学級活動

「北原」

伸ばしきった腕をさらに伸ばしてそこからジャンプしても北原には届かなかった。フェンスを蹴るようにして頂上を超えるとあっと言う間に向こう側へ、金網越しの北原は下へと移動しほとんど足場のないコンクリートの縁に足を下ろすとゆっくりと外の方を向いた。

「やめろー」

思わず叫び声を上げた。北原は立っているというより、足を引っかけているという状態、後ろ手に掴んでいる金網、あの手が離れればすべてが終わってしまう。


「北原君」

確かにそう聞こえた。もうこちら側の言葉が届くことはないと思っていた北原が後ろを振り返っていた。自分も同じ方を向いた。信じられなかった。そこに誰かがいることもそれが茜だったことも。

「茜」

茜はゆっくり歩みを進め私の横を通り過ぎるとフェンスのすぐ傍に立った。

「こんなこともうやめて」

茜は毅然とした態度で、むしろ少し怒ったような物言いで北原に言った。茜を前にして明らかな動揺が見える、その動揺が少しだけ死から北原の体を引き戻した。

「ごめん」

北原が声にならない声を出す、その様子に茜は、

「もういいから全部わかったから」

と感情をあらわにした。茜はそこから一歩二歩さらに近づいてフェンスに手をかけて、

「私のためだったんでしょ、今までのこと全部」

諭すように言葉をかけると北原は、

「茜さん」

と、ぽつりと言った。

「私うれしかったんだよ、やっぱり北原君はそんなことする人じゃなかったって」

「で、でも」

「もうこんなことする理由はなくなったんだよ、分かったでしょ、こっちに戻ってきて、私からの初めてのお願いだよ」

そう言われた北原が。ゆっくりとゆっくりと体を反転させる。、それから上を向いてフェンスを上り始めた。その様子を固唾をのんで見守る。死のうとしていたさっきまでの北原はもういない。迷いなく進む、フェンスから体が離れ地上に降り立った北原はその場でうずくまるように倒れた。その横に立つ茜。二人の元へ駆け寄る。三人の間に言葉はなかった。ただ茜と二人で北原を見守っていた。やがて立ち上がった北原に、

「歩けるか」

とだけ聞くと北原は小さく頷いて、茜が少し肩を貸すような形で歩き始めた。三人で出口に向かう。北原の歩みに合わせてゆっくりと。足元に注意を向けていると、

「先生」

急に声を出した北原が、前を向いたまま止まった。その理由はすぐわかった。北原の視線を追うとその先に見上が立っていた。

「こんなことだろうと思った」

見上はこちらを冷めた目つきで見ながら吐き捨てるように言った。その姿を見た瞬間、怒りに打ち震え、我を忘れそうになる。でもそうならなかったのは、自分が行動を起こすより先に、茜が前に出て話し始めたからだった。

「見上さんはどうなってほしかった?」

何も答えない見上に、

「北原君は死ねばよかったってそう思う?」

今度も何も答えず見上はただ黙ってこちらを見つめていた。

「私、見上さんには感謝してるんだよ」

「私に?」

訝しげな表情を浮かべる見上に、

「私に全部教えてくれたから」

そう茜に言われた見上は一瞬だけ苛立つような仕草を見せ、

「もう来ないと思ったのに」

と、皮肉交じりに言った。

「私も来るつもりはなかった、だって私が学校に来ないことが唯一の方法だったから」

茜から聞く初めての告白、三人はそれぞれの立場で黙って耳を傾けていた。

「すべてを知ってからいろいろ考えた、そしたら私分かっちゃったんだよね、これって私を試すためにやってるんじゃないかって、だったら私が学校に来なければいい、そしたらやる意味がなくなる、なんだ簡単なことじゃんって」

どこか感心している自分がいた。思いがけず始まった答え合わせによって謎が一つ一つ解けていく。

「じゃあどうして?そう思ってるあなたが何でここに来ているの?」

茜は少し考えてから、

「うーん、予感がしたの、私が学校からいなくなって、実際に何も起きなくなったけど、それで終わるとは思えなかった、見上さんならまた次に何かしてくる、そしてそれは私が一番嫌がること、私がすべてを知ったということを北原君に伝えるんじゃないか、そう思って、止めに来た、そしたらこんなことになってて、結局それは叶わなかったけど、でも北原君の命は救うことが出来た」

北原が茜の顔に視線を向ける、茜はまっすぐ前を向いたままだった。

「じゃあ全部茜さんの思い通りになったわけだ、北原君も死なずに済んだし、もう学校で何かが起きることもない、全部解決、よかったじゃない」

「よくない」

突然感情的な声を上げる茜に全員が同じ反応を示した。

「これで終わりじゃない、私がここに来た理由はもう一つ、見上さんに言いたいことがあって来たんだ」

「私に?」

憮然とした顔で立ち尽くしている見上の目の前で茜は北原の手を握った。

「何してるの」

と見上が露骨に不快感をあらわにした。

「見上さん、あのね、私たちもう一度一緒になるよ」

茜の口から飛び出した言葉にここにいる全員が呆気に取られていた。

「あなたと北原君が何をしたのか、北原君が私に隠し続けてきたこととか、今までのこと全部知った上で、それでも私はまた北原君と一緒になる、これがあなたから受けてきた数々の仕打ちに対する私の復讐」

会話はそこで途切れ沈黙が流れた。誰かが何かを言い出すわけでもなく次に聞こえてきたのは見上の乾いた笑い声だった。

「何がおかしいの」

茜が至極真っ当なことを見上に尋ねた。見上は笑いを押し殺しながら、

「だ、だって、真面目な顔して何を言い出すのかと思ったら復讐って、それ全然復讐になってないよ」

そう言って又見上はケラケラ笑い始めた。

「いいよ、それでも、私はあなたに証明したかっただけ、あなたが何をしてもあなたに何をされても私たちの関係は変わらなかった、認めてくれる?見上さんには壊せなかったってことを」

「あはは、認めるよ、認める、認めてあげるけど、それだけじゃつまんないから、今から台無しにしてあげる」

そう言って見上は歩き始めた。

「二人の間には二人しかいらないはずなのにそこに第三者がいたら?相手のことを思うたびに私のことを思い出しちゃうんだよ、それって邪魔だし辛いと思わない?」

丁度三人のことを斜めに横切るようにして歩きながら話す見上のことをなんとなく見つめていて、だから一歩遅れた。見上の行き先がまさかフェンスの向こうにあったなんて思いもしなかった。様式化された作法に則って死の行程を進めていく、それがあまりにも自然で迷いがなくて、見上がフェンスに触れた所でようやく事の重大さに気付いた。

「見上さん」

走り出す茜の背中を追いかける。駆け寄った時、見上はすでに手の届かないところまで登っていて反対側に移動していく見上をただ黙って見ていることしか出来なかった。

「なんで」

声を震わせながら茜が言った。それは見上に対してというよりこの絶望的な状況に対する嘆きだった。

「言ったでしょ、台無しにしてあげるって」

「見上さん、死なないで、僕のせいなら謝るから」

北原も必死にどうにかしようとしていて、でもそれが最後だった。

「忘れないでね北原君、あなた達の関係は一人の女の子の犠牲によって成り立ってるってことを」

悲しい笑顔だった。金網に掛かっていた指が外れて、でも見上はまだそこにいた。でも、すぐ顔が見えなくなって、それからとっても疲れた時にベッドに倒れ込むみたいに、後ろに倒れていって、見上はいなくなった。




カーテンが揺れて陽だまりを絡めとったような風を顔に受けた。春の陽光は穏やかで、見上も心なしかいつもより顔色がいい。

病室で二人きりでいた時間はそれほど長くなかった。部屋のドアをノックする音が聞こえて、ベッドサイドの椅子から立ち上がった。

「先生いる?」

扉越しに声が聞こえて開けるといつもの二人が立っていた。

「あれ、今日はジャージじゃないのか」

真っ先に二人の制服姿に目がいって、ついて出た言葉がそれだった。

「当たり前じゃん、中学生じゃないんだから」

まるで心外だというように大げさに文句を言う茜に、

「さっき入学式が終わったばっかりだけどね」

と、後ろから北原が冷静な突っ込みを入れると、振りかえった茜が人差し指を口の前に立てて睨みを利かせた。

「お前らが高校生とはね」

感慨にふけっている私をよそに二人はもう動き始めていた。北原は花瓶の花を新しく替えて、茜は着替えを整えて、ベッドの周りをせわしなく動く、こうなると自分はただ邪魔にならないように隅にはけるしかない。そこから、窓の外を見るでもなくただ窓の方を向いてぼーっとしていた。どれくらい時間が経ったのか、茜に声を掛けられた時には、見上の身の回りのものがすべて整頓されていた。

「じゃあ売店に行ってくるね、朝から何も食べてなくて」

まだ見慣れない制服姿の茜と北原を見送る。すぐには戻ってこないだろうからまたしばらく見上と二人きり、取り敢えずベッドサイドの椅子に腰を下ろした。見上は穏やかな顔で眠っている。この顔を見ていると、いつか目を覚ましてくれるんじゃないかと本気で信じることが出来る。ただ一方では違う未来のことも想像してしまう。

「ひどいよな、先生は―」

もしも見上が目を覚ました時のこと、その時に最初に見るものがあの二人だったら、見上はどう思うだろう、その上四年間ずっと自分に付きっ切りで、自分の命をつないでくれたのがあの二人だってことを知ったら今度こそ見上は本当に死んでしまうのではないか。それなら一層のことずっとこのままならいいのにと思ってしまう自分がいた。見上が聞いているかわからないけど、二人が帰ってきたら正直に言おう。そう決心してからベッドで眠る見上の顔を見た。穏やかに見えていた彼女の顔は全然そうではなかった。

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教室に棲む 暮メンタイン @kuremen

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