布袋

ねこたろう a.k.a.神部羊児

布袋

 宵の口も過ぎ、秋風が冷たく吹きすさぶ中、男が背を丸め懐手で歩いていた。

 冷たさが身にしんと染み入ってくる様な夜だった。一刻も早く家に帰って火鉢に当たるなり布団に潜り込むなりしたかったが、彼の足取りは重かった。

 彼は腕の良い職人で、稼ぎは人並み以上にあった。

 しかし、彼には悪い癖があった。博打である。

 今日も彼は仕事を終えた後、悪い仲間と連れ立って賭場へ行き大いに負けた。

 懐にはまだわずかな銭が残っている。しかし、その半端な重さが胃の腑のあたりに重苦しくのしかかっている。

 妻は彼を待っているだろう。そして彼が博打で稼ぎを擦った事を知れば烈火の如く怒るに違いない。彼は女房の顔を思い描いた。卵に目鼻という形容が似合うなかなかの器量よしだが、いざ逆鱗に触れればその有様は鬼女そのものだった。今、彼の足取りを重くしているものはそれだった。

 彼は妻となんとか顔を会わせない方法はないかと思案しながら脚を引きずるようにして歩いていた。空には半分より膨らんだ欠けゆく月が浮かび、なにやらあざけりの表情を浮かべているようにも見えた。

 彼は惨めな気持ちを抱えたまま、月に背を向けて小道へと足をすすめた。

 なるべく妻の待つ家への到着を遅らせようと、わざと遠回りになるようにと角を曲がっているうちに、彼は自分が今までに通った事のない道を歩いている事に気がついた。

 家々は小道に覆いかぶさるように庇をもたげ、空は道にそって細い。天の川が金銀の蒔絵のように横切っている。彼はドブ板を踏み抜かないよう足下に気をつけながら道を進んだ。

 そのうちに少し開けた所に出た。何本かの道が合流している場所だった。

 見ると提灯の明かりが浮かんでいる。夜鷹蕎麦だ。彼はにわかに空腹を覚えた。指先に懐の銭が触れた。

 彼は思った。

 いったい、俺はこんな所で蕎麦を食おうと思っているぞ。ただでさえ今日の稼ぎを賽子につぎ込んでしまったというのに。

 しかし、こうも思い直した。

 やれやれ、ここで少しの節約をした所でどうだというのだ。少しばかり銭があるよりもいっそ文無しの方がスッとするだろう。そうだ、有り金を全部使ってしまおう。

「いらっしゃい」

 おやじの声は思ったよりも若い。

「熱いのを頼む」

「へい」

 おやじが支度を始めると、湯気がもうもうと立ち上がって頬を撫で、蕎麦の香りが鼻をくすぐった。男は手をすりあわせて待ちながら、何の気無しに回りを見回した。

 ふと見れば暗がりに祠の様なものが見えた。稲荷かと思えば違うようだ。

「おやじ、あれはどんな神サンだい」

「へぇ? ああ、あの祠ですかい」

 おやじは顔を下げたまま答えた。

「布袋さまでさぁ。この辺りじゃ年寄りは名居荒布袋さまと呼んどりますわ」

「へえ。変わったご利益でもあるのかい」

「なんでも御顔を撫でてお願いするとどんな願いでも叶うっちゅう話ですわ」

「そいつぁ大したモンだ。俺も何かお願いするかい」

 彼は軽い気持ちでそういったが、おやじの次の声ではっとした。

「……何か願い事でもあるんですかい?」

「そりゃあ——」

「へい、お待ち」

 目の前に出された蕎麦は美味そうに湯気を立てていた。


 熱い蕎麦を腹の中に納めて人心地がつき、代金を支払う段になった。そこで男は有り金のすべてをこの蕎麦屋にくれてやろうと思いついた。

「おい、蕎麦屋。俺は非常に満足した。実は今日は博打で擦ってしまい、持ち金がわずかしか無いのだ。いや、安心してくれ。蕎麦一杯の代金には十分なだけはある。しかし少しばかりの銭があっても邪魔臭い。これを全部受け取ってくれ」

「いえ、いけません」

 蕎麦屋は固辞したが男もひかない。押し問答のあげく、蕎麦屋はこういった。

「お代以上のお足を頂いては私も困るのです。もし旦那がそんなにお足がお邪魔でしたら、そうだ、そちらの布袋様にご寄進なすったらよろしいんじゃないですかい」

 それもそうだと思い直し、男は蕎麦屋を解放すると祠の前に立った。

 祠の中にはなるほど、ちいさな布袋の像が安置されている。

 闇そのものを凝り固まらせたように黒々としていて、その体躯はまるまる太り、口もとにはいやらしげな笑いを浮かべている。多くのものが顔を撫でて礼拝したのだろう。顔がつやつやとすり減って目鼻立ちもぼやけてしまっている。

 男は布袋の前にしゃがみ込むと賽銭箱に有り金をすべて放り込んだ。そして布袋の顔をてろりと撫で、目を閉じて手を合わせた。

 その時になって男は気付いた。

 はて、何を祈願すればいいのだろう。特に考えがあって布袋に手を合わせているのではなく、余った小銭の処分程度にしか考えていなかったのだから。

 男は考えた。

 別に今の生活に不満がある訳ではない。何か欲しいものがある訳でもない。

 悩んでいるうちに自分自身の目下の問題を思い出した。

 妻の顔が浮かぶ。

(ああ、今夜はあいつの顔は見たくねえ)

 そんな事が脳裏をよぎった。

 と、そのときかすかに笛の音が聞こえた。

 暗闇の中、まぶたの裏でぱっと炎があがった。炎は千切れ、愛染明王の三つの目のような形をとり、消えた。

 彼は顔を上げた。先ほどの蕎麦屋は消えていた。

 空には月が高くかかっていた。


 男は家路を急いだ。体は芯から冷えていた。恐ろしくてたまらなかった。風がうなるたびに皮膚が粟立ち、耳を澄ませばなにかが聞こえるような気がした。

 狐狸の類いだろうか。

 彼は自分が見たものを懸命に納得しようとした。

 そうだ、きっと狐か狸、あるいはむじなか何かがいたずらをしかけたのだ。そう思えば不思議と恐ろしさは和らいだ。

 これは滅多に無い経験だ。女房の奴に話してやろう。そうすれば博打で擦った事もうやむやに出来るかもしれない。彼はそんな事まで考えていた。

 見慣れた長屋の風景が見えてきた。

 家の明かりを見たときにはすっかり安心して、戸を開いた。

「おう、かかあ、今けえったぞ!」

「あんた、遅かったじゃないか」

 妻はついたての奥で縫い物をしていた。

「そんな事よりもよ、さっき魂消たもんを見たんだ……」

 男は腰を下ろして履物を脱ぎながら話をつづけようとした。しかし、それは出来なかった。

 パタリとついたてが倒れた。

 彼は妻の顔を見て、そして絶句した。息が詰まって声が出ない。声を上げようとしても、ただ池の鯉のように口が開閉するだけで言葉にならない。妻は不審そうに彼の顔を覗き込んだ。その顔はつるりと卵のように滑らかで目や鼻その他の凹凸はまるで無い。

 男は腰を抜かしてその場にへたり込んだ。

 あまりの驚きに妻の顔を指差してただ馬鹿のように口を開閉する事しか出来ない。

「おまえ、か、顔……」

 やっと絞り出すようにそう言った。

 そして妻は一体どこから声を出しているのか、口も無いのにこう言った。

「なんだいあんた、幽霊でも見た様な顔してサ。あたいの顔に何か付いてるっていうのかい?」

 戸口から風が吹き込んで、灯が消えた。

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布袋 ねこたろう a.k.a.神部羊児 @nekotaro9106

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