[20時35分  北校舎・屋上]

 コンコルド本田ほんだという売れない芸人扱いをされそうになった白服の殺し屋は、必死で頭を回転させていた。


 一応、愚痴女の勘違いに乗ってこの場をやりすごすというのも考えたのだが「わたし、ファンなんです。あの、初めて上京した日に野方のがたで見て。あのギャグ最高でした。『きらーん! きらーん! きらららーん!』というやつ!」から始まるその芸人のギャグ一覧を聞いてその路線は放棄した。


 なんだそれは。どこが面白いんだ。


 問題は売れない芸人という路線を放棄した以上、どう自分を説明するか、ということである。夜の学校にいる白い服の男。適当な嘘で切り抜けられるものなのだろうか。


 いや、と呟く。


 嘘を吐く必要はどこにもない。ここにいるのは、疲れた中年男と、東京という町に潰されかけた愚痴女と、初老の女だ。例え三対一でも問題なく勝てる。勝てる以上、自分が譲歩する必要はどこにもない。


 「私は芸人ではありません」


 え、違うんですか、と愚痴を吐き終えた大学お休み記録更新中の江藤えとう菜々美ななみが目を丸くした。でも、野方で……と言葉を重ねる辺り、どうも彼女にとって「上京初日に芸能人を見た」というのは思い入れのある過去の出来事らしい。


 知るか、そんな思い入れ。


 「売れない芸人でなければ、なんなんだい」


 三人の中で唯一話が通じそうな初老の女がさぐるような視線を向けてきた。わずかに緊張が走る。冷静な心と知性は、時に暴力を上回ることがある。


 「殺し屋ですよ」


 自然な口調で答える。


 「こ、殺し屋ということはつまり……」中年男がさすがに震える声を出した「君は売れない殺し屋なのか」


 落ち着け、おっさん。落ち着いてください。


 「『売れない』は余計ですよ。これでも、それなりに仕事には不自由していませんので」


 「それはうらやましいね……」殺し屋の言葉に、まもなく倒産する会社に勤めている中年男は深く溜息をついた「それに比べて、こっちはね……娘も二人いるし、受験生だし……妻にはまだ話していないんだけれども、毎朝、あんなに明るく送りだしてくれるのを見る度に……」


 「あーもう、またぶりかえしたじゃないか! せっかく吐き出すもの吐き出させたところだったのに!」


 初老の女が詰め寄ってきた。その気迫に一歩引いてしまう。いや、いまのは自分は悪くないだろう、と思いながらも引いたのは間違いだった。理不尽に対抗できるのは理不尽だけだ。引いた以上、負けになる。


 「い、いや、いまのは別に……」


 「なんだい! なにが『別に』なんだい!」


 勢いに押されて手すりまで下がる。再びマイナス方向に入った坂上と、さきほど自分の愚痴を処理し終えた菜々美との間に距離が生まれる。不意に詰めてきた初老女の目が冷静なものになった。手が脇の下に差し込まれる。なるほど、銃を確認するつもりか。ならば触らせてやろう。


 出版業界に携わった関係上それなりの知識を持っている久保寺くぼでらさちの声が低くなった。


 「本物かい」


 「ええ。ですが、あなた方に向けるつもりはありませんよ――いまのところは」


 「顔を見ているよ」


 「だから?」


 久保寺幸は息を吐いた。詰め寄ったところから演技が始まっていたらしい。その度胸に敬意を表して静かな笑みを浮かべる。


 「私は仕事のためにここに参りました。それが終われば帰ります。まあ、あなた方が私のことを警察に喋るかもしれませんが、それは構いません。目撃者は全て消す――そんなことをしていたら銃弾がいくつあっても足りないですからね」


 なるほど、プロだねぇ、という言葉は目の前の幸からではなく、屋上と校舎をつなぐ扉から聞こえた。金属製の扉が開かれ、和服を着た四十代の男が姿を見せる。


 誰だ。


 男は飄々ひょうひょうとした足取りで屋上に入ってきた。顔がわずかに赤いのは酒でも飲んだのだろうか。それでもすきは全くないが。


 賑やかだねぇ、と屋上いた面々を見回すと、男は後ろを振り返った。ほら、堀井さんたちもおいでよ、という言葉と共にヤクザ三人組が姿を現す。


 「自己紹介が必要だね。俺の名前は蔵内くらうち多十郎たじゅうろう。仕事は……まあ長くなるから後回しにするか。それにしても今晩は賑やかだね、この学校」


 まあ、なにはさておき、と多十郎は徳利とっくりを取り出した。


 「こいつを傾けながら話でもしないか」

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夜の学校に宿題を取りにいったらなんだか大変なことになっていました ハフリド @halfread

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