心理の挑戦
森本 晃次
第1話 お前を見た
橋爪こういちは、二十年前馴染みの喫茶店を作り、仕事の帰りにのんびり過ごすことを覚えた。馴染みの喫茶店というのは、会社の近くにある商店街の外れから、少し入ったところにあった。
会社から最寄りの駅までは、商店街を抜けていくことになる。その商店街は、かなりさびれてしまっていて、会社の事務所がこの辺りに移ってきて二十年になるが、その頃から比べると、散々たるものだった。
二十年前はまだ賑やかで、昼の街と、夜の街の二面性を持っていた。
昼間は、
「この商店街に行けば、とりあえず何でも揃う」
と言われていたほど、惣菜屋さん、八百屋さん、肉屋さんから始まって、文房具屋、靴屋、百円ショップまで揃っている。ブティックも何軒かあり、帰宅途中のOLで賑わっていた。
この界隈は、都心部からは少し離れていて、一種のベッドタウンとして発展した地域だった。駅前から少し入ったところにある商店街は、アーケードが百メートルほど続いていて、店の数もそれなりにあった。
当然、同じ職種の店もたくさんあり、競合すると思いきや、二十年前は相乗効果で集客があったようだ。
しかし、新興住宅地の近くに郊外型の大型スーパーができたことにより、商店街は大きな打撃を受けた。商店街の奥にスーパーがあったが、二十年前までは共存共栄の精神でうまくできていたのに、郊外型店舗ができたおかげで、最初に打撃を受けたのが、商店街の奥のスーパーだった。
軒を連ねる店舗は、その煽りを受け、零細企業としては、店を閉めるしかなかった。昼間でもシャッターが開いているところはどんどん少なくなり、アーケードに人の姿がたくさん見られるのは、商店街が開店前の通期ラッシュというのだから、実に皮肉なものである。
昼の街も悲惨だったが、夜の街もさらに悲惨だった。
日が暮れて、店舗のシャッターが閉まり始めると、今度は怪しいネオンが、暗闇の街を彩るようになる。
スナックやバーなどの飲み屋街に、その奥にはさらなる怪しげなネオンに照らされたキャバクラや、風俗の店が点在していた。仕事帰りのサラリーマンや、大学生などが通ってきていた。最初は怪しげなネオンに惑わされたいようにしていたが、一度嵌ってしまうと抜けられなくなったという人の話も聞いたことがあった人は、なるべく、夜に怪しげな路地に入らないようにしていた。
そんな夜の街も今ではほとんどのお店が店を閉じていた。
できる時は、一気に店が増えていたり、昨日まで違うお店だったのが、いつの間にか変わっていたりするのが当たり前のところだった。
しかし、なくなる時は早いもので、
「まるで夜逃げ」
と思わせるほどであり、
「蜘蛛の子を散らすように、人もいなくなってしまったな」
と感じた。
もっとも、街で廃れたのは、商店街に軒を連ねる店が先で、夜の街には影響がなかった。しかし、風営法と呼ばれる法律が厳しくなり、なかなか店舗を出す許可が出なかったり、警察の検挙も重なったりで、徐々に廃れていった。
それでも、細々とやっている店も多かったが、決定的な打撃になったのは、さびれる少し前、この街や都心を含むこの都市に、オリンピック招致の話が出てからだった
オリンピック招致には、健全ないエージが必要だとして、徹底的に風俗撲滅の機運が高まり、警察の検挙や、今までは大目に見てもらっていたことも、すべて違法だとして検査が厳しくなったことで、客は遠のいていき、店も警察に睨まれたまま商売が成り立たなくなってしまった。
あっという間に百軒以上あった店のほとんどが潰れ、風俗のあった路地にはゴミだけが残された。
「こんな理不尽なことって」
と、オーナーや従業員は感じたことだろう。
オリンピック招致の話も、結局は全国から名乗りを上げた候補地との予選に敗北し警察の嫌がらせを受け、店を畳むことになってしまったのか、まったくの無駄ではなかったか。路地の惨状を見れば、その悔しさを忘れることはないだろう。そんな商店街の歴史をずっと見てきた喫茶店が、商店街の外れにあった。
昔からある喫茶店なので、昭和の香りを醸し出す。アンティークな雰囲気のお店だった。
元々はランチに立ち寄っていた。入社して三年目での事務所移転だったが、普段立ち寄ったこともなかったこの一帯は、まったく知らなかった。
最初の頃の昼食は、商店街にある惣菜屋から出来合いのものを買ってきて、事務所で食べたり、近くの公園で食べたりしていた。そんな時はいつも一人で、昼休みの一時間を持て余していたのだ。
そんな時、先輩社員から誘われて立ち寄ったのがこの喫茶店。
「おい、橋爪君。今日は昼めし付き合ってくれ」
と言われて初めて来てみたが、もう少し行けば住宅街に入りそうな場所で、
「こんなところに喫茶店なんてあるんですね?」
と言ったのを覚えている。
その頃あたりというと、喫茶店というよりも、パン屋さんが設けている喫茶コーナーのようなところか、ハンバーガーやドーナツ屋さんのようなお店に立ち寄る人が多かったので、昔ながらの喫茶店は、なくなりかけていた時期でもあった。
確かに、商店街のような場所の奥に喫茶店があるというのは不思議ではないが、商店街から外れて、その先には住宅地になっている場所に、一軒の喫茶店があるなど、なかなか気が付かない。表に置いてある看板がなければ、思わずスルーしてしまうかも知れない。店の前に駐車場があるわけではなく、商店街共通の駐車場の一角を借りている形になっていた。
表は、普通の建物だった。
とはいえ、少なくなってきた喫茶店なので、まわりの雰囲気に馴染んでいるように見えるのも、どこか不思議な感じもした。隣にはビジネスホテルがあるが、あまり宿泊客もいないようだった。
そんな場所に位置している喫茶店だが、ランチタイムはそれなりに集客があった。十二時十五分を過ぎてから行くと、すでにカウンター席も空いていないほどの賑わいで、カウンター内での従業員は忙しそうに振舞っている。
この店はコーヒーにはこだわりがあるようで、サイフォンセットもいくつか置かれている。たまにコーヒー豆だけを買いに来る客もいるらしく、先輩もたまにコーヒー豆を買っていくと話していた。
初めて店に入った時も、テーブル席は満席で、カウンターも半分は埋まっていた。
店内を物珍しそうに見渡す橋爪を見ながら、先輩はニコニコしていた。そして、ママさんに、
「こいつ、僕の後輩で橋爪君というんだけど、今後ともよろしくお願いします」
と紹介してくれた。
ママさんは、白髪が混じっていそうなパーマ頭の小柄な女性で、この店をずっと守ってきたおいうイメージがすぐに湧くほど、落ち着きが感じられた。
「ええ、こちらこそよろしくね」
この店のランチタイムは、ほとんどが日替わりランチの注文だった。
他にもメニューはあるにはあるが、ランチが破格と思えるほど低価格だった。他のメニューは別に高いわけではないのだが、ランチタイムに見ると高価に見えるほど、価格に差があったのだ。
――これだったら、惣菜屋で買ってきたものを食べるようなことをしなくても、最初からここに来ればよかった――
と思った。
ランチタイムに来ている人はほとんどがサラリーマンである。この辺りは商店街はあるが、その奥が住宅街になっているので、なかなか一般企業の事務所があるような場所ではなかった。
橋爪も最初ここに事務所が移転した時、
――どうしてこんなところに事務所を移すんだ?
と思ったほどだった。
理由としては、彼の所属する部署に必要な大型コンピューターが今までいた事務所には入り切れないということで、複数の部署で移転してきた、開発チームが最優先だったが、彼の所属する管理部も、コンピュータ関係の開発チームとは切っても切り離せない関係にあったので、その影響でこの街に移転してきたのだ。
都心部からは電車で少し掛かるところになるので、不便にはなった。しかし、都心部の事務所だらけの場所に比べればのんびりしていて、今までのように、昼食に出るのにも、即行で行かないと、席が空いていないという憂き目に遭うことも多く、一か所がいっぱいなら、他を探すのは絶望で、そんな時はさっさとコンビニなどでパンなどを買い込み、事務所に戻って、自分の席で食べるという、寂しい食事になってしまう。
それが嫌なので、昼休みになれば即行なのだが、うまく入れたとしても、どこか満足する気分にはなれない。どちらにしても、虚しさが募るばかりだった。
それがサラリーマンの宿命だとすれば、何とも情けないものだ。仕事がなかなかはかどらない時などは、精神的に参ってしまうことも少なくはなかった。
昼休みのランチタイムを毎日過ごすようになると、いつの間にか常連の仲間入りになっていた。元々の先輩は、完全に店に馴染んでいて、こういちはそれに倣っているだけだった。
――常連になったとはいえ、先輩を立てないとな――
と感じていた。
正直言うと、ランチはさほどおいしいと思うものでなかった。毎日日替わりなので、飽きがこない分ありがたかったが、たまには他に行ってみたいと思うこともあった。
実際に、毎日ということはなくなり、週に二回ほどは、他の店に行くようになったが、何と言っても金額的には毎日この店に来ている方がありがたく、また毎日寄るようになった。
店の名前は喫茶「イリュージョン」、昔ながらの純喫茶のわりに洒落た名前が気に入っていた。
この街に事務所が移転してから二か月ほどでイリュージョンに来るようになり、すでに常連になっていた先輩に倣った形でくっついてきたこういちだったが、秋口になって異動の時期になってくると、先輩に異動の辞令が下りた。
引っ越すほどの遠いところではないが、営業所の方で営業の欠員が出たということでの補充要因となった。元々先輩は入社当時、営業所で営業をしていた。人懐っこくて、すぐに人に馴染むところは、営業職が板についていたからなのかも知れない。そういう意味では移転してきて二か月ほどで、完全にイリュージョンの常連になっていたのが、その証拠であろう。
異動が決まってからの先輩は、引継ぎなどに忙しい日々を送っていて、イリュージョンでは、
「異動になったんですってね。になったんですってね。大変ですね」
と、ママさんや他の常連さんが名残惜しそうに話してくれたが、当の本人は、
「ええ、せっかく皆さんと仲良くなれたのに残念です」
と、今まではため口だったのに、完全に恐縮している。
――営業というのは、こんな感じなんだろうか?
こういちは、簿記の資格などは持っていて、最初から管理部のような仕事を希望していたので、営業という意識はほとんどなかった。先輩が営業職から管理部へ異動になった時は、
――営業からの異動があるということは、僕が営業に行くこともあるのかな?
と、少し不安に思い、先輩に聞いてみたが、
「過去に営業から管理部への異動は多かったんだが、管理部から営業というのは、前例はないよ」
と言われ、少し安心した気分になった。
「そうですか」
とホッとしたような様子を見せると、
「君は正直だね。もっとも、そんなにすぐに考えていることを顔に出していたようでは、営業としては通用しないだろうね」
と言われたことで、複雑な気分にさせられた。
だが、今回の異動はかなり急だった。
「本当に人がいないということでの異動なので、他の人の都合がつくまでの補充なんだろうね。しかも、あの営業所には、以前少しだったけど、いたことがあったんだ」
「そういうことでの異動なんですね。また一緒にお仕事ができるようになれれば嬉しいです」
と言って、先輩を送り出した。
結局先輩は半年ほど営業所で営業をこなして、春になると新入社員の補充があり、彼を育てるために、そこから半年、ある程度のノウハウを叩きこんだ後で、やっと営業から解放されたのか、先輩はちょうど一年後に、管理部に復帰してきた。
その間の一年間は、結構短かったような気がする。
一緒に行っていた人がいなくなったことで、イリュージョンに行くのを躊躇ったが、他に行きたいと思うところもなく、激安ランチに惹かれていたこともあり、それまで同様、ランチに行くことに決めた。それが、常連になる第一歩だったのだが、元々常連と言われるような店を作りたいと思っていたこともあって、店から離れることはなくなった。
今までは、
「先輩に倣って」
という意識が強かったこともあって、自分が目立つということはなかったが、先輩が異動になったこともあって、タガが外れたような気がした。
最初はランチタイムだけだったが、次第に仕事が終わってからの夕方に立ち寄ることも多くなった。普段のランチタイムしか知らないこういちだったが、店に入ると最初に感じたのは、
――こんなお店だったっけ?
という思いだった。
まず、空気が違った。
風もないのに、空気が流れる音が聞こえた気がする。そう思うと次に感じたのが、
――こんなに広いお店だったんだ――
という思いだった。
静かすぎる店内には、クラシックが流れていた。
――そういえば、ランチタイムは何が流れていたっけ?
って、思い出そうとしないと思い出せないほど、店の雰囲気が違っていた。
ランチタイムは当時のヒット曲が流れていた。音響はなるべく静かで、人の話し声で、BGMが掻き消されているようだった。だから、何が流れていたのかというのをすぐに思い出すこともできないほどだったのは、印象に残っていなかったからだ。
こういちの会社は、薬品の製造会社だった。全国的にはそれほど有名ではないが、地域の薬品会社としては大手だった。こういちも管理部の仕事とはいえ、薬品の知識はそこそこあった。先輩が戻ってきてから聞いた話だったが、
「ここだけの話だけどな。さすがに営業所で営業の仕事は、もう嫌だよ。特に俺の場合は、補充が来るまでの繋ぎ要因だったからな。真剣にもなれないし、薬品会社の営業は、やったことがない人には分からないところがたくさんあって、簡単なものではないんだ」
「ストレスもたまりそうですね」
「ああ、そのストレスが問題なのさ。だから、もう俺は営業はしたくないな」
と言っていたのが印象的だった。
こういちがイリュージョンの昼間の時間と夕方の時間帯での一番違うと感じたのは、
――夕方には、薬品の匂いがするんだ――
というものだった。
それがどんな薬品なのか分からないが、微妙な匂いの違いを感じることができた。ただ嫌な匂いというわけではなく、それだけに、
――気づかない人には気づかないだろう――
と思わせた。
店の中に入ると、
「あら、珍しいわね」
と言って、ママさんが声を掛けてくれた。
カウンターにはもう一人女の子がいたが、彼女とは初対面だった。ランチタイムの女の子はすでに帰っていて、夕方には違う女の子が入るのだと分かった。
ランチタイムに入っている女の子は主婦だと言っていたが、なるほど、夕方までには上がることで、買い物や家事を普通にこなせるということだろう。夕方の女の子は見るからにのんびりしていて、客の少ない時間にふさわしい雰囲気に感じられた。
夕方に初めてきたのは、先輩が異動になって一週間ほどが経ってからだった。その日仕事は残業なしで終わり、電車に乗ろうとすると、満員電車が待っているのは分かっていた。それでも満員電車に乗るつもりで会社を出たのだが、表は思ったよりも、暑さは残っていた。
――残暑にしても、日差しがきついな――
西日がまともに、駅まで歩いていると、目に突き刺さってきた。
日差しの強さで一気に身体に気だるさを感じると、このまま帰ってしまうのが億劫な気がした。
――そうだ、イリュージョンに行ってみるか――
ママさんが驚くだろうなという思いを抱き、歩いていると、西日に照らされたイリュージョンが見えてきた。
中に入ると、まるで違う場所に感じられたのは、先ほど記した通りである。
その時に客は一人だけで、カウンターに座って、コーヒーを飲んでいた。
その人は見たことのない人で、常連だということは分かったが、こういちが入ってきたのを気にすることもなく、振り返ることもなかった。年齢的には三十歳ちょっとくらいだろうか。カジュアルな服装は、サラリーマンとは思えなかった。
ママさんがその人のことを紹介してくれた。
「この人は、商店街の中にあるブティックの店長で、山田さん」
と言われて、
「よろしくお願いします」
と紹介されたことで、こういちも挨拶をした。
「山田さん、こちらはランチタイムでいつも来てくださっている橋爪さん、この近くの事務所に勤務されているサラリーマンさんです」
と、こういちのことも紹介してくれたので、山田さんは
「どうも」
と、簡潔に挨拶してくれた。
人見知りするタイプの人なのか、一人で本を読んでいる時点で、内に籠るタイプではないかと思えた。しかし、それは最初だけで、慣れてくると、饒舌になってきたことで、こういちも山田さんに関心を持ったのだ。
山田さんが最初ぎこちなかったのは、サラリーマンというものに対して違和感があったからだ。
山田さんのブティックは、元々親が洋服屋を営んでいたことから受け継いだ店で、学生時代から将来は店の主人だと思って、それだけの勉強しかしてこなかったことで、違和感があったのだ。
「僕は、一度ランチタイムに来たことがあったんだけど、もう二度ときたくないと思ったよ」
「どうしてですか?」
「まず、話し声がうるさかった。皆自分たちの話を勝手に繰り広げるので、いろいろな会話が交錯していて、何を言っているか分からないところが、耳障りだよね。しかも、まわりの声に負けないようにしないといけないと思うのか、どんどん声が大きくなるような気がする。これには静かな雰囲気が好きな人間には、煩わしい他にはないよね」
「なるほど、確かにそうですよね。サラリーマンは仕事の話以外にも会社を離れると、愚痴をこぼす人もいるので、会話が聞こえてくると、聞きたくないと思うこともあったりします。そんな時は、その話だけ聞こえないようになれればいいって思うこともありましたよ」
「だったら、最初からうるさいのを避ければいいんですよね」
「僕の場合は、会社の人と一緒に食事に来るということはないので、ランチタイムでも、カウンターの中の女の子と話をするくらいですね。でも確かにうるさい連中もいるけど、一人で来ている人は雑誌や新聞を読みながら、集中している人が多いですね。たまに顔をしかめている人もいるんだけど、そんな人はきっと騒音にウンザリ来ている証拠なんでしょうね」
「橋爪さんは、静かな方が好きですか?」
「ええ、もちろん静かに越したことはないと思っています」
「じゃあ、僕と同じですね。でも、ずっと静かなところにいると、たまに気心知れた人と話してみたいと思うこともあります。橋爪さんに、僕にとっての、そんな『気心知れた人』になってくれると嬉しく思いますよ」
喫茶「イリュージョン」で一番最初に仲良くなったのが、山田さんだった。
山田さんは、毎日二回、イリュージョンに来ていると言っていた。最初はブティックの開店前の三十分くらい、その間にモーニングサービスで朝食を摂っているという。その時間帯が一番常連さんが集まる時間のようで、商店街の店主仲間が集まっているようだ情報交換する大切な時間でもあり、ママさんにとっても、気になる会話となっていた。
「昔はよかったのに」
という悲観的な表情をする人もいるのは仕方がないが、なるべく朝の時間ではそんな雰囲気を出さないようにしていた。
この頃は全盛期に比べて、少し翳りが見えてきたようだが、それでもまだまだ活気があった。
少なくとも、商店街には昼間シャッターが下りている店は、それほど多くもなかった。確かに店舗の入れ替わりが激しいところはあったが、それでもどこかが立ち退くと、すぐに他の店舗が入ってくる。街の活気という意味では、まだまだ十分だった。
ただ、それもその後の没落を見ているから、後になって思い出すからそう感じるのであって、当時の店主たちが皆抱えている言い知れぬ不安は、そう簡単に拭い去れるものではなかった。
朝のイリュージョンに立ち寄ることは、仕事の関係で無理だったが、雰囲気だけは、ママさん山田さんから教えてもらっていた。
「朝にはあまり来ない方がいいかも知れないね」
と、山田さんから聞かされた。
「どうしてですか?」
「サラリーマンがいると、お互いに変な気を遣うんだよ。たまに朝サラリーマンが来ることがあるけど、その人は二度と来ることはない。中には足を踏み入れて中を見ただけで、踵を返す人もいるくらいだ。それほど、朝のここは異様な雰囲気なのかも知れないね。俺たちは当事者なので、よくは分からないけど」
という話だった。
こういちは、小学生の頃、
――家が店だったらよかったのに――
と思ったことがあった。
小学生の頃、一番仲のよかった友達は、近所の商店街で文房具店の息子だった。
アーケードのある商店街だったが、この街の商店街とは少し趣きが違っていた。子供の頃に住んでいた街の商店街は、道も狭く、人がすれ違うのがやっとだった。
「商店街というよりも、市場という雰囲気だ」
と言えるだろう。
この街の商店街に来てビックリしたのは、通路が広いことで、朝の開店時から、昼過ぎくらいまで、出店のようにワゴンを前に出して売ったりできることだった。お弁当や惣菜も、店に入ることなく気軽に買えた。それが新鮮でありがたかったのだ。
小学生の頃の市場では、通路がそのまま入り口に繋がっているので、中がよく見えた。店の奥に上り口があり、障子を開けると、居間が見えそうだったのだ。
今だったら、表から覗かれるのは嫌だが、子供の頃は、覗かれるのが自分の部屋でなければ、店舗と家が繋がっているという利便性を自慢できるような気がしていたのだ。
友達の家に行くのでも、本当なら裏に回って、勝手口から入るのが本当なのだろうが、友達は気にせず、店舗側から、堂々と中に入る。
親もそれを戒める様子はない。その様子が、余計に羨ましく見させるのだった。
「お前の家はいいよな、すぐ目の前でいろいろ揃うんだからな」
アーケードが一つの集落のようで、そのうちの一つを自分の家が形成していると考えると、仲間意識が高まってくるだろう。サラリーマンは一戸建てを目指して、まずはアパートから始まるが、どんどんまわりから孤立していくようで、寂しさが感じられた。
今だったら、大人の世界の煩わしさを知っているから、家くらいは自分の城のように思いたいと感じるのも無理もないことだ。
そういう意味で、市場や商店街というのは好きだった。そのうちにコンビニエンスストアーなるものが現れて、店が閉まっている時間でも、必要最低限のものなら揃うという時代に入った。
――年から年中、休みなし――
そんな触れ込みだった。
確かに正月など、年始は五日か六日くらいまで、店がお休みというのは当たり前だった。今でこそ、正月朝から百貨店が開いている時代、あの頃には、信じられないことだっただろう。
そのうちに大手スーパーチェーンが、郊外型の大型スーパーを作るようになって、昔からある商店街は大打撃だった。
二十年前も、ちょうどそんな時期だった。
街の活性化どころか、チェーン店を展開していた店は、どんどん撤退していく。撤退すればすぐに他の業種の店が入ってきていたものが、どこも入ってこなくなる。昼間になってもシャッターは閉じたまま、少しずつシャッターが閉まっている店が増えてくると、ほとんどの店がシャッターを閉めるようになるまで、そんなに時間は掛からなかった。
そのうちに夜の店が路地裏のビルの一角に看板を出すようになる。怪しげなネオンサインは男の理性を狂わせた。
次第にインターネットなどの検索で、このあたりが夜の街として生まれ変わったと宣伝されると、夜はそれなりに活性化されていた。商店街とすれば苦肉の策だったのだろうが、客が寄ってくるのはありがたかった。
それでも、昼の街には閑古鳥が鳴いていて、どんどんシャッターを開ける店が少なくなった。
それまで、アーケード内だけで、一つの街を形成できるほど、何でも揃ったのに、今では何も揃わない。同じ系列の店が、二つも三つもあって、ライバルとして凌ぎを削っていたのは、
「今は昔」
であった。
こういちが、イリュージョンの常連になった頃というのは、商店街の昼間の店舗のシャッターが少しずつ開かなくなり掛かっていた頃だった。
それ以前から、商店主たちは、将来を危惧して、イリュージョンで毎日、善後策を考えていたようだが、いいアイデアがそう簡単に生まれるはずもなく、時間だけがいたずらに過ぎていく。
「どうにも困ったものだ」
誰もが口にしたいと思っていただろう。一人が口にすると、皆頷いて、そしてため息をつくしかなかったのだ。
街が変わっていく姿は、小学生の頃から目の当たりにしてきたが、気持ちの中ではほとんど変化はなかった。
――便利になるんだな――
と漠然と感じる程度で、便利になる代わりに、店に置いてあるものが本当にほしいものだと限らないことが分かると、
――どっちでもいいな――
と思うようになってきた。
コンビニエンスストアと言っても、スーパーなどよりも本当に小さく、陳列棚もものすごく狭い。子供が見るコーナーとすれば、お菓子コーナーくらいのものだが、自分の好きなものが置いてあった試しはない。
そのうちに、
「コンビニエンスストアというのは、いつも開いていて便利なんだけど、売れ筋を見極めて、それ以外のものは置かないようにしている」
という話を聞くと、
「ただ、開いているという便利さだけじゃん」
と思うようになっていた。
主婦層にしても、今まで買い物をしているスーパーや市場での方が、品揃えがいいらしく、コンビニで買い物をすることはない。今までと変わらない生活だった。
しかし、コンビニが潰れることはなかった。
売れない店舗は早々に撤退し、売れそうな場所をリサーチして新しい店舗を作る。そうやってコンビニ業界は、流通業に大きく進出してくるのだ。
しかも不思議なことに、あれだけコンビニで買い物などすることはないと思っていたのに、気が付けば、コンビニで買い物しない日はなくなっていた。
朝ジュースを買ったり、パンを買ったり、大学生の頃は特にそうだった。
大学生というのは夜更かしである。田舎から出てきて一人暮らしをしている友達の部屋に泊り込んで、夜通し話をすることなどしょっちゅうだった。当時はまだ存在していた「銭湯」に行った帰りなど、コンビニでビールを買って呑んだりするのが楽しみだった、
「数年前までは、ビールは自動販売機にしか売っていなかったのに、今はコンビニがあるから、一緒につまみも買えるんだ。今日みたいに二人で銭湯に行った帰りに歩きながらビールを呑もうなんて、もしコンビニがなかったが、考えることもなかっただろうな」
と言っていた。
部屋に帰れば、ビールのストックはある。おつまみもそれなりにあるというのだが、風呂上り、夜風に当たりながら呑むビールは、また格別だった。星空を眺めながら呑むビール、会話も弾むというものだ。
「これこそ、大学生活の醍醐味だよね」
「もっともだ」
そう言って、笑顔で話したものだった。
その時、二人で見た夜空は、いつになく星が綺麗だった。
「どうして、今日は星があんなに綺麗なんだろうな」
というと、友達は、
「うん、こんなに星の数が多いのは見たことがない。まるで田舎に帰ったようだ」
と言っていた。
――そうか、星の数が多いんだ――
友達は、自分が答えてほしいことを答えたわけではないのに、その一言で十分だった。都会の空でも、タイミングによって綺麗な空を見ることができるのか、それとも、その日が特別な日で、綺麗な空を見せてくれたのか、そのどちらでもあるような気がしてきた。
公園に立ち寄って、二人でブランコに揺られた。
「まるで子供の頃のようだ」
「そうだな。子供の頃だったら、これくらいの星が見えることもあったかも知れないな」
子供の頃、こんな夜中に歩き回ることなどなかったので、もちろん見たわけではない。そうあってほしいという願望が口に出ただけのことだった。
「まるで空に無数の鏡を置いたみたいだ」
友達は、不思議なことを言いだした。
「普段より二倍の星の数だったら、星の横に鏡があって、隣の星を鏡に写しだしているような気がしてね。片方は本物の星なんだけど、片方は鏡に写った偽物……。ひょっとすると、君が見えている僕は、鏡に写っている僕の方なのかも知れないよ」
「そんなことはないだろう。それなら二人見えているはずだろう?」
「いやいや、鏡が見えないということは、本物の僕も見えないということさ。ただそれは視覚だけに実現できることで、実際にはありえないことなんだろうけどね。君がいうのは、可能性がゼロということだろう? 僕がいうのは、実際にありえないことであっても、本当に可能性がゼロなのかどうか、考えてみるのも楽しいかも知れないということなんだ」
と、かなり理屈っぽい話だが、どこか無視できないと思う自分がいたりした。
「実際にありえないと思うようなことでも、可能性がゼロではないという発想は、なかなか面白いね」
「理屈っぽいと思われるかも知れないけど、そういう発想から、文明というのは生まれたのかも知れないね」
「そうだね」
その日、もっといろいろなことを話して、発展性のあるものもあっただろうが、後になって思い出すことというのは、これだけだった。しかし、それは思い出そうとして思い出すことであって、ふとしたことから思い出すことがあるとすれば、今は思い出せないその時の話だったりする。しかし、何かのきっかけで思い出した記憶であっても、すぐにまた記憶の奥に封印されてしまう。また、ふとしたことで思い出すこともあるかも知れないが、二度と思い出すことはないかも知れない。それだけ記憶の奥に封印されている意識は、相当数なのだろう。
こういちが、イリュージョンの常連となって、夕方も顔を出すようになってから、夕方のアルバイトの女の子と話をすることが多くなった。夕方の常連さんもいるにはいるが、毎日というわけではない。山田さんも朝は毎日のようだが、夕方の出勤率は、半々くらいであろうか。
こういちは、夕方の常連になってしまうと、日課になってしまった。もちろん、残業のある時は来れない時もあったが、それも稀であり、普段は残業しても一時間程度、十分イリュージョンの閉店時間までには間に合っていた。
夕飯もイリュージョンで済ませるようになった。
こういちのお気に入りは、ナポリタンスパゲティであった。普段はあまりケチャップは好きではないが、ナポリタンだけは昔から好きだった。たまねぎと、ベーコンやソーセージなどとのコンビネーションが気に入っていた。
夕方のアルバイトの女の子は、名前を赤坂典子と言った。近くの短大で国文学を勉強しているということだった。
「国文学って、難しそう」
「高校の頃には、ポエムを書くのが好きだったので、進学するには文学系の大学が短大って思っていたので、ちょうどよかったかも知れません」
「ポエムというとメルヘンチックに聞こえるよね」
「ええ、高校時代自分では、詩を書いているという意識はなくて、ポエムという言葉がピッタリのものを書いていると思っていました」
「どう違うんだろう?」
「私も調べたことはないんですけど、あまり文法や語尾にこだわらないのがポエムなのかなって思っています」
「メルヘンチックというのとは違うのかな?」
「詩でも、ポエムでも、主題には変わりはないと思うんですよ。思いついたことを短い文章にまとめる。それが詩でありポエムですよね。主題にしても、目の前に見える光景を描いてみたり、心の中に思い描いている光景を描いてみたり、心の葛藤もありですよね」
「もし、僕が書くとすれば、詩になるかも知れないですね。僕が短い文章にしようとすると、どうしても文字数を意識したり、語尾を意識するかも知れない。短い文章というのはリズムがあるから生きるんだって思うんですよ。メルディはなくても、リズムがあることで生きてくるという思いから、ポエムというよりも、詩を書くことになると思っています」
「なるほど、その考えももっともだと思います。私も文字数を意識していないとはいえ、書いているうちに、リズムに乗っているのに気づくんです。そういう意味では、最初から文字数や語尾を意識して書いているのが詩であり、意識なく書き始めて、最終的にリズムに乗ったものに出来上がったものがポエムだという考えも成り立つんじゃないでしょうか?」
「僕は、中学時代に、少しだけ俳句に興味を持って、勉強したことがあったんですよ。俳句についての本を少しだけ読んで、自分でも作ってみた。すぐにやめてしまったけど、その時の印象だけは残っているようで、リズムという感覚は、その時から持っていたんですよ」
「書き始める意識と、出来上がった時の気持ちには、詩もポエムも違いはないんだけど、その過程において違っている。それが詩とポエムという言葉の違いなんでしょうかね?」
「何とも言えませんね。皆が思っているように、メルヘンチックなものがポエムの定義なのかも知れませんからね」
「世の中には似ているモノって結構あるんでしょうね。いろいろな意味で」
「鏡に写った自分を見たことがありますか?」
「ええ、私はこれでも女性ですから、鏡はよく見ますよ」
「等身大の自分を写してみることは?」
「あまりないかも知れないですね。洋服を買いに行った時に、試着室で見たりするくらいですね」
「そうですよね。僕は時々鏡を見ていると、急に自分と違うリアクションをする自分がそこにいるんじゃないかって思うことがあったんです。小学生の頃に最初に感じていましたけど、大人になるにつれて、そんな考えは子供だけのものだって思うようになると、考えることはなくなりました。でも、最近になってまた鏡の中の自分が別の表情をするんじゃないかって思うことがあるんですよ」
「ひょっとして、一度そんな経験をされたんじゃありませんか?」
「ええ、錯覚だって思っているんですが、その頃から急に子供の頃の記憶がよみがえってきて、鏡を見るのが怖いくせに、見てしまう自分を感じるんです」
「その経験とは、どういうものだったんですか?」
「ハッキリとは覚えていないんですが、真面目な顔で鏡を見たはずなのに、鏡の中の自分が、一瞬ニヤッと笑ったんです。微妙だったので、もし、他の人が見ていたとしても、気づかないと思います。一瞬だったし、錯覚だと思えば、そう思えないわけでもない。でも、時間が経てば経つほど、その時の笑った自分の顔が瞼の裏にしみついて離れなかったんです」
「今もですか?」
「今はだいぶ、薄れてきています。最初は、このまま消えることはないとまで思ったほどだったんですが、少しでも薄れてくると、今度は、これでもう意識から消えてくれるという根拠のない確信めいたものが浮かんできたんですよ」
「それで実際に薄れてきている?」
「そうですね。いずれ消えるという思いはどんどん強くなってきています。今までが悪夢だったんだって思っていますよ」
「悪夢……、そうですね、悪夢ですよね」
「そうですね」
典子は、少し困惑したような表情をした。
「でも、悪夢だと思わない方がいいかも知れませんよ」
「どういうことですか?」
「それは、閉鎖的な自分の気持ちが見せた幻なのかも知れないですよ。人が鏡を見る時というのは、いろいろなパターンがあると思うんですが、何か悩みがあったり迷っていることがあったりした時、今自分がどんな顔をしているのかって気になるものですよね。そんな時の自分は、無意識に、無表情になるんじゃないかって思うんです。気にはなっているけど、表情を見ると、自分が何を考えているのかが分かってしまう。それが怖いと思うんですよ。だから、無表情を装う。そんな時、鏡の中の自分が本当の自分の心を写してくれるんじゃないかっていう思いを抱く自分もいる。そのために、実際に見たわけではない別の表情を鏡の中に感じてしまったというのが真実なのかも知れませんね」
「確かにそうですね。それだと悪夢でも何でもなくて、悪夢にしてしまっているのは自分だということになりますね。引き合いに出された悪夢もたまったものではないですね」
そう言って苦笑いをした。
「あくまでも考え方なんですよ。悪夢だと思えば悪夢になる。でも、それ以外にも考え方はたくさんある。いろいろな人に意見を聴くのも一つかも知れないけど、相手は選ばなければいけないということもあって、それも難しいですよね」
「ええ、でも、今日はこうやってお話ができて、今まで引っかかっていた気持ちの中のわだかまりが一つ消えたことは嬉しく思いますよ」
「ポエムと詩の違いにしても同じことだと思うんですよ。言葉が違っているんだから、それなりにどこかに違いはあるんだと誰もが思う。そして、いろいろな解釈が生まれ、ひょっとすると俗説が真説なのかも知れないですよね」
「そういう意味では、真実が事実ではないとも言えますね」
「逆じゃないですか? 事実が真実ではないという考えですね。事実というのは、曲げることのできないものであり、真実も曲げることのできないものではあるんだけど、事実と異なっている場合があってもいいんじゃないかって思うんですよ。真実の中に、事実が含まれているという考えですね」
典子の考えはもっともだった。
しかし、こういちは別の考えを持っていた。
「僕は逆も真なりだと思うんですよ」
「どういうことですか?」
「確かに真実は曲げることのできないものなのかも知れないけど、事実がすべてなんでしょうか?」
「どういう意味ですか?」
「SFの世界では、『パラレルワールド』という考え方があります。次の瞬間には無限の可能性が広がっていて、その中の一つを進んでいるのが今のこの世界なんだってね。つまり次元の違いというか、別の次元では、まったく同じ人が違った選択をしたことで違う世界が広がっているというものですね。そうなると、事実と呼ばれるものは一つではなくなる」
「それは、また突飛すぎる発想ですね。私も『パラレルワールド』の発想は知っていますけど、あくまでも架空であって、それぞれの世界では、「事実は一つ」なんだって思っています」
「僕はどうしても『パラレルワールド』を無視できないので、事実が複数あった場合に、真実はどこにあるのかなって考えたんですよ。そうなると、事実が真実ではないという考え方もありなのかなって考えるようになりました」
「お話を聞いていると、『パラレルワールド』で一度別れた事実が、またどこかで交わるということを言いたいのかなって感じましたが、どうですか?」
「確かにそれも発想の一つですね。ただし、砂漠で砂金を見つけるようなものですけどね」
「でも、事実が真実ではないという発想も、同じくらいのものでないかと……」
「まさしくその通りです。実は僕が言いたかったのは、そのことなんですよ。いかに限りなくゼロに近い確率のものであっても、ゼロではない。何しろ可能性というのは、無限にあるからですね」
「その通りですね。やっと意見が一致した気がします。これだって、一度別れた『パラレルワールド』がどこかで一緒になったようなものかも知れませんね」
「ははは、そういうことです。それこそ最初の出発点が同じで、最後は同じ。だけど、その過程が違っているという詩とポエムの違いだと言えるんじゃないでしょうか?」
「結局、今日はどんなお話をしても、最後にはここに戻ってくるんですよ」
「堂々巡りを繰り返しているということですかね?」
「堂々巡りを繰り返しているとすれば、どちらかだと思いますね。どちらかは、一気に結論に近づいて、そこからまるで時間調節をしているように、最終結論を導き出す前で同じ考えを繰り返す。それが堂々巡りという言葉の真の意味なのかも知れません」
「私も何か目からうろこが落ちたような気がします」
その日は、これ以上会話が弾んでしまっては、無限に時間が必要な気がして、キリのいいところで切り上げた。
話をしながらの食事だったが、気が付けばちょうど食べ終わっていた。
「これも、うまく辻褄を合わせたものですね」
「そうですね。辻褄を合わせるという発想は、結構心理学では重要だったりするんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ、たとえばデジャブというのは、自分の記憶にあるものに信憑性を与えようとして、目の前の光景で辻褄を合わせようとして、前に見たことがあるような気がするという思いにさせていると言いますからね」
「でも、まだ根拠はないんでしょう?」
「ええ、解明はされていませんが、理屈としては納得できるものだと思うんですよ。僕はその意見を信じていますけどね」
「私も実は信じています。橋爪さんは、心理学にも興味がおありなんですか?」
「心理学というよりも、何か不可思議な現象や、SFチックだったり、都市伝説のようなものに興味を持ったことはありました。さっきの『パラレルワールド』の発想なんかもその一つですね」
「私も、高校の時に、そういう本を読んだりしたこともありました。もっとも心理学の本は難しすぎるので、簡単な解説の本を読みました。でも、それは筆者の個人的な意見が結構入り込んでいたので、今でもその人の意見が私の頭の中にあったりします。一歩間違えれば、プロパガンダみたいになりかねないですよね」
と言って笑っていた。
「どこかのカルト宗教団体などだったら、プロパガンダになりそうですね。下手をすれば、洗脳なんてことになるかも知れませんからね」
そんな話をしていると、またしても時間が経過していて、
「そろそろ、閉店時間ね」
と、ママさんが奥から出てきた。
時計を見ると、午後八時を過ぎていた。この店の営業時間は、午後八時までだった。
「長居してしまいましたね。典子ちゃん、続きはまたしようね」
と言って、会計を澄まし、表に出ると、すっかりあたりは真っ暗だった。
この辺りは住宅地と商店街の間にあって、街灯もまばらだったので、想像以上に暗く感じられた。
実際にこのお話が進展するのは、ここからで、実際には次の日からのことだった。これまでのお話はプロローグに過ぎず、そのわりに難しい話もございましたが、どうぞ、ご容赦のほど、よろしくお願いいたします。
翌日の目覚めは、さほど良いモノとはいかなかった。前の日、夜更かししたわけでもなく、喫茶「イリュージョン」を出て、そのまま帰宅した。帰宅時間は午後十時にもなっていなかったので、最近としては遅い時間ではあったが、決して翌日に疲れを残すほど遅い帰宅時間ではなかったはずだ。
顔を洗っても、目が覚める気配はなかった。目が開かないのだ。こんなことは珍しく、目が覚めてから五分以上、ボーっとしていることはあっても、目が開かないほどのきつさを味わったことはほとんどなかった。
だからと言って、睡魔がひどいわけではない。目が開かないという意識が強いせいで、むしろ睡魔に関しては、さほど意識があるわけではない。感覚がマヒしていると言ってもいいだろう。
――昨日、何か夢を見たような気がする――
どんな夢だったのか覚えていないということは、怖い夢ではなかったのだろう。ただ、夢を見たということだけが意識の中にあるだけで、ハッキリと見たと言い切れない自分もいたのだ。
「典子さんと話し込んでしまったイメージは頭の中に鮮明に残っているのに、内容は漠然としているんだよな」
自分主導の話で、確か三つくらいの主題があったような気がするところまでは覚えているが、どこから三つも話が出てきたのか、ハッキリとはしなかった。
――三つのうちの一つが夢だったのかも知れないな――
そう思うと、何となく分かる気がした。
ただ、急に話を難しくしてしまったことへの反省は残っていて、それでも、最後はうまくまとめたような気がするのは、せめてもの救いだった。
洗面台で何度か顔を洗っていると、さっきまで開かなかった目が開くようになってきた。目の前にある鏡を見ながら、
「そういえば、話の中に、鏡のことも出てきたような気がするな」
目が開いてくると、昨日の話も少しずつ記憶から引き出されてくるような気がした。
しかし、完全に引き出すことはできないと思っている。もし引き出すことができるとすれば、目の前に昨日と同じように、典子がいなければ、無理だと思っている。
「典子さんを目の前にすると、話の続きになるかも知れないな」
と、独り言を言っていた。
鏡に写った自分の姿、本当に無表情だった。
――これが本当の僕の顔なんだ――
と、無表情の顔しか鏡で見たことがなかったことを感じていた。
そして、昨日の話のように、急に鏡の中の自分がニヤッと笑ったりしたら、どれほど恐ろしいかを、鏡を前にすることで改めて感じさせられた。
「自分に似た人は、世の中には三人はいるというけど……」
と、鏡の中の自分に語り掛けたが、もちろん、答えが返ってくるはずもない。
――三人というのは、外国人も含めた三人なんだろうか?
というくだらない考えを抱き、調べたことがあった。
実際には、「世界に」三人であり、日本の中だけに言えることではなかった。
なぜなら、この説を提唱した人が、外国人だからだ。
では、外国人が「世の中」という場合、それは「世界」という言葉に単純に置き換えていいものなのだろうか?
くだらない発想が頭の中を巡っていた。
しかし、こんな発想をずっと続けていれば、果てしない堂々巡りに足を突っ込んでしまうような気がした。まるで底なし沼に入り込み、抜けられなくなる自分を想像してしまう。
――そもそも、底なし沼というのは、本当に存在するのだろうか?
底がないというのだから、水が張っているというのもおかしいことになるのではないか?
そんな発想も結局は果てしない堂々巡りに繋がって行く。考えれば考えるほど、同じ位置に戻ってくることを示唆していることになるのだ。
いろいろ考えているうちに、気が付けば完全に目が覚めていた。一旦目が覚めてしまうと、さっきまで目が開かなかったのがウソのようだ。きっと、今日の目覚めの悪さは明日になれば忘れていて、もし覚えていたとしても、それは遠い過去のことのように感じることになるだろう。
表に出ると、太陽が眩しかった。空が眩しいと分かっているのに、空を見上げてみたり、今日は確かにいつもと違っていた。
家を出る時間はいつもと同じだったが、会社までの道のりでは、いつもに比べて人が少ないように感じたのは気のせいだろうか。道を歩いていて、すれ違う人がほとんどいなかった。よくよく考えてみると、学生の数が全体的に少なかったのだ。
――今日は学校が休みなのかな?
土曜日というわけでも、季節の休暇にはまだ早く、中途半端な時期だった。
とはいえ、まったく見かけないわけではないので、それほど気にすることもないのだろう。
そのおかげなのか、通勤電車は静かだった。
いつもは数人の学生が固まっては、大きな声で話している連中がいた。集まっている学生皆が皆うるさいわけではなく、一部の人間だけがうるさいのだが、その連中がいないだけで、これほど電車の中が静かになるとは、想像もしていなかった。
そういえば、その日の電車は、歩いている時、学生が少ないと思ったのに、電車に乗れば、少ないわけではない。ただ、群れを成している学生が誰もいないのだ。誰もが単独で、それぞれの場所をキープしていて、話す相手もおらず、教科書を見たり、音楽を聴いたりと、静かなのは嬉しいが、少し学生らしからぬ姿に、気持ち悪さすら感じるほどだった。
電車を降りると、いつもの商店街を抜けて、会社へと向かう。駅を出ると一斉に、アーケードを通る人の群れに流されるように歩いた。誰もが無言で、同じスピードだった。
いつも他の人と同じスピードで歩くのが好きではないこういちは、少しスピードを上げて歩いた。
しかし、どうしたことだろう。スピードを上げたはずなのに、まわりの人のスピードは変わっていない。追い抜こうと、目の前の人に必死にすがるように歩いているのに、いくらスピードを上げても、追い抜くどころか、追いつくこともできなかった。
かといって、その背中が少しでも小さくなることはなかった。つまりは、こういちの意志とは別に、相手のスピードはこういちとずっと変わっていないということを示していたのだ。
「どういうことなんだ?」
少し怖くなった。
確かに前には進んでいる。気が付けば自分が感じているよりもかなり先まで来ていた。スピードを上げているのだから、それも当然のことである。結局、相手に追いつくことなく、会社の玄関まで来ていた。
「本当に今日はおかしな一日の始まりだ」
会社に着くことで、一段落し、このおかしな現象が終わりを迎えるのか、それとも、これからもおかしな現象を見ることになるのか、その時はまったく分かっていなかった。
仕事は順調だった。むしろ順調すぎるくらい順調だったのだが、ここまで順調であれば、集中して仕事をしているはずなので、時間があっという間に過ぎてしまうのがいつものことだったのに、その日はなかなか時間が過ぎてくれなかった。昼休みに入った時も、
「やっと昼だ」
と思ったくらいだったが、なかなか時間が過ぎてくれないわりには、今度は逆に疲れはほとんどなかった。
いつものように喫茶「イリュージョン」で昼食をと思い出かけたが、その日は珍しくカウンターまで満席で、入ることができなかった。
しょうがないので踵を返し、他の店に行ったが、他の店は完全に閑古鳥が鳴いていて、いつもは少なくとも十人はいるはずなのに、三人しかいなかったのには驚かされた。
喫茶「イリュージョン」に、ここの客が今日だけ流れたのだろうか。
翌日にはちゃんとランチタイムにイリュージョンに行けたので、その日だけだったのだ。
その日の昼休みも、午前中同様、時間がなかなか絶たなかった。頼んだものがくるのも遅かった。普段はカウンターから、イリュージョンの女の子と話をしたりしていたので退屈はしなかったのだが、この日は手持無沙汰もあってか、寂しさは半端ではなかった。
寂しさが冷たい空気を足元から忍ばせてきた。
――冷たい空気って、足元から忍び寄るんだ――
そんなことを考えたこともなかった。
冷たい空気が下に向かって下りてくるのは常識として意識していたので、クーラーは上に向いているのは分かっていた。自然と上から下に流れてくる冷たさが、部屋全体を冷やすからだ。しかし、最初から足元に忍び寄る冷たい空気などというのは、まるでお化け屋敷のようなわざと演出されたものでなければ普通はないものだと思っていた。
それなのに、その時はなぜかそんな雰囲気があった。季節的にはもうクーラーをつける時期でもないし、ましてやお化け屋敷の雰囲気を醸し出す必要など、この店にはないはずだった。
その店は、初めてではなかった。たまにイリュージョンに飽きた時に来ていた店だ。今では完全にイリュージョンの常連になっているので来ることはなくなったが、その頃には昼時は十人近くはいたような気がする。
久しぶりに来たと言っても、前に来たのは二か月前。その間にここまで客が減ったのだろうか? この日がたまたま少なかったと思う方が普通であろう。
味にしても、なかなかのものである。一度ツボに嵌ると、この味を忘れられずに何度も足を運びたくなるくらいだ。もし、先輩誘われなければ、こういちもここの常連になっていても不思議はなかった。
この店の名前は、グリル「まどか」と言った。「まどか」というのは、ママさんの名前らしい。夜になると、スナックとしても営業しているようで、カウンターの奥の棚には、ボトルキープが所せましと並んでいた。
――夜の時間がどれほどの集客なのか分からないが、キープの数だけを見ていると、それなりに流行っているようだ――
と感じた。
そうでもなければ、昼の集客だけではやっていけないと感じたのだろう?
いや、逆に元々スナックをやっていて、後から昼のランチタイムだけ店を開けるようにしたのかも知れない。いろいろ考えてみると、そちらの方が信憑性は高そうだった。
グリル「まどか」にも、日替わりランチがあった。こういちは気に入ったメニューの時は日替わりでもいいのだが、あまり気に入らなければ頼むメニューがあった。それがポークステーキランチだった。
その日は日替わりがあまり気に入ったものではなかったので、いつものポークステーキランチを注文した。久しぶりのお気に入りメニューを想像していると、空腹感が襲ってきて、イリュージョンでは感じられない食欲を思い出していた。
他の客は相変わらず無言で、皆日替わりランチを頼んでいた。さすがに同じメニューなので出来上がりも早く、食べ終わるのも早かった。こういちのお気に入りメニューが出来上がるまでに、皆それぞれ食事を済ませ、出て行った。その間、誰も入ってこなかったので、少しの間一人の時間があった。
一人の時間を五分ほど過ごしたかと思うと、入り口の自動ドアが開く音がした。
――この時間から入ってくる人もいるんだ――
時間的には、昼休みの時間帯を半分以上過ぎていて、サラリーマンであれば、とても昼休み終了まで間に合うわけもないと思えた。
こういちは後ろを振り返り、その人の顔を見ると、そこにいるのが知り合いだったことで、少し意外な感じがして、一瞬固まってしまった。
「こんにちは」
その人は、後ろを振り返ったこういちの顔を確認して、挨拶をした。こういちも同じように、
「こんにちは」
と返したが、そこに佇んでいた人は、商店街のブティック店主の山田さんだったのだ。
喫茶「イリュージョン」でしか会ったことがなかったので、お互いに意外だったのかも知れない。
「山田さんは、たまにこちらに?」
「ええ、たまにですね。ここの食事はたまに食べるのがいいんですよ」
と言って、彼は特にメニューを見ることもなく、日替わりランチを注文した。
「僕も、事務所が移転してきてしばらくは、こちらに来ることもあったんですよ。ひょっとすると顔は合わせていたかも知れませんね」
何しろ知り合う前のことだったので、お互いに顔を知るわけもなかったのだ。
「僕は、夜の店の常連でね。商店街の店主仲間で時々来たりしているんですよ」
「そうなんですね。山田さんは、この商店街で結構な顔なんでしょうね」
「そんなことはないですよ。まだまだ若造ですからね。でも、若いからと言って甘えてばかりもいられないのが、店主の辛いところです」
そう言って、お冷を半分ほど飲みほした。
その日の山田さんは、普段の山田さんとはどこかが違っているような気がした。喫茶「イリュージョン」で見せる暗さは鳴りを潜めていた。
だからといって、明るいというわけではない。元々があまり明るい性格ではないように思えたが、意外と当たっているようだった。
昼休みの残り時間を考えると、あまり喋ってばかりもいられない。頼んだメニューが出来上がってくると、少し急いで食べなければいけないくらいの時間になっていた。頼んでから出来上がりまでそんなに時間が掛かったようには思えないが、気が付けば、想像以上の時間が進んでいたようだ。
――人が少ない寂しい雰囲気が、時間の感覚をマヒさせたのかな?
と考えるようになっていた。
山田さんとほとんど話をする暇もなく、せっかくの料理を味わえる程度に食べていると、時間は無情にも過ぎていき、話をする暇など、まったくなくなっていた。
「今度またゆっくりお話ししてください」
と言って、席を立ち、レジに向かった。
レジの向こうに等身大の鏡が置かれているのに気が付いた。
――あれ? こんなところに鏡なんかあったかな?
違和感があったのは間違いなかった。
ただ、もしこれが顔を写し出すだけの鏡だったら、もっと半端ないほどの違和感があったに違いない。等身大であったことで、ひょっとすれば鏡の存在自体に気づかなくても無理がないことだと思ったのは、今まで気づかなかったことへの言い訳をしているようだった。
目の前の鏡は、店内を写し出していた。自分の座っていた場所には、食べた後の食器が残っていて、さらにその向こうに……。
「あれ?」
思わず、声を出して驚きを表現した。
それと同時に後ろを振り返ったのだが、それは無意識の反射的な動きだったように思えた。
そこには、確かに山田さんが鎮座している姿が後姿として見えていた。少し哀愁が漂っているのは、店に閑古鳥が鳴いているからなのかも知れない。
山田さんが写っている姿を確認すると、また身体を反転させて、鏡を見た。
「えっ?」
また反射的に声を挙げた。
そこには、山田さんが写っていたからだ。
これが本当の姿のはずなのに、なぜビックリしたのかというと、最初に鏡を見た時、そこに写っているはずの山田さんの姿を確認することができなかったからだ。だから、すぐに反転し、実際の店内を見渡した。
――写っていなければいけないはずの人が写っていない――
この事実をもう一度確かめようと、またしても反転し、鏡を見た。すると、今度は写っていることにビックリしたのだ。
本来はそれが本当の姿のはずだ。いる人が写っているのが当たり前なのだ。では最初に見たのは何だったんだろう?
――幻だったのか?
いるはずの人がいないという幻、それは幻というよりも錯覚と言った方がこの場合では適切な表現であろう。
少しの間、茫然としていたであろう。我に返るまでに少し時間が掛かってしまったせいで、昼休み事務所に戻るのが少し遅れてしまった。
「どうしたんですか? 珍しいですね」
と女性事務員から言われたが、
「ああ、銀行に寄っていたので、思ったより時間を食ってしまいました」
とごまかした。
銀行に寄ることで昼休みが少し食い込んでしまう人もたまにはいた。そのため彼女も別に不審に思うことはなかったようだ。
その日は不思議な感覚を残したまま、午後の仕事をこなしていたが、もちろん仕事に影響することはなく、気が付けば定時が近づいていた。
残りの仕事を考えると、今日も定時で上がれそうだ。そうなると、夕方のイリュージョンに行こうと思った。ランチタイムに行くことがなく、夕方だけ顔を出すということは今までにはなかったことだ。
喫茶「イリュージョン」には、いつものように典子がカウンターの中にいた。そして、カウンターの奥に一人客がいたが、これも恒例の山田さんだった。その様子を見ると急に懐かしさが込み上げてきて、おとといも来ていたのに、かなり久しぶりに来たような気がしたのは気のせいだろうか。
「やあ、こんばんは。昼ぶりですね」
そう言って、山田さんが声を掛けてくれた。
いつになく明るい気がした山田さんの様子がいつもの山田さんとまったく違っていないことで、まるでデジャブを感じてしまうほどの雰囲気に、懐かしさを感じたのかも知れないと思えた。
「はい、お昼ぶりですね」
二人の会話をまったく意識していないように洗い物に精を出している典子は、普段と変わらない様子だった。もちろん、典子は夕方からのアルバイトなので、ランチタイムのことには関心がないのは当たり前のことだった。
最初は、昼に見た不思議な光景について話すつもりはなかったこういちだったが、急に話したくなった。もし、今日会うことがなく、明日になってしまったら、きっと話をすることはなかっただろう。
「山田さん、お昼のお店で不思議なことがあったんですよ」
「ほう、それはどういうことなんですか?」
「僕が、食事が終わってレジで支払いを済ませようとしていた時、目の前にある等身大の鏡に、山田さんが写っていなかったんですね。おかしいと思って、後ろを振り向くと山田さんがいるじゃないですか。で、再度振り返って鏡を見ると、山田さんがいたんですよね」
「それは不思議なことですね」
「ええ、目の錯覚だったんでしょうかね?」
「僕が、不思議だと言ったことを、橋爪さんは分かっていないようですね」
「どういうことですか?」
「あのお店には、レジの向こう側に鏡なんかないんですよ。しかも等身大の鏡なんてないですよ。あの店は夜はスナックになるんですよね。ということは、照明をかなり落とした状態になる。そんな店に鏡を架けたりしますか? 気持ち悪いと思うはずですよね」
なるほど、山田さんの話には信憑性があった。説得力があったと言ってもいいくらいで、こういちも心のどこかで違和感があったが、その正体は鏡の存在自体の信憑性だったようだ。
「でも、確かに鏡に今まで気が付かなかったのもおかしいと最初に思ったのも事実なんですが、それも写っているはずの人が写っていないという事実を目の当たりにした時点で、その疑問は吹っ飛んでしまったんですよ」
「じゃあ、橋爪さんは店を出るまで、そこに鏡があることを意識していたんですか?」
「ええ、そうですね。店を出ても、鏡のことが気になって、午後の仕事は上の空だったかも知れません」
本人はそれほど気にしてたとは思っていなかったが、人に話すと思っていたよりも気にしていたような気がしてきたのだ。
山田さんは、一通り話を聞いたところで、少し話を変えた。と言っても、鏡に関わる話であることには変わりないが、山田さんという人に対して、どこか他の人とは違うと最初から感じていたのを、いまさらながらに感じていた。
「橋爪さんは、鏡に写るものすべてが、正確だとお考えですか?」
「えっ? どういうことですか?」
唐突の話に少しビックリした。
「鏡に写るものは、すべてが左右対称ではあるけれど、現実の世界を忠実に写し出しているというのは当たり前のことですよね」
「ええ、それ以外に何があるというのでしょう?」
「ただ、鏡に写しだされたものにも、死角というものが存在しているという意識は普通はないと思うんですよ」
「死角……ですか?」
「ええ、死角です。鏡に写った姿と、自分が実際に振り返ってみる姿とでは、距離が違っているので、当然角度が違う。だから、自分の姿が邪魔になって見えないというのも当然のことですよね」
「はい、でも、それは当たり前のことであり、死角というほど大げさなものではないと思うんですが」
「それって、思い込みだって考えたことないでしょう? 自分が振り返って見る光景が絶対的に間違いのないもので、それに対して目の前の鏡には自分も写っているのが当然であり、その後ろの光景に死角が生まれるのは当たり前のことで、死角というのは、自分の身体が隠すものだけだという意識はないと思うんですよ。だから、死角という言葉が大げさだと思うんでしょうね」
「ええ、その通りです」
「でも、角度の違いも最初から考慮しているので、当然どう見えるかというのも、想像がつく。それだけ人間というのが優秀な動物だということになるんでしょう。それが死角を産むんですよ。しかも、それは視覚に対しての資格だけではなく、心理的な死角というものの違いに気づかない」
山田さんの話は難しいが、理解できないことではない。
「そこまで感じているということは、山田さんの中で、そう思わせるような何かが過去にあったということですか?」
「その通りです」
そこまで言うと、少し会話に一段落がつき、二人はコーヒーを口に含み、咽喉を潤していた。
落ち着いてくると、山田さんが話し始めた。
「あれは、半年くらい前だったですかね。他の喫茶店に行った時のことでした。洗面所に入った時に鏡を見たんだけど、後ろに一人の男性が立っていたんだ。まったく気配もなかったので、おかしいと思って振り向くと誰もいない。すぐに気のせいだと思って、トイレを済まし、席に戻ると、座っていたカウンターの奥に一人の客が来ていて、その人の顔がさっきの鏡の中の人だったんだ」
「見たことのある人だったんですか?」
「いえ、見たことはなかったはずなんですが、なぜか懐かしさがあったんですよ。どこかで会ったことがあるような気がしたんですね」
「それってデジャブ現象のようなものですか?」
「デジャブと言えばそうかも知れませんが、鏡に写った顔を見た時だけ、懐かしさを感じたんですよ。席に戻ってカウンターに座っているその人を見ても、懐かしいとは思わなかった」
「それも一種のデジャブなのかも知れませんね」
「その店に入ったのはその時が初めてだったんですが、それから少しの間、ちょくちょく顔を出すようになったんですよ。結局その人と二度と会うことはなかったんですよね」
「そのお店には、その期間だけ行っていたんですか?」
「ええ、このままいけば、常連の仲間入りできると思っていたんですが、ある日行ってみると、お店のシャッターが閉まっていて、貼り紙があったんです」
「どういう内容だったんですか?」
「長い間お世話になりましたが、お店を閉めることになりましたという内容のものでした。その前に行った時には、それらしき話はまったくなかったんですけどね。あまりにも急だったので、あっけにとられた感じですね」
「じゃあ、その時の鏡の謎は永遠に分からずじまいということですか?」
「そうですね。でも、それから少しして、その時の客にバッタリと出会ったんです。何やら思い詰めた表情をしていて、今にも自殺でもしてしまうんじゃないかって感じだったですね。変な言い方をすれば、死相がクッキリと現れていたのを感じました」
「その人はどうなったんでしょうね? 気になります」
「それよりも僕は、その人が僕と店で会ってからその時出会うまでに何があって、そんなにひどい形相になってしまったのかということが気になってしまったんですよ。何かを思い詰めていたのは事実だし、その後どうなったのかというのも気になりますが、そうなってしまった過程が一番気になります」
「山田さんは、鏡に何かの力が宿っていたのかも知れないとお思いですか?」
「そうですね。鏡に力があるのも事実でしょうが、人間の中にある超自然的な力を鏡が引き出したということが言えるのではないかと思うんです。そう考えるのが一番自然な気がするし、何よりも自分を納得させられるような気がするんですよ」
人間の力が何かの媒体によって引き出されるというのは、想像すればできないこともない。
例えば、占い師などが使用している水晶玉なのもそうではないだろうか? 目の前に依頼者を座らせて、自分との間に水晶玉を乗せて、そこに手を翳す。そこにあたかもその人の運命が映し出されたかのように、占いの結果を言う。
「見えました」
それまで目を瞑って水晶に神経を集中させていたのに、カッと目を見開いてそう言われれば、依頼者も信用するというものだ。
占い師にもいろいろいるが、一番占い師としてイメージできるのが水晶玉を使う占い師であり、それだけ説得力もあるのだろうが、裏腹に胡散臭さも隠しきれないのは仕方がないというものだ。
「そんな時だったかな?」
山田さんは続けた。
「実は、その人とそっくりの人を他で見かけたことがあったんですよ。直接話をしたわけではないんですが、その人は明るい人で、集団で話をしていたんですが、その中の中心的存在だったんです。僕には同一人物にはとても思えませんでした。きっと、そっくりな人がいるだけの他人の空似ではないかって思ったんです」
「まったく正反対の雰囲気で、それでも似ていると思ったということは、本当に似ていたんでしょうね。普通雰囲気が違っていれば、似た人だなんて思うことはないんじゃないかって思うんですよ」
「僕もそう思います。ただ似ている人を見かけたということが何か気持ち悪さを感じさせ、虫の知らせであったかのような気がしたので、まさかと思うけど、あの死相が本物だったんじゃないかって感じました」
「そうですね」
「これは後で分かったことだったんですが、その人は、どうやらその喫茶店の関係者だったようです。ひょっとすると、共同経営者だったのかも知れません」
「それだったら、死相が見えたというのも、無理のないことかもですよ? そういう意味では山田さんは、店がなくなってしまうことを看過できたかも知れないということですよね」
こういちにそう言われて、山田さんは恐縮していた。
「では、そろそろ時間になったので、僕は店に戻ります」
いつも、六時半過ぎた頃に、山田さんはそう言って帰っていく。
自分の店の閉店が七時なので、それまでに閉店の準備をするのだそうだ。その日の売り上げの集計や、翌日の発注など、アルバイトの女の子が下調べをしてくれていたものに対して目を通す。
その日は、こういちと話し込んでしまったために、少し遅れてしまった。そそくさと店を出て行く姿が、話をしている時の雰囲気とは違っていた。
「山田さんは、話をしている時は毅然としているのに、話を終えると急に恐縮したようになって、面白い」
典子はそう言って笑った。
こういちも山田さんに対してのイメージを同じように抱いていたので、反論することもなく、黙って頷いた。その様子を横目に見ながら、典子はさらに笑っていた。
「山田さんは、前からあんな感じなのかい?」
「そうですね。でも、朝の時間も来られているでしょう? その時はほとんど無口らしいの。夕方はあれだけ饒舌なのにね。どうやら会話の内容が少し偏っているので、そのために、朝の人たちとは、合わないのかも知れないわね」
と典子が言った。
「朝は商店街の店主たちが集まっているようで、どうしても、経営の話になったりするんでしょうね。確かに山田さんが、経営の話をしているところなど想像できないような気がするんだけど、あの人自体が、現実的なことよりも、理想だったり、妄想だったりすることの話をしている方が合っているのかも知れないね」
と、こういちが返した。
「私は大学では国文学を専攻しているんだけど、学校を一歩離れると、国文学の話はしたくないと思っていますからね」
「それは、学校の仲間に対してでもそうなのかい?」
「ええ、学校の仲間だからこそ、余計に学校の外に出てまで、学校内部の話をしたくないと思うんだけど、おかしいかしら?」
「そんなことはない。僕もそうなんだ」
「私の場合は、お父さんが仕事の話を家に帰ってきてから絶対にしないのよ。お父さんのモットーは『仕事を家に持ち込まない』ということなんだけど、私はそのことに賛成なのね。せっかく自分の家に帰ってきたんだから、帰ってきてまで仕事のことを気にされたくないもの」
「いい心がけだね」
「お父さんは、感情の起伏が激しい人で、普通に話している時でも、何か気に障る話になると、急に怒り出すことがあったのよ。私が子供の頃には、仕事のことをため込んで家に帰ってきていたので、ストレスが爆発したのね。それでお母さんに暴力をふるっていることがあったんだけど、とうとう警察沙汰になってしまって、それ以降は、家では決して仕事の話をしなくなったの。そうすると、不思議とお父さんの性格が変わってきたみたいで、今までに見たことがないほど温厚なお父さんがそこにいたのよね」
「やっぱり、何かのきっかけがあれば、人は変われるということなんだろうか?」
「そうかも知れないわね。でも、お父さんのようなケースは稀かも知れない。そううまくいくということはなかなかないものよ」
「それだけお父さん自体の芯が強かったということなんでしょうね。きっといいお父さんなんだって思うよ」
「ありがとうございます。私はどちらかというと男性が信じられない方なんだけど、最初にそう思わせたのは、暴力をふるっていたお父さんだったの。でも、途中で変わってくれて、少しは私も男性を信じることができるようになるかも知れないって思うようになったんです」
「人間、そう一人の人だけを憎み続けるというのは難しいことなのかも知れないね。特にまだ大人になり切れていない時のことで、女性の場合の思春期というのは、特別な時期なんじゃないかって思う」
もちろん、男性の自分に分かるわけはない。思春期には、何度となくまわりのフェロモンに自分の意志を曲げられそうになって、必死で抑えたことがあったのを思い出した。反応してしまう身体には逆らえなかった。
「私は、お父さんのことを信用できるようになってから、面白い話を聞いたことがあるの」
「それはお父さんからかい?」
「ええ、お父さんは、家では仕事の話はしなかったけど、会社の人の話までしなくなったわけではないのね」
「面白い話というのは、会社の人の話なの?」
「ええ、お父さんは当時よく出張に行っていたんだけど、どうやら、会社内の支店を回る仕事をしていたようなのね。そんなある日のことだったんだけど、いつも泊まるビジネスホテルで、一人の男性を見たんだって、その人というのが、その翌日に訪問する予定の支店の営業係長だったらしいんだけど、お父さんはその人に話しかけようとしたらしいの。でも、この話は面白いというと、不謹慎かも知れないですけどね」
「うん」
「その時というのは、ちょうどビジネスホテルの通路で、ちょうど角を曲がるところの後姿を見たんですって、距離的にはそれほど離れていなかったので、ちょっと歩いてその角を曲がれば追いつけるはずだと思って早歩きをして、その角に向かったらしいの。でも、角を曲がると、そこにその人の姿はなくて、お父さんは『幻を見たのかな』と思ったのよ」
「それはそうだろうね」
「ちょうどその時、目の前に鏡があって、その鏡に自分の顔が写っていたんだけど、どの時の形相が恐怖に歪んでいるようで、その表情が自分でも怖かったって言っていました。そして、その翌日になって、その支店に行くと、営業係長が変わっていたらしいの。どうしてなのかと支店の人に訊ねると、その係長は、一か月前から病気で入院していて、いまだに入院中だっていうのよね。お父さんはやっぱり幻だって思ったらしいの。でもあまりにも気になったので、お見舞いに行ったのよ。まるで虫の知らせのようで気持ち悪いと思ってね。すると、病室に入ると、その営業係長は、かなり精神的に参っているようで、お父さんを見た瞬間、『お前を見た』と言ったというのよ。お父さんはビックリして病室から飛び出したんだけど、その時付き添っていた係長の奥さんにそのことを話すと、『あれがあの人の口癖なんです。私も何度も言われました』と言われたんだって、その次の日に支店にもう一度顔を出した時、前の日に聞いた人にそのことを話すと、自分は言われたことはないけど、言われた人はその次の日、誰かが亡くなるのを見るらしいのね。奥さんだけは別らしいんだけど、何か因縁めいたものを感じたんだって」
「何か共通点があるのかも知れないですね」
「ええ、そのこともお父さんに聞いてみたんだけど、どうやら、係長にそう言われた人は皆その後トイレに行って、洗面所で鏡を見たらしいの。その時の形相が怖かったって言ってたわ。お父さんはその時にトイレにはいかなかったんだけど、ビジネスホテルで最初に見ていたので、これも共通点の一つですよね」
「鏡というのが、一つの共通点ですね」
鏡という言葉を口にしたその時、こういちは、背中に寒気を感じて、ゾッとした。
――そういえば、この間、鏡に写っていない山田さんを見たんだっけ。そして、その鏡自体、存在していなかったことで気持ち悪いと感じたんだった――
あの時のことは、幻だったと思って忘れかけていたのに、嫌なことを思い出したものだと思い、少し忌々しい気がした。
しかし、それだけに、この話は中途半端に聞くわけにはいかない続きがあるなら、最後まで聞いておく必要があると感じた。
「そのお話はそこで終わりなの?」
「いえいえ、そこからがこのお話の怖いところなんですよ」
「怖い?」
「ええ、ただここからはオカルトというよりもミステリーに近いお話なんですね」
「ミステリーというと、推理モノや探偵モノのような?」
「そうです。この後実は、奥さんが逮捕されてしまうという事件に発展したんです。どうやら奥さんは他の男性と不倫をしていて、その人に唆されたのか、毒素の低い薬品を、毎日微量に摂取させていたらしいんです。その不倫相手というのが、薬品に詳しい人で、奥さんも、うまくいくとタカをくくっていたんでしょうね。でもやっぱり素人のすること、専門家の医者から見ればすぐに看過されたようで、奥さんは不倫相手とともに逮捕されたんです。結局、奥さんはその後、警察の目を盗んで服毒自殺したらしいんです。不倫相手だけが刑に問われたというんですけどね」
「じゃあ、営業係長さんが、『お前を見た』と毎日言っていたのは、毎日自分に毒を盛っているということを看過していたということになるんでしょうかね?」
「そうかも知れません。奥さんの遺書には、そのことも書かれていました。毎日『お前を見た』と言われるのが怖かったってね」
なるほど、話を聞いてみると、面白い話というには、不謹慎だ。それでも最初はオカルトっぽい話から、最後はミステリーのオチが付くという意味では面白い話と言えるかも知れないだろう。
「実は、面白い話というのは、ここまでなんですが、リアルに恐ろしいのはこれからなんですよ」
と、典子は小声になった。
その声はトーンが下がっただけではなく、恐ろしさを演出するだけの力があるようで、その表情にも心なしか不気味さが宿っているようだった。
固唾を飲んで聞いていると、
「お父さんね。それからしばらくして亡くなったんだけど、それは自殺だったの」
「えっ、何か自殺の原因でもあったの?」
「ううん、そんなことはなかったのよ。警察も自殺の原因についていろいろ調べたみたいなんだけど、原因はハッキリしない。結局、仕事のストレスということで、片が付いたんですけどね」
「自殺で片が付くということは、遺書とかあったのかい?」
「父は、断崖から海に飛び降りたんだけど、遺書は飛び降りたと思われる場所に、靴と一緒に置かれていたの」
「断崖から飛び降りたんだったら、亡骸の捜索は困難だったんでしょうね」
「ええ、潮の流れが速いところで、遺体は上がっていないの。かなり捜索に時間を割いてくれたんだけど、結局、遺体なしで自殺ということになってしまったの」
「遺書というのは?」
「それが、不思議なんだけど、便せんに一言大きな文字で、『お前を見た』と書かれていたというの。遺書としてはあまりにも異様だったので、警察も必死で父の遺体を探したんでしょうね。でも、現場の状況や、それからも、並行して捜索願いのままいろいろ調べてもらったんだけど、生存も確認できなかったの」
「それは何とも言えないね」
「ええ、それにもう一つ刑事さんが不思議に思ったのが、遺書の中に一緒に置かれていたのが、手鏡だったらしいの。それは男性が身だしなみ用に使う手鏡で、小さなものだったらしいんだけど、ここまで来ると、以前父が話していたさっきした話が、気になってくるのも無理もないことでしょう?」
「そうだね」
こういちは、背筋がゾッとしたように思い、急に下半身が催してきたのを感じた。
「ごめん、ちょっとトイレ」
そう言って、トイレに向かった。
そこに鏡があったので、反射的に鏡を見ないようにしたのは、ここ数日の話の一つのカギとして鏡があったからだ。頭を下げたまま用を足すと、これも鏡を見ないように手を洗って、そそくさと自分の席に戻ってきた。
典子がおしぼりを手に持って微笑んでいる。
――今まであんな恐ろしい話をした同一人物にはとても思えない――
と感じ、
「ありがとう」
と言って、おしぼりを受け取ると、
「いいえ、何か私、少しぼっとしていて、さっきまでどんな話をしていたのか、どうも途中までしか覚えていないのよ」
と言った。
「途中までとは?」
「『お前を見た』というのが、奥さんの口癖だったというのを、お父さんが聞いたというところまでなの」
「じゃあ、鏡が共通点という話のところまでだね。じゃあ、オカルトはそこまでで、そこからミステリーのようなお話をするというのは?」
「えっと、漠然としては意識にあるような気がするんだけど、まるで夢の中での意識のようで、私の口から出てきた言葉のような気がしないんですよ。どちらかというと、私も聞き手だったような感じですね。だから自分でもよく分かっていないような気がするんです」
どうやら典子は、最初の導入部くらいしか覚えていないようだ。
だが、典子が、
「自分も聞き手だったような気がする」
と言って、まるで夢の中にいたと話しているのを聞くと、それ以降自分が聞いた話も、信憑性に欠けるような気がした。その話は典子から聞いたわけではなく、いずれ、他の人から聞くことになり、その時にデジャブを感じることになるということを、その時のこういちは、知る由もなかった。
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