Home Video(前編)

 ――これはきっと。いつか終わった青春の話だ。


 最初に、ふたりの男がいた。

 そして、ひとりの女がいた。


 それだけ。たったそれだけの、長い長い青い春。

 嵐に吹かれて倒れてしまった、取り戻せない桜の記憶。

 今はきっと、ある老木の中にしか存在しない、誰も生きていない、追憶未満の残響。

 いつか人でなしの物語に繋がる、大きな大きな失敗談。


 八朔冬美は怪物である。無知な子どもを食らい、常世を渡り歩く妖怪である。

 だからこそ、彼女を殺すためには知らねばならない。


 今から十と数年前。

 その家で、なにがあったのか。


 声枯らしとは何なのか。犬神とは何なのか。

 ――高嶺と火箱の歪みはどこで生まれたのか。




◆◆




 地獄のような毎日だった。

 自分という人間が、いったい如何に小さく能の足りないものなのかを実感するばかりの日々だった。

 

 小さい頃から、私は一人遊びが好きな子どもだった。

 逆に、他人と一緒になって遊んだり何かに打ち込んだりするのは極端に苦手だった。

 どうやら自分は、人とは少し歩調のずれた子どもらしい。

 自分では普通にしているつもりなのに、気づけば周りは不思議な顔で自分を見ている。


 そんな"違い"を感じるのが嫌で、世界を閉ざした。

 級友を遠ざけ、自分の殻に籠もり、幸いにして人並み以上にできた勉強ばかり重ねていった。

 両親はそれを喜んでくれたし、学校の教師も私を誇りとばかりに重宝してくれた。

 であればこれでいいと思っていた。だが、当時の私は知らなかったのだ。

 どんなに優れた人間だろうと、社会に生きる以上は他人と関わらずには生きられないのだと。


 無口で気が弱く、少し脅かしただけで震えてしまうような小動物。

 その癖勉強ができるものだから何かと贔屓されがちで、どうにもお高く止まって見える厄介者。

 あいにくとそれは、教室という小さな箱庭の中では格好の標的だった。


 "その日々"が始まってから、私はこんな自分にも自尊心らしいものがあったのかと何度も驚かされた。

 踏み躙られ、笑われ、辱められ、自分が人間であるというその価値を毀損され続ける毎日。

 レベルの高い私立中学なら悪い不良に絡まれることもない、そんな母親の考えはすべてが裏目だった。

 なまじ知恵があるからこそ、彼らが私に対してした仕打ちはこの上なく創意工夫を凝らした悪意に富んでいたのだ。

 

 殴ったりはしない。痕が残れば騒動になる。

 金を巻き上げもしない。脛に傷を付けたくないから。

 彼らがしたのは、傷跡も汚名も残さないギリギリの暴力だ。

 それを毎日、延々と続ける。自閉することには一日の長があると思っていた私がパンクするまでは、意外にも早かった。

 

 ――こんな世界で、生きていたくない。

 ――僕はもう、誰とも関わらずに眠っていたい。


 そう思って、保健室に行くと言って教室を抜け出した。

 背後からの小さな含み笑いを無視して、私は屋上に続く階段へ向かい。

 錆びた蝶番の軋む扉を開けて、外へと出た。



「――え゛」

「――え?」



 そこに、誰かがいた。

 男子の制服を着ていなかったら、男女どちらか分からなかったと思う。

 長い黒髪を一本に結んだ、当時の私と同じくらい背丈の低い少年だった。

 彼は屋上の柵にもたれて、紙パックのいちごミルクにストローを挿して啜りながら、私のことを見つめていた。


「っうわ……びっっっっくりした……。先公かと思ったら、同じサボりの子かぁ。ノックくらいしてよ、びっくりするじゃんか」


 驚いたのはこちらの方だ、と言いたかったが。

 一瞬遅れて、私は彼が誰か知っていることに気が付いた。

 隣のクラスの、有名な不良生徒だ。

 不良と言っても窓ガラスを叩き割って回ったり、タバコを吸うようなタイプではない。

 授業に出ない、そのくせ学校行事にはさもクラスの中心のような顔をして張り切って邁進する。

 去年の文化祭では予定されていた出し物をジャックして、ギター片手に堂々のソロライブを敢行。

 怒髪天を衝いた生徒指導の教師に引っ張り出されて、体育館の外で体育座りでべそをかいていたのを憶えている。


 そんな人間なのに、彼は学校の誰も彼もに好かれていた。

 彼のことを悪く言っている人間を、私は見たことがなかった。

 日頃彼の破天荒な言動に頭を悩ませている教師達すら、大人としての建前を除けば彼のことを親愛していた節さえあった。


「なんだよ、そんな暗い顔して。もしかして飛び降りにでも来たの?」


 それを妬んだことはない。

 私にとって、この箱庭で繰り広げられるすべての日常は屏風の向こうの話に過ぎなかったからだ。

 根本から生き物として違うのだから、妬むとか嫉むとかそういう話も当然、出てこない。


 ……ただ、それはそれとして。

 何故こんなむちゃくちゃで、かと言って強くもなく。

 教師にちょっと絞られた程度で泣きべそをかくような弱者が、こうも好かれ重宝されているのか、というのは疑問だった。


「――え、なんとか言ってよ。嘘だろ、マジで? マジで飛び降りに来たの、君」


 サッ、と顔を青ざめさせて。

 手元の、おそらくはもう中身が入っていないだろういちごミルクのパックを握り潰して。


「い、いやいやいや。ダメだ、それはダメだよ君! まだボクと同じ15でしょ! ダメだよ、まったくダメだ――もったいない!」


 そんなことを言うと、無言のままの私に近付いて。

 奴は、私の肩をがしりと両手で掴んだ。

 掴まれてみて、その貧弱さにさっきまでとはまた別の驚きを覚える。

 それは、私を虐げてきたクラスメイト達の手よりもずっとずっと弱々しい力だったからだ。


 学校では知らない者のいない、筋金入りの不良生徒。

 やりたいことは何が何でもやるが、やりたくないことは何が何でもやらないお騒がせ者。

 そんな男が、非力を絵に描いたような私と同じか、ともすればもっと弱い力の持ち主でしかないこと。

 その事実に驚く私の心などつゆ知らぬまま、奴は私へこう言った。


「一ヶ月だけ、ボクに預けてくれないか」


 扉に押し付けられながら、私は終始圧倒されていた。

 怖かったわけではない。この非力な男を恐れる者など、人間はおろか小動物に範囲を広げても存在しないだろう。

 死ぬ覚悟を固めていたはずの私が気圧されたのは、それとはまったく別の理由。


「――ボクが君の友達になる。そして、君の世界を変えてみせる。

 それでダメならもうボクには止められないけど、……あああ、とにかく!

 とにかく、ボクに一ヶ月身を委ねてくれまいか! 君に必ず、人生ってやつの面白さを教えてみせるから!!」


 私達は、まぎれもなく初対面だった。

 なのに奴の瞳と、その言葉はまるで十年を共にした竹馬の友に向けるような熱と真摯さに満ちていて。

 赤の他人にそんな眼と言葉を向けられたのは、生まれて初めてだったから。


 ……だから私は、頷いてしまったのだ。

 いいよ、と、たどたどしい言葉でそう言ってしまったのだ。

 それが、自分の人生とその安らかな終わりをショッキングなまでに一変させることになるとは知らぬまま。

 私はあの日、あの時。あの男の手を、取ってしまった。




◆◆




 呼び鈴を鳴らすと、程なくして扉が開いた。

 古びた家。ここが豪雪やら台風やらと無縁の土地でよかったなと皮肉をこぼしたことは一度や二度ではない。

 扉の向こうから姿を見せたのは、奴の父親だった。

 戦争世代でありながら、酒が入ればすぐさまもう一度あの頃に戻って米帝を殺したいとか抜かし出す狂気の御仁だ。



「どうも」

「よう、龍櫻たつお。久々やの。半年ぶりくらいかね」

「ええ。日本中からやって来た出世欲溢れる妖怪達としのぎを削る毎日ですのでね。なかなか顔を出せず申し訳ありません」

「かーッ。相変わらず鼻につくやっちゃの。……おう、さっさと入り。アキラのヤツ、首長くして待っとったけぇ」

「お邪魔します。それはそうと、相変わらず変わらないんですね。その似非方言」

「アホ。これは俺弁じゃ。俺が死んだら世界から一個言語が消えると思うとよ、今からニヤけが止まらんのよ」




◆◆




 屋上から落ちて死ぬ筈だった私に与えられた一ヶ月の猶予は、これまでの人生で培ってきた常識を覆すのに十分すぎるものであった。

 もはやそれは、劇的を通り越して爆発的と言ってもいいだろう毎日。

 自由。そう、晶は私にその言葉の意味を余すことなく教えた。

 学校には来るが授業には出ない。サボる場所も屋上から部室棟の空き部屋へとシフトし、あらゆる面で我が物顔で振る舞った。

 勉強なんて最初からしなかった。どうせ一月後に死ぬのだ、であれば未来のことを考える必要などないからだ。

 彼の言うまま、私は様々なことに挑戦していった。

 そのどれもが新鮮で刺激的だった。これまでの人生は、一体なんだったのだろうと思えるくらいに。


 教師や親は私の乱心に驚き、狼狽えた。

 当然だ。品行方正な優等生が、突然不良生徒に大変身を遂げたのだから。

 だが、私はもはや開き直っていた。聞く耳など持たない。死を選んだ人間に怖いものなど何もない。死ぬくらいなら、死んだ気でやってやるさと思った。

 そんな無鉄砲を毎日繰り返していけば、自ずと周囲に変化が現れる。


 私を虐げてきた連中は、晶と付き合うようになってからは露骨なまでに鳴りを潜めた。

 私はそれを鼻にかけるでもなく、かといって積極的に付き合うわけでもなく、淡々と日々を過ごしていった。

 免許も持っていない、車検など通っているわけもないバイクの荷台に乗って見知らぬ場所をあちこちと連れ回された。

 それなりに人のいる場所で、奴の奇抜な言動に付き合わされもした。

 深夜の職員室へ忍び込んで試験問題を掠め取り、晶主導でそれを売りつける商売を働いて奴共々大目玉を食ったこともあった。

 その度に生徒指導の教師から延々と説教を聞かされるのだが、私は奴と一緒になって笑った。

 何をやっても上手くいかない時もあったし、何をしても面白いほどに成功が重なることもあった。


 しかしその全てが、私には新鮮で刺激的だった。

 死ぬ気でやればなんでもできるのだと、本気で感動したものだ。

 一ヶ月が過ぎるのはあっという間だった。

 けれど、私も奴も、当初の"死"をもう一度改めて話題に出すことはなかった。

 その必要など、もはやなかったからだ。言葉になどしなくても、私達は互いに理解していた。


 高校のレベルは奴のに合わせた。

 親は泣いていたが、知ったことではなかった。

 私達は入学してすぐ、学校中に知らぬ者のいない札付きの問題児として知れ渡ることになった。

 なまじレベルの低い学校だったから絡まれることも少なくなかったが、その全てをふたりで蹴散らした。

 一度など、校舎裏から現れた上級生数十名を相手に大立ち回りを演じてしまった。

 それだけの騒動を起こしたにも関わらず、退学はおろか謹慎さえ食わずに済んだのは奴の人たらしの賜物だと今でもそう思う。

 

 私達はいつだってふたりでいて、お互いを補い合って生きていた。

 奴はひとりでは、所詮ただの変わり者でしかなく。

 そして私もひとりでは、人と足並みを揃えられない、ただの社会不適合者でしかなかった。

 ……"人はひとりじゃ生きられない"のだと、その時私は初めて知った。


 そうして、嵐のような高校生活は過ぎていった。

 卒業式の日、晶がいつかの文化祭で仕損じた電撃ライブのリベンジに臨んだ。

 私達だけでなく、周りの生徒まで巻き込んで周到に企てた大作戦は、華々しい大成功の中で幕を閉じた。

 あの日聴いた喝采と、あの日浴びた拍手の音は。

 きっとそれまでの人生の中で、最も私を感動させたものだったと今でも思う。




◆◆




「や、龍櫻」

「変わらないな。晶」




◆◆




 火箱晶ひばこアキラ

 私の、あの日安らかに終わる筈だった人生に意味を与えた男。

 すべてを諦めて死ぬ筈だった私を、あらぬ方向へ連れ出してくれた男。

 何かと角を立たせるきらいのある私が、唯一付き合いを続けている腐れ縁だった。




◆◆




「仕事の方は上手く行ってる?」

「ぼちぼちだな。良くも悪くも想定の域を出ていない。退屈だよ」

「そんなこと言って――君のことだ、どうせまた馬鹿みたいに稼いでるんじゃないの?」

「買いかぶり過ぎだ。二階級昇進が決まったくらいだよ」

「それあんまり生きてる内にやんないんだよ」


 卓へ着くなり、到着を待っていたかのように置かれていた酒に口をつける。

 ジャック・ダニエル。ロックで啜るこの酒は、未成年時分からの変わらぬ十八番だ。

 懐も豊かになり、一本の値段が五桁六桁に達する酒を平気で買えるようになった今でも、どうも私の舌はこの甘さを好いているらしい。

 晶の手元でも、からん、とロックアイスが音を立てる。

 お互いに酒飲みではあるが、甘い酒を好むという点で私達の趣味は合致していた。

 とはいえ理由は分かる。酒を覚えた十七の時から今までずっと付き合い続けているのだ。好みが似通ってくるのも宜なるかな、というものだろう。


「こっちはまず職場がグズグズだよ。非効率とハラスメントのオンパレードだ。サービス残業先生も元気に現役してる」

「それは大変だな」

「頭悪い君みたいなヤツばっかりだよ、上は」

「数年来の付き合いの友人に言う言葉か」

「否定できるか? 店で飲むと君が店員にカスハラクレームやらかすから毎回火箱家うちで宅飲みしてんだけど」

「私が悪酔いしているような言い方はやめろ」

「なんだよ。違うっての?」

「私はシラフでも言う」

「晒されちまえお前みたいなもんは」


 それで? と、私は晶に問うた。

 くどいようだが付き合いは長いのだ。

 言動や振る舞いの些細な部分から、相手の心理状況は自ずと察せられてしまう。

 

 今回で言えば、晶は基本的に先に呑み始めることはない。

 飲みの席では全員揃って乾杯するまで口を付けず、律儀に待っているのがこいつの常だ。

 にも関わらず私の前で氷を鳴らすこいつは、既に出来上がっている様子だった。

 グラスの中の琥珀色の液体の残量も、私のより明らかに少ない。


「酒に逃げたいくらいの気分なんだろう? らしくもない。お前から前向きさを除いたら、本当にただのボンクラでしかないだろうに」

「うるさいなあ……。僕だってもう社会人なんだぞ、君と同じで。ガキの頃みたいに気持ちひとつでなんでも解決できるわけじゃないんだ」

「ならいよいよボンクラだな。私に勝てる要素がなくなったらしい。これで晴れて私も、お前を手下として顎で使えるというわけだ」


 琥珀を、嚥下する。

 喉に滑り落ちていく熱感が心地よく。

 そして、社会の荒波を漕ぐ大人からあの頃の馬鹿な子どもへと引き戻してくれる。

 やはり、酒はいい。これでタバコでもあれば文句の付けようがないのだが、生憎とそっちは娘ができてから綺麗さっぱり断っていた。


橙柑とうかさんは?」

「今つまみを作ってくれてるよ。寝てていいって言ったんだけどな。風花はもう寝てる」

「そうか。それは悪いことをしたな、疲れているだろうに」

「気にすんなって。あいつもさ、龍櫻と会うの楽しみにしてんだよ」

「ほう。なんだ、もしや今になって私の方が良いと気付いたか」

「ぶちのめすぞ。……ていうか君の方こそさ、奥さんとはどうなのよ」

「順風満帆、何不自由ない。来瑠も親譲りの気立ての良さだ。幼稚園のクラスでは、既にリーダー的ポジションらしいぞ」

「はは。そりゃいいね。昔の君とは大違い」

「私もそう思う。うまく母親に似てくれて、私もひと安心だ」




◆◆




 ――変化の中学時代と。

 ――嵐の高校時代が、過ぎて。

 

 私達は、大学生になった。

 高校の時とは違い、今度は晶が私のレベルに合わせた。

 今考えても、よくもまああの阿呆が私と同じ大学に入れたものだと感心する。

 日本人ならば名前を知らない者のいない、最高学府と言って過言でない大学だったのだから。

 幸い、私は昔から学ぶことが好きだったから苦にはならなかったが――あの机の前に座るということを知らない男が、よくもまあやり切ったものである。


 それはさておき、私達は大学生になり。

 それでも今までと変わらず、ふたりで生き続けた。

 高校の頃と変わらぬ毎日。

 だが、その日々の中で――私達は初めて、対立することを覚えたのだ。



 私達は、同じ女に恋をした。




◆◆




「龍櫻くん。久しぶり」

「こちらこそ。久しぶり、橙柑さん」

「来瑠ちゃんは元気? ごめんね。うちの子がもう少し活発だったら、一回遊びにでも行かせたいんだけど」

「気にすることはありません。逆にうちのは少し利発すぎますのでね。もう少し子供らしくなってもらいたいものだと思ってますよ」

「ふふ。そんなこと言って――晶から聞いてるよ? 結構子煩悩みたいじゃん。ちょっと擦り傷作ってきただけで幼稚園に電話しようか迷うとか」

「保育料を払っている身として当然の権利ですよ。私はカスハラ擁護派ですからね」

「お客様は?」

「神様です。偉大なるトリガーハッピー・アッラーにも勝る」

「んふふ。龍櫻くん、ほんと変わんないね。発言の角の立ち方がすごいんだもん」

「橙柑さんの方こそ、相変わらずお美しい。風花ちゃんも、さぞや綺麗に育つことでしょう」


「……おい龍櫻ー。人の嫁さんに手出さないでよね」

「旦那殿はこう仰っておりますが。どうです、やはり私の方が優良物件なのでは?」

「んふー。確かになー、そうかもなー」

「橙柑ぁ、そりゃないよぉ……」

「うそうそ。んふ、ダメだぞ龍櫻くん。奥さんに怒られちゃうよ、こんな人妻口説いてたら」

「ははは。冗談ですよ、私も今では妻子持ちだ。さすがに青春は卒業しましたとも」

「どうだかなー。龍櫻はこう見えて意外と湿っぽいからな。僕はいまだに戦々恐々だぞ」

「ま、そう思うならあなたもそろそろ旦那の自覚を持ってもらえると嬉しいんだけどなー?」

「な、何をうっ!? 風花があんないい子に育ったのは僕の教育の賜物だぞぅ! ……いやまあ、確かにちょっとのんびり屋だけど!」

「いずれうちの来瑠が顎で使うことは請け合いだな。うちのは今から人の上に立つ素質を発揮しているが?」

「人間の価値は才能だけじゃないやい! ……ていうか橙柑、君はちょっとあっちに行っててくれよ。男同士じゃなきゃ話せないことだってあるんだぞ、僕らには」

「んふふ。はいはい」



「……」

「…………」

「……行ったな」

「……ん」

「それで?」

「なんだよ」

「そろそろ話せ。橙柑さんか、もしくは風花ちゃんのことだろう。私にはお見通しだ」

「……分かってるよ。今言おうとしてたの」

「学生時代から言い訳の文面は変わっていないらしくて何よりだ。相変わらず親に叱られた餓鬼のテンプレートだな」

「うっさい! ……んく、ごく……、ぷは。……あのさー、龍櫻」

「なんだ」

「龍櫻はさ――」




◆◆




 その人は、いつの間にか私達のそばにいた。

 最初は、いつかの飲み会でたまたま一緒になったのがきっかけだったように思う。

 それが何かの偶然で回数が重なり、次第に私達は好んでつるむようになっていった。

 私と、晶と、そして彼女。橙柑さん――辻瀬橙柑つじせとうか

 高校でも友人はそれなりにいたが、それでも基本的にふたりで行動していた我々が彼女の存在を善しとした理由は今にして思えばひとつだ。

 要するに最初から。私達はどちらともなく、彼女に惹かれていたのだろう。


 橙柑さんはよく笑う人だった。

 んふふ、と少し空気を含んだ変わった笑い方をする。

 優しい人だった。彼女の口から他人の悪評は聞いたことがない。

 栗色の髪を靡かせて、いつも私達の傍で笑っていた彼女を――私は産まれて初めて、手に入れたいとそう思ったのだ。


 戦いは熾烈だった。

 別に夕焼けの河原で殴り合ったわけではない。

 大学四年、就職活動が本格化し出すまでを期限に私達は恋のために殺し合った。

 

 ……などと言えば格好つけすぎかもしれない。

 実際にあったのは、笑えるほど泥臭く、そして不格好な男ふたりの空回りの記録だ。

 何しろ私も晶も、馬鹿をやるのに忙しすぎてまともな恋愛など通って来なかった。

 女ができたことは互いに何度かあった筈だが、何分私も私で、奴も奴である。我々の性格とその暴走に付いて来れる女は皆無であった。

 そういう意味でも橙柑さんの登場は、私達にとって青天の霹靂だったのだ。

 私達は大いに期待し、大いに落胆し、不毛な煽り合いと潰し合いの百日戦争を繰り広げていった。


 そして。

 私は敗れ、奴は勝った。

 橙柑さんを物にしたのは、結局晶の方だった。


 恨んだことはない。

 むしろ得難い経験だったと感じているほどだ。

 誰かを手に入れるため、本気になってなりふり構わず争うということ。

 あれはきっと、青春の中でしか得ることのできない時間だったに違いない。


 さぞや、糧になるだろう。

 いや、もうなっているのか。

 私も今では人の親だ。

 新たな愛を見つけ、番いとなり、子を成した。

 となればいつか、笑い話として私があの日々を語って聞かせる日も来るのであろう。

 



 そう。

 思っていた。

 この時は、まだ。




◆◆




「………………………………『犬神』って、知ってるか?」




◆◆

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