フルーツタルト

大学からの帰り道、私はいつも最寄り駅にある本屋に寄ることにしている。それは駅ビルの六階にあるのだが、改札口に一番近いエレベーターはいつも人が多いので、まず近くにある階段で3階まで上がり、そこから通用路を通って階の一番端にあるエスカレーターに向かう。人嫌い、密集嫌いにとって、エレベーターは避けなければならない場所の一つだった。

本屋では大体新刊のうちから気になるものを一冊、近代文学から一冊、古典一冊、文芸誌一冊、たまに漫画雑誌なども含めて、一度の訪問で五冊ほど買う。しかし中々目に留まるものがない場合もある。そんなときは何も考えず、書棚の目立つところに置かれている、書店おすすめの本を一冊だけ買うのだが、今日に限っては、その本がどうにもつまらなく見える。私は悩んだ。悩んだ末に、結局買った。こういうときに買わないという選択肢が出ないのが私の悪い癖である。後悔はなかったが、良い本に出会うことができなかったという事実は私の心を少し沈ませた。

本屋から帰るときには、また違う場所の通用路を通るのだが、その入り口のところに一軒のカフェがある。数年前まではケーキ屋だったのが、隣の店(確かワッフルか何かの店だった)が閉店したときに、その空いたスペースを客席にして、カフェになった。元々がケーキ屋ということもあって、普通のカフェよりもスイーツが美味しいので、私も買った本を読むついでによくお邪魔している。店に入らなくても、店の前で立ち止まってどんなスイーツが並んでいるのか見るのが一つの日課になっていた。今日はフルーツタルトが出ていた。私が子どもの頃から売っているお馴染みのケーキである。カスタードの生地の上に苺、メロン、ブルーベリーが乗っているカップ型のタルト。昔はもう少し大きかった気がするが、今では片手に乗るほどしかない。これで昔よりも値段は高いというのだから、時代の移り変わりも嫌なものだと思った。

そんなことをぼんやり思いながらショーケースを見ていると、ふと一つの思い出が浮かび上がってきた。このケーキ屋を初めて見たときの情景である。


それは私が中学二年の頃のことだった。その頃私の両親は所謂英才教育というものを私に施そうと躍起になっており、高校受験に向けての塾通いをさせられていた。いまいち成績の伸び悩んでいた私は両親により厳しく叱咤され、塾以外での勉強の量も増えていたので、私の心は荒み、思春期から来る反抗期も重なって、半分自暴自棄のようになっていた。

そんな時期の休日、塾が終わったあとの午後四時ごろに、私は新しい参考書を買うためにこの駅ビルに来ていた。そして参考書を買ったあと、今日と同じ通用路を通って帰ろうとしたとき、このケーキ屋が目に入った。赤と黄色の英字で書かれた看板から赤いカーテンが左右に垂れ下がり、淡い青色で塗られた壁にはさまざまなシールやテープが貼られていて、他の店とは全く違う空気がそこには流れている。クリスマスの時期だったからか、店頭にはサンタの人形が置かれ、その横には小さめのクリスマスツリーが飾られていた。それだけでも私の足を止めるには十分だったが、私の注意を最も引いたのは、店の真ん中にあるショーケース、その中のさらに真ん中に置かれたフルーツタルトだった。そのフルーツタルトは、煌びやかな店内の灯りをスポットライトとして目一杯に浴びて、自分を際立たせていた。赤と黄と青の三原色で構成されたそのケーキは、まるで一枚の絵画のようである。そう感じると、ショーケースはその作品を守るための保護ガラスのように見え、並んでいるケーキはそれぞれ違う美術品のように見えてくる。その頃の私にとってこのケーキ屋はまるで一つの美術館であり、その美術館で最も厳重に守られ、もっとも注目される主作品がこのフルーツタルトなのであった。

財布を覗いてみたら、参考書を買ったお釣りで六百円残っている。フルーツタルトを買うのにギリギリ足りていた。両親の帰りは夜なので今買って帰ればケーキを食べることはできる。しかし、両親にはお釣りは返せと言われているし、参考書のレシートも見せなければならない。まず間違いなくバレるだろう。私は両親の顔を想像した。あの屈強な大人の怒りの顔。子どもに深い傷を残すために用意された鬼面。それは幼い私にとって何よりも強い薬であった。私は財布を参考書でパンパンになった学生鞄に勢いよく突っ込んだ。私が出来た唯一の反抗が財布への八つ当たりだとすると、あまりに悲しいものである。

私は何も買わず家に真っ直ぐ帰った。フルーツタルトの幻影は私の頭に長いこと残り続けたが、その間に店に行くことはなかった。なぜかは分からない。あの日感じた幻想的な光景を理想のうちに閉じ込めておきたかったのかもしれない。


今はあのときの店とは大きく変わっている。看板はピンクの細字で描かれ、外観は木材を主体とした質素なものになった。あのフルーツタルトも今見ると、ただの何の変哲もない小さなフルーツタルトである。そう思うと、少しおかしかった。

少し悩んで、自分用のチーズケーキと両親へのシュークリームを二つ買った。良い本を買えなかったことはもう忘れていた。





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随筆集 みどり怜 @oreo1115

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