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 犬神。

 西日本を中心に伝わる犬霊の憑き物。

 中でも狐の生息していない四国地方を、伝承の本場であると考える説も強い。


 造り方は簡単。

 犬を用意する。餌を与えず、可能な限り飢えさせる。

 次第に犬はやせ細り、その眼光は血走った剣呑さを秘めるようになっていく。

 飢え死ぬ寸前の今際を見極めて、刀を用い一息に首を刎ねる。

 すると激しい飢えと怨念を抱えて死んだ犬の首は呪物と化し、犬神として宿願を果たしてくれる。




◆◆




 穢多。

 神道には穢れと呼ばれる概念が存在し、それに由来した身分制度として発生した呼称。

 穢れの多い仕事、もしくは穢れた人間が行うものと定義された仕事を生業にする家のことを指す。

 

 平安時代に始まり、江戸時代には普遍のものとして普及する。

 その後明治時代に穢多の呼称は廃止されたが、地域によってはその後も残っていったとされる。


 


◆◆




 言霊。

 言葉が持つという霊力のことを示す。

 かつて日本は『言霊の幸ふ国』とされ、言霊の力が人に幸福をもたらすのだと信じられた。

 

 言霊信仰においては、良い言葉を発すると良いことが、悪い言葉を発すると悪いことが起こるとされるのが一般的である。

 婚礼や受験事で謂われる"忌み言葉"など、現代でも言霊信仰の名残はそこかしこに見られる。

 

 去る。離れる。終わる。これらの言葉は、婚姻関係の破綻を想起させるため好ましくないとされ。

 滑る。落ちる。躓く。これらの言葉も、受験沙汰の失敗を想起させるために忌み嫌われる。

 無論、より直球に他者の不幸を祈る言葉にも等しく言霊は宿るという考えが強く、例えば『殺す』『死ね』などの言葉は――




◆◆




『……橙柑の家は、代々犬神を作ってきたっていうんだ』

『犬を地面に埋めて、飢えさせて、時が来たら首を切る。君が今言った通りのアレだよ』

『普通じゃないのは、この21世紀でもまだそれをやり続けてるってこと。要するにさ、呪術師の家なんだって』

『橙柑も……それが嫌で半ば強引に地元を出てきたらしいよ。出奔した親戚を頼って、ね』



「……非現実的な話だな。信じないわけじゃもちろんないが」

「とはいえ、日本は地図上で見る以上に広い。私も酒の席で田舎出の上司から信じられないような因習を聞いたことがある」

「それで? 橙柑さんが棄てた家の親族達に追い付かれたとか、そういう話か」

「それなら話はそう難しくない。日本は法治国家で、21世紀は科学と法の時代だ。訴訟を起こせば確実に勝てる」

「私のコネクションの中には法曹界の人間も多い。望むならすぐにでも連絡を取るぞ」



『…………、違うんだ。そういう話じゃないんだよ』

『うちで飼ってたインコがさ、隣の家の猫に食べられちゃったんだ』

『隣のおばさん、菓子折り持って謝りに来たんだけどね。風花はやっぱり、すごくショックを受けてて』

『お菓子を持って謝るおばさんに、泣きながら言ったんだ。おばさんなんか死んじゃえって』



『死んだよ。その場で、胸を抑えて苦しみ出してさ』

『救急隊が来たときには、もう駄目だった』

『次の日、旦那さんが怒鳴り込んできてね。状況がおかしい、お前ら夫婦が何かしたんだろうって』

『で、旦那さんも死んだ。経緯は……うん、あんまり説明したくないな。けどこっちは、脳梗塞だったよ』




『なあ』

『子どもってさ、一回覚えたことは何度もするだろ?』




◆◆




 疲れているのだろう、と思った。

 もしくは何か仕掛けてきたな、と疑った。

 前半の話からして眉唾ものだが、そこはまだいい。


 だが後半。風花ちゃんに『死ね』と言われた人間が次々死んだ、という話は流石に信じる余地がない。

 奴にも言った話だが、21世紀は科学と法の時代だ。

 巷に溢れる怪談や伝説のたぐいのほとんどは脳か精神の異常、あるいは些細な勘違いと体験の誇張で説明が付く。

 神の声を聞いた聖人などその最たる例だろう。

 あの手の伝説の正体は統合失調症を始めとするパラノイアがもたらす幻聴、それがたまさか本人にとって良い形で作用したというだけのことだ。

 信仰への傾倒は精神的に好作用をもたらす。病と信仰がうまく噛み合い、症状は快方に向かい、その後には声が聞こえなくなったことを言い出せずに法螺を吹き回す詐欺師だけが残る。

 

 神秘とは、怪奇とは、誤認と虚偽の作り出す幻影に過ぎない。

 この世には神も、霊も、悪魔もいないのだ。もちろん奇跡も呪いもありはしない。


「……少し仕事を休んで、旅行にでも行くのを薦める」


 だからこそ、私は長い沈黙の後にウイスキーを呷りながらそう言った。

 にわかには信じがたい話だったが、信じなかったわけではない。

 ただ、信じた上で"ただの偶然"だと切り捨てただけのことだった。


「確かに信じがたいという他ない事例だが、あくまで偶然だろう。

 中高年の心不全や脳梗塞による突然死は定番だし、子どもの例でも然りだ。

 運動中の心疾患による突然死は毎年全国的に報告されている。それがたまたま、奇跡的な確率で風花ちゃんの周囲に偏ったというだけさ」


 そう、あくまでもただの偶然だ。

 どんなに信じがたい事象でも、現実に起こったのなら"起こり得ないこと"ではなかったということになる。

 風花ちゃんの"発言"が原因で発生したいくつかの突然死。

 そのすべてが真実だったとして、ならばそれはやはり奇跡的な確率がもたらした偶然の産物と結論づけるのが理性的というものだ。

 

 そう語る私に――晶は、白々しい目を向けた。

 情けない話だが、私は怯んだ。

 この男がそんな目をする姿は、長い付き合いの中で一度として見た記憶がなかったからだ。


『龍櫻さ』

『――本気で、そう思ってる?』


 からん、という氷がグラスの中で躍る音。

 それと共に紡がれた言葉に、私は二度目の沈黙を余儀なくされた。


 そう。

 そうだ。

 私は今、屁理屈を自覚している。


『五人だぞ。五日で五人、全員風花の嫌いな人間だ。

 インコ殺しの猫を飼ってた隣人夫婦と、風花にちょっかいを出してたクラスの子が三人だ。

 ……なあ。そんなこと、本当にあると思うか? 現実にあると思うか?』


 偶然だ。私はそう思う。

 だが私の中に眠る、晶と出会う前の臆病だった"私"は呆れたようにそれを笑っていた。


 ――そんなわけがないだろう、と。


 呪わしい因習を持つ家に生まれた母を持つ子が、死を望む言葉を吐いたのをトリガーにして人が死ぬ。

 五件すべての死が同様のプロセスを踏んで起こったものだとしたら、その偶然はもはや十分に怪奇と呼ぶに足る確率と化している。

 この世のすべてが理屈でできているのなら。

 空を雲が流れ、雲が雨粒を吐き出すことを理屈で語ることができるのなら。

 それと同様に……これもまた、ひとつの理屈なのではないか。

 そこに再現性が存在しているのなら、それはもう"現象"と呼ぶに足る事例なのではないか。

 酒の影響も手伝ったのか。私は、そんなことを考えてしまっていた。


『休みはもう取ったよ。飛行機も予約した。来週、橙柑の実家を訪ねてくる』

「話になるのか。現代で呪い師の真似事をしている狂った家だろう」

『藁にもすがる思いってやつさ。それで駄目なら、拝み屋でもなんでも頼るよ。

 だから……その、なんだ。君もさ、仕事の片手間でいいから――少し、調べてみてくれないか』


 昔から、他人を振り回すことこそすれど他人に振り回されることは一度もなかった男。

 そんな奴がかつてなく窶れた表情かおで、力なく私に頼みをかけている。


 それに私は、力のない返事を返した筈だ。

 晶の話を恐れたのではない。

 火箱晶という人間が、こんな話をしている。その状況に、ある種の非現実感を覚えてしまっていたのだと思う。


 今にして思えば、なんとも愚かな話だ。

 私があの時するべきは、いつも通りの軽口を添えて頷いてやることだった。

 そして仕事など放り出し、奴の隣に立って風花ちゃんを救う術を探すべきだったのだ。

 自分たちは無敵のふたりだと心からそう信じていたあの頃のように、私達はふたりであるべきだった。

 

 

 犬神は存在したのだ。

 私は結局最後まで、それを信じてやれなかった。




◆◆



 

『――もしもし、龍櫻? 今、ちょっと大丈夫かな』

『前に言ったあの話、覚えてる? 風花のことだ』

『あれ、もう大丈夫になったから。もしまだ調べてくれてたりしたらごめんな』



 その電話がかかってきたのは、ある夜中のことだった。

 時刻は深夜二時を回っていた。

 通話の向こうからは車の走行音と、微かなラジオの音色が聞こえてくる。

 

 晶の言う"あの話"というのが何を示しているのかは、言われなくても分かった。

 犬神。橙柑さんの実家の因習。そして火箱晶の娘、風花の"声"が起こす不可解な突然死。

 無論私も、調べなかったわけではない。だが本腰を入れて臨んでいたかというと、その答えは否になる。

 出世欲に狂った妖怪どもが蠢く職場での政治戦。そも、明らかに科学的でない話を信じるのを前提に調査するという慣れない状況。

 そのふたつの理由は、勤勉だけが取り柄である私の手を自分でも驚くほど怠惰にさせた。


 仕事の文字通り片手間に、多少文献を漁ってノートに書き留める程度。

 ノート二冊程度にまとめた知識を、郵送で送ってやったくらいが私の示した"協力"のすべてだった。



『橙柑の実家には、……まあ予想通り門前払い食らったんだけどさ。橙柑を大学にあげてくれた親戚の人が、知見のある人を紹介してくれたんだ』

『祈祷をしてもらって、その上で……正直、ちょっとだけ心の痛むことをしたけどさ。風花から"死んじゃえ"を引き出した』

『けど、死ななかった。ボクも、祈祷師さんもだ』

『……今思うと、キミの言う通り――ぜんぶただの偶然だったのかもしれないけども。だけどさ、やっぱり心が軽くなったよ』


『キミが送ってくれたノートも、正直とっても助かった。もう少し落ち着いたらさ、また飲みにでも来てくれよ』

『その時は今度こそ、いろいろ忘れて飲み明かそうぜ。昔みたいに』



 屈託のない、まさに憑き物が落ちたような声色で言う晶に、私は生返事を返すのがせいぜいだった。

 いつも一緒だった、目の前のどんなことにもふたりで挑めば解決できると思っていた私達。

 それはすべて過去の栄光でしかないのだと、そう思い知らされてしまったから。


 晶は、もう無敵のヒーローではなく。

 そして私も、彼のサイドキックではない。

 

 目の前の不条理に眉を曲げて小さく沈む父親と。

 親友の頼みを二つ返事で聞いてもやれなくなった薄情者。

 私達は、どうしようもないほど大人になってしまった。

 その事実を前にして、私は遅れながらに愕然としていたのだと思う。

 だから、この時何を話したのかも覚えていないのだ。


 終わったのなら、それでいい。

 いずれ私の子と奴の子が顔を合わせる日も来るだろう。

 犬神云々の話が本物の怪異でもただの偶然でも、もうこの話を掘り返すことはきっとないはずだ。     

 そう考え、当たり障りもない答えを返し、片手間に・・・・話を合わせたのだろう。


 私は結局、どこまでもあの頃と変わらない人でなしだったらしい。

 物を学んで能力を高めることだけは上手いが、人の心に寄り添うことはついぞできない。

 思うに私は、奴の神通力めいた勢いに救われただけだったのだ。

 それで人間になった気になっていた、友達甲斐などあるはずもない人でなし。



 だから私は、あの日、仕事が忙しいからと通話を切ってしまったのだ。

 これが最期の会話になるなどとは露知らずに、通話よりもディスプレイの内容の方に集中してしまっていた。

 


 あの日、あの夜。

 あの、電話越しの会話。

 あの頃の熱など欠片もない、ただの男ふたりの会話。

 あの時――――きっと。私達は、かつて確かに最強だった私達は、死んだ。




◆◆




『――龍櫻か?』

『悪いの、急に電話して。けどま、お前に伝えんわけにも行かんやろ思うてな』

『晶と橙柑がな、死んだわ』

『葬儀と通夜の日取りも決まっとるからの。まあよかったら来てやってくれや』


『……、……』

『ちゃうよ。お前のせいやない』

『鬼の子を産んだんじゃ。くじ引きを外したようなもんよ』

『だからまあ、あんま気にすんな。お前がショボくれとったら遺影のふたりも気滅入ってまうべや』


『ところで、やけどな』

『龍櫻。一個だけ、お前ならどうするか聞きたいねん』



『息子と、義娘を殺した呪われた子。お前やったら――――殺すか?』




◇◇




 あの頃のことを、私はよく覚えていません。

 覚えているのは、なんだかすごく気分のいい時間が続いていたこと。

 

 気の弱い私が、幼稚園でもいつも男の子に突き飛ばされたり気持ちの悪い虫を投げつけられてばかりだった私が。

 なんだかなんでもできるような、なんにでもなれるような、そんなとてもいい気分で過ごしてたのを覚えています。

 私に意地悪ばかりしてくるひろきくんやまさとくん、たけしくんはもう幼稚園に来なくなっていて。

 私が泣いてるのを慰めてくれるだけの先生たちも、朝から晩まで私だけ見てくれるようになってて。

 おまけに大好きなお父さんとお母さんが、毎日お出かけに連れ出してくれる。

 そんな、すごく幸せな日々が続いていたことだけが記憶に残ってるんです。


 覚えてるのは、あの日のことだけ。

 あの日私は、自分の部屋でごろごろしながら本を読んでいました。

 "気分のいい時間"の中で、お父さんたちが買ってきてくれたたくさんの本。

 読みきれないような量の絵本を毎日気ままにつまんで過ごすのが、あの頃の私の楽しみでした。


 そうやっていつもみたいに本を読んでたら、わん、って声が聞こえたんです。

 声は押入れの中から聞こえてました。

 布団しか入っていないはずの押入れから声がしたので開けてみると、わらわら、わらわらって、たくさんの動物が溢れてきたんです。

 ぜんぶ犬でした。白かったり、黒かったり、茶色だったり。ちっちゃかったりおっきかったり。

 どの子もなぜかヘンなところで途切れていたけど、私は嬉しくてその子たちにまみれて遊んでいました。

 

 そしたら、お父さんたちが部屋に入ってきて。

 なんだか、すごく深刻な、焦ったみたいな顔をしていて。

 犬たちはみんな、お父さんたちを睨んで吠えていて。

 私はどっちにも仲良くしてほしかったので、おろおろしてしまっていて。

 そんな私の右手を、お母さんが。左手を、お父さんが握って。

 そして、こんなことを言ったのです。


『大丈夫だ。お父さんが、ついてるから』

『泣かないで。お母さんが、ずっと手を握っててあげる』


 なにがなんだかわからなくて泣いてる私に、大好きな人たちはいつもみたいに優しくて。

 手を握られて、抱きしめられていたらなんだか眠くなってきて。

 私もいつもみたいに、おやすみなさいをするために口を開きました。



 おやすみなさい、お母さん、お父さん。

 だいすき。起きたら、またどこか遊びにいこうね。




「死ね」




◇◇




 ――風花は、幸せに生きていいんだ。

 

 ――大昔の罪やしがらみに囚われて生きるのは、もう終わりにしましょう。

   私達の子。大好きな風花。

   あなたがいつか満天の笑顔で、遠いどこかに駆け出していけるように。



◇◇




 通夜から帰ってきた私は、玄関先で娘に泣きつかれた。


 

 橙柑さんに振られた私は、きっと生涯女を愛することはないだろうと思っていた。

 しかし私はあくまでも、持って生まれた能力以外はとことん凡庸な人間でしかなかったらしい。

 何度袖にしても寄ってきて、好きだ惚れたと恥ずかしげもなく言ってくる後輩の女。

 彼女に絆され、一夜を共にし、自棄のつもりの遊びが本気に変わるまではそう長くなかった。


 気付けば私達は、あっという間に男女の仲になった。

 私との勝負に勝った晶も、橙柑さん自身も祝福してくれたが、私は彼らへの負い目を感じなくなるのにだいぶ長い時間を要した。

 後に妻となるその女のことを私なりに愛してはいたが、橙柑さんの代替にしたのではないか、という自分自身への疑念と戦う必要があったからだ。今思えば呆れる女々しさだが、私も口で何と言おうが所詮ただの人間だったということなのだろう。

 恋人が妻となり。妻が、母となり。私自身も、父となった。

 授かった娘は優秀だった。物覚えがよく快活で、私と妻の良いところを摘んだような子だった。


 生涯を通じても、本音をさらけ出して関わった人間など晶と橙柑さんと、そして妻の三人しかいない。

 そんな私だが、それでも良き父であろうとした。

 紛いなりにも私の血を受け継いでいるのなら、過去の私のようにはしてはならないと思ったからだ。

 

 激務の合間を縫って捻出した時間はすべて娘とふれあうことに使った。

 欲しいと言ったものは過剰にならない範囲で買い与えた。

 娘の描いた絵はすべてていねいに保存していた。額縁を買って、壁に飾ることさえあった。

 会社の上司はそんな私達を親馬鹿と読んだが、外野に何と言われようが構わなかった。


 ただ、この子がいい子に育てばいい。

 誰にでも愛され、そして誰もに尊敬される、そんな子になればそれでいい。

 そう思って不器用なりに愛情を注ぎ、その成長を慈しんできた。

 

 だからその日も、いつも通りだった。

 幼稚園で泣かされたと訴える娘の頭を撫でながら、慰めの言葉を口にする。

 後はゆっくり話を聞いてやり、明日は楽しい日になればいいな、と励ましてやるだけ。

 その筈だった。その筈なのに、娘の頭を撫でる私の中であの頃の"私"が冷たく囁いた。



 ――本当に、それでいいのか?



 晶はもういない。


 あの奇跡は、二度と舞い降りない。

 この世は理屈と法でできていて。

 他ならない私がそれを知っている。

 私は、晶という奇跡に救われた。

 晶がいたからこそ、私は今こうして此処にいる。

 晶がいれば。奴さえいるのなら、人の弱さはすべて許容されるだろう。

 だがそれも今となっては無いものねだりでしかない。晶は死んだのだ。橙柑さんももういない。私の過ごした奇跡の日々は、もう私の記憶の中にしか存在していない。

 そしてきっと、もう二度と現れることもない。


 ――であれば。

 ――であるのならば。



 私は、私が、この子を導かねばならないと、そう思った。



 もういないものの影を追うことに意味はない。

 過ぎ去った日々に手を伸ばしても甲斐はない。

 晶は死んだ。そして私は、生きている。

 私の胤から生まれた子がいる。私が、愛すると決めた女がいる。

 奴らの人生が終わろうと、奇跡の日々が終わろうと、私の人生は、そして彼女たちの人生は今もそしてこれからも続いていくのだ。


 奇跡が、舞い降りないのなら。

 もはやこの世に、奇跡が存在しないのなら。

 残された手段はひとつだ。現実に向き合って、その荒波に流されないように生きるより他にない。


 かつての私は、弱かった。

 自分の殻に籠り、それで良いとしていた。

 自分の能力に胡座を掻き、自分は自分であるだけで満たされていると勘違いした、惨めで哀れな弱者であった。

 だから必然として現実に曝された。流され、揉まれ、そして諦めた。

 私が生き延びられたのは、たまたま晶という奇跡に拾われただけ。救われただけ。


 晶のいない世界で、私は、私の子をそうしたいのか?

 あの日、誰とも出会わずに、屋上から身を投げて消えることが正しいと?

 人間の悪意になすすべなく悶え苦しみ、そんな世界をそれも現実と受け入れ生きていけとそう言うのか?


 馬鹿げている。

 そんなものが正しいわけが、どうしてあるという。



 ――来瑠。私達の、可愛い娘。


 

 お前は強く生きろ。

 強く、ただ強く。

 他人の痛みなど分からなくてもいい。

 他人に痛みを与え、それすら己の幸せに変えられる強者になれ。

 そうすれば奇跡など、端から微塵も必要ない。

 救世主の不在など、問題にする機会もない。

 

 傷つくのではなく傷つける側に。

 虐げられるのではなく虐げる側に。

 そして痛みなど知らないまま、いつか幸福の城を築き上げればそれでいい。

 

 お前は、そう生きろ。

 それが、それだけが、この悪意に満ちた世界で幸せになる唯一の手段だ。



 ――晶はもういないのだから。



 私は決めた。

 であれば、足元で泣き縋る娘にかける言葉はもう決まっていた。

 友を失い、妻と娘だけが残った私にできることも決まっていた。

 ゆっくりと口を開き、そして私は、世界を変えることを決めた。



 そう。

 これでいいんだ。

 なあ、そうだろ。


 晶。




























































◆◆





 …………そんな、いつとも分からない昔のことを。

 私は笑う娘と、大きくなった"あの子"の姿を見つめながら、最後に思い出していた。 

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