それ、だけは。

豆ははこ

それ、だけは。

「……きれい」 


 道着を着たその人を見たのは、二月に一度の書道教室の帰り道。


 ぴんとした、きれいな姿勢で走っている。

 疾走。と、言うのだろうか。


 そう言えば、敷地内の別の建物は合気道の道場だと、先生に伺ったことがあった。奥様が師範でいらっしゃるという。

 ただ、今はもう合気道の道場は閉めておられるとか。

 なら、あの人は師範から個人練習の指導を受けていた、とか、別の道場の方、とかなのだろうか。


 合気道。

 確か、技を受けて、流す。相手の力を使って、返す……だったかな。


 それくらいしか知らないし、その知識さえどこ由来のものかは判然としない。そもそも、あの人は走っていただけ。


 それでも、それでさえ、あんなに美しいと思えたのだ。

 あの人はきっとかなりの実力の持ち主なのだろう。そんな気がした。


 一応、書道なら私も有段者だ。だから、分かることは、ある。……気がする。


 ……あ。

 一瞬だけ、視線が交錯した気がした。


 すると、その人は何も見ていなかった風に、また疾走していた。


 それで良い、と思った。


 あんなに美しい人の視界に映るのは、私には役が重すぎるから。


 意外なほどに納得をしている自分がいた。

 そんな、中三の冬。


 ……そして、それから、数ヶ月後。


「ねえ、今日の入学式、代表は高等部からの編入生、外部からの子らしいよ?」


 高等部の入学式の日。

 中等部からの友人のうち、一番仲の良かった子が同じクラスで良かったと思っていたら。


 その子から、すごい話が聞こえてきた。

 どこから仕入れてくるのか、新聞部員でもないのに学内の情報通の子なのだ。


 うちの女子校は、中高大の一貫教育で、高校は編入試験は行っても合格者がいない、なんてこともあるくらい。

 大学はかなりの生徒が付属の女子大に進学するが、そうでない人も一定数はいる、そんな感じ。

 だから、編入試験合格者でしかも新入生代表だなんて、我が校ではちょっとしたニュースになるような話だ。


 ……中等部一の才女と言われていた子じゃないのか。

 もしかしたらあの子は外部に行ったのかな? と思っていたら。


「あの子はほら、私達と同じクラス」

 ……確かにそうだ。見覚えがあるあの子は最前列に着席していた。トレードマークのポニーテールもそのままに。

 友人はちゃんと小声で私だけに話している。気遣いができる人ではあるのだ。だからこその友情とも言える。


 ……新入生代表、土岐ときみさき。


 先生と同じ名字だった。


 その一瞬、体育館はどよめいた。


 一応名門と呼ばれる、中高大一貫の女子高。

 自分達で静寂を取り戻せたのはさすがだと言っても良い筈。

 ……多分、私以外の生徒は全員、息を呑んでいたと思う。


 理由は、明白。


 彼女、土岐さんが、あまりにも美しい人だったから。


 ブラウンのジャケットに、黒のパンツ。

 うちの高校が名門なのに早々に希望選択方式でのパンツタイプの制服を導入していたことに、私は深く感謝していた。

 私の様にスカートタイプならリボンとなるが同色の、ボルドーのネクタイまで輝いて見える。


 長い真っ直ぐな黒髪は艶やか。すっ、と伸びた背筋と、きめ細やかな肌。眉は、多分女子高生の十人中十人が『こんな風に描けたら』と願う濃さと長さ。瞳は波に濡れた黒い貝殻の様に、つやつやと輝きを見せていて。


 ……熱く語りすぎた。

 でも、多分この表現、間違ってない。だって、皆が見とれている。


「……学生としての本分を忘れることなく、限りのある高校生活を悔いなく過ごせます様に精進いたしたく、入学の辞とさせて頂きます。新入生代表、土岐みさき」

 理事長に式辞を差し出してから、礼をする土岐さん。


 声が、ううん、声も。……素敵だ。


「土岐さん、背高いよね。何か運動は?」

「ごめんなさい、自宅が遠いから、運動部に入部するのは厳しいかな」

「見学、見学だけ!」

「あ、演劇部、興味ない?」

「演劇部も拘束時間、長いよね? すまないけれど」

 ……土岐さんの編入学から、1週間。


 懲りもせず、という感じの子達が土岐さんを囲む。


 土岐さんは、必要以上に関わられるのは困るけれど、全てを拒否するという感じではなかった。


 意外と言うのは失礼だけれど、割と丁寧に、全員の話を順番に聞こうとしてくれている。


 ただ、昼食とか、移動教室とかは一人で行動したいタイプだった。


 勇猛果敢、というのか、何人かが立候補をした校内の案内も「編入試験合格後に一通り先生から説明して頂いたから大丈夫。ありがとう」この一言で全てをお終いにしていた。

 そして、土岐さんの申し訳なさそうな笑顔が皆を幸せにしていたのだった。


 派手な子にも、地味な子にも、全てに平等。そんな印象だった。


 ……選び放題なのに、選ばないんだ。


 結局のところ、私は土岐さんへの好感度を勝手に上げていたのだ。


「土岐みさきさんは物理部に入部したからね。特に運動部、助っ人依頼とかは遠慮なさい。そもそも、うちの学校は部活の入部は自由なんだから」


 校長先生さえ逆らえないと噂の学年主任の先生に言われたのが、ゴールデンウィーク明けのすぐのこと。


 土岐さんが入部したのは、顔と授業内容は良いのに偏屈な物理教師の物理部。追い掛けていく猛者はさすがにいなかった。

 物理の試験で平均点プラス30点という、驚異的な点数を取ることが入部の最低条件だという噂だし。土岐さんは平均点が30点台の物理の試験で80点以上を取る人なのだ。


 そもそも、10年以上前に一人だけ部員が存在していて、その人は今大学の準教授らしいから、かなり現実みのある噂だ。


 土岐さんは編入試験以降も物理以外の科目も含めた全ての試験の総合点で首位をキープして、スポーツテストや球技大会、体育の授業では体育会系部活の一年生レギュラー組よりも上をいくという、正に眉目秀麗、文武両道、快進撃で邁進していた。


 文武両道、はちょっと使い方が違うかも知れないけど、まあ、イメージということで。


 私は二月に一度の書道教室の時に少しだけお隣の道場を覗いて帰る、というのが習慣になっていた。

 先生は多忙な方で、私も普段は近所の別の教室に通っている。本来の教室の先生が懇意にされている土岐先生に頼んで下さったのだ。


 だから、お家が遠いので運動部は無理、というのは土岐さんの本音だったと思う。


 姿は見えなくても良いのだ。見えるかも、が嬉しかったので。

 もちろん、ごくごくたまに見られる道着姿は格別だったけれど。


「ねえ、土岐さんに文化祭、何かやってもらおう? 朗読とかどうかな。去年は無難に絵画とか芸術系の展示会だったじゃん」


 ……例の情報通の友人からそう声を掛けられたのは、クラス持ち上がりの二年生の秋のこと。

 うちの高校は文理クラスには分かれずに、選択制の授業内容となるのだ。


 文化祭。

 中等部から毎年、飲食店は火気厳禁、とか当たり前の縛りしかない割と自由な催し。

 ただし、男子の入場は基本的に身内のみ。


 身内を招待するにも、氏名学年組全てを記載して保護者の署名入りの招待状を学校に申請しないといけない。

 だが、女性ならばこれで身内以外も入場可能となる。


 因みに、保護者も保護者以外も身分証明書掲示の上、写真撮影は許可制。これは、男女の別なくだ。


 自由な催しを成功させるには、それ相応の規則が必要ということだろう。 


 卒業生は卒業後三年間は招待状が送られる。卒業生本人と保護者のみ。それ以降は申請が必須。


 何もそこまで、と思うか、徹底していて良いと思うかは人それぞれ。


 去年クラスで行ったのは芸術系の展示会。私は書道作品を出したから楽だった。

 土岐さんは、油絵。何というか、天が何物を与えたの? みたいな素晴らしい静物画だった。

 土岐さんは美術選択じゃなかったから、美術部顧問の先生が本気で驚いていたくらいで。選択科目は書道だったから、あれ? とは思ったけど、作品を見たら納得だ。

 因みに書道は絶対に有段者。一目で分かる出来栄えだった。書道担当の先生がラクをしたくて見本を土岐さんと私に書かせていたほど。


 ……まあ、それはそれ、で、朗読劇か。


 確かに、聞きたいな。土岐さんの、静かなのに、朗々としているあの美しい声で。

 私はまた、あの式辞を思いだしていた。


「聞きたいな、って顔してる。じゃあ、台本、書いて! 国語、大得意じゃん! 書道は有段者だし! たまには文芸部員らしいこと、しなよ!」

 まあ、私も、国語だけは現代文古文漢文、全部得意で唯一学年首位だけど。


 土岐さんに比べたら、総合点、何点開いてることか……。

 あと、文芸部員なのは人数合わせに、と頼まれて所属している公式の幽霊部員だ。私は元々、書道に力を入れるつもりで無所属を貫いていたし。

 書くこと自体は好きで、文芸部誌の表紙の題字を喜んでもらえるのも嬉しかったけど。


「土岐さんと比べちゃダメだって! 理系なのに文系科目もハイレベル、っておかしいからね、良い意味で」

 この友人も、日本史と世界史はほぼ満点。歴史オタクなんだよね、と笑うところとか、やっぱりこの子は良い友人だ。


「どうする? 男装の演劇とか、執事喫茶とか。土岐さんに男装させたくて、皆うずうずしてるから。あんたが台本書いてくれたら、土岐さん、やってくれないかな。あと、男装の演劇とか、執事喫茶とか、人に囲まれそうなこと、土岐さん嫌なんじゃないかなあ。ほら、バレンタインデーも、必ず持ち帰るから、一人ずつ渡して、って言ってたし」


 そう、バレンタインデー。

 うちの高校はチョコレートと手紙くらいなら持ち込み可。チョコレート以外の高額な品物が見付かった場合、即座に中止と決まっていて、土岐さんほどではないにしても人気の生徒達は元々在学していたから、生徒同士で『やり過ぎない様に』という暗黙の了解はある。

 あと、スマホ。

 今どき、保護者からの連絡も職員室。特段の事情の持ち込みは保護者からの事前申請が必要。

 こういうところ、私はやっぱり嫌いじゃない。土岐さんも、そうなのかな。


 ……ふむ、土岐さんの、朗読劇。台本、かあ。


 やってみるか。


「……良いね。これ、緑丘みどりおかさんが書いたの? 題名もいいよ。『それ、だけは』。『それだけは』じゃないんだね」

「え、はい。そうです。不詳、緑丘育子みどりおかいくこが書きましてございます! 題名も、ありがとうございます!……あ、ありがとう……!」

 私は土岐さんと話すと、どうしても敬語になってしまう。

 慌てていたら、無理に直さなくても良いよ、と土岐さんは言った。


 三日後。昨日だけは最終チェックでほぼ徹夜だったけれど、この感想が頂けたのなら十分だ。


 そう、私の名前、緑丘育子。

 みどり、とか。いく、と呼ばれることが多いけど。土岐さんはちゃんと、緑丘と呼んでくれた。


「さすがだね。……これなら、やらせてもらおうかな。ええと、衣装とか発声とかはどうしたら良いのかな」

「「お任せ下さい!」」「私達も!」

 家庭科部員とファッションデザイン同好会員が同時に叫んだ。後に続くは演劇部員だ。


 一週間後、私は『文化祭MVP』としてクラスのほぼ全員からの気持ちとしてスイーツビュッフェの招待券を贈られた。

 文化祭の準備中なのに、である。


 ……そして、文化祭。


 土岐さんは、男装というか、黒スーツと革靴とループタイ姿で朗々と朗読劇をこなしてくれた。

 ループタイは家庭科部員の傑作。

 衣装はレンタルではなく、ファッションデザイン同好会員がの古着を購入してきてくれた。


 文化部所属者以外のクラスメートは、照明や音響以外の子は皆で動画配信サイトとかに投稿されない様に、撮影を止めさせたり、警備員さんみたいに頑張った。


 私は一応、台本執筆者として舞台袖に。幾つも用意していたカンペ用のホワイトボード係も兼ねていた。


 でも、それは必要なかった。完璧に台本を暗記してくれていて、抑揚のある声が響く、素晴らしい舞台だった。


 愛する人が、戦地へと旅立つのを見送りたくても見送れない、詩人の青年。

 何故なら、愛する人の婚約者は、青年の大切な姉なのだから。最期になるかも知れないその刹那。……邪魔はできない。だから、青年は謳う。初恋の人に送る、愛の詩を。


『戦地に向かう貴方を、愛しています。だけど、僕は……姉さん。貴女のことも、大好きなのです。だから、許して下さい。この詩を、貴方を思って詠むことを。……それ、だけは』


 深い、礼。

 暗転する、舞台。


 拍手の渦。


 私は途中からずっと、泣いていた。


 在校生と来校者からの人気投票ダントツ1位になり湧き上がった私達クラスの文化祭は、土岐さんもファミレスでの打ち上げと、カラオケボックスの二次会まで参加してくれて、大興奮で幕を閉じた。


 そして、文化祭の後、土日振替の二日間の平日休みが明けて。


 ……もう少しだけ、土岐さんと仲良くなれるかな。

 皆がそう思い、登校したら、学年主任からの一言。


「土岐みさきさんは、少しだけお休みされます。皆には伝えるけれど……」


 担任の先生ではなく、学年主任の口から語られたその理由は、ひどいものだった。


 あの、大盛況の文化祭のあと、生徒は二日間の平日休みとなった。


 その間、土岐さん宛に学校に色々な品々が届いたらしいのだけれど、その中に、ぬいぐるみに簡単な電波を発するGPSや通販で買える簡易盗聴器を埋め込んだキーホルダーなどがあったらしい。


 ……土岐さんが芸能人の卵だとか、ありもしない噂が流れた為らしいけれど。


 それでも不幸中の幸いだったのは、送り主は在校生ではなく、卒業生や、その保護者だったらしいこと。

 もしかしたら、外部の女性客だったのかも知れないということだった。

 確かに、女性で、身分証明がきちんとしていれば、入場は不可能ではない。


 学年主任の先生と物理部顧問の伊勢原先生、理事長先生が相当手を尽くして、土岐さんのご家族も何とか納得して下さったらしい。

 もちろん、そんなことをした人達はこってりと絞られたそうだ。


 だからって、……GPSとか、正気? 本格的なものじゃないから、とか?

 

 いくら何でも、酷すぎる。……クラスがざわつく。


 ……理由は?

 

 土岐さんの容姿が際立って良いから? 声がきれいだから?


 それで、だからって。


 土岐さんのこと、知らない人達が。

 

 ……一方的に傷付けたの?


 ふざけるな。


 高校生の、普段の土岐さんを知りもしないで。


 台本を喜んでくれたこと。演劇部員に立ち方や発声を習って、一生懸命練習していたこと。

 打ち上げで、ドリンクバーを五回もおかわりしてたこと。二次会のカラオケボックスで、超有名ゲームのアニメ主題歌を熱唱していたこと。


 そうだ。……土岐さんのことをあの一瞬の派手な舞台でしか知らないくせに。知った気に、ならないで。


「……そう、そうやって、怒ってあげてほしい。そして、土岐さんが戻って来たら、普通のクラスメートとして、迎えてあげて」

 私は何度も首肯した。泣いている子もいた。

 多分、皆、気持ちは同じだった。


 それから少したった後、土岐さんは登校してきた。


「緑丘さん、ごめん。台本、素晴らしかったよ」

 小さな声で。言ってくれた。


 こんな時に、なんで私を気遣えるの?


「……ありがとう」

 私は普通に笑えていただろうか。


 土岐さんは「こちらこそ……本当に」と言ってくれた。

 

 声は、優しかった。


 それ以降、土岐さんはあまり笑わなくなった。


 バレンタインデーは学年主任の先生と物理教師の尽力で、何とか継続してもらえた。


 チョコレートと交換の手渡し又はクラスその他を明記の人限定で後日一律のお返し配布。それでも嬉しい、という生徒は多かった。


 私? 私は渡さなかった。去年も、ね。


「え、土岐さんが」


 そんな日々を重ねて、私達は、三年生になった。


 そして、やっぱり相変わらず情報通の友人から、土岐さんは物理教師の娘さんの家庭教師を始めたらしい、と聞かされた。


 バイト自体はうちの学校は保護者の許可申請のあと学校が許可すればOK。

 要するに審査されるのはバイト内容と成績だ。

 土岐さんはどちらも問題ないのだろう。


「でね、多分……」

 友人が話してくれた内容は、特に驚くことでもなかった。


 物理教師の娘さんがとてもかわいらしくて、土岐さんとお似合いらしい、と。


 そりゃそうだ。

 物理教師は偏屈極まりないだけで、黒髪長髪高身長のイケオジだ。

 外見だけならファン、という生徒は枚挙に暇がない。離婚したという情報が以前、ちょっと話題になっていた。


 娘さんもさぞかし美少女なのだろう。


「美少女は、そうなんだけど。ふわふわくりくり、みたいな感じで、伊勢原先生とは似てないみたい。あ、でも……土岐さんね、楽しそうだったんだって。あと、ものすごくお似合いだったらしいよ」

「そうかあ。……うん、良かったんじゃない? 土岐さん、進級してから楽しそうだし」

「うん、それは、ね。……で、良いの?」

「何が?」

「そっか。なら、良いけど……」

 友人は何故か、いつもより少し、静かだった。あと、見てきた様に話すんだなあ。


 それはそうと、土岐さんは、三年生になってからは、前みたいに笑うようになっていた。


 文化祭も、皆が土岐さんに何かをお願いするのを遠慮していたら、なんと、自ら着ぐるみの客引きに立候補してくれた。


 信じられないくらいアクロバティックな着ぐるみのウサギさんのおかげで、リンゴ飴、イチゴ飴の『飴や』は大繁盛、千客万来だった。


 そして、内部進学がほとんどなので普通の進学校生よりは緊迫感が少ない受験生の冬のある日。


 一度だけ。私は見た。


 冬のある日。


 土岐さんと、伊勢原先生と、伊勢原先生の娘さん。


「あ、緑丘さん?」

「あ、こんにちは。これから土岐先生に書道を教えて頂くんです」

「そうかあ。通いの生徒さんってやっぱり緑丘さんだったんだ……また、来年学校で」


「伊勢原先生達、土岐さん、失礼します」


 ……私は多分、うまく話せた。

 土岐さんも、伊勢原先生も、多分、娘さんも笑顔だったから。


 年が明け、土岐さんは外部進学であることを知った。あまり驚きはなかった。


 そのまま普通に、私達は卒業式を迎えた……筈だった。

 それなのに。


「緑丘さん、あのさ、いらなかったら遠慮なく言ってほしいのだけれど、私の制服のボタン、いるかな?」


 答辞をみごとにこなし、卒業式後のクラスの集合写真撮影とクラスメートとの撮影会みたいな遣り取りを終えたあとは全く姿が見えなかった土岐さんに声を掛けられた。


「い、いります? え、え、下さるので?」

 いや、幻聴なら相当恥ずかしいぞ。


「うん。中学校の時は何だか争奪戦? みたいになったから学校側から禁止されてね。でも、ここは平穏だから、大丈夫かなって。で、どうせ誰かにもらってもらうなら、緑丘さんが良いなあ、って」


 幻聴ではなかった。でも。


「え、な、なんで」


「……友達だから。初めてだったんだ。この学校と、クラス。皆の一員? だった気がした。楽しかったよ。あと、緑丘さんは父の教え子さんみたいなものだし。緑丘さんには私、一番お世話になったから。あ、第二ボタンは残して良いかな。あとは、袖のまで全部、どうぞ。用途はご自由に。さすがに、シャツは袖だけで、ね」

 土岐さんが、笑った。


「あ、やっぱり第二ボタンは、渡す人がいるんだ。伊勢原先生の娘さんですね」

 ……バカ、何でここで、それを言っちゃうかな、私? せっかく、途中までは普通に話せたのに。


「そうか。緑丘さんは会ってたよね、あの子に。……なら、きちんとお話をしないと申し訳ないね。実は、私が第二ボタンを渡したい人はあの子じゃなくてね……」


「え」

「……驚いた? 内緒だよ。きっと、もらって頂けますか? なんて言えるのは、まだまだずっと、先だよね。早くそんな大人になりたいよ」


 ボタンを切るために、小さなハサミをポケットから出しながら、土岐さんはやっぱり、笑っていた。

 ……そうか、土岐さんを笑顔にしてくれた人は。その人なんだ。


 ブラウンのジャケットの第二ボタン以外は本当に、全て、外れていく。

 タグに付いていた予備ボタンまで。あとは、シャツの袖のところのも。

 

 ……さく、さく。


 次々に切れていく糸。たくさんのボタン。

 私は慌てて手を差し出す。


「結構、量があったね」


 ざらざらと私の手の平に落ちていくボタン達。

 そして、土岐さんの、声。


「……何かあったら、父に連絡して。緑丘さんには、また、会いたいから。今度は目、逸らさないからね。あ、物理教室と、それから教室に行くから、じゃあね。それから、これ」


 首元から外されたのは、ボルドーのネクタイ。……それに、逸らさないから、って。


「あ、ありがとう!」

「こちらこそ」

 第二ボタン以外は予備ボタンも含めて全て無くなった、ブラウンのジャケット。襟シャツからは、ネクタイも消えていて。


 そんな有様の制服を着ていても、やはり、土岐さんは誰よりも凛々しかった。


「みーどーり。あんた、土岐さんと話してた? え、ボタン? そんなにたくさん? もしかして……」

「うん。土岐さんの。上衣全部。もちろん、お裾分けするよ。あと、聞いたよ。土岐さんの意中の人は、伊勢原先生のご関係の方だよ」


 ネクタイは、手を使えない私の代わりに土岐さんがポケットに入れてくれた。

 だから、私のリボンの隣には、あのネクタイが居る。……十分過ぎる、卒業祝い。


「……やっぱりだった? あ、大丈夫。土岐さんのファンの子達には秘密にしておくから。あと、これ使いな」

 ポケットから極小サイズに畳めるエコバッグを出してくれた情報通の友人……いや。


 この子なら、大丈夫。


 何故ならこの子は、大の百合小説愛好家。美しい百合を静かに見守るのが信条、と断言している文芸部部長だ。

 情報通なのも「学内の美しく清々しい百合を守るために!」らしい。あ、百合漫画も嗜むみたい。

 エコバッグは『いつどこでまだ見ぬ素敵な作品に出会えるか分からないから!』だそうで。


「……眉目秀麗、成績優秀な土岐さんと、偏屈教師の娘さん。しかも、あの、めっちゃくちゃかわいい……。良い……」


 幸せそうな友人。

 本当は噂、じゃなくて実際に見たのかな。

 私みたいに、二人が一緒のところを。


 まあ、あの二人がお似合いなのはその通りだと私も思う。


 どちらにしろ、友人も、私も……嘘はついていないのだ。……多分。


 土岐さんの好きな人は、確かに伊勢原先生の娘さんのご血縁なのだから。


 あのかわいらしい子だと友人が思うのは……それはそれで、良いのだ。


 土岐さんは、ボタンを「自由にしてね」と言って、笑っていた。多分、写真撮影後も物理教室にいたのだろう。

 集合写真のあと、クラスの子達とある程度一緒に写真を撮ってくれたのはきっと、土岐さんから、クラスメートへの感謝の現れだ。


 物理教室に向かい、それから荷物を取りに教室に戻り、下級生からの写真撮影依頼は固辞して、大量の手紙を受け取ると、土岐さんは帰宅した……らしい。

 さすがに、襟シャツやパンツのボタンをねだる者はいなかった様だ。


 私は、あの大量のボタンを収納してくれた友人のエコバッグに感謝を捧げた。


 そして、夕方、集まれたクラスメートで開催した、卒業おめでとうのファミレス食事会。


 ボタンを皆に分配した私は「卒業式MVP」となり、二年生から数えて二度目の栄冠に輝き、飲食全てを奢られた。


 ところで、進路は。


 物理部のただ一人の先輩が准教授をされている名門大学に合格した土岐さん以外はクラスメート全員、付属の女子大学に進学。


 それからの日々は、たんたんと過ぎている。


 高校のクラスメートの誰かに、ほぼ毎日会える大学生活。ポニーテールを見掛けることもある。


 そして、たまに土岐さんのことを考える。


 ……ねえ、土岐さん。


 大学に入学して、お酒も飲める年齢になった私達は、まだたまに貴女のことを話すよ。


 百合大好きな私の友人も、未だに貴方と伊勢原先生の娘さんのことを考えて、にやけているし。


「尊いよねえ……」


 そうだね、きっと、尊い。


 貴女の思い人。

 絶対に素敵な女性だ。


 あの、かわいらしい子の……だもんね。


 いつかどこかで、その人が、土岐さん、貴女と歩いているところを偶然見られたら良いな、と思う。……いつかの、あの時の様に。


 実は、土岐さんからはお正月とか、節目に電話がくることがある。


 今どき、家の電話に。


 そして、ごくたまに、上等な筆とか、高級な半紙とかが、クリスマスプレゼントとして贈られてくるのだ。


 私も時々、高級色鉛筆とかを贈っている。品物じゃない時は、お高めのクリスマスカードか、アドベントカレンダーを。


 今年は何を贈ろうかな、と思うと、やっぱり考えてしまうのは、土岐さんのこと。


 そんな時は、クローゼットの中のネクタイや、 自分の部屋の本棚の中にある、あの台本を見てみたりして。


 ……そして、私は呟くのだ。


 それはいつでも、同じ言葉。


 ありがとう、私を友達、と言ってくれて。


 ……だけど、次の言葉は。


 誰にも言わない。言うつもりもない。

 

 もちろん、土岐さんにも。


 ……いつまでも、貴方は私の、初恋の人だと。


 そう、『それ、だけは』。








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