少女の鐘に爛れなずみ
たった数時間、一緒にいただけの人間。じんわりと、同じやり取りがしたくなって、……乾くことのない翡翠の瞳が潤んだ。
食べ物の話はもうできない。植物のこと、この研究所の構造のこと。もう、何も聞けない。立ち止まりたくなった。
それでも顔を拭い、毅然としてジンに向かい合う。
「……可能な限り殺さないでなんて、とんだ……傲慢さだったのね。助けられた……、ごめんなさい」
「そこは普通、ありがとうって言うべきだぜ? お嬢様……いや、もうお嬢様じゃなくなっちまったな。…………メリア」
少女はしばし沈黙していた。テンルの瞳を静かに撫で閉ざすと、無数の蝶が血溜まりを啜る。
蒼い羽根の煌めきを赤い水面が反射していた。
「ワタシは……彼を無駄死ににしたくない」
「そんなこと言わなくてもわかってるさ」
「…………ワタシは、貴方のことがわからなりそう。ワタシのために怒ってくれた人も、ワタシを叱ってくれた人も……貴方が最初だったから。凄く嬉しかったの。ずっと、ずっと、ここに熱が残って、斬られたときよりもずっと熱くて……だから――」
小さな手で、そっと自分の胸を押し撫でた。絞り出るような吐息に、緊張を無理矢理ほぐすような脱力が滲む。
「だから…………困っているの。言葉が頭から離れてくれない。貴方はいつかワタシを裏切るの? ……ジン、ジンはどうして地の底に落ちてきたの? ワタシは――ジンの大切な人を、殺したんじゃないかって……だから、テンルが同類だって、ジンに言ったんじゃないかって、そしたらワタシは――――」
声は弱々しく上擦り、だんだんと掠れて溶けるように聞こえなくなった。
――こんな少女が何故、生物兵器なんだ? どうして彼女なんかに、力を持たせたんだ? ジンは顔を曇らせた。縋るような眼差しを前に、平然と笑顔を浮かべることができた自分に反吐が出そうだった。
「確かに、色々ぶっ壊されたな。正直、どんな奴か見てやろうと思った。そしたら君がいただろ? ……怒る気もなくなっちまったわけだ」
いっそ堂々と嘲った。同情をしているわけでも、嘘をついているわけでもない。メリアは僅かに困惑して、けれどバカにしてやったことに気づいたのか、ジトリと湿度を帯びた視線が突き刺してくる。
「嫌われるかもしれないって悩んで、ワタシのせいだって自責する生物兵器がどこにいる。至高の傑作? 大嘘だ。……君は怪物じゃない」
平然と嘘をついた。メリア・イクリビタは怪物だ。生物兵器だ。……だがそれを彼女に言ってどうなる? 余計な言葉は必要ない。
「だから俺は人としてメリアに接しているわけで、だから約束は守るつもりでいる。君が考えたすえに地上を目指すように、俺も色々と考えて目的が変わったりするってことだな」
嘘に嘘を重ねていく。ジンは笑顔を引き攣らせた。……目的を変えるつもりはない。
彼女に全てを理解させ、自由を与えて、地上の光のなかで決着をつける。そうやって、手に触れた光を奪われて初めて、同じ苦痛を抱いてくれるはずだから――。
「すごく、怖い顔をするのね? ジン。冷たい目……瞬きもしてなかった。ワタシのために何か考えてたわけ?」
そっと、メリアはジンの青ざめた頬を撫でた。
「っ……すまん。考え事をしてた」
すぐさま我に帰って、作り笑いを浮かべながら距離を取り直す。無数の生傷が傷んでみっともなくよろけた。
全ていなしたつもりだったが……爆破をしたときか、メリアの槍が壁を消し飛ばしたときか、鋭い瓦礫が脚に突き刺さっていた。誤魔化すようにヘラヘラしながら教会の支柱によりかかる。
「……ジン・ジェスター、傷を見せて?」
メリアは蠱惑的に微笑んでいた。有無を言わさず血濡れた手袋を引き抜かれると、皮膚が裂けて赤く濡れた手が露わになる。
引き戻そうとしたが、手首を捕まれ微動だにも動かせなかった。
「悪く思わなくていい。これぐらいは数日したら治る。さっきも言ったが、俺の持ってる異界道具は俺の血だ。……そういうものを飲み干した。だから毒も常人ほどは効かない」
「……変な方法だけど数分で治せるわ? 怪我なんて、……痛いだけでしょう? 生きてるなら、治せる限りは治させて欲しい」
方法は分からないが、無理して拒絶する理由もなかった。身を任せるように手を託すと、メリアは静かに目を瞑りながら、ゆっくりと顔を近づけた。
白い頬が僅かに熱を帯びて赤く染まる。小さな口腔、鋭い牙が垣間見えた。
やがて唾液の糸を引いて舌先が伸びると、裂けた皮膚、血の溢れる肉の部分に粘液を帯びた熱が触れた。
「ッ……、お前を造ったやつは随分、趣味がいいようだな」
苦し紛れに皮肉を口にするのが限界だった。
手から身体の芯へ、電撃が走るような錯覚。神経に熱が直接触れる痛み以上に、こそばゆさにも近い、認め難く不快な心地よさが脳から足のひらにまで突き抜ける。
メリアは何も言わなかった。目を瞑ったまま献身的に、ぴちゃぴちゃと、静寂のなか痺れてしまいそうな水音が響いていく。
血と唾液が混ざり合い、舌先に赤い糸が引いた。メリアが伺うように顔を見上げる。……皮膚の奥まで届いていたはずの裂傷が塞がりきっていた。
「……服めくって。ワタシの胸に穂先が触れたのは覚えてる。なら貴方にも同じ傷があるでしょう?」
「いや、擦り傷だ」
「意味もない嘘をつかないで」
メリアはこんなときだけは強情だった。険しい眼差しがジロリと睨まれて、ジンは気圧され唾を呑み込む。
「……嫌じゃないのか? 俺は仮にその力があっても絶対使おうと思わないが」
「どうして? 痛いのなんて無いほうがいいでしょう? それが自分の所為ならなおさらだと思うんだけど。……ああ、でも確かに。ワタシも研究者達にだけはこの力を使いたくないわ? それと同じかしら」
「…………いや、違うと思うが」
ジンは服を捲られながら冷静に指摘した。相貌が近づき、吐息が地肌に触れる。肌と肌が撫でるように重なった。
「俺が裏切る云々と心配してたくせに、俺の血に触れるのはいいのか? さっき力は見たばかりだろう?」
「……考えを変えたんでしょう? ワタシは、あなたの言葉を信じるわ? 貴方だけかもしれないじゃない。……こうして目を合わせて言葉を返してくれる人なんて。だから、大切に壊れないようにするのは当然じゃないかしら」
壊れてしまった教会、隔てる音はなく、蠱惑的な囁きが嫌になるくらい脳に響く。爛れてしまいそうな痺れが傷口をなぞっていく。
「……ねぇ、ワタシがもし本当に自由になれたとして。……人並みに暮らせるかしら」
「さぁな。人並みに暮らせる人ですら少ないんだ。難しいかもな」
傷口はおろか、身体を巡る毒による不快感、気道の閉塞感……。無数の症状が立ち所に消えていく。この力だけでも欲しがる奴らはいるだろう。
加えてこの容姿だ。島でなければその辺を歩き回っただけで捕まってしまう可能性すらある。…………なんて、何故こんなことを考える?
――調子がおかしくなってくる。
「どうなるにしたって。呪いを解かなきゃメリアは自由になれないんだろう?」
「皮算用みたいなものよ。不安だけど……今まではこんな、もしもの話ですら考えることもなかったから。沢山のことが現実味を帯びてきて……頭がずっとぐるぐるしてるの」
メリアは口元を拭い立ち上がった。血濡れた土誇りを払い、静かにテンルの亡骸へ背を向ける。
「……上、ここから上がれそうね」
「途中で少し寄り道をしたい。いくつか武器がダメになったからな」
崩れた断崖を見上げる。……メリアに登る力はあれど、技術はないだろう。
「ほら、捕まれ。お姫様抱っこしてやるよ。メリア」
「からかわないで」
ツンと澄ました反感。少女の重さが腕に委ねられる。
――仮にメリア・イクリビタが不死でなかったらすぐにでも殺せるはずだ。それでも俺は彼女をすぐに殺められるだろうか。
…………皮算用未満の思考が巡る。テンルの残した言葉の所為で余計なことを考えているんだ。
「んじゃ、舌噛まないようにな」
逃げるように地面を蹴り跳んだ。すぐに、血の臭いが沈んだ場所が遠ざかっていく。短くない時間、メリアの槍が玲瓏と鐘音を鳴らしていた。
音は……静かであるべきだ。だというのに、止めることもできない。
爛れなずむなか、鎮魂の音色が残響を曵いて。水の流れに溶け消えるまで鳴り渡っていった。
終末世界の海へ行く アンドロイドN号 @rioro
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