6.

 ヒナさんから夜中にメールが来た。


『――今から会えない?』


 要約するとそんな内容のメールだ。

 僕はいつも通りに普通で平凡な連中がトレンドで最先端でお洒落だと思って着ている、本当はトレンドなんかでは全然なく、最先端からは周回遅れな、それでも流行ってる以上はそれなりに見える格好に着替える。

 パジャマ姿でせんべいを齧りながら見ながらテレビを見ている父に「ちょっと出かけてくる」と告げたところ、常備菜の作り置きをしている母から「またぁ? もう夜遅いんだから、気を付けなさいよ」と言われ、ペットの犬(名前はココ。メス。雑種)と遊んでいた妹から「やっぱり不良だ」とまたかわらかわれ「馬鹿。ちげーよ。女の子とデートだよデート」と返すと「年齢=彼女いない歴のおにーちゃんがよく言う」と妹は笑うので「このやろ」とデコピンをしたところ「どーてー」との言葉を拝借する。

 そりゃあもちろん、僕はまだまだ多感な青少年なのであり、ヒナさんのことは家族には秘密だ。そんな恥ずかしいことはもちろんしていない。

 どうせその必要もなくなるだろう、と思った。

 そう。

 その時点でもう嫌な予感はしていたのだった。

 中学一年生のときに初めて付き合った女の子。

 彼女と別れたときと、同じような気配だった。

 なんたって僕はコミュニケーションが得意だ。

 それくらいわかる。

 こんな時間まで営業している洒落た喫茶店で、僕たちは向かい合った。


「ねえ、」


 彼女の付けている洒落たヘアピンを見ている僕に、ヒナさんは言った。


「ヒラユキくん」


 ああ同じだな、と僕はそう思う。あのときの彼女と。まったく同じだ。

 僕は僕の名前が嫌いだ。

 平幸、と書く。

 平凡の平に、幸福の幸。

 平凡でも別にいいから、ただ幸福に生きてもらいたい。

 両親の、そんな、ちっぽけな願い込められた僕の名前。

 そんなちっぽけな願いも僕は叶えてあげられなかった。

 僕は異常な人間だ。

 平凡な幸福なんて望めない。

 そんな風に生まれてきてしまった。

 だから僕は誰より正常でなければならない――「倫理」に殺されないために。

 僕はそうやってずっと生きてきた。

 「倫理」の目に怯えながら。

 僕は、僕が嫌いだ。


「私たち、さ」


 だから、僕は別に悲しくも何ともない。


「別れようよ」


 そんなこと言われたって、悲しくない。


「そうですか」


 僕は笑った。

 ヒナさんは僕の笑顔をじっと見て言う。


「……君って、そんな風に笑うんだね。初めて見たよ」

「そうですか?」

「だって私の前で、一度も笑ったことないでしょう?」


 ばれてたのか、と僕は軽く驚いた。

 少しみくびっていたかもしれない。


「理由は聞かないの?」

「俺の――僕の他に好きな人でもできたとか」

「君と付き合いながら誰かに恋するとか、器用な真似ができるような女じゃないよ」

「そういうもんじゃないですよ。恋ってのは」

「わかったような口を利かない。年下の癖に」

「僕と付き合うまで年齢=彼氏いない歴だった癖に」

「うっさいよ」

「女癖悪いみたいな言い方やめて下さい。僕は一度に二人以上の女の子とお付き合いしたことは一度もないです。っていうか、ぶっちゃけヒナさんが二人目です」

「その女の子のことだって、別に好きじゃなかったんでしょ?」


 僕はもう一度笑った。

 ちょっとこの人なめてたな、と思った。


「君は」

「はい」

「やっぱり気づいてないんだね」

「はい?」

「ファミレス。店員。ヘアピン」

「……」


 僕はそこで気づいた。

 気づいてなかったことに、気づいた。


「君は私の知らないとんでもない美少女と一緒で、変なおじさんと話をしてた」

「……」


 あのときの、ヒナさんに似ている、美人の店員さん。

 そりゃあ似ているはずだ。ヒナさんだったんだから。


「あのさ」


 と、ヒナさんは言う。


「さすがにさ」


 と、今にも泣きそうな声で言う。


「好きな人に、顔も覚えられてないってのは、ちょっと――すっごく悲しいよ」


 そりゃそうだろな、と僕は思う。

 まるで他人事みたいに僕は思う。

 ヒナさんは尋ねた。


「何か、そういう病気なの?」

「いいえ。これは違いますよ」


 そう、僕は答える。


「ただ単に、異常なだけです」

「……このヘアピンだってさ」


 と、ヒナさんは指先でそれに触れながら、震える声で告げる。


「君が誕生日にくれたんだよ」


 ああ、と僕は思う。

 どうりで良いヘアピンだと一目で分かったわけだ。

 自分で選んだヘアピンなのだから、そりゃ当然だ。

 ただ、あまりにどうでも良すぎて忘れていただけ。


「ねえ」

「はい」

「君が私を好きになった理由、聞いてもいいかな? 図書館で声掛けてきたよね?」

「胸が素敵だったから」

「真面目に」

「嫌です」

「何で」

「傷つけるから」

「……いいから」

 僕は白状した。

「頭が良さそうな人だと思って。仲良くなったら勉強を教えてもらえると思って」

「……」

「でも、楽しかったですよ。動機は、ちょっとだけ不純だったかもしれませんが」

「よく言えるね。そんなこと」

「へえ、ヒナさんは楽しくなかったですか」

「楽しかったに決まってるじゃない。楽しかったし、好きだったし、だから――」

 だからさ、とヒナさんは続けた。

「――私は、すごく悲しいよ」

「なら」


 と、僕は言う。


「余計なこと言わなけりゃ良かったのに」

「言うよ。そんなの」

「こんなもんはね、SNSと一緒です。ただの遊びなんですから」

「私は本気だったよ」

「大学生が男子中学生と本気で付き合うとか馬鹿じゃないですか」

「そんなの知らない」


 ヒナさんは僕を見た。

 あの目だ。

 今にも泣きそうな目。


「君はさ、」


 そんな目で僕を見ながら、ヒナさんは言った。。


「本当はずっと、別の誰かが好きなんじゃないの?」


 表情には出なかった。


「あのとき一緒にいた、すごく可愛かった女の子?」


 表情には出なかったはずだ。

 なのに、ヒナさんは言った。


「そっか」


 ぽつん、とぼやく。


「……そっかぁ」


 ぽつん、ぽつん、と。

 ヒナさんの泣きそうな目から涙がこぼれた。

 今までは泣かなかったのに、と僕は思った。

 どうして今は泣くんだろう、と僕は思った。


「君はあの娘のことが本当に好きなんだね――好きだって言えないくらい」


 ぐずぐず、と。


「君はとんでもなく酷い奴だけれど、やっぱりただの可愛い男の子だよね」


 泣きながら、彼女は僕に告げた。


「好きな子に好きだって言えないくらいの、とっても初心な男の子なんだ」


 下らない負け惜しみだと思った。

 だから僕は笑ってやる。

 ハンカチを差し出して。

 もちろん、無視された。

 ヒナさんは服の袖で目を拭った。

 何も言わず椅子から立ち上がった。

 それから背中を向けて、そのまま去っていく――そう思った。

 が。

 ヒナさんは途中で不意に引き返して、戻ってきた。


「あのね」

「何です?」


 頬を叩かれるのか、それとも水でもぶっ掛けられるのか、と身構える僕に対して、でも何故かヒナさんはちょっと顔を赤くして、何やら言いづらそうに、でも言った。


「君みたいな酷い奴のことだからまさかとは思うけど……でもやっぱり、君の好きなあの女の子のことを考えると、とってもとっても大事なことだから、ちょっと確認しておくよ」

「何をですか?」

「あのね」


 ちょっとイライラしている僕の耳元に、唇をそっと近づけてヒナさんは囁いた。


「その……君の言うところの、ちょっとアレなこと――キスをしても赤ちゃんは産まれてこないからね?」

「そのくらい知ってます」


 最後まで馬鹿な女だ、と僕は呆れた。


「もっとアレなこと――大人のキスをするとできるんでしょう?」


 そう言った。


「ええっと……」


 何故か。

 ヒナさんに滅茶苦茶微妙な顔をされた。

 あれ?


「あれ? どうかしましたか?」

「その……――って知ってる?」


 ヒナさんは「せ」から始まるその単語を物凄い小声で言った。

 僕は沈黙した。

 そのまま一分黙った。

 そして言った。


「え?」


 思わず何も考えず素で聞き返してしまった。

 知らない単語だったからだ。


「何ですそれ?」

「うっわ、まじか。……まじかー」


 と、ヒナさんはひたすら呆れたように、思いっきりため息を吐いた。その様子に僕は少なからず動揺する。


「え?」


 何これ?

 どういうこと?


「ねえ、君って本当に男子中学生だよね? むしろ何で知らないの? 保健の授業で教わらなかったの? いや、それ以上に、友達とそういうやらしー話したり、やらしー本を回し読みしたりとかさあ……」

「保健の授業は生きていく上で無駄そうなので休んでました。友達はいますが、そんなちょっとアレな話はしませんよ。恥ずかしい」

「君たぶん友達だと思われてないよ」


 しばらく僕は沈黙し、それから言った。


「え、でも、じゃあ、どうやったら子どもってできるんですか?」


 今度はヒナさんが沈黙した。

 それから人差し指を額に当てて「うーん……」と悩み出した。

 が、何やら決心したように席に座り直し、「いい? 大事なことだから茶化したりせず真面目に聞いて」と言った。

 僕は頷いた。


 というわけで、数分後。

 ヒナさんは丁寧に説明してくれた。

 説明を受けた僕は一言。


「……ヒナさんってえっち過ぎませんか」

「黙りなさい」

「いやだって倫理的にアウトでしょこの話」

「倫理的にはむしろちゃんと知ってないとダメな話なんだって」

「いやいやおかしいでしょ。何でそんなもっとどころじゃなくアレ過ぎる行為が単に子ども作るために必要なんですか」

「うん……君のこと女ったらしのひどい奴だって一瞬だけ思ったけど、勘違いだったね。やっぱり超可愛いよね。君」

「黙れ」

「そういうわけだから、君の貞操はまだ無事だよ。良かったね。童貞くん」

「うるせえ」


 そんな僕の様子を面白そうに見て、ヒナさんは告げる。


「あのさ」


 ヒナさんは言う。


「君、こんなことは全然向いてないからもうやめてさ――今度はちゃんと、自分が本当に好きなあの女の子と真面目にお付き合いしなさい」


 ね、と。

 そう言って、ヒナさんは僕の頭を撫でた。

 まるっきり子供に対してそうするように。 

 笑って。


「楽しかったよ――ばいばい」


      □□□


 翌日。

 言繰のマンションに行くと、言繰は、例のめっちゃ可愛いワンピースを着ていた。

 僕は一応言ってみた。


「またそんな格好して」

「気に入ってるんだからいいでしょ」


 と、言繰は聞きやしない。

 いつも通りの言繰だった。

 いつだって言繰はそんな調子だ。

 見て見てフォロワー一人増えたの、とか何とか言って、こちらに華奢な背中を無防備に向けている言繰を見ながら僕はちょっと思う。


 僕は言繰のことを好きなのかどうか。


 今こちらに向けている無防備な背中を抱き締めて、ちょっとアレなキスだとか、もっとアレなキスだとか――あるいは先程、ヒナさんから丁寧にレクチャーされた、その、何というかめっちゃアレなことをしたいのか。


 駄目だ。


 そんなめっちゃアレなことはできない。普通に考えて、言繰を怯えさせたり、痛い思いをさせたりする可能性が高い。そんなのは駄目だ。


 そういうんじゃない、と思った。

 僕は言繰に触れたくなんかない。

 そんなことは絶対にしたくない。

 僕はただただ言繰を見ていたい。

 彼女の紡ぐ世界を揺るがす言葉。

 それをずっとずっと見ていたい。

 それだけだ。

 ただ単に、それだけでしかない。


「ちょっと」


 と、言繰が僕に対して、告げる。


「ちゃんと話聞いてる?」


 聞いてるよ、と僕は言う。

 そうだとも、と僕は思う。

 言繰の言葉を聞き続ける。


 人間たちが作った「倫理」なんて下らない怪物を容易く足蹴にしてみせるそれを。

 たぶんきっと、その気になれば世界だって簡単に滅ぼすことができるその言葉を。

 誰も理解できない、けれど本当はどんなものより美しいと知っているその言葉を。


 僕だけが、理解し続ける。

 誰にも邪魔はさせないし。

 誰にも、傷つけさせない。


 彼女のことをたかが「戦略兵器」程度の代物だと考えている〈Nシステム〉にも。

 どうやらもっとキナ臭いことを裏で考えていそうなあの古井というおっさんにも。

 もちろん、ごく普通の人間として平凡に生きている異常者である、僕自身にもだ。


 だからこれは、恋とかそういう何かではない。


 たぶん。

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倫理の戦場。 高橋てるひと @teruhitosyosetu

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