第2話

数年後、店は無かった。友人に持ち掛けられた新しい試みが上手くいかなかった。借金で首が回らなくなり、売れるものはすべて売った。私物も店の備品も店さえも。

色々な人にもらったサインは店名も入っており気が引けたが、いい値で売れた。


唯一、売れなかったサインは持っていても仕方がないと捨ててしまった。俺は全てのものの価値を金でしか見られなくなっていた。


それでも膨れ上がった利子と元金を返せる日は来なかった。ある日、逃亡先を割り出した奴らによく知らない倉庫まで連れ出された。腹を蹴られ、背中を踏みつけられ、あらゆる場所から血が流れても暴力の手は止むことはなかった。


「お友達がやらかしたんだから、恨むなら一人でとんずらこいたそいつを恨むんだな」

「ちょこまかと逃げやがって。役にも立たない老いぼれが」

「おい、てめぇ利き手は?」

「……右……」


そうかい、と一言いうとそいつは俺の左腕を捻じり上げた。ゴキッと嫌な音がして力が入らなくなる。蹴り倒され、手の甲をかかとでぐりぐりと踏みにじられる。もはや痛みすら感じなくなっていた。


すっと目の前に紙が一枚差し出された。霞む目と朦朧もうろうとする意識で読み取ると、どこかの団体への寄付についての書類だった。団体名は聞いたことがあるが、これが今出てくるということはなのだろう。俺には関係ないことだが。


「あんたには生命保険がかかってる。そして今から金を作ってもらう。意味は分かるよな?さあ、ちゃんと残してやったんだ。その手でサインしろ」

ころん、と目の前にペンが転がる。妙に綺麗な右手でそれを取り、紙を引き寄せる。抵抗など無駄で、自分はこうするしか道はないとわかっていた。


書きあがった文字はひどくぶれていて、自分でも判読できないようなものだった。

「ひっでぇ字だな。……まあ、なんとかなるか」

そういった目の前の男は俺の指を取ると、頭に押し付けた。生ぬるい血液が指に伝わる。そのまま拇印を押され、蹴り転がされる。


ぴらり、と紙を見せた男は

「んじゃ、これで用は済んだ。あとは消えてくれるだけだ」

と言った。


俺は遠い記憶を引っ張り出していた。男の持つ書類に書かれたサイン。

間違いなく、今俺が書いたものなのに、どこか見覚えがあった。

あのミミズがのたくったよりひどい字。ああ、思い出した。サインだ。


俺じゃない、あの、暗い若者が書いた。


「サインは捨てないでくださいね」

そういったあの男が、ラーメンの礼を言った時の目。少し見えたその目はどこか悲しそうで、儚さをはらんでいた。


俺があれを捨てなきゃ、今頃違う未来になっていたんだろうか……。あの男は俺を助けようとしてくれたんだろうか……。

しかしもう遅い。俺の意識は消える。


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