短歌ではたまにキリスト教から感じたことを詠む人がいます。
マリヤの胸にくれなゐの乳頭を点じたるかなしみふかき絵を去りかねつ
(葛原妙子「飛行」より抜粋)
この短歌は聖母マリアを性的な女性として表現することがタブーであることをふまえて書かれています。
「かなしみふかき」というのは、作者の悲しい気分であると同時に、本来は人として性的なところもあるのに、性を禁じられたマリアとしてなりきって詠んだ一首と言えるでしょう。
そうした意味で俳句でなりきった時に、奇跡として集まってきた人々が同じ思いを抱いたことを、同じフレーズを使った句を繰り返してみた試みに、おもしろさを感じました。
そして、個人的な考えかたなどを、映像を撮影するカメラのように省いているので、作者がではなく登場人物の描写に徹しているのは、俳句らしい距離の取り方だと思いました。
聖書のイエス・キリストの生誕を題材となっているので、語りの技法として客観的に多声的な連作になっています。
しかし、その客観性が題材を日常の生活に求めた俳句にもなければ、ただのキャッチコピーや作者の主張となってしまいます。
小説ならば三人称一元描写といった雰囲気ではありますが、どこまで一句に作者の主体性や感情などを言葉にあずけるかというバランスを意識させてくれる作品だと思います。
俳句の表現について考える意味で、大変楽しく拝見させていただきました。
許されて生かれているクリスマス