図書館の罪と罰

石橋梛

嫉妬

 インスタグラムを通してアカリからのDMが届いたのは、まだかすかに冬の気配が残る、三月の上旬だった。内容は「今帰省しているから、もし都合が合えば一緒に飲まないか」というものだった。大学は春休みの真っ最中で、僕は東京から福岡に帰省していた。僕は自分も帰省していて暇である旨を伝え、即OKを送った。すぐ返信が来た。

「三月六日、○○に七時に集合です。遅れたらいかんよ~」

 アカリとの約束の当日、僕は集合時間の五分前には到着できるように余裕をもって家を出る準備をしていた。というか、旧友に会えると思うとうずうずして勝手に早めに出るような感じになった。玄関で靴ひもを丁寧に結んでいると、実家の猫が足元に寄ってきて僕の足に体をこすりつけてきた。

「お、どうした~まりも。甘えるなんて珍しい」

 僕の家には一匹のメス猫がいる。キジトラで気性が激しいのだが、夜は誰かがいないと眠れないほどの甘えん坊である。頭をポンポンと軽く叩くと尻尾を垂直に上げ、甘い声で鳴く。僕は床に座り、まりも抱き上げ顔を覗き込む。甘えてきたくせに、抱っこされたとたん煩わし気な表情をしている。

「今日ね、アカリと飲んでくるけん。二人きりじゃないんやけどね。お留守番頼むよ」

 まりもの顔はぶすっとしたままだ。僕の目をじっと覗き込んでいる。緑色にきらきらと光を反射するまりもの目が好きだ。まりもを床に降ろして扉を開け、僕はバス停に向かって歩き出した。

 バス停は家から徒歩五分程度で、到着すると同時にバスがやってきたので乗車した。

 バスに揺られながら懐かしい風景を眺める。ところどころ景色が変わっているのに気が付いた。本屋がうどん屋に代わっている。コンビニがなくなって空き地になっている。東京で三年間暮らしたのだから、風景が変わっているのは至極当然なのだが少し切ない。

 西新に到着し、下車する。時刻は午後六時四十分、町は帰宅を始めた人たちでいっぱいだった。昼間は暖かかったのだが、やはり夜になると少し冷える。人々はコートを着て速足で歩いている。

 Googleマップで店舗名を入力すると、現在地から徒歩五分程度の場所に待ち合わせの居酒屋はあった。途中でコンビニに寄り、お手洗いに入り用を足して手を洗う。ふと、鏡に映る自分を見た。顔がほんのり赤くなっている。体の芯がかすかに震えている。手の内側がソワソワする。大学生にもなってこんなにそわそわすることなんてあるんだなあと思った。

 コンビニを出て、居酒屋に向かって歩き出す。商店街に入り、きらきらと輝く店舗たちを横目に歩く。すれ違う人たちの話す言葉に博多弁が混ざっているのに気づき、ああ、帰ってきたのだなと感慨深くなる。東京に来て、電車の多さやめまいのするような人の数、視界に入ってくる物すべてに驚いたものだ。そして何より、標準語に対して頭をかきむしりたくなるような違和感を覚えた。僕は標準語というのに慣れを要した。同じ日本語を話しているのに全く違う言語を話しているような気がしてすごく寂しくなったのと同時に、疎外感と羞恥心を感じたのを覚えている。

 さて、居酒屋に到着した。彼女は見当たらない。時計を見ると集合時間の十分前だった。僕は店の前で待つことにした。

 あと数分後にアカリに会うのだ。僕はますます緊張していた。しっかり着込んでいるので寒くはないのだが意思に反して体が震えた。


 八年前、中三の春。クラスにアカリが転校してきた。教壇に立ち、ピンと背筋を伸ばし、かすかに口角を上げた色白の彼女の第一印象は「印象に残らない女の子」だった。

なんというか、特に特徴がなかったのだ。一度彼女の顔を見て、目をつむり一度視界から彼女を消すと、彼女はどんな顔をしていただろうと忘れてしまうような感じだ。心臓の位置あたりまでストレートの髪を伸ばし、目は二重で少し目が茶色い。花は高めで人形のようだ。世間一般でいうと、美人な部類に入るのだろう。女はくるりと黒板と向き合うと、細い手でチョークを手に取り名前を書いた。

「山田アカリ」

僕は黒板上に書かれた彼女の字に彼女の印象のすべて持っていかれた。今までに見たことがないほど達筆だった。教養の深さをうかがわせる、そんな字だった。

 彼女の字を見て、一体どんな人なのだろうと僕はすごく気になった。しかし、人見知りが激しかった中学生の僕は、転校生に話しかける勇気はなかった。ていうか、そもそも僕は女の子と話すのにひどく緊張する性格だった。彼女に興味はあったが、僕はきっと、ほとんど彼女と仲良くなるどころか話すことさえできず卒業するのだろうと、淡々と自己紹介をする彼女の姿を見て思っていた。

 だが、偶然に彼女と接点を持つ機会を僕は得ることができた。

 僕は中学生当時、図書委員をしていた。昼休みと放課後、図書室で監視、本の貸し出しの管理、棚の整理、日誌を書く程度の簡単な仕事だ。

 ある日、いつものように図書委員の仕事をしていた放課後のことだ。仕事を終えた僕はカウンターに座り、本を読んでいた。図書室には誰もいない。グラウンドから野球部の練習の声が聞こえてくる。窓から春の空気をたっぷりと含んだ風が教室に入ってくる、心地の良い夕方だった。

 アカリが初めて僕に話しかけてきたその日は父がお勧めしてくれた小説を読んでいた。ドストエフスキーの「罪と罰」。小難しいなあと思いながら読んでいると、「あ、罪と罰だ」と目の前で声がした。本から顔を上げると、目の前にアカリが立っていた。

「面白いもの読んどるね。面白い?」

 アカリが僕の目をまっすぐ見て言う。

「カタカナまみれでめっちゃ読みにくくて、内容が難しくて理解するので精一杯」

 はは、そうよね分かる~と、アカリ微笑んだ。

「裕介君だよね」

「うん」

「私、アカリって言います」

 アカリは頭を下げる。

「裕介です」

 僕も頭をぺこりと下げた。

 そよ風に揺られる彼女の髪が、夕日に照らされて茶色になる。彼女は人と話すとき、常に口角が上がっている。大きめの涙袋が、彼女のすこし大きな瞳の下にある。

「今日はどうしたの?本借りる?」

 僕がそう尋ねると、ううんとアカリは首を横に振る。

「私、図書委員を任されたん。図書室に裕介君がおるって先生が言いよったけん、とりあえず伝えとこうと思って」

 僕は笑顔で「そうなんだ、これからよろしく」と言い、再度頭を下げた。表面上は、だ。体の奥底では、第二の僕がハチマキを巻いて、太鼓をドンドコ踊っていた。かわいい女の子と昼休みと放課後を一緒に過ごせるのだ。人見知りと言っても、年頃の中学生男子である。僕は鼻の下が伸びないように、顔をこわばらせていたと思う。

 次の日、終礼が終わった後にアカリは真っ先に僕の机にやってきて「図書室行こ」と話しかけてきた。二人で教室を出て、図書室に到着した後、まず僕はアカリに図書委員の仕事を一つずつ説明した。彼女はふむふむと真面目な顔をして僕の説明に耳を傾ける。新鮮な表情に見とれつつ、真面目な顔をキープさせて僕は説明を淡々と進める。

 一通り説明を終えた後、二人で本棚の整理を行うことにした。

 二人並んで本を一冊ずつ棚の中に収納していく。アカリは僕に本を渡す係、僕は本を棚に収納していく係だ。

「裕介君」

 アカリが本を僕に渡しながら僕の名前を呼ぶ。

「ドストエフスキーの『罪と罰』、読み終わった?」

「読み終わったよ」

 彼女は「おおー」と目を大きくさせながら僕に本を手渡す。僕は本を受け取り、本棚に入れる。

「どうやった?感想聞かせて」

「そうやな……人間って、国や言語が違っても、罪を犯したときの罪悪感ってのは一緒なんだなって思ったよ」

「裕介君は何かひどい罪の意識を感じるような体験をしたことがあると?」

「いや、ぱっとは思いつかんけど」

 はははとアカリがけらけら笑う

「ならなんで罪悪感の説明ができるとよ」

 確かにな、と納得した。恥ずかしさに少し顔が熱くなる。

「いいやろ別に。アカリさんはその本読んだことあると?」

「小学生の時に読んだよ」

 あれを小学生が読めるのか?と思った。「罪と罰」という作品はとにかく長い。単行本サイズだと上下に分かれているほどの長編小説であり、登場人物が多く、主人公の名称が変わる、そして極めつけに言葉が難解なのだ。回りくどい表現や読めない単語さえ読んでいるとポンポン出てきた。

「どう思った?」

「うーん。作者の『罪を犯した人間も更生できる』といった思想はあまり共感できなかったな。お金に困っていたから、恨まれている人を殺して金銭を奪うといった行動は、罪を正当化しているだけだと思う。あとね、あの作品は作者の執筆背景を理解しているかで結構理解度が変わってくるんよ。ドストエフスキーは社会主義政治犯としてシベリアから……」

 それからアカリは小一時間ほどドストエフスキーについて話し続けた。

 僕はアカリから本を受け取りながら、頭の中では川滝の映像が流れていた。

 喋る。アカリはとにかく喋る女の子だった。一言も噛まず、「えっと」や「えー」といった言葉も一切使わない。そして説明がべらぼうに上手かった。まるで教科書をそのまま朗読しているかのようだった。話すとき、必ず語尾を長く伸ばす彼女からは想像がつかないほどの完璧な講義だった。

 本棚の整理が終わるころには、僕はドストエフスキーの人生をざっと把握してしまった。

「よし、今日やらなきゃいけないことは終わり」

「やったー疲れたね~」とアカリは背伸びをする。

 本棚の整理が終わって僕らは手持ち無沙汰になった。しかし図書室を閉めるまであと1時間ほどある。それまでは図書室にいなくてはならないので、時間つぶしとして僕はカウンターに座って本を読み始めた。アカリは図書室をぶらぶらと見て回ると、どこからか本を一冊手に取って席に座り、黙々と読み始めた。

 僕は小説を読みながら、視界の端っこでアカリを観察した。

 背筋よく座って本を読む彼女。いつもかすかに口角を上げている彼女が真剣な表情をしている。少し茶色の入った髪の毛が夕方の風になびき、耳に髪をかけるその姿にはもはや神秘的な何かを感じるほどだった。

 彼女を見ていると、本の内容は全く入ってこなかった。彼女は何を読んでいるのだろうと彼女の本の表紙を一瞥すると、「方法序説」とあった。見たことない題名だった。

 彼女を眺めていると一時間はあっという間に過ぎ、僕たちは図書室を施錠して学校を後にした。お互いの家は反対側にあったので、僕たちは校門で別れることになった。

「今日は図書委員の仕事を教えてくれてありがとう」

「いいえとんでもない」

「また明日もご教授をお願いします」

 彼女がぺこりと頭を下げる。

「こちらこそよろしくお願いします」

 僕も続いて律儀に頭を下げた。

 お互い離れたところで、背後から「ばいばーい」と叫ぶアカリの声が聞こえて振り返った。彼女が両手をぶんぶんとこちらに振っている。

 周りには部活動を終えた男子生徒たちが沢山いて、「あの子かわいくね?」とか「最近転校してきた子やろ」とかひそひそ話している。

 周りの目が気になって恥ずかしくて、足の裏がソワソワする。僕は振り返って軽く片手で手を振った。

 次の日から彼女と図書委員をするのが楽しみで、学校ってこんなに楽しい場所だったんだなァと思う日々が続いた。彼女と図書委員の仕事をこなす日々は、まるで今まで何の思い出もなかった真っ白な本に、様々な色で絵を書き込んでいくような気分だった。

 彼女は転校してからあっという間にクラスに溶け込み、放課後以外ではなかなか話しかけるタイミングがなかった。僕は図書委員を選んで心底よかったなと初めて思った。

 二人で図書委員の仕事の最中、アカリは相変わらず常に話し続けた。いや、講義をしていたといったほうが正確かもしれない。彼女は僕の読んでいる本の作家について永遠と語り続けた。夏目漱石、芥川龍之介、アガサクリスティー……僕はただただ、彼女の知識量に驚愕し、目を輝かせて語るアカリの横顔を見ているだけで、僕の人生は右肩上がりだった。

 一日の仕事が終わると、図書室を施錠するまでの時間は二人で読書をする、それが僕たちのルーティーンとなった。読書をしているときはお互い一切話さない。でもその空間が心地が良かった。

 そんな生活が半年ほど経った頃だ。

「裕介」

 給食を食べ終わった後の昼休みの時間。読書していると担任の先生に話しかけられた。体育教師を務めている担任の先生は、眼鏡をかけていて体が大きく、筋肉に体が覆われており、「ヤクザ」というあだ名を持つ先生だ。

 でも、休み時間に一人で過ごすことが多い僕に話しかけてくれる優しい先生だった。

「図書委員の仕事、アカリとどうだ。仲良くやれとるか」

「今のところ大丈夫です」

「そうか。転校してきて緊張しとったけんな。お前と一緒にして正解やった」

 淡々と自己紹介をしていたアカリが緊張していたなんて、と驚いた。

「僕は、彼女と一緒に図書委員をやっていて楽しいです。」

「うん、知っとる」

 と先生ははっはっはと笑う。先生の笑う声が好きだ。

「それより見たか、中間考査のランキング」

 夏休みが明け、僕たちは中間考査を受けた。僕たちの通う中学校は、職員室前に主要五教科目の総合点の上位一位から十位の名前が張り出すことになっていた。

「まだ見てません」

「お前が常に一位やったけど、『強敵現る』って感じやな」

 え、と言葉が漏れた。

 僕はとっさに席を立ち、職員室に向かった。夏休み、受験生ということもありかなり勉強して臨んだ中間考査だった。中学に入学して今までずっと、学年で一位をキープすることができていて、かつ今回は確かな手ごたえを感じていたので満足していた。

「一位 山田アカリ」

「二位 岡崎裕介」

 僕は張り出されたランキング表を見て愕然とした。何をやっても不器用な僕が唯一誇れていた「成績」が破られた瞬間だった。しかもよりによってひそかに思いを寄せているアカリにだ。

 たかが定期テストで、と思うだろう。しかし当時の僕の期末テストにかける思いは尋常ではなかった。優秀な両親に生まれ、でも何をやってもうまくいかない僕がのんきに中学生をこなせていたのは、勉強という二文字があったからなのだ。


「ねえ、裕介君大丈夫?体調悪い?」

 アカリが僕の肩をつかむ。ハッとしてアカリの顔を見る。

 僕たちはいつも通り、放課後の図書委員の仕事をこなしていた。僕がアカリに本を手渡し、アカリが本を棚に収納していく。

「えっ、何でもないよ」

「ほんと?途中でボーってし始めたけん」

「ああ、ごめん」

 僕は本を手渡す。

「それでね、さっきの続きなんやけど、太宰治って十七歳で発表した後に作家人生を××××××××××××××××」

 僕はその日を境に、あれだけ心地よかったアカリの講義が全く頭に入らなくなってしまった。耳に入って片方の耳から抜けていくというのはこのことかと思った。僕はただアカリの一呼吸置くタイミングで相槌を打つマシーンと化していた。

 アカリも、僕が話を一切聞いていないことにすぐに気が付き、話すのをやめた。

「今日の裕介君、いつもと違う」

 手を止め、僕の肩をつかんで言う。

「別にいつもと変わらんよ」

 アカリの顔を見ることができない。

「いや絶対何かあった。どうしたの、私なら話――」

「何もないって言いよるやろ」

 言い終わって、やってしまったと思った。声を荒げてしまった。俺はこんな声が出せるのかと自分でも驚いた。自分でもわかっている。たかが、たかが定期テストなのに何幼児のような真似をやっているんだろうと。

 はっ、とアカリの息が詰まるのが分かった。同時に彼女が痛いほど傷ついたのも、まるで手に取るように分かった。

 僕はこの状況をどう打破すればいいのか、どう代弁すればいいのかわからなかった。

「作業、続けよう」

 僕が本を差し出すと、アカリはゆっくりと本を僕から受け取った。ほんの一瞬、本伝いにアカリの手が震えているのが分かった。

 黙々と目の前にある作業をこなす。気まずい沈黙が流れる。やがて作業は終わり、手持ち無沙汰になった。話す余裕なんか一切なかったので、僕は適当に本をとってすぐカウンターの席に着いた。あと三十分ほど図書室の施錠まで時間がある。普段なら図書室の施錠まで二人で読書をするが、今日はどうしても本を読む気分になれなかった。

「裕介君。今日は先に帰るね」

 アカリが足早に図書室を出た。僕は図書室に一人、たたずむことになった。

 カウンターに一冊の本が置いてあることに気づいた。「方法序説」。」アカリが過去に読んでいた本だ。僕は手に取りページをめくってみた。

「何これ」

 思わず声に出てしまった。一切の文字が理解できなかった。ていうか読めない漢字すらある。見たことない文字がある。これを涼しい顔をして読んでいるアカリが恐ろしく遠い場所にいる人間のように思えた。

 次の日から、僕たちはいつも通り図書委員の仕事をこなした。しかしいつもと違う一点、一切の会話無しだ。僕らは必要最低限の会話しかせず、施錠までの時間は、どちらか一人が残って施錠するという暗黙の了解になってしまった。

 彼女は時折僕に、笑顔で話題を持ち掛けてくれた。最近どう?とか、受験勉強どう?とか、ぶっきらぼうな態度をとる僕に歩み寄ってくれた。でも僕はそっけない返事をすることしかできなかった。もちろん笑顔で答えたかったが、いきなり笑顔で返すのもなあ、とか余計なことを考えて、どうすればいいのか見当がつかなかった。そっけない返事をすることが彼女を傷つけることだってわかっていたのに、僕は幼児のままから、何一つ変わっていなかった。

 でも、そんなムードになったって、僕の目に映るアカリはどうしようもなく美しいのだった。

 結局僕らは卒業するまでこの状況を維持し続けた。成績も変わらずアカリが一位、僕が二位だった。

 高校受験を終え、僕らは別の学校に進学することになった。 

 

「裕介君?」

 スマホを見て居酒屋の前で待っていると、懐かしい声が僕の耳を凪いだ。顔を上げるとアカリが目の前に立っていた。

 黒のロングコートを羽織り、その下に藍色のワンピースを着ている。髪を後ろでまとめてポニーテールにしているその童顔は、中学の時のアカリそのものだった。大学生から女の子は全く認識ができなくなるほど容姿が変化するが、彼女はナチュラルメイクであまり中学のころから変化がなかった。記憶をそのまま具現化したようだ。

「ひっ、久しぶりだね」

 声が震える。

「え、なになに緊張してんの?かわいー」

 ぎこちなく挨拶する僕を見てにやりとアカリが笑う。

「そりゃあするよ。もう何年も会ってないんやし」

「そんな、私数年じゃ何も変わらんよ。安心して」

「確かに何も変わっとらんね、そのまま身長だけちょっと高くなった」

「なんかそう言われると腹立つ」

 そう言いアカリは僕を睨む。僕は思わず笑ってしまう。

「じゃあ、店はいろうよ。外寒いし」

 アカリが身震いしながら言う。僕たちは店に入り、席に着いた。あらかじめ予約していたのですんなり入ることができた。タッチパネルを操作し、お互い好きな飲み物を注文する。彼女はビール、僕はレモンサワーを注文した。

「裕介君音頭取って」

 ジョッキを持ったアカリが言う。

「えーでは……再会を祝しまして」

 かんぱーいと二人で小さく言い、グラスをカチンとぶつける。アカリはジョッキを一気飲みした。僕はお酒に弱いので、アカリの豪快な飲みっぷりに口が塞がらなくなった。僕は一口、ちびっと飲んだ。お酒のおいしさはいまだにわからない。

「お酒、強いんやね」

「うーん、やっぱりビールが一番おいしい」

 うっとりと法悦な表情をしてそう言うと、またタッチパネルを手に取り二杯目を注文し始めた。

 お酒をぐびぐび飲んでいく彼女の姿を見るのは心地いい。自分が全く飲めないのでうらやましい。

 次々と料理が到着する。焼き鳥、海藻のサラダ、白飯……僕たちはちまちまそれらをつまみながら、中学、高校、大学の話に花を咲かせた。お互い、話さなくてはならないことがたくさんあった。お互いの空白を埋めるために、僕たちは語りに語った。

 ある程度話しつくし、沈黙が流れた後、アカリがぽつりと語りだした。

「私ね、高校辛くて、不登校になっちゃったときがあったんだ」

 アルコールが回り、彼女の目がとろんとしている。少し舌が回っていないと見える。注文のタッチパネルを操作しながら。でも何も注文する気はないようだ。

「なんでやと思う?」とアカリ。

「わからん。なんで」

「なんでやと思う」

 彼女は相変わらずタッチパネルを見ている。

「…部活が楽しくなかったとか、担任と合わんかったとか」

「部活は楽しかったし、担任の先生もいい人やった」

「勉強がつまらなかったとか」

「勉強は昔からずっとつまんない」

 僕は行き詰まった。彼女は相変わらず注文用のタッチパネルをこねくり回している。注文履歴を見て、「結構飲んじゃったなあ」とか独り言をぶつぶつ言っている。

「友達ができんかったとか」

「友達はたくさんできた。高校に入ってから、気の合う人はむしろたくさん増えた」

「そうか……」

「でも」

「でも?」

「本の話を長々聞いてくれる人は、高校にはおらんかった」

 僕はびっくりして彼女を見る。いつの間にか、彼女の大きな目が画面から僕に移っている。タッチパネルを握りしめ、見たことないような真剣な表情をしている。

 僕はその瞬間、首から上が急激に厚くなるのを感じた。傍から見ればリンゴのように真っ赤になっていただろう。

「こちらお冷でーす」

 定員がひょっこり顔を出し、お冷を二つテーブルに置いた。

 僕はすかさずお冷を一気飲みして体の温度を下げようと試みた。ついでにアカリの分も飲んだ。二杯飲むと、さすがにすこし体温が下がり落ち着きを取り戻した。

 それから沈黙が流れた。二人でちびちびお酒を飲みながら、僕は視線を宙にあちこち泳がせ、アカリは相変わらずタッチパネルをいじくりまわしている。時計を見ると、入店して2時間ほどたっていた。

「もうそろそろ出るかね」

 と僕が聞くと

「うん」

 とだけアカリは答えた。

 店を後にして、完全に日が落ちて寒くなった西新の街を、バス停に向かって二人無言で歩く。帰宅ラッシュは過ぎたが人の数は依然多く、飲み屋の明かりがまぶしい。人ごみをするするとすり抜け、アカリがちゃんとついてきているか確認しながら歩く。十五分程でバス停に到着した。僕たちの他に並んでいる人はいない。バスが来るまで五分ほどあった。僕たちは、傍にあったベンチに座って待つことにした。

「僕はアカリにひどいことをした」

 アカリが僕の顔を驚いて見るのが視界の隅で分かった。でも僕は彼女の顔を見ることができない。

「僕、人付き合いはあまり得意じゃないし、運動もだめやし、歌も得意じゃない。でも、自分でいうのも何やけど、勉強だけは人並みにできた」

 三月だというのに風が冷たい。僕たちから体温をじりじりと奪っていく。

「アカリは勉強だけじゃなく人付き合いも運動も、歌だって絵だって完璧にこなした。僕はそれが悔しくてどうしようもなく歯がゆくて。こんな感情、君と出会うまでは一度も思ったことが当時の自分にはなかった」

 自分でも信じられないくらい早口になっていく。手がしびれているのに気づく。体の末端に酸素が足りなくなっている。

「僕はひどいことを―――」

 突然、話を遮るようにアカリが僕の手を握った。柔らかく、小さな頼りない手だった。でも僕の手よりずっと暖かい手だった。つよく握ったら壊れてしまうんじゃないかと思った。

 あまりの衝撃に、僕はそれ以上何も言えなくなってしまった。全神経がアカリの手に集中していて話すどころではなかった。二人手をつないでバスを待った。アカリを横目見ると、彼女はまっすぐ前を見ていた。一言も発さず、ただ僕の手を固く握っている。

 僕はつよくアカリの手を握り返した。彼女はそれと同じか、それ以上の力で僕の手を握り返してきた。

 僕たちは結局、バスが来るまで一言も話さなかった。やがてバスが来た。アカリの乗るバスだ。彼女は僕の手を離して立ち上がり、僕を見下ろして「今日はありがとう」と一言、母のような笑顔を浮かべた。僕もすかさず立ち上がり「ありがとう」と言った。

 彼女は乗車して歩道側の席に座ると、笑顔で僕に手を振った。中学の時、校門でよく僕に手を振っていたように手を振る。僕は右手を上げて答えた。

「発車します。扉にご注意ください」

 ドアが閉まり、バスが動き始める。

 アカリは、姿が全く見えなくなるまで僕に手を振り続けた。僕も、彼女の乗ったバスが見えなくなるまで手を振った。

 僕は手を振りながら、彼女を守れるだけの人間になろうと、つよく思った。

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図書館の罪と罰 石橋梛 @Ishinagi

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