仰げば尊し



 静寂が流れる。

 死体だらけの校舎の傍ら。

 一階の廊下にて、少女と怪物が。

 生徒と教師が、対峙している。


 

 高嶺来瑠は、火箱家の真実を知った。

 そして、自分にとっての"呪い"だった父親の真実も。

 聞いた時に抱いた感想は、もちろん複雑なんてものじゃなかった。

 でも同時に、奇妙なまでにすとんと腑に落ちていた。

 徹底した管理と教育。早い内に叩き込まれた護身術の備え。

 誰か、それこそ親にさえ依存することなくひとりで生きねばならない環境。

 来瑠じぶんは、父の教えでできている。あの男の狂った教育方針が、今もこうしてその身体を動かし続けている。


 であればもはや、認めざるを得なかった。

 業腹だが。本当に、ほんとうに不本意なことではあるし、今後もたぶん一生あの男のことを見直すなんてことはないだろうが。

 だが、それでも――


 自分は、お父さんあの男に守られていたのだと。

 あれはあれなりに、じぶんのことを愛し育んでいたのだと。

 理解した上で、ナイフを握る手に力を込める。

 何もかもが破綻してしまった物語を、車輪の外れたままで前へと進める。

 

 知ったのは父の真実だけではない。

 火箱風花と、その父母をめぐる悲劇の話。

 声枯らしの正体、そしてルーツ。

 未だブラックボックスに包まれている部分は多いが、それでも明かされている限りの真実は彼女の祖父から聞き及んだ。

 であれば。

 であるのならば――もう迷いはなかった。


「あんたの言う通りだよ。ふーちゃんは犬神とかいう、物騒なヤツらに憑かれてる。

 それを見抜けたあんたには実際、本当にそういうモノが見えてるんだろうけど」


 まったくもって腹立たしいことだが、この怪物教師は普通にっても強いらしい。

 だから来瑠は早々に、実力行使で殺すことを諦めた。こんな変態の慰み者にされるなんてごめんだし、第一こんな前座で手をこまねいているわけにもいかない。

 ナイフをその身体にねじ込んでやるために。来瑠が取り出したのは、言葉のナイフ。

 強く、怪物じみていて、不可解ミステリアスを鎧に武装した巨大な大蜘蛛。

 それを理解不能から理解可能に変えるため、来瑠が挑むのはまず殺害ではなく切開だった。


「でも残念でした。さっきも言ったけど、あの子にそんなものは見えてない」


 思えば最初から、分かっていることではあった。

 ただ、あまりにも執着の理由が斜め上だったからこの時に至るまで重視しようとも思わなかったというだけのことだ。

 火箱風花はその声を除き、憑いているモノを除き、ただの人間である。

 世界を怪異の海として視認しているだなんてファンタジックな背景は、彼女という人間を語る上で一切存在しない。


「知った風な口を利くじゃないか。それほどまでに通じ合っているとは思わなかったよ、ああそれとも既に"通じ合った"のかな? 

 ふふ、だとしたら羨ましい限りだね。私も早めに手をつけておくべきだったか」

「おかげさまでね。反面教師がいたからさ、対話は大事にしようと思って」

「君にはたいへん似合わない台詞だね」 


 女と女が、笑みを向け合う。

 互いに、互いを喰う意思を隠そうともしていない。

 見てくれだけならともに絢爛と言っていい美しさをまとっているから、その姿はそれこそ蜘蛛だとか蟷螂だとか、肉食の虫を思わせる。


「構わないさ。犬神が憑いている、その事実だけで私は構わない。

 あの子は犬神に誘われ、そして人殺しの化け物となった。

 因習が作った獣の無念、呪詛、恩讐……それを認識して振りかざせるというだけでも値千金だ。それは私が生涯を通じても出会えなかった"本物"の証に他ならない」

「いい機会だから聞いときたいんだけど。あんたなんでふーちゃんの声が効かないの? ちゃんと敵認定されてるっぽいのに」

「私はたぶん、一個の生物として人よりも強く作られているんだろうね。

 見えはするが害されはしないんだ、昔から。まさか犬神なんて大御所相手も"いける"とは思わなかったけど。

 畜生どもは悔しそうに歯ぎしりしながら、毛を逆立てて私を威嚇していたよ」

「あっそ」


 怪物教師という呼称は決して、単なる二つ名には留まらなかったというわけだ。

 八朔冬美は特殊な人間だ。その体格も、視覚も、そして自らの世界を囲う怪異への耐性も。

 そんな女が夕闇に紛れて襲って来るのだから、被害者たちからすればまさしく妖怪にあったような心地だったに違いない。

 ああ、確かにこの女は怖い。その点に関しては、来瑠も同意する。

 だが今となっては、少し違う。来瑠も、確かにこの女が怖かった。恐れていた。

 過去形でいいのなら、来瑠も彼女という妖怪に恐怖していたのは事実である。


 だが。

 今は、違う。

 この女の地金を理解し、そして真実を知った今となっては。


「私達もあれからいろいろ話し合って、おんなじ結論になりましたよ。

 嘘みたいな話だけど、あんたならありえる話だー、ってね。

 でも一個だけ、あんたが今言ったのとは違うところがありました」

「聞こうか」

「ふーちゃんは"畜生ども"の反応なんて見てませんでしたし、声を聞いたなんてことも言ってませんでしたよ」


 八朔冬美。

 その本質にあるのは、孤独だ。

 生まれながらにおぞましい、地獄そのもののような視覚を有していた彼女は当然として理解者、同類の存在を求めた。

 うわべの慰めやカウンセリングなど求めてはいない。結局のところ、この地獄を生きていない人間には自分の気持ちなど分からないと、そう片っ端から背を向けて。

 そして妖怪に成り果てた今でも、自分と同じ視界で同じ世界を共有してくれる"誰か"を探し求め続けている。

 旅人のように。あるいは、迷子になって大人を探し泣く子どものように。


「あの子が、自分に憑いているモノの存在を認識したのは一度きり」

「……、……」

「自分の両親を殺した時、だそうです。

 でもこれは犬神側としてもやむを得ない状況だったんでしょうね、何しろふーちゃんのお父さんたちは娘に憑いた犬神を祓おうと躍起になっていたそうですから。

 流石の畜生どもも、悪霊として祓われたらかなわないと思ったんでしょう。だからその時だけは、例外的にふーちゃんへ直接干渉したんじゃないでしょうか」

「何が言いたい?」

「あれ? わかりません? 先生のくせに。"作者の気持ちを答えましょう"とかそういう問題苦手だったりします?」


 高嶺来瑠はもう、八朔冬美を強者だとは思っていない。

 どれほど肉体が強くとも、摩訶不思議な力を有していようとも。

 つけ込める弱点がひとつでもあるのなら、来瑠に言わせればそいつは弱者だ。

 そして。こと弱者の弱みに刃を突っ込んで抉り回すことにかけてなら――高嶺来瑠の右に出る人間は、そういない。


「おばけなんて見えないんですよ、ふーちゃんは」


 笑みを浮かべて、言葉を突き刺す。

 怪物の中に唯一残された人間らしい部分。

 孤独という弱みに、狙いを定めて刃先をねじ込む。


「な~~んにも見えてないし、聞こえてないんです。

 おばけ? 妖怪? ましてや犬神? バカバカしい。

 、いい歳してまぁだそんなこと信じてるんですか? ましてや教え子が? 霊感あって、自分の妄想に共感してくれるかも? あはっ、そういうのは中学生のうちに卒業しといた方がいいんじゃないですか?

 ほら、いるでしょ。こっくりさんこっくりさんー、とか、タロットカードがどうだとかああいう連中。その歳でまだ霊感女子気取りとかキツいですって!」


 声枯らしの力を利用し、理屈では説明不可能な殺人と虐殺を繰り返してきた来瑠がそう言うのは矛盾している。

 だが、そんなことははっきり言ってどうでもいいのだ。

 怪異の実在不在など知らないし興味もない。人を虐める上で大事なのは、恥知らずであること。

 整合性だの理屈だのなんて一切気にせず、その場でそいつに対して最も使えるカードをなるだけ激しく切って詰めること。

 ――それを来瑠はよく知っている。人を殺せるくらい、その道を極めてきた。


「ほら。これ、見てくださいよ」


 そう言って来瑠が懐から取り出したのは、四つ折りにされた一枚の紙だった。

 学習ノートを破り取っただけの、何の変哲もない代物だ。

 開かれたそれには絵が書かれている。お世辞にも絵心があるとは言い難いが、重要なのはそこではない。


「これ。ふーちゃんにイメージで描いてもらった"犬神"です。どうですか? あんたの見た畜生どもと比べて」


 描かれている絵は、犬神と、それに憑かれた少女を描いたものだった。

 おそらく火箱風花を模しているのだろう髪の長い少女の絵。


 ――そしてその横に、一匹の犬が描かれている。 / 違う。一匹ではなかった。

 ――赤い首輪をされた、比較的大型の犬が座っている。 / あれらは首だけだった。

 ――犬は舌を出して、人懐っこそうに微笑んでいる。 / 血走った眼で牙を剥き出し涎を垂らしていた。

 

「……違う、みたいですね?」


 無言は手応え。

 そう、この絵は八朔冬美と火箱風花の"違い"を端的に浮かび上がらせるものだった。

 風花の絵はその巧拙を抜きにしても何の特徴も捉えていない。

 そこには、八朔の見た地獄のビジョンなど微塵も垣間見ることはできなかった。

 犬神は群れをなす。首だけの畜生の軍勢だ。人間のエゴのためにあらん限り苦しめられ、最後に抱いた希望さえ裏切られて殺された動物霊たちが友好的な表情など浮かべている筈もない。

 そのことを、八朔冬美は自分の目で見て確認していたから。

 だからこそ、高嶺来瑠の言うことが。

 火箱風花は決して自分と同じ地獄セカイなど共有していないのだということが実感できてしまったから――――、


「……そうか。だが、それならそれで次を探すまでだとも。

 君たちを甘味として貪り食った後で、しおらしく被害者面をして次の学校に行くとしよう」

 

 たとえ、忘我の境から瞬時に復帰を果たした風に見えたとしても。

 その長い足が前へ踏み出し、その長い腕が前へ伸ばされるまでの間には。

 わずか一瞬。一秒にも満たない程度ではあるが、欲望と合理で動く妖怪らしからぬ空隙が確かに入り込んだ。

 

 所詮それは、ただの一瞬。

 大きな意味など持つべくもない、わずかな時間。

 被食者が捕食者を喰い返す上で用を果たすには弱すぎる、短すぎる刹那。

 だが。だが――。


「っ、ふー…………!」

 

 高嶺来瑠はそもそも、被食者などではない。

 彼女は生粋の捕食者だ。

 生まれ持った加虐の性。そして、道を間違えた父がなりふり構わず叩き込んだ破格の能力値。

 その精神面の脆さを除けば、来瑠という少女に弱点は存在しない。

 故に、そう。被食者と捕食者の死合ならばいざ知らず、捕食者と捕食者が互いに矛を向け合う状況であるならば。

 たとえそれが、刹那にも等しいわずかな空白でしかなかったとしても。

 それは――その一瞬は――



 互いの命運を決する上で、この上なく致命的な隙になる。



(――ふしぎ)


 一瞬。

 ほんの、わずかな空白。

 まるで誤作動でも起こしたような顔をして、動きを止めた怪物の姿は嘘みたいに無防備だったから。

 

(私、直接殺すまではできないと思ってたんだけどな。

 だからふーちゃんに大見得切ったはいいけど、内心けっこう不安だったのに)


 来瑠は、当然の行動として踏み出していた。

 その手にはナイフが握られている。

 ジャバウォックを殺すための、ヴォーパルの剣がそこにはある。

 アリスと呼ぶには、その身は罪と業に、取り返しのつかないものに穢れすぎてはいたけれど。

 それでも来瑠は前に走った。わずかな距離の、スプリントとも呼べない疾走。

 されど。されど。


(でも、今は――)


 遊ぶ時間も惜しんで躾けられた、護身のための戦闘術。

 そして愛すると決めた"彼女"との未来を作る、その覚悟。

 それが、今このときだけは来瑠を無敵に変えていた。

 ――そう、彼女もまたひとつのジャバウォック。

 ジャバウォックを殺すには、ヴォーパルの剣が必要だ。

 けれど。八朔冬美は、その言葉は、すべてを捨てて恋に殉ずると決めた来瑠に対してのヴォーパルにはもはやなり得ず。

 だからこそ。


(――私きっと、なんだってできる)


 怪物の腕、身に降りかかる災厄の触腕を払い除けて。

 来瑠は、刃を握った右手を前へと突き出した。

 どちゅり、という、水っぽくて湿り気のある音が死臭の漂う廊下に響いた。

 はじめて"殺すために"人を刺した感覚は思っていた以上に気持ち悪かったけれど。

 自分は今ここでひとりの人間を殺すのだという事実には、実際のところ大した忌避感は抱けていなくて。


 自分はやっぱりどうしようもない人でなしなのだと、そんなわかりきった事実を、高嶺来瑠は再度実感していた。



◆◆



 腹に突き立ったナイフを、怪物は信じられない、というような眼で見下ろす。

 咄嗟に腕を振るって吹き飛ばした少女は片膝をついてそんな彼女を見ていた。

 顔に浮かんでいるのは、笑みだ。そこに宿る言葉は聞くまでもなく分かる。

 ざまあみろ。そう言いたげな、見せつけるような笑顔だった。


 ――致命傷だな。


 自分が、こと欲望以外においては無感動な質である自覚はあった。

 だがまさか、生死の境に立たされてもそれが変わらないとまでは思わなかった。

 実のところ、少し楽しみにしていたのだ。

 地獄の中で突き付けられる死というものは、ややもすると自分にとって多少は得難い経験になるのではないかと。

 しかし蓋を開けてみれば、所詮この程度。

 肝臓を一突きにされたな、これは助からないな、と。そんな冷静な実感があるばかりで、特段の感慨はどうも得られなかった。


 ――ふむ、どうやら私は死ぬらしいね。


 後悔らしいものは、まだある。

 目をつけていた少女が何人もいるのだ。

 彼女たちの味を確かめる前に地獄の死人と同じ、虚しく群れなす存在に落とされるというのはいささかの名残惜しさが否めなかった。

 それに、結局のところ自分が見てきたものは何だったのか。

 それを共有し、共に語り合える相手にも巡り会えずじまいだった。

 犬神憑きの忌み子はいい線を行っていると思ったのだが、やはり空振り。

 結局生涯に渡りただのひとりも、この視点を共有できる相手は現れなかったこと。

 そこのところだけは、どうにも惜しい。だがそれもただ"惜しい"というだけの感情で片付けられてしまう辺り、自分はとことんまで筋金入りの人でなしだったのだなと八朔は改めてそう実感していた。


 目の前には、ナイフを握ったままの少女。

 遠からず、怪物退治を成し遂げた実績を得るだろうもうひとりの人でなし。

 さて、どうしたものか。

 少し悩んでから、怪物はゆっくりと口を開いた。


「これは、単純な興味本位での質問なのだけど」

「……なんで普通に喋れんのよ。割と良いところ刺したと思うんだけど」

「――君は、今のままでいいと思っているのか?」


 どうせ死ぬのだから、末期の時間をどう使うかに意味はない。

 何しろこの身は、貪る以外の悦びをついぞひとつも知れなかった。

 であれば最後は一体どうしようと、命乞いをして助かるならそうするがどうも望み薄げな状況を前に考えて。

 そうして思案した結果、八朔が選んだのは教師というガワを貫くことだった。

 重ねて言うが、別段そうすることに意味などない。ただ最後に強いてやるのならこういうのがいいだろうと、失血で心臓が止まるまでにできそうな手慰みをいくつかの選択肢の中から選び取った結果だった。


「常に自分のことだけを考え、他人を足蹴にして踏み躙る。

 人の命を命とも思わず、過去に犯した罪に向き合おうともしない。

 そのまま突き進んだ先に待っている結末が幸せだなどと、まだ夢を見ているか?」

「……なんか。あんたにだけは言われたくないことを言われてるようにしか感じないんだけど」

「まあそう言うな。私自身、一番そう感じているよ」


 改めて、明言しておこう。

 高嶺来瑠は、人間としては間違いなく屑の部類である。


 他人の痛みが分からないのならばまだいい。

 彼女は知った上で、他人にそれを科して笑える類の人間だ。

 だから一度は窮地に立たされたし、今後の見通しだってまったく立っていない。

 それなのにこの期に及んでなお、彼女は自分の咎と向き合おうともしていない。

 自分の形に凝り固まった思想と、積み上げてきた咎と、犠牲の数。

 現実に命さえ奪ってきた過去を持ちながら、いじらしく自分だけの運命エモーションに耽溺する破綻者。


「……たぶんだけどさ、私もあんたと同じなんだ」

「ふむ。その心は?」

「たぶん私は、境遇とかそういうもっともらしいことを抜きにして――生まれながらに、人とは違う心を持って生まれてきてる。

 だから誰かが傷付いてても、仮に自分のせいで死んだとしても、何も感じないの。私が好きな人がそうなったって言うなら話は別だけど、好きでもなんでもない人間が死んだからって私はなんともない。

 関係あるとしたら、自分に不利益が降りかかってくる時くらい。

 正直さ、結菜やあんたが過去の話を掘り返した時もこう思ったよ。"お前ら、一体いつの話してんのよ"って」


 勝手に死んだやつのことなんて、私はどうでもいいし知らない。

 来瑠は臆面もなく、そう断言する。

 度重なる仕打ちで追い詰めて、その末に極限の選択へ至らせたとしても。

 ――だから何? と真顔で首を傾げることが、彼女にはできる。

 高嶺来瑠にはきっと、本当の意味での"他人"を慮るという機能が、生まれながらに欠落しているから。


「雑魚の人生までいちいち責任持てないよ。悔しかったら生き返って殴りかかってくれば? って、私はそう思ってるよ」

「筋金入りだね。いっそ清々しい」

「でしょ。自分でもたまに思うもん」


 彼女の世界は、自分の周辺の円周で閉じている。

 だからその外にある人間など知らないし、知ったことではない。

 地球の裏側の餓死に思いを馳せて心を痛めるなんてこと、来瑠はしない。

 彼女にとっては、関心の及ばない他人の範囲が人並み外れて広いというだけのこと。

 だから来瑠はどんな目に遭おうが悔いないし、改めなどしない。するわけがない。

 そもそも悪いと思っていないし、第一を今更言われたって困る。

 故に不変。故に、彼女は鬼畜で揺るがない。


 ――彼女もまた、ひとつの怪物だった。

 人間の無関心と冷たさ、そしてエゴを懲り固めたような、そういう生き物。


「昔から思ってたんだ。なんで悪いやつが幸せになっちゃいけないのって」


 悪人というものは、いつだって身近にいる。

 例えば創作物の中に、分かりやすい悪人がいないなんて珍しいことだし。

 現実でだって、日がな一日ニュースが世界中の悪人のことを伝えてくれる。

 そして人は言う。悪いことをしちゃいけません。悪いことをしたら、いつか必ずバチが当たるのだ。

 それが来瑠には、どうにも疑問でならなかった。


「自分のやりたいように生きて、それで幸せになれたら最高じゃない?」

「因果応報という言葉がある。出所した殺人犯が遺族に殺される。汚い金を蓄えた金持ちが無一文になる。悪逆無道の限りを尽くした人間は、床の上では死ねない。やったことは必ず返ってくる。世の中では、それなりに尊ばれている概念だね。

 君の思想と生き方は、そのままこの観念の否定に思える。君は本当に、自分にだけは応報が下らないと思っているのかい?」

「さぁね。でもまあ、あんたの言う通りかも。私さ、その言葉って嫌いなんだ。

 よくいるでしょ? 漫画の中で出てきた悪役が味方になったら、そいつの過去をひっくり返して怒り出すやつ。

 逆に聞きたいんだよね。やったこと、してきたこと――過去が人間の未来を決めるんだったら、私達は今何のために生きてるの? って思う」


 人間があるがまま、やりたいことをやって幸せになれたらそれ以上の幸福なんてこの世にないだろう。

 例えばそう、なんでもいい。

 酒を飲んで、タバコを吸って、薬をやって床の上で大往生を遂げる。

 嫌いなやつを問答無用でぶち殺して、妻子と幸せに暮らす。

 他人を騙して稼いだお金で巨万の富を築き、子々孫々まで贅の限りを尽くす。

 来瑠はこう思っている。そうして人生を成功させた人間と、真っ当に努力して幸せを掴んだ人間に何の差がある。

 たまたまそこに誰かの涙があったかどうか、それだけの、本当にどうでもいい違いではないか。

 ――人間は本質的に自分の周囲数メートルで完結している。

 ――であればその外の世界に目を向け、慮るのに意味はない。

 大事なのはバレるかバレないか。裁かれるか裁かれないか。

 公にならない罪なんてないのと同じ。悔い改めるなど馬鹿げている。


 雑魚ぜんにんの涙など、自分達あくにんの食い物になっていればいいのだ。

 幸せになる努力のしかたを選んでいる時点で、お前たちなんてどうやったって自分達の影も踏めないんだから。


 それが高嶺来瑠の思想の核。

 生まれながらに有していた、決して許されることのない人生観。

 どうしてこんなことができるの、と聞かれたことは一度や二度じゃない。

 でも、聞かれたって困るのだ。来瑠にとっては、弱くあることを平気で受け入れて生きられる人間の方がよっぽど理解できないから。


「……骨絡みだな。これはどうやら、思っていた以上につける薬がない」


 すべてを聞いた八朔は、苦笑して肩を竦めた。

 腹から滴る血が、廊下に大きな水溜まりを作っている。

 いかに怪物といえど、身体の基礎が人間である以上失血には耐えられない。

 じきに結末が訪れ、その脈動が止まるだろうことは明白だった。

 

 事を成し遂げた来瑠の手からいつの間にかこぼれ落ち、水溜まりに沈んでいるナイフを見つめて。

 八朔はわずかだけ間を置いて、再び口を開く。


「では、もうひとつだけ聞こうか」

「まだ続けるの? 早く死んでほしいんだけど。後もつっかえてるし」

「ふ。大層なことを言ってはいるが、まだまだ子どもだね。

 まあいい――安心しなさい。これで、今度こそ最後だ」


 致命傷を受けながら、膝すら突くことなく。

 刺された時のまま、直立で。

 怪物は、怪物に問いかけた。



「――君達は、幸せになるのかい?」



 思いがけない、そんな質問だった。

 されど、言葉に窮することはない。

 返す言葉は、問いの答えは決まっている。

 来瑠は薄ら笑みを浮かべる八朔の眼を見据えて、即答した。



「なるに決まってる。私達は、そのためにここにいるんだから」



 幸せになるのか、だと。

 この期に及んで出てくるのがそんな愚問か。

 それが遺言なら、餞代わりに断言してやろう。

 ――ああ、なってやるさ、と。


「私達は何の応報も受けない。そんな結末は絶対に認めない。

 私達は、好きでもなんでもない他人の幸福をぜんぶ踏みつけて幸せになる。

 この世界は、私とふーちゃんのものだ。

 他の誰の異論も許さない」


 何を恥じることもなく。

 何を恐れることもない。

 そんな段階はもう、とうに過ぎた。

 

 救いがたい悪ならば、それそのままに幸せになる。

 ケチなどひとつも付けさせない。

 ほんのわずかな不幸さえ、断じて認めはしない。

 因果応報のすべてを冒涜して、勧善懲悪を覆す。

 ここは物語ではない、ただの現実なのだから。


 ――悪人が勝ったって。

 ――それが自分自身なら、ハッピーエンドだ。


「……そうか。よくわかったよ」


 答えを聞いた八朔は、此処でようやく膝を突いた。

 でもそれは、力を失ってそうなった風ではなかった。

 自分の意志で、自ら考えて行動した結果そうなったみたいな動きで。

 まさか、と思った来瑠が一方後ろに下がる。

 八朔の手がナイフを拾い上げるが、相手は手負いだ。

 今なら自分でも倒せるはずだと、どんな展開が来ても対応できるように脳を回転させる来瑠をよそに。


 そんな彼女を見つめ、ふ、とまた笑って。


「花丸をあげよう。君の勝ちだ、高嶺さん」


 ――そのまま。

 教師は生徒の目の前で、拾ったナイフを自分の傷口に突き刺した。



◆◆



「……は?」


 意味がわからない。

 その行動の、意味が。

 眉根を寄せて見つめる生徒の前で、教師は対照的に眉ひとつ動かすことなく行動した。

 突き立てたナイフを、そのまま真下に「びっ」と引いたのだ。


「好きだった女の子がいてね。思えば彼女は、私が最初に教師として寄り添った娘だった。

 弱くて、いつ見ても傷ついていて、泣いていて……放っておけないと思ったものだよ。

 彼女は残念ながら"見えない子"だったが、それでもよかった。手放したくないと、そう思ってしまったものだ」


 門。

 はたまた、ジッパー。

 そんな風にぱっかりと開いた傷口を、上下にしばらく拡張して。

 その後は刃先をもう一度中にねじ込んで、ただでさえ一突きにされていた肝臓をぐちゃぐちゃとかき回す。

 それはまるで、魚の肝をにして醤油と混ぜ合わせていくみたいな工程だった。

 発狂しそうなほどの激痛が押し寄せているとは思えない真顔のまま語り続ける姿は、まさしく怪異そのものにしか見えない。


「結局その子も、私が食べてしまったわけだが」

「……ぜんぜん美談じゃないじゃん。今際のエピソードがそれ?」

「おや。君にはある程度、理解してもらえる話だと思ったんだけどね。

 君にとって火箱さんは最初、これと同じ存在だったんじゃないか?」

「……、……」

「――弱くて、泣き虫で、普通にしているだけで他人の嗜虐心を買うような女の子。

 取り柄といえばかわいいことくらい。だから誰もがめちゃくちゃにしたくなるし、私は実際にそうした。

 君もそうだろう?」

「……結局何が言いたいの、あんたは」


 傷口から、血やら臓物の破片やら、黄色っぽい脂肪やら。

 果てには骨の欠片らしいものまでこぼれて落ちる。

 口からもごぼ、ごぼと音を立てて喀血している。

 むしろこれで何故まだ生きているのだろうと、来瑠は思った。


「うらやましいよ。君は、オオカミとウサギでつがえたんだ」


 オオカミとウサギ。

 まさしくそれは、来瑠と風花を表す上で一番適切な表現だ。

 暴力的で、凶悪で、弱いものを食べるばかりのオオカミと。

 弱くて、小さくて、いつも泣いてばかりのウサギ。

 八朔もまた、一匹のオオカミだった。

 だから何度もウサギを見つけては食べてきた。されど結局。最初に、本当に惹かれた一匹にも、同じことをしてしまった。

 ――オオカミとウサギの宿命を、女は超えられなかった。

 しかし、来瑠と風花は違う。


「だから、まあ、なんだ。

 やれるだけ、やってみなさい。

 証拠の隠滅は、先生の方でやっておいてあげるから」

「――分かんない。あんた、そういうタイプじゃないでしょ。

 変態のくせに、最後だけしおらしく死んで徳でも積もうって腹?」

「君が言ったことじゃないか。過去が人間を永遠に縛るのなら、今を生きることに何の意味があるのかと」



 そう、これは単なる死に際の気まぐれ。

 それに伴う、証拠の隠滅だった。


 数百人単位の虐殺となれば、もう知らぬ存ぜぬでは通せない。

 火箱風花の"声枯らし"に警察がたどり着くことは確かに不可能だ。

 しかしそこに、明らかな他殺体がひとつでも混ざれば話は変わってくる。

 なまじ不可解を通り越して奇妙奇天烈摩訶不思議な異常事態、異常殺人。

 ひとつの手がかりでも、調べる側は決して無駄にしないだろう。

 


 だから。


「私も同じだ。

 嫌いなんだ、因果応報って言葉が」


 犯罪前科のある、叩けばいくらでも埃の出てくる淫行教師が。

 廊下の真ん中で割腹自殺を遂げた、という分かりやすい餌を垂らしてやる。

 それが、死を前に手持ち無沙汰になった怪物の最後の気まぐれ。

 そしてもしかすると、百点満点の答案用紙を提出した優等生に教師が施す花丸だった。


「好きにやりなさい。先に地獄で待っている」


 それが、最後。

 八朔冬美は、怪物は。

 高嶺来瑠の担任教師は。

 それきり、もう二度と喋らない。


 薄っぺらな微笑みを浮かべた、その顔のままで。

 自分の手でナイフを腹に突き立てた格好のまま、動かなくなった。


「……、……キモ。付き合いきれない」


 来瑠は、気付けばたたらを踏んでいた。

 形だけ見れば、自分が勝った。それは間違いない。

 怪物退治は成り、最大の障害は除去されたのだ。

 なのに、背筋を伝う寒気が消えることはなく。

 まるで幼い日に、テレビのホラー番組を見た後のような気分だけが残っていた。


 ――早く行かなくてはならない。

 こんなやつに、かまっている暇はないのだ。

 殺すべき敵はまだ残っている。

 それを破って初めて、自分達は幸せへの第一歩を踏み出せるのだと。


 そう思いながら、来瑠は歩き出した。

 風花と合流し、小綿詩述と小椋結菜を殺す。

 そう決めて歩き出したところで、突然。



 ――ばん!!! と、真横の窓が叩かれた。



「っ!? は、はぁ……?」



 窓の外には、何もいない。

 ただ、そこにはちいさな子どもの。

 恐らくは赤ん坊とか、そのくらいちいさな子どものものであろう手型がひとつ、皮脂で形付けられていた。

 

「え、何……」


 指先で、おずおずと手型をなぞる。

 そこで、ひ、と来瑠は声をあげた。

 

 

 ――手型は、内側からついていた。

 もちろん、ここには誰もいない。

 人間はみんな、風花が殺してしまった。

 じゃあ、これは? 今、目の前で内側からついた、この"子どもの手型"は……?



「……………………バカなやつ。ちゃんと食らってんじゃん、因果応報」



 もう少し死ぬのが遅かったら、あんたの願い、ちょっとだけでも叶ってたのに。

 そう思いながら、来瑠は足早にその場を後にした。


 ――さようなら、先生。私は、あんたみたいにはならないよ。

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