でも、それぞれに、やり方や進め方の違いから、仲たがいをしてしまうことも、往々にしてあるというものだ。
こういちも、今までの経験から、同じようなことがあった。
まずは、身近なところで、親同士の対立を見ればよく分かる。いわゆる夫婦喧嘩というやつだ。
「夫婦喧嘩は犬も食わない」
と言われるが、今であれば、納得できるのだが、子供の頃は、どちらについていいのか困り果てたことが何度あったことだろう。
母親が怒りを通り越したのか、小学生の低学年だった頃の自分を連れて、家出したことがあった。
今から思えば、
「何て、浅はかなことをしたんだ」
と思うが、その時の母親の気持ちを思えば分からなくもない。
自分が振り上げた鉈のおろしどころが分からないというのが、本音だろう。
「戦争というのは、始めるよりも止める方が、数倍難しい」
と言われる。
始める時に、終わり方をシミュレーションするのが政治家だという話も聞いたことがある。夫婦喧嘩も同じで、どちらが先に謝るかが問題なのだ。意地の張り合いはただ状況を悪くするだけで、何の解決にもならない。
その時に感じたのが、子供心に、人間の中の矛盾だったのではないだろうか。自分にも同じようなものがあるのだと、初めて感じた時だった。
家出から帰ってきて父親の顔を見ると、実に安心したものだ。
――自分のあるべき姿――
というのを垣間見た気がした。
だが、母親は覚悟して家出をしたはずなのに、なぜすぐに帰ってくることにしたのか、子供の自分には分からなかっただけに、帰ってこれたことはありがたかった。それでも中学生になった頃、反抗期を迎えていた自分は、何とか両親の弱い部分を探っていた時期があったが、その時、家出をしたのに、すぐに帰ってくるという決断をした母の気持ちの中に弱さしか感じなかったことを思い出していた。
母は、そんなに意志の弱い人ではない。家出をすると一旦決めたのなら、目に見えて何かがない限り、一日やそこらで帰ってしまうようなことはないはずだった。
そのことがずっと気になっていたのだろう。反抗期であっても、それを糾弾しようというほどの意識はなかった。
だが、知りたいという思いは強くあり、思い切って反抗期の時に聞いてみた。理由は、反抗期を過ぎてしまうと、二度と聞くことはないと思ったからだ。
「お母さんは、どうして家出をした時、すぐに帰ってくるような決断をしたんだい?」
母親は返答に困っていたようだ。
それでも、しばらくして意を決したのか、ゆっくりと話し始めた。
「あの時は、本当に家に帰るつもりがなくて家出をしたわけではないのよ」
「えっ?」
その言葉は、こういちを驚かせた。
「もし、家に本当に帰ってくるつもりがないのであれば、お母さんはあなたまで連れて出てくることはなかったと思うの。お父さんとの間に距離を置いて、お互いに考える時間を作ろうと思ったの。お母さんは自分の意志からそう考えたんだけど、お父さんはそこまで分かってくれるかどうか、難しいでしょう? そんな時、あなたがそばにいると、お父さんは考えることができないと思ったの。だから、あなたを連れて家を出て、お互いに冷却期間を置こうと思ったのね」
「じゃあ、どうして、あんなにすぐに帰ってきたの?」
「あの時、すぐに家に帰らなければいけないと思ったのは、その場所にいるはずのないお父さんが目の前に現れて、『お前を見た』って言ったのよ。幻か錯覚だって思ったんだけど、その日に夢を見たの。その夢というのは、夢の中にまたお父さんが出てきて、『お前を見た』って言ったその後、あなたが血まみれになって死んでいるのが発見されたの。そして、その横にいたのは、同じ血まみれになって倒れていたお父さん。お母さんはその時、自分の手を見ると、真っ赤に染まっていて、吹くにはべっとりと返り血を浴びていたの。そして、その時後ろから殺気がしたので振り返ると、そこには、もう一人のお母さんが立っていて、『お前を見た』って言って、笑うのよ。お母さんは恐ろしくなって、次の日には家に帰ったというわけ」
何とも信じがたい話だったが、妙に説得力があった。
話の内容よりも、その時の母親の表情に説得力を感じたのだ。
もっとも、母親は息子にその話を信じてもらいたいというつもりで話したのではないと思う。どちらかというと、黙っているのが辛くなったからではないだろうか。
その証拠に、
「話ができて、少し肩の荷が下りたような気がするわ」
と言っていたっけ。
その言葉は本心からだったと思う。もし自分が母親の立場だったら、同じことを考えたに違いないからだ。
「それにしても、怖い夢だったわ。もう一人の自分が夢に出てくるというだけでも恐ろしいのに、その自分から『お前を見た』って言われたのよ。本当にゾッとしたわ。一刻も早く家に帰らないといけないってその時、真剣にそう感じたわ」
と言っていた。
これも本心であろう。安心したという思いをその時自分に打ち明けたのは、その思いがトラウマになっていたからだろう。息子に話をしただけで解消できるほどのものではないはずだが、ずっと一人で背負ってきたトラウマを少しでも解消できたことが、安心したという言葉に繋がったに違いない。
ただ、この話を聞いたこういちは、少しの間覚えていたが、ある日を境に、急に忘れてしまっていた。
最近になってよく聞くようになった、
「お前を見た」
という言葉、この頃からこういちの中で、母親から受け継いだ「忘れてしまったトラウマ」となっていたに違いない。
そういう意味では、母親も今となっては、このトラウマをどこまで覚えているかというのも分からない。こういちに話した時点で、
――ある程度忘れてしまったのではないか――
とさえ思うようになっていたに違いない。
こういちは、それを自分の中の、
「記憶の欠落」
だと思っていたが、母親がどう感じているのか分からない。
さすがにこのことまでは聞いてみようとは思わなかったからだ。
記憶の喪失と欠落とでは違うもののように思えてきた。こういちは、記憶の喪失には、「多重性」を感じ、記憶の欠落には、「多層性」を感じた。今日の話の中でいろいろ感じたこともあったが、「お前を見た」というキーワードに「多重性」と「多層性」が絡んでくるものだというのを、感じるに至ったのだった……。
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