蝶の瞬きに流煙は消えて

 テンルは止まることなく身を屈め疾駆し、即座に支柱に身を隠し弾丸をやり過ごした。着弾の衝撃が無数の砂塵を舞い上げる。


「嗚呼、確かに。今も動けない当事者を庇う理由なんて、私には理解できませんね」


 黒い外套が激しく靡き揺れた。テンルは地を蹴り、無数の針を牽制として投げ放ちながら確実にジンへ距離を詰め、――身を翻してメリアへと槍を突き伸ばす。


「お前のような怪物に意味もなく、親しげに関わってくれるやつがいると想いますか? 缶人、お前は騙されているんですよ」


 メリアの眼差しはただただ無数の冷凍棺に捕らわれていた。胸の奥、肋骨の間へと迷いなく向かう刃先に反応することもできない。


「何もかも無駄にするつもりか!? お前が殺したやつを!!」


 ジンはただ怒鳴った。鋭い怒号がメリアの思考を劈く。槍が致命傷に至るほんの刹那、半ば反射的に彼女の体を動かした。華奢な腕が柄を握り締め、皮膚を摩擦で破りながらも刃先が胴を刺し抜く手前で食い止める。


 死なずの呪いが浸蝕するように瞬く間に傷は塞がっていく。反して、テンルとジンの手袋は血を滲ませた。肋骨の手前、皮膚の奥、胸に傷が走り毒が視界を眩ませる。


「…………ワタシはとんだ臆病者ね」


 玲瓏とした声。か弱い手が力強く、黒い槍の柄を握り掴み離さない。切っ先を引き抜いた。血の糸が垂れ伸びていく。


「……ッ」


 テンルは目の当たりにした。無垢で、無数の嫌悪と逡巡だけを映し出していた翡翠の瞳が、眦を決して犠牲を呑み込み、自我を貫かんとする様を。


 次の瞬間、テンルの視界は宙を舞っていた。


 何もできないと思っていた生物兵器が、その華奢な腕でテンルを黒槍ごと力任せに振るい薙ぎ、放り投げるように教会の金属壁に叩きつける。


 鈍く激しい衝撃が音となって鳴り渡る。グロテスクなまでの殴打が皮膚を裂き、風船が弾けるように血飛沫が飛散した。


「……こひゅー……ッ、っーー……。どうして、何もかも理不尽なんですか。どうして、私達は……こんな苦しまないと」


 聞き慣れた息。死前に瀕し、血が混じり気道の詰まった不快な音。テンルは立ち上がった。幽鬼のごとく揺れながら、脱力し、静かに槍を構え直す。


「……ワタシは、分かりきってたことを覚悟できてなかった。ずっと、ずっと、本当に自由になって良いのかわからなくて、ワタシが巻き込んだ知らない人達の眼差しが身体中に纏い付いてて……」


 ――自分は業を背負い過ぎている。自由になれたとしても、この業はワタシを抱き締めて離さない。……悲嘆や絶望ではなかった。


 ただ、ずっと地の底に居座って目を向けずにいた現実を厳然として見据えるように。まだ息のあるテンルを前に睥睨をくべた。翡翠の瞳は妖しく蛍光し、【玲槍アムリタ】が共鳴するように光輝に満ちる。


「貴方を……可能な限り生かすなんてことはできないのね。ワタシは……そんなことを言える権利も、自由もないんでしょう?」


「……和解はないでしょうね」


 テンルのぼやきに、メリアは静かに槍の刃先を向ける。翡翠と紫紺、二色の線が伸びて周囲に光を帯びた。


 ――光。誰とも同じ光を見ることなんてできない。


 ワタシのために造られた異界道具。使い方は分かっていた。今は、大穴を開けるほどの力も出ないだろうけど。


「放たれて。アムリタ」


 唱え、収斂し、一条の光が貫いた。有象無象を全て消し飛ばさんとする破滅の輝きが一直線に崩壊した施設を穿つ。砂塵が熱を浴びて白輝し、光の粒子となって消滅していく。置き去りにされた音が、貫かれた壁の奥で無数の残響となっていく。


「……力です。生物兵器、あなたにあるのは稚拙でおぞましい力だけです。技がない」


 テンルは光の直撃を免れていた。消し飛んだのは片腕だけだ。熱が血肉を焼き捨て、断面から血が流れ落ちることさえなかった。


 痛みを感じないのか、途方もない苦痛を押し殺しているのか、テンルは笑みを引き攣らせながらメリアへ距離を詰めた。


 メリアが咄嗟に振るった力任せの槍を、円弧を切り裂くように槍で振るい上方へ打ち流す。衝撃に耐えきれず柄がへし折れたが、【玲槍アムリタ】を小さな手から弾き離した。


 メリアを守る武器が無くなる。勢いのまま身体をぶつけ、少女の華奢な体躯に馬乗りになった。槍の穂先を水平に構える。


 ――彼女の心臓を穿てば自分(テンル)も死ぬが、ジン・ジェスターもまた、呪死するだろう。そうなれば、メリア・イクリビタ一人に【錆染】を振り切ることはできない。


 力だけの怪物はそこで終わる。そんな確信があったから、長くはない命を捨てることに躊躇いはなかった。端から、プニャーレが壊滅した時点でどうでもいい。


「これで終わりにしましょう」


 研ぎ澄まされた穂先をメリアの胸元へ切っ先を突き押す。だが、刃が血肉を裂くことも皮膚に触れることもなかった。


 黒い手袋がテンルの視界に入る。寸でのところでジン・ジェスターが腕を伸ばし、槍の穂先を鷲掴んでいた。布は容易く破れ、血しぶきがテンルとメリアを汚す。


 どれだけ力を込めようとも意味がなかった。槍の刃先が空間の亀裂の奥へと、ひび割れた鏡のような裂け目の中へと飲み込まれていく。


「俺がいることを忘れてたか?」


「その手袋が異界道具なら同じ手はもうありません……」


 テンルは槍を捨てると、たった一本。小さな針を袖から流し取り、力なく振り下ろす。


「悪いが、ハズレだ。俺が持ってる唯一の異界道具はな? 血だよ」


 メリアへと投じられた針が、ジンの流した血の痕に飲み込まれて、消える。同時、ガシャンと。陶器が割れるような軽快な音が鳴り響いた。


 テンルを中心に、周囲へ伸びる無数の亀裂。ジンが飛び散らせた血、赤く垂れ流れる血に接触する部位が、血肉が、えぐり取られるように虚空の彼方へと仕舞われた。


 ビクンと、テンルの身体が僅かに痙攣した。ぽっかりと、腹部に大穴が開き、肉体は力なくメリアの横に転がる。


 何も見えなくなった。自身の血と地面だけが眼前にある。


 メリアはゆっくりと、テンルの身体を仰向けに起こし、ジッと見おろした。


「何故起こすんです。……ここに大穴ぶち開けて、空でも見せるんですか」


「……それはできない。ごめんなさい」


 穏やかな声でそう言うと、無数の蝶が、蛍光を帯びて漂い飛んでいく。


「きれいだ。……醜い怪物のほうが、よっぽどマシです」


 終わる時まで、メリアはテンルの頭を抱えたままでいた。涙は出ない。絶望や悲しみに満たされるわけでもない。虚無感にも似た喪失だけが表情を殺す。


「ワタシは絶対に、自由になる。貴方を無駄死ににしない」


「…………どうせ無理です。いずれそいつも裏切りますよ」


「そしたらワタシは彼を殺してでも自由になるわ?」


 翡翠の瞳が静かにジンを一瞥した。気圧されるように、ジンは冗談も言えないまま口を閉じる。


「……ねえ、どうしてワタシのことが憎いはずなのに、ワタシを許せないのに、……食事のこと、教えてくれたの?」


「…………さぁ、なんでで、しょうか……ね」


 肺から空気が漏れ出ていくような声。


「…………あれ、すごく美味しかったわ?」


「そんなことを今、言いますか。…………かいぶつめ」


 呆れるような響き。声は弱っていく。


 口から血の泡が溢れていた。忌々しく睥睨していた。


 瞳から光が失せていくのに、命を絞り出すように嘲笑を浮かべる。


「ありがとう。……ごめんなさい」


「意味のない言葉です。…………どうでもいい。……嗚呼、これなら禁煙なんてするんじゃなかった」


 テンルのぼやきに、ジンは何も言わないまま胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。ゆらりと、特徴的な匂いを帯びた煙を揺らしながら血濡れた口に咥えさせる。


「…………血の味しかしませんよ」


 それきりテンルは何も喋らなくなった。


 力なく煙草が血溜まりに落ちて、細い煙が消える。

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