サイン、ください
藤間伊織
第1話
今日も営業中の看板を出し、店を開いていた。繁盛、と言うほどではないが、まあ自分一人食うに困らないだけの利益は出ている。
常連の麻雀仲間と入れ違いで男が入ってきた。まだ若いひょろっとした男で、どこか重たい雰囲気を感じさせる。完全に両目を覆っている真っ黒な前髪がそう思わせるのかもしれない。
「……味噌ラーメン、と餃子で」
壁のメニューを見て男が言った。
「あいよ!味噌ラーメンと餃子!」
お客には変わりないので景気よく返事をして準備にかかった。
琥珀のスープの中に程よい硬さの麺が入る。チャーシューやメンマ、のりなんかをトッピングしてカリカリの餃子と一緒に提供する。
「おまちどうさま!」
「……いただきます」
割りばしを割ってズズッと勢いよく麺をすする。そんな姿を見ていると、こちらも嬉しい気持ちになる。
しばらくして食べ終えた男がじっとこちらを見ていた。代金はもうもらったし、水は自分で注ぐようになっている。お代わりだろうか?
「あの」
口を開く前に向こうから声をかけてきた。
「へ?なんでしょう」
予期していない声掛けに少し間抜けな返事をしてしまった。
「サイン、書いてもいいですか?」
サイン?と店の壁を見やる。メニューと反対側の壁には数は少ないがそれなりに名の知れた芸能人のサインが並んでいた。昔は今よりここらも賑わっていたからなぁ……。
そんなことを思いながら、目の前の男に目を向ける。正直全く知らない顔だ。ひょっとして駆け出しの芸人か何かで、これから売れる!ということだろうか。
「……確かに有名人とかじゃありませんが、サイン置いておいたらいいことあるかもしれませんよ」
また訳の分からぬことをいう男にまあいいか、と店の奥から色紙とペンを渡してやる。男はスラスラと何かを書きつけると、すぐに
「ごちそうさまでした。ラーメンも餃子もすごくおいしかったです。ありがとうございました。サインは捨てないでくださいね」
と言い、出て行ってしまった。
残された色紙を見ると、宛名も何もなく、ただ読みにくいぐにゃぐにゃした線が書かれていた。まあサインなんて碌に読めないものもあるし、と他のものと同じようにビニールで店内の油から守り壁に飾った。
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